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2013年2月27日 (水)

“手紙月”への挑戦 (2)

 2月初めに本欄に同じ題で書いたが、2月を「手紙を書く月」と決めて、毎日誰かに1通ずつ手紙を出すという企画に参加した。そして、当初目標だった「24人」への絵手紙/絵封筒の郵送を今日、終わった。どんなものを送ったかは、フェイスブックポスティングジョイ上で発表している。この体験の感想をひと言でいえば、「大変だった」ということになるだろう。が、この大変さには、予想外の収穫を得た満足感が含まれている。
 
 多くの読者はすでにご存じだが、私は絵が描くのが趣味だ。そして、生長の家講習会へ行くと旅先から絵封筒を出すことをノルマにしてきた。その理由は、人間というものは、環境が変わることで心がリセットされ、普段は「当たり前」だと感じてあまり注目しないことに注目したり、日常の惰性から離れて新しい事象や分野に興味をもつ可能性が開けるからである。いわゆる“旅人の目”で世界を見ることは、新しい発見や、深い洞察に達するよい機会になる。そういう機会があれば、自分が成長するのだからうれしい。また、それを絵や文章に表現することができれば、自分の喜びを他の人とも共有することができる。こうして社会に喜びが拡がっていくことは、生長の家の「日時計主義」の実践でもある。
 
 そんな理由で、私は旅先からの絵封筒を描いてきたのだが、今回の挑戦は、「旅先」ではなく「日常」において同じことを実践するという点で、一つの挑戦だった。しかも、ほぼ毎日、何かを形にして、自分で眺めるのではなく、他人に送る--つまり、自分の手から放してしまうのである。大げさに言えば、これは仏の四無量心の表現の練習でもある。ということで、描いたものは結局、日常生活で当たり前に出会うものがほとんどだった。まず、絵手紙は干支のヘビの置物から始まり、使い古した歯磨きチューブ(2枚)、日向夏の切り口、妻が焼いたパン、街で配られていたサプリメントの小瓶、店で見つけた小型のランタン、シクラメンの花、紅い饅頭、十字架をモチーフにした錯視の例、古い文房具、陶製の小物入れ、ハート型煎餅、シイタケ2態、プリムラの鉢植え、南アフリカの求婚人形、湯たんぽ、旅行用文具、マフィン、陶製の雛人形、ブラジルの夫待ち人形、雪ダルマ、木製コインの23点。絵封筒は非常用のパンの缶詰、竹製箸置きの2点で、全部で25人に送ったから、目標を1人突破したことになる。

 受け取った人たちは、ポスティングジョイ上で絵手紙の写真やスキャンした画像とともに感想を書いてくださったので、私の喜びは倍加したし、中にはご自分で撮影した写真や絵手紙を私宛に送ってくださった人もいる。これまたありがたく頂戴した。

 これらのやりとりを通して学んだことは多いが、その1つは、人形をめぐる人々の考えの類似や相異である。生長の家講習会のために乗った飛行機の機内誌で「南アフリカの求婚人形」の写真を見つけ、それを絵手紙に描いたところ、サンパウロに住む人がブラジルにも似たような習慣があると教えてくれた。3月は日本でも雛祭りがあるから、それでは……というわけで、私が陶製の姫の雛を絵手紙にしたところ、同じブラジル人が、今度は自分の国の“夫待ち人形”の写真をメールで送ってくれた。そして、私はそれを絵手紙に描いた。この人形は、日本のコケシとそっくりな形をしているが、目鼻立ちや衣装はまるで違った。また、南アフリカの求婚人形とも形は違った。

 形だけでなく、使い方も南アとブラジルでは微妙に違った。南アでは、男性が女性の家の前に“求婚人形”を置いてプロポーズをするが、ブラジルでは逆に、女性が“男の人形”を買って、それを枕元に置いて寝たり、もっと真剣な場合は、この“男の人形”を逆さまに土に埋めて、結婚相手の出現を待ち望むのだそうだ。そして、“本命”が現れたならば、土から出してあげるという。つまり、この人形に“未来の夫”の出現を頼む思いが強烈になると、「早く出現させてくれないと、ずっと土の中で逆さのままよ」という、一種の脅迫じみた思いとなるようだ。これを教えてくれたブラジル人がさらに言うには、この人形は「聖アンソニー人形」と呼ばれ、ポルトガルの首都、リスボンの守護神が聖アンソニーであることと関係があるという。かの国では聖アンソニーは“結びの神”の役割をするらしく、ポルトガルの植民地だったブラジルでは、だから聖アンソニーの日(6月12日)をバレンタインデーとして祝うそうだ。
 
 男女関係に関連させて「人形」をどう見立て、どう扱うかが、日本、南アフリカ、ポルトガル/ブラジルの間でずいぶん違うことが分かる。これらの違いをより深く研究すれば、各国の文化の違いがさらによく分かるだろう。私が“手紙月”に挑戦しなかったならば、こんな観方を教わる機会がはたして来たかどうか、疑わしいのである。
 
 谷口 雅宣

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2013年2月 1日 (金)

“手紙月”への挑戦

 2月を「手紙を書く月」と決めて、毎日誰かに1通ずつ手紙を出すことを勧めるサイトをネット上に発見した。その目的は、「もっとていねいに人と付き合おう」ということらしい。
 
 昨今の世の中では、携帯メールなどの電子的な連絡手段が高度に発達し、文字や写真のみならず、音声や動画もほとんどリアルタイムで遠方に送ることができる。これは、情報伝達の「速さ」という観点からみればまことに画期的であるが、反面、玉石混淆の情報が氾濫 して情報の真偽の判定を困難にし、とりわけ判定力が未熟な子供が犠牲になるなど、いろいろな問題をはらんでいる。ケータイやスマホを持っている人は、情報の着信を知らせる文字や音で、ゆっくり読書する時間もないのではないか……と私は老婆心ながら考えるのである。
 
 そういう私は、ケータイやスマホを持っていない。理由の1つは、止まることを知らない情報着信の知らせが、仕事や私生活の妨げになると考えているからである。この辺のことは、『日時計主義とは何か?』や『太陽はいつも輝いている』などの拙著の中ですでに詳しく書いた。世界を便利に使おうと思うと、世界に便利に使われることにもなりかねない。これはいわゆる“動反動の法則”の1つで、技術社会の落とし穴の1つとも言える。

 2月を“手紙月”としようと言っているのはアメリカ人の若手女性作家、メアリー・コーワル氏(Mary Robinette Kowal)で、彼女はふだんは電子メールをバンバン使っているのだが、メールを打つときと紙に書く手紙の違いを明確に意識し、こう表現している--
 
「紙に手紙の返事を書くとき、私はゆったりとした気分になり、メールで書くのとは違う書き方になる。メールには、今この瞬間に重要なことだけを書く。が、手紙ではそうはいかない。なぜなら、手紙に書くことは、それから1週間ほど先の宛先人に関わることだからだ。こういう状況は、いやおうなく私に“時間”を意識させる。郵便は届くのが遅いからだ。メールではそれがない。“この手紙をあなたが受け取るころには……”と書くことは、自分の気持をゆったりさせるし、相手の心に近づく。そこには持続的な、表現しがたい良さがある。」

「なぜそうなるのか? 受け取った手紙は、2度読むことが多い。1度は、それが到着したとき。2度目は返事を書くときである。そして、手紙の相手や用件のことが、自分の中により強く印象される。自分が書いた手紙は一回切りで、メールのように複製がない。そして、相手の手紙のオリジナルは、自分のところにしかない。そういうことが、なぜかメールより良い」

 --こうコーワル氏は言う。

 私はかつて「下手な字でいい」という一文を書いたとき、プリンターで打ち出した文字のうさん臭さを問題にし、ていねいに手書きした文章は、その文字がたとい下手であっても、書き手の誠意が表れて好感がもてると述べた。コワ-ル氏はそのことに触れていないが、サイト上では「手紙は必ず手書きする」ように言っているから、手書き文字の重要さは充分心得ているだろう。そして、彼女は、2月中に自分の知人に手紙など23通を送ることに挑戦しようと提案するのである。なぜ「2月」でなぜ「23通」か?
 
 私は当初、それはバレンタインデーが2月14日であることと関連しているのかと考えた。しかし、ラブレターを23通ももらう恋人は当惑してしまうだろうし、かと言って23人に愛の告白をするのは、いかにもいい加減である。アメリカでは、バレンタインデーは必ずしも恋人同士の日ではなく、家族のため、友人のため、恩人のためにも愛情や感謝の思いを表現していいことになっているから、そういう近親者や知人との心の交流を主眼とした企画なのかもしれない。が、サイトにはそういう説明はなく、2月が年間でいちばん短い月であることと関係ありそうなことが書いてある。つまり、30日間連続というのは大変だから、1週間のうち郵便局が開いている6日間を利用し、それを4週継続すると「24通」となる。が、アメリカでは2月に祭日が1日あるから、その分を引いて「23通」ということになるらしいのである。
 
 これを読んで、私は「なかなかいい企画だ」と思った。日本では、年賀状などの季節の挨拶を手紙や葉書で行う習慣が廃れていないが、反面、やや義務的になっているし、形式的な内容のものが多い。だから、年賀状のやりとりも一服し、一年で最も寒くなったこの時期に心温まる手紙や葉書を交換することは、日本の季節感とも矛盾しない。だいいち2月3日は「ふみ」と読めるから「文通月」を2月とする理由ともなる。さらに、2月14日にはもうCO2を排出するチョコレートを交換するのはやめて、温かい愛情表現の日にするのがいい。それには手書きの手紙や葉書がいちばんだ……などと考えたのである。
 
 そこで1月の終りになって、私は急遽、コーワル氏が運営する「手紙月の挑戦」(The Month of Letters Challenge)というサイトに登録し、彼女が目指す方向に動いてみることにした。ただし、私なりのアレンジを加えて、である。私の場合、郵便物を差し出す相手は「24人」とし、差し出すものは絵手紙、ないしは絵封筒とすることにした。その「24人」は、生長の家が運営するポスティングジョイで募集し、すでに決まっている。私がどんなものを描いたかは、受け取った人がジョイとして登録することになっているから、興味のある方はご覧あれ。さらにフェイスブック上の「絵封筒作家の部屋」のサイトでも絵は見られるはずだ。
 
 谷口 雅宣

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2012年5月14日 (月)

電子版『今こそ自然から学ぼう』が発刊

Imakososcreenshot  私が2002年に出した『今こそ自然から学ぼうーー人間至上主義を超えて』の電子版がこのほど、N&H Publishing から発行された。アップル社の iPhone、iPad、 iPod touch上で読めるもので、同社の iTunes App Store から入手できる。ニュース・リリースのページは、ここから見られる。10年前に出たこの本の書籍版は税込みの定価が1,300円だが、電子版は1,000円である。本欄の読者の中にアイフォンやアイパッドのユーザーがどれほどいるか知らないが、移動先での読書や、講師の講話の補助などに使っていただければ幸いだ。また、スマホやアイパッドを使いこなす若い人々の中には、この本の存在すら知らない人もいるだろうから、そういう人々に勧めていただければ、生長の家が推進している“自然と共に伸びる運動”のよき理解者となってくれるかもしれない。
 
 電子本と紙の本はそれぞれに長短があるが、この電子版の優れた点は図版や写真のほとんどがカラーであるのと、目次から各ページに画面のタップで跳んでいけること、さらには脚注もタップで気軽に見れることだろう。これらは電子本一般の特長である。また、電子本最大の特長は、重さが実質的に「ゼロ」だから持ち運びに便利であり、さらに紙を使わないことで森林破壊を防げる。さらに、何回ページをめくっても「擦り切れる」心配はない。出版社側のメリットは、在庫をもたなくてすむから省資源、省エネ、省スペース、そして在庫管理の手間が不要となる。いいことずくめのように聞こえるが、私は紙の本も大好きであり、とても捨てることができない。紙やインクの匂い、手に持ったときの手応え、表紙や背表紙の存在感、ページを広げて眺める一覧性などは、電子本には望めない。
 
 ということで、気に入った本は、私は電子本と紙の本の両方を買うことになる。日本語の電子本はまだ種類が少ないのが難点だが、英語の本はかなりの数が電子化されてきたから、紙と電子の双方で同じ本を読む機会も多くなった。今後、日本語書籍の電子化が進んでいけば、紙の本が傷まなくなってくるという“予想外”の効果を生むかもしれない。

 電子本についてのご意見や注文は、このブログ以外にもフェイスブックの出版社のページに書き込んでいただいてもいい。
 
 谷口 雅宣

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2012年1月23日 (月)

“便利な機器”は国を亡ぼす?

 生長の家講習会で高知へ行くために乗った航空機の機内誌に、作家の浅田次郎氏が技術社会に厳しい目を向けた随筆を書いていた。浅田氏はこの雑誌に毎号機知に富んだ随筆を書いていて、中には冗談か本気か分からないものもあるので、私は今回も冗談半分の一文かと最初は疑った。が、この号の内容は真面目で理にかなっているので、私も氏の訴えを真面目に受け止めようと思った。浅田氏は、「民に利器多くして国家滋昏(ますますくらし)」という老子の言葉を引用して、「国民生活に便利な道具が増えれば国は暗くなる」と述べている。そして、「科学は人間の幸福を求めて日々進歩するが、この恩沢を蒙る人間は、利器が幸福とともにもたらす実害や精神の退行について、謙虚に誠実に考え続けねばならない」と説いている。氏は、現代の便利な機器は、人間精神の退行をもたらすという、見落としやすい、しかし重要な問題を提起しているのである。

 もっと具体的に言うと、浅田氏は自動車をモデルチェンジなどですぐに買い換えたりせず、1台の愛車を10万キロ走行して使い切り、最近の便利な機器であるETCもカーナビも使わないのだという。そして、その理由が上に述べた“老子の教え”によるらしいのである。私も、自動車をモデルチェンジのたびに買い換えるのは資源の浪費であり、商業主義への敗北だと考えている。で、95年型のホンダ・オデッセイを今でも運転していて、走行距離は10万キロに達する。が、その理由の大きなものは、燃費のいいハイブリッド型のSUV(多目的スポーツ車)が出ないからで、それが発売されればすぐにでも買い換えるつもりだった。また、ETCは早々と導入したが、カーナビは設置していない。カーナビを使わない理由は浅田氏のように哲学的なものではなく、実利的なものた。つまり、私の場合、知らない土地に自動車を運転して行く機会が少ないからである。
 
 では、ETCやカーナビが「国を暗くする」とはどういう意味だろう。浅田氏のETCへの反感は、この装置を取り付けるのが「利用者負担」だという点にあるようだ。ETCの導入を道路会社が勧めるのは経営合理化が目的だが、それはそもそも道路会社自身の努力が前提であるべきなのに、利用者にコストを負担させるのはケシカランというわけだ。カーナビがマズイ点は、それに頼った運転者が増えることで、ドライバーが方向感覚を磨くのをやめるからだという。これらの理由は、確かにそれなりに理解できる。が、それがなぜ「国を暗くする」という大きな問題につながるのだろう。それについて、氏は「この言はわれわれの生きる時代にも、怖いくらい当てはまる。ことに(中略)“利器多くして”は、原発から携帯電話機に至るまで、老子が、二千年後の世界を予見していたとしか思えぬ」と書いてあるだけで、詳しい理由は述べていない。

 そこで私は、勝手に考えることにした。原発の問題がここで指摘されているのは、我々が戦後、原発の構造やエネルギー生産の仕組み、危険度等について何も知らないまま、「原発は安全で豊富なエネルギー源だ」という政府や電力会社の宣伝を信用し続け、国民として国のエネルギー政策に無知・無関心のままだったことを指しているに違いない。これは確かに、「国を暗くする」という大変な問題を今、引き起こしている。日本は国家として、エネルギー政策をどう進めればいいのか“真っ暗闇”の中にいるからだ。
 
 では、携帯電話はどのようにして「国を暗くする」のか。私は携帯電話をもっていない。その理由はどこかにも書いたが、第一に「自由を束縛される」と考えるからだ。携帯電話を買う人は、恐らく「自分から相手に連絡する」という“外向き”方向の通信の便利さを重視するのだと思うが、電話は双方向の通信機だから、「相手からかかってくる」という“内向き”の通信を無視できない。「地球上どこにいても誰かから呼び出される」という可能性を、私は排除したいと考えている。第二の理由は、携帯電話によってもたらされる“ながら族”の生き方は、日時計主義に反すると考えるからだ。これについて詳しくは、拙著『日時計主義とは何か?』や『太陽はいつも輝いている』を参照してほしい。
 
 しかし、これらは皆、個人生活に注目した考察で、そういう個人がどんどん増えてくることで、「国が暗くなる」かどうかの問題まで、これまであまり考えたことはなかった--そう書こうとして、「いや、書いたことがある」と思い出した。それは、本欄の前のブログ「小閑雑感」で「情報の質」について考えたときだ。その時、私はアメリカ軍が現在パキスタンなどで多用している無人偵察攻撃機を取り上げ、科学技術の最先端を行くこの兵器が一見、情報収集能力に長けているように見えても、実は本当の意味での“正しい情報”を得ることはできない、という見解を述べたのだった。長い話をごくごく簡単に縮めて言うと、「高性能ビデオカメラによっても、人間の心中は見ることはできない」ということだ。そんな機器によって“敵味方”の判別は正確にはできず、よし判別できたとしても、人間同士の接触による相互理解のような、本当に重要な情報伝達(心の理解)などできないということだった。
 
 携帯電話の利用から一気に現代の軍事戦略にまで話題が飛躍してしまったが、しかし、私は浅田氏が指摘するように、“便利な機器”が抱える問題には国家レベルのものもあると考える。現に昨年来、中東を中心に起こっている“アラブの春”革命は、携帯電話やスマートフォンの利用と密接に関係していると言われているし、日本でも最近、国会議員の電子メールが海外からのアクセスで盗まれた痕跡が発覚した。また、国内の軍事産業に関わるコンピューター内の情報が中国からアクセスされた疑いも出ている。
 
 私は実は“便利な機器”大好き人間であるが、浅田氏の一文を読んで、それらの機器の利便性だけでなく、限界や危険性も十分に理解して、正しく使うこと(あるは使わないこと)が、今後ますます重要になってくると感じたのである。

 谷口 雅宣

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