今日は午前10時半から、山梨県北杜市の生長の家“森の中のオフィス”のイベントホールで「布教功労物故者追悼慰霊祭」が執り行われた。私は御祭で「奏上の詞」を読み、玉串拝礼を行ったほか、最後に概略以下のような挨拶の言葉を述べた:
-----------------------------
皆さん、本日は生長の家の布教功労物故者慰霊祭に大勢お集まり頂きまして、ありがとうございます。
この慰霊祭は、“森の中のオフィス”で行われるものとしては最初の慰霊祭です。生長の家が国際本部を東京・原宿に構えていた時は、布教功労物故者慰霊祭は毎年、春と秋の2回行われていましたが、ここ北杜市に移転してからは年1回、秋のこの日に行われることになりました。そうしますと、招霊申し上げる御霊の数が増えることになります。単純計算では2倍になります。が、実際には、昨年の秋の慰霊祭でお祀りした御霊は189柱だったのに対し、今回は358柱になりました。このため、招霊担当の祭員の数を増やすなど多少、お祭のやり方は変わっています。しかし、目的には何の変更もありません。それは即ち、生長の家の幹部として光明化運動に尽力された方々のうち、霊界に逝かれた方々をお招きして、感謝の誠を捧げるためであります。
「人間は神の子であり、肉体ではない」というのが、生長の家の教えの根本の1つであります。しかしこれは、肉体を粗末に扱っていいという教えではありません。私たち人間の肉体は、この現象世界で生き、神の子らしさを表現するために与えられた最も大切な“道具”であると考えますから、暴飲暴食はもちろん、不摂生な生活や、健康を度外視した無理な生活は避けねばなりません。「摂生する」ということは、昔は「養生する」とも言いました。
江戸時代の儒学者、貝原益軒の著書に『養生訓』という有名な本があります。彼が83歳の時に、実体験にもとづいて書いたもので、長寿を全うするための肉体の養生だけでなく、心の持ち方も説いているところに特徴があり、現代の私たちにとっても、よい指針となります。
養生の視点からの「三楽」として次のものが掲げられています--
①道を行い、善を積むことを楽しむ
②健康な生活を楽しむ
③長寿を楽しむ
また、その長寿を全うするための条件として、自分の中の次の4つの欲望を抑えることを勧めています:
①あれこれ食べてみたいという食欲
②色欲
③むやみに眠りたがる欲
④徒らにしゃべりたがる欲
さらに、季節ごとの気温や湿度などの変化に合わせた体調管理も勧めています。
これをまとめて言えば、「善を積みながら欲望を制御して楽しく生きなさい」ということですから、私たち生長の家がお勧めしている生き方にとても近いことが分かります。私が書かせていただいた『大自然讃歌』には、こうあります--
されば汝らよ、
欲望の正しき制御を忘るべからず。
欲望を
神性表現の目的に従属させよ。
(…中略…)
“生命(いのち)の炎”自在に統御し、
自己の内なる神の目的に活用せよ。
しかして
内部理想の実現に邁進せよ。
私たちが東京からこちらへ移転してきてから、ちょうど1年がたとうとしています。昨年の秋の慰霊祭を済ませた午後に、私たちは引っ越しを始めたからです。この1年の間、私たちは大都会・東京の環境から離れて、自然豊かなこの土地で生活してみて、何を感じているでしょうか? 人によって差はあるかもしれませんが、私は、貝原益軒が勧めるような4つの欲望を抑える生き方ができて、それでいて大変幸せを感じるのであります。皆さん、如何でしょうか? “森の中”の生活は、決して楽ではありませんし、便利でもありません。でも、職員同士が助け合い、また近隣の人々と助け合い、与え合うことで、何でも金銭に換算されがちな都会ではめったにない、暖かい交流と喜びを味わうことができます。
また私は、貝原益軒が書いてないこともやり始めました。「肉体は神性表現の道具である」という話をしましたが、道具はきちんと手入れし、整備しなければなりません。特に私たちの体は、ただ休ませているだけでは衰えてしまいます。多少負荷を与えて鍛えることで、肉体は機能を向上させてくれます。便利な都会生活では、よほど意志が強くなければ、体を鍛えることは難しいですが、こちらでは雪かきを初め、薪割りや、菜園作り、山菜採り、キノコ採りなど、体を鍛える機会はたくさんあります。ご存じのように、私はこれらに加えて自転車通勤を始めました。妻には当初、“年寄りの冷や水”だとからかわれましたが、最近では、彼女は「私も自転車を買おうかしら」などと言います。私は東京にいた頃も、週2回くらいの頻度でジョギングをしていましたが、こちらへ来て自転車に乗ろうと思ったきっかけの1つには、三浦雄一郎さんが80歳7カ月でエベレストに登頂したことがあります。2013年5月でした。こんな年齢になって、しかも心臓の手術をした後にも回復し、再び体を鍛えて難関に立ち向かい、成功する--その姿をテレビで見て、勇気をもらったのです。
エベレストは8,848mですから、私が自転車で上る天女山(1,529m)とは、もちろん比較になりません。しかし、三浦さんのケースは、人間の肉体は年老いたとしても、鍛えればまだまだ強くなるということの有力な証明でした。私は、自分が「還暦を超えた」ことを言い分けにしてなまけることはできないと思いました。
しかし、こうしてどんなに肉体を鍛えたとしても、やがて肉体は衰えていき、そして使えなくなる時期がやってきます。そんな時に、「自分は肉体である」と考えている人と、そうではなく「自分は肉体ではなく、神の子である」と考えている人との間には、大きな差が出てくると思います。自分が肉体だと考えている人にとっては、肉体をどんなに養生し、あるいは鍛えてみたとしても、それは無に帰してしまうのですから、人生全体を含めて何ごともムダだと感じられるでしょう。しかし、自分の肉体は神の子の本性を表現するための道具であると考えている人にとっては、よく使い込んだ古い自動車を手放す時のように、もちろん寂しさはありましょうが、感謝の気持でお別れを言うことができるだけでなく、この肉体を通して神性表現ができた現世のすべての人・事・物に「ありがとう」とお礼を言う気持になれると思います。
今日、この慰霊祭で招霊させていただいた御霊さまは皆、「人間・神の子」の真理を信じ、それを多くの人々に伝える仕事に率先して邁進してくださった方々ですから、きっとそのような感謝と喜びをもって霊界へと移行されたに違いないのであります。最近では、肉体が老いることが悪いことであるかのように考える人が増えているようでして、「年をとらない」様々な工夫を「アンチエージング」と称して開発しています。これは、iPS細胞などの再生医療の研究とも関係していて、医療の分野でも脚光を浴びています。しかし、こういう動きの背後には、私はどうも「人間は肉体なり」という誤った考えがあるように思うのです。人間を肉体として捉えるならば、肉体の機能が最も充実しているのは若い時代ですから、そういう肉体をもった人間が優れており、理想的だということになる。そして、「老いる」ことは“悪現象”であり、不幸なこととして捉えられます。そこで、あらゆる手段を尽くして自分の肉体の若さを保つことが幸福である、というい考えに結びつきます。
しかし、人間は肉体そのものではなく、それを道具として使う“生命”です。「魂」といってもいい。肉体が老いるということは、それを使う魂が、老いた肉体を上手に使う練習ができるということです。それは、若い頃には不可能な高級な技術であり、高等な神性表現法です。何でも自力で行うのではなく、人を説得し、理解させて、その人に代りにやってもらう。こうして、「次代の人間を育てる」という大切な教育の仕事が可能となるし、若い人たちに愛の実践をさせることができる。また、自ら体力が衰えることで、社会の弱い立場の人々--障害者や病人の気持が理解でき、そういう人々の立場に立って物事を進めることもできるようになります。もしアンチエージングの技術が発達し、人々が肉体的に老いなくなれば、こういう高度な社会関係が崩れ、若者の活躍の場が極端に縮小し、社会は停滞してしまうでしょう。
イギリスの科学週刊誌『New Scientist』の8月23日号に「Fountain of Youth」という題の特集記事が載っていました。「Fountain of Youth」とは、「若さの泉」という意味です。この「泉」とは血液のことを指していて、この10月の初めには、アルツハイマー病の治療のための「輸血」が、スタンフォード大学の医学校で行われるというのです。アルツハイマー病は老人性の脳の病気ですが、これを発症した患者に対して、若者の血を注入することを考えているのです。というのは、マウスの実験によると、この方法で老いたマウスの認知能力が改善したり、臓器の機能が回復したり、外見が若返ったというような結果が得られているからです。この若返りの元と目されているのが「GDF11」という血液中の成分で、これはどんな人の血液の中にも含まれているのですが、加齢とともに数が減っていくことが分かっているそうです。
皆さん、こういう治療法をどう思いますか? アルツハイマー病に悩む患者本人と家族のことだけを考えれば、もしかしたらこれは“福音”のように感じられるかもしれない。しかし、社会全体のことを考えた場合、若者から血を取って老人に輸血することで老人の寿命が延びるとしても、それは本当に“福音”でしょうか? この記事にも書いてありましたが、このような治療法は基本的に“吸血鬼”の伝説とどれほど違うのでしょう。歯でかみついて直接血液を飲むのと、機械とパイプを経由して血液を移すという方法の違いだけではないでしょうか? 「人間は肉体である」という考えにもとづくと、このようにして他人から奪ってでも自分の肉体を生かし続けたいという“執着”が生まれます。ですから、科学や技術が進歩し続ける現代にあっても、私たちは益々盛んに運動を拡げ、「人間は神の子であって、肉体ではない」という真理を伝えていかねばならない、と考える次第です。
私たちは、肉体を神性表現の道具として大切に、また鍛えながら、十分に心を込めて使うと共に、その肉体から離れる時期が来たならば、お世話になった社会のことを考え、次世代の人々に配慮し、肉体への執着を捨てて次の生へと安らかに移行していかねばなりません。そういう生き方をされた多くの先輩たちのことを思い、心から感謝申し上げながら、今日の慰霊祭の言葉といたします。ご清聴、ありがとうございました。
谷口 雅宣