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2021年8月 2日 (月)

UFOはあるかもしれない

 『朝日新聞』の2021年7月29日夕刊は、「UFO遭遇 もしかしたら」という見出しで、去る6月25日付で発表された米政府の“UFO報告書”の内容について報道した。この報告書は、国家情報長官室(Office of The Director of National Intelligence)がまとめた「未確認空中現象の初期評価」(Preliminary Assessment: unidentified aerial phenomena)という文書で、A4判用紙で9ページという短いものだ。この「未確認空中現象(UAP)」というのが、アメリカでの「UFO」の正式名称だ。報告書そのものは、ネットを使えば誰でも入手できるから、英語が読める人は確認してほしい。その内容は、『朝日』の記事が要領よくまとめている--

200421年にかけて、米軍パイロットが目撃した情報や映像など144件を検証するものだ。調査したところ、1件は気球とされたが、残りは何かわからなかった」

  それだけのことなので、「なーんだ、大したことないじゃないか」と思う人も少なくないだろう。が、私は少し違う感想をもった。まず、17年間で144件というその数、そして目撃者が米軍パイロットという2つの要素が注目される。日本ではごく稀に、“酒気帯びパイロット”が問題になるが、米軍ではまずそれはないと考えたい。通常より視力が優れたパイロットが年平均8.5件の目撃情報を、正式に軍に報告しているということだ。目で見ただけでなく、最新鋭の航空機に搭載した各種センサーでも感知している。録画したビデオもある。単独での目撃だけでなく、複数のパイロットによるものもある。加えて、科学技術の粋である軍用機を自在に操るパイロットが「UFOを見た」と報告することへの抵抗感も考慮に入れたい。つまり、同僚や上官から「お前、大丈夫か?」と、感覚異常や知的レベルを疑われるリスクを押して、彼らは報告しているのである。だから、報告されていないケースも相当数あると推測する。そして、米国の軍や情報機関がそれらのデータを検証した結果、「143件は何だか分からない」というのである。

  この「何だから分からない」ということが、私は重要だと思う。「目の錯覚だ」とか「幻影を見た」というのではない。「何かがそこにあった」というのである。そして、その何かが現在の米国の科学技術のレベルから見て「説明できない」というのが、この初期評価の結論なのだ。だから、この報告書には、本件は「潜在的な国家安全保障の問題でもある」と書いてある。報告書にある、次の文章を読んでほしい--

 「我々は現在、この現象の中の何かが外国の諜報活動の一部であるとか、潜在敵国による重要な技術革新を示すというデータを有していない。これらの現象が提起するであろう防諜上の問題を考えれば、我々はそれらの証拠を見出すべくさらに監視を続ける考えである」

  報告書の具体的記述の一部を紹介すると--

   ・144件のうち80件は、複数のセンサーによって感知されている

  ・これらのほとんどは、軍の訓練やその他の活動を妨げるものとして報告されている

  ・11件の報告は、パイロットにより未確認現象とのニアミスとして記録されている

  上記のような記述を見ると、この報告書を発行した国家情報長官室が神経質になっている理由が想像できるのである。

  しかし、翻ってアメリカにおける“UFO問題”の歴史を振り返ると、今の時点で「潜在的に安全保障上の問題がある」といいながら、この程度の結論でお茶を濁していることに大きな疑問が残る。この報告書に「unclassified」というラベルを貼られていることが、その疑問を強くさせる。「unclassified」とは、報告書の内容が「機密ではない」という意味で、「機密扱い」の情報が他にあることを暗示している。つまり、「本件には国民に秘匿しておくべき情報が含まれているが、とりあえず無難な情報だけを発表しておこう」という意図があるとも解釈できるのである。

  私が「今の時点で」という言葉を使ったのは、「昔から指摘されながら、今ごろ?」という意味合いである。恐らく多くの読者は、アメリカ映画のうち『E.T.』(1982)、『ロズウェル』(1994)、『インディペンデンス・デイ』(1996)、『コンタクト』(1997)のいずれかをご覧になっているだろう。これらは地球外高等生命の存在を扱った映画で、そのうち『ロズウェル』だけがテレビ映画で、これは1947年にニューメキシコ州のロズウェル市近郊で実際に起きた飛行物体の墜落事件を題材にしている。つまり、74年も前から、アメリカでは地球外高等生命の存在が指摘され、何本もの映画で扱われ、連邦政府もその研究に予算をつけてきた。その額は2,200万ドル(22億円)という。

 これはしかし、問題の本質から考えるとそれほどの額ではない。大型の無人攻撃機「プレデター」1機の値段は、2009年のデータで450万ドルだったから、5機も買えない。同じ年の国防予算では、最新鋭のステルス戦闘機F22は1機が3億5000万ドルもした。その16分の1しか予算を使わなくて、「国家安全保障の問題」だと考えるのはいかにも大げさだ。つまり、想像するところ、米国政府はこの問題について、長い間あまり熱心ではなかったのだろう。それが、近年になって急に真面目になったのか。

  その辺の事情については、SFテレビドラマ『X-Files』の生みの親であるクリス・カーター氏が、今年6月25日の『ニューヨーク・タイムズ』紙に書いているエッセーが興味深い。その1つの理由は、国防総省がUFOの調査研究に毎年秘密裏に上述の予算をつけてきたことを、同紙が2017年にスッパ抜いたからだという。それに加え、米海軍が未確認空中現象を報告する制度を整えたことにも要因があるらしい。

  このことは、今回の報告書の4ページ目にこう書かれている--

  「データが限定的であることと一貫性のない報告の仕方が、未確認空中現象を評価する際の中心的な障害だった」

  つまり、海軍が報告制度を標準化したのは、2019年の3月になってからで、その後、202011月になって空軍が同じ方法を採用したが、それまでの約70年間は、各報告はバラバラな書式や方法で行われていたというのだ。そして、今回の検証の対象となった2004年から本年までの144件の報告の過半数は、過去2年間に集中しているのだという。海軍と空軍が未確認空中現象の報告制度を整えたということは、両軍がUAPの存在を実質的に認知したことを意味するだろう。少なくとも、この現象の原因は、報告者が何か異常な心理状態にあった結果だとは考えていないのだ。そうなると、軍のパイロットの側もその現象を報告しやすくなり、報告数が増加するという結果になる。だから、144件の報告の過半数が最近2年間のものとなるのかもしれない。

  では、私たちはUAPという現象をどう受け止めるべきだろうか。

 UAPを、原語に忠実な「未確認空中現象」という意味で考えると、それを否定すべき理由はない。これは、極地に現れるオーロラという現象を否定する根拠がないのと同じことだ。もっと卑近な例を挙げれば、虹が見えているのに「そんなものは存在しない」と否定する人がいないのと同じだ。しかし、「虹が見えているのだから、見えている通りの大きな物体が空に掛かっているのだ」と言えば、その人の知性は疑われる。これと同じように、UAPが視認されたり、計測器で把握されたとしても、その姿やデータ自体がそのまま何かの実体を示していると考えるべきではないだろう。ややこしい言い方をしたが、要するにUAPは、地球外高等生命の乗り物だと結論するのは時期尚早だと私は思う。

  それでは、地球以外に高等生命は存在しないのか? 私は、地球外高等生命が存在する可能性を否定しない。生長の家では、神のことを「大生命」とか「宇宙の大生命」と呼ぶことがあるから、それを信じる人は半ば地球外高等生命を信じていることになるだろう。この「半ば」の意味は、生長の家が奉じる神は必ずしも「地球外」ではないからだ。「自己に宿る神」と言ったり、「神・自然・人間は本来一体」と言う場合、神は空間的概念ではない。その意味では、地球外高等生命は神ではない。では、それは高級霊か? この問いへの答えも「ノー」だろう。なぜなら、霊や霊界も空間的概念ではないからだ。

 しかし、素朴に考えても、これだけ広い宇宙の中の、そこに輝くおびただしい数の星や惑星の中で、この小さな地球にしか生命が棲まないということの方が、信じがたいことではないだろうか。

 谷口 雅宣

 

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2019年4月 1日 (月)

新元号「令和」について思う

 来月1日から始まる新元号が「令和」と決まった。
 安倍首相は、『万葉集』からの引用だと説明するが、引用元を見ると「令月」と「和(やわら)ぐ」との間には、省略された文字が3つある。原文は万葉仮名だから文字数は異なるだろうが、政府が示した歌の書き下し文を使えば、「初春の令月にして、気淑(よ)く風和ぎ……」から取ったという。

「令月」は普通は「二月」を意味するが、「令」の字に「二」の意味があるのではなく、季節の移ろいの中で「清らかで美しい」あるいは「縁起がよい」月だとの意味を込めて使われるという。これと同様の用法には、「令嬢」「令夫人」「令室」「令息」「令日」……などがある。『学研 漢和大字典』(藤堂明保編、1978年刊)では、この用法について「相手の人の妻・兄弟を尊んでいうことばとしても用いられる」と説明している。なぜ「令」が清らかで美しく、また縁起がよいとされ、さらには「尊敬」を表すかというと、その考え方の背後には、古代の宗教への見方が横たわっているようだ。

 日本の漢字の権威である白川静氏の『字統 普及版』(平凡社、初版1994年)によると、「令」の字は「礼冠を着けて、跪(ひざまず)いて神意を聞く神職のものの形」を表し、「古く令の意と、またその字形のままで命の字にも用いた」という。つまり昔、「令」は「命」と同じ意味で使われたらしい。したがって、「大令」「天令」「明令」「休令」「先王の令」「祖考の令」と書かれた場合、「大命」「天命」「明命」……という意味だったという。また、「鈴」の字の旁(つくり)が「令」であるのは、神道の儀式にあるように、鈴は「神を降し、神を送るときの楽器である」からだという。だから、「令」とは「神意に従う」ことなのだ。

 この古義を、私は素晴らしいと思う。生長の家は神意を最大に尊重するから、この古義を積極的に支持したい気持だ。しかし、それならば、安倍首相はなぜ、この「令」の古義について記者会見で何も語らなかったのだろう。元号は、少数の知識人を集めた“閉じられた空間”で決定されたから、その経緯の詳細はよく分からない。しかし、すでに発表された情報では、元号の候補としては本件を含めて6つの案が出され、それにいろいろな人からの意見が出て、その意見を参考にして安倍首相が選んだという。知識人が、字典の意味を知らないはずがない。だから、それへの言及があったに違いない。が、首相は、国民の前ではそれをあえて口にせず、『万葉集』の表現についてだけ語った。その理由を、私は知りたい。

「令」の古義について、私はまったく異議を唱えない。しかし、それを21世紀の現代で元号に採用するという点では、一抹の不安を覚える。なぜなら、人類は中世、近世、現代を通して、政治と宗教との結びつきが、世界中で大変な混乱と不幸をもたらしてきたことを経験しているからだ。古代において、政治はシャーマンや聖職者が担ってきた。日本も例外ではない。この“神権政治”によって善政が実現したことはもちろんあるが、そうでない場合の方が数が多かった。宗教弾圧や宗教戦争も頻繁にあり、その延長が一部、現代でもまだ続いている。為政者が拳を振り上げて「これが神の御心である!」などと叫び、国民を戦争に駆り立てた時代は、そんなに昔のことではない。「政教分離」「信教の自由」「立憲主義」という近代民主主義の政治原則は、そういう悲惨で苦しい体験から学んだ人類共通の知恵である。

 その知恵から学びつつ実際の政治を行なってきた人が、「新元号は“令和”とする」と決めたのであれば、私は不安を感じない。しかし、憲法違反の法案を何本も束にして強行に成立させ、「立憲主義は古い時代の考え」などと発言した権力者が、テレビカメラの前で「令和が自分の理想である」かのような説明をするのを見ると、私は「ダブル・ミーニング(double meaning、両義性)」という言葉を思い出すのである。1つの言葉に、表と裏との相反する意味を含ませる表現法である。

「令和」には、解釈によって別の意味が容易に付加できる。それは「令に和する時代」という意味である。この場合の「令」とは、政府の命令であり、政権の意思である。『万葉集』の昔には「令」は「清らかで美しい」と見なされたかもしれないが、時代がくだるにつれて、その意味は「律令」「勅令」「県令」「軍令」「指令」「司令」「法令」「政令」「省令」……などと使われるように、世俗の権威や権力が定める規則や命令の意味に変ってきている。そして、そういう世俗権力に国民が「和する」という時代を夢見ている人は、残念ながら現代の政治家にもいるのである。日本のことは言わなくても、アメリカのトランプ大統領やロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席、フィリピンのドゥテルテ大統領は言うまでもなく、ハンガリーやトルコ、ブラジルなどの政治指導者にもその傾向は強く見られる。

 そういう時代に、あえて「令和」を新元号としたことに、私たちは注意を払わねばならないと思う。私は、安倍首相にそんな“下心”があると言っているのではない。安倍首相は、令和の時代にずっと首相であり続けるわけではない。次の首相、次の次の首相……と政治が遷移しても、「令和とは、権力者に和することだ」などと誰も考えないように、立憲主義の原則を護るとともに、宗教運動としては「“令”とは神意に従うこと」という古義を忘れずに、神の御心の表現に向かって力強く進んでいきたい。

 谷口 雅宣

 

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2017年2月28日 (火)

“次の当たり前”でいいのか?

Jrejad_022817  生長の家の春季記念日のために長崎へ向かう途中、久しぶりに新宿駅へ降りた。すると、駅のエスカレーターを昇ったところに、新旧の新幹線の先頭車両を真ん中から縦に割ってつなぎ合わせ、それを正面から撮影した写真(=写真)が目に入った。JR東日本の宣伝ポスターだ。ポスターの下部には、「次の当たり前をつくろう。」というコピーが大きな文字で入っている。1987年の車両と今年の車両を視覚的に比べて、「30年間でこれだけ変わった」ことを分かりやすく見せている。広告としてはよいできだと思った。 
 
 しかし、その広告が訴えようとしているメッセージには、大きく首をかしげた。これは科学技術のこれまでの歩みを“進歩”として無条件に認め、人類がこの方向に今後も進むことに何の疑問も感じないどころが、「それがわが社の使命!」とばかりに胸を張っている、と感じる。ポスターの左上部に小さい文字で5行に分けて文章が書かれいる-- 
 
 「どんなに夢だ、未来だと騒がれた先端技術も、 
 やがて見慣れた風景になる。それでいい。 
 私たちの仕事は、人々の暮らしを支える当たり前をつくること。 
 これまでの30年も、これから先も。 
 変えたかったのは、歴史じゃない。日常だ。」 
 
 この文章の最後の1行の意味は、わかりにくい。が、そこにいたる4行に書かれていることは、「先端技術の無限の進歩が、人々の暮らしを支える」ということで、科学技術による経済発展礼讃論だ。また、「日常を変える」ことが“善”だと考えているフシが感じられるから、この会社にとって日常は“悪”なのか、それとも少なくとも“不満の種”なのか、と勘繰りたくなる。生長の家では、日常生活の中に真理があり、また真理を日常に活かすのが信仰だと説いている。さらに、日常の「当たり前の生活」の素晴らしさを認め、感謝するのが信仰生活だと教えている。 
 
 朝、まだ雪が残る北杜市を出発し、早春の大都会・東京に着いたとたん、このような理解の違いを目の前にした私は、一種の“カルチャー・ショック”を覚えたのだった。 
 
Mirai022817  この種の「科学技術による経済発展礼讃論」は、しかしJR東日本だけでなく、都会全体を支配しているように感じる。というのは、妻と私を新宿から羽田空港まで運んでくれたタクシーが、「ミライ」という最先端の燃料電池車だったからかもしれない。これに乗るのは、今回で2回目だ。特に選んでいるのではなく、温暖化が深刻化している現在、「ガソリン車は避けたい」という希望を出すと、タクシー会社の方で電気自動車などの“低公害車”を回してくれるのだ。が、私としては「ミライ」よりも「リーフ」が好きである。こういう言い方が個人的過ぎるならば、燃料電池車よりも電気自動車が好きだと言おう。理由は、前者よりも後者の方が自然エネルギーと親和性があり、エネルギーの分散利用にもつながると考えるからだ。 
 
 が、本当は、自動車などに乗らなくても、自転車の利用で、あるいは徒歩で、どこかへ行くだけでも十分幸福な生活ができるのがいい。神さまとご先祖さまからいただいた優秀な2本の脚を使って、大地を踏みしめながら歩くことで「ありがたい」と感じ、しかも健康維持や健康増進につながるならば、これほど素晴らしいことはないではないか。このようにほとんどの人々が簡単にできる多くのことを、「当たり前」すぎるといって価値を低く見るのは、生長の家でお勧めしている「日時計主義」とは反対の生活態度である。その点は、私がすでに本欄で発表した「凡庸の唄」を読んでいただけば、読者はきっと理解されるだろう。 
 
 燃料自動車「ミライ」は、トヨタの世界戦略車の1つだが、この会社が描く“未来”の姿を暗示させるもう1つの“技術の粋”に、今日私は遭遇した。といっても、物理的な遭遇ではなく、ネット上でのバーチャルな遭遇である。しかも、その動画は10年も前のものだから、読者はすでにご存じかもしれない。カナダ駐在の生長の家本部講師である高義晴氏がFacebook上でシェアしてくれたので、私の目に留まったのだ。 
 
Roboviolinist2   ビデオの中身を簡単に言えば、トヨタ製の人型ロボットがバイオリンを弾いている映像だ。これを見ると、技術的には、ロボットにバイオリンを弾かせることは、そんなに難しくはないようだ。ただし、上手に弾くかどうかは別だ。ビデオでの弾き方はかなり稚拙だが、10年後の今日は、技術的にはもっと向上しているだろう。が、上手か下手かの問題より重要なのは、人手不足をロボットの開発で補おうという、現在の政府などの考え方の是非である。 
 
  労働を機械に置き換えていく流れは、産業革命以来ずっと続いているが、これは短期的には良さそうでも、中長期的に見ると、失業者を増やすことは確実である。そのことは、今の欧米の経済問題が有力に語っている。最近テレビで見た日本のニュースでは、あるコンビニチェーンが代金支払いを「無人化」しつつあると伝えていた。コンビニ店は、すでに相当の省力化が進んでいて、店員数は極限まで抑えられているように見えるが、ついに無人となるのだろうか。これによって誰が得をするのか、損をするのかは、誰にも明白だ。産業の自動化・ロボット化は結局、社会の“非人間化”につながるだろう。 
 
 私は、その方向にまったく疑問を感じずに「この道をまっすぐ!」と進もうとしている日本の政治家と、産業界の重鎮たちの心境が、よく理解できないのである。 
 
 谷口 雅宣

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2017年2月20日 (月)

“代替事実”はウソ?

「代替事実」という言葉が流行っているそうだ。といっても、日本のことではなく、主としてアメリカでである。だから、もっと正確に言えば、英語の「alternative facts」という言葉が流行っているのである。理由はたぶん、従来のアメリカ政治の常識を覆すトランプ新政権の性格を、よく表しているからだろう。 
 
 この言葉は、日本の解説者によっては「もう一つの事実」などと訳されている。こちらの方が日本語としては分かりやすい。しかし、私がこれを使わない理由は、「もう一つ」を認めると、「更にもう一つ」とか「三つ目の」という表現もあり得るようなニュアンスが生まれるからだ。「alternative」という英語には、そういう意味はない。語幹が共通する「alternate」という形容詞は、「交互の」とか「かわるがわるの」という意味だから、「選択肢が2つ」しかない中での「もう一方」なのである。例えば、「alternative medicine」という英語は、すでに「代替医療」とか「代替医学」などと訳されて広く使われているが、この場合も、「西洋医学」に対する「もう一方」の医学--漢方やアーユルヴェーダ、超越瞑想法など--を一団の「非西洋医学」として捉え、それ全体を指している。 
 
 こんな背景を頭に入れて考えてみると、「代替事実」という言葉の意味は、「事実以外にも、別の事実がある」というのだから、何か不思議で、探偵小説のようなミステリアスな香りがしてくる。が、アメリカのジャーナリストの間では、この言葉はきわめて評判が悪い。というのも、それがトランプ大統領の側近の口から出たためで、「事実を曲げる」目的に使われたと考えられるからだ。 
 
 問題の発端は、今年の1月21日のホワイトハウスでの記者会見だった。発足したてのトランプ政権の新報道官、シーン・スパイサー氏が、トランプ大統領の就任式について「史上最大規模の国民が参加した」と発言したことに、記者側から異議が出された。アメリカのメディアは、その時点ですでに「オバマ大統領の2期目の就任式(2013年)よりも少なかった」と報道していたからだ。 
 
 するとスパイサー報道官は、就任式当日の現場に通じる地下鉄の利用者数を引き合いに出し、それが「42万人」だったのに、オバマ氏の時は「31万7千人」だったと主張した。が、この数字の根拠は不明だった。実際の数字は、当日の午前零時から11時までの利用者数が、2017年が19万3千人、2013年は31万7千人、就任式当日24時間の利用者数は、2017年が570,557人、2013年は782,000人で、いずれもオバマ氏の就任式の方がトランプ氏を大きく上回っている。それどころか、2つの就任式の会場を当日、上空から撮影した映像を比べても、群衆の列の長さは、オバマ氏の時の方がトランプ氏の時よりも明らかに長いことが示された。 
 
 このことを指摘されると、スパイサー報道官は、今回の就任式では初めて、会場の地面を白いカバーで覆ったから、それが視覚的に群衆の列の長さを短く見せたのだ、と説明した。ところが事実はそうではなく、白い地面の覆いは、2013年のオバマ氏の就任式の際も敷かれていたという。 
 
 こんな見え透いたウソを大統領報道官がメディアに向かって堂々と発表するのでは、トランプ政権の発表には今後、誰もが疑いの目を向けることになる。そんな問題が論じられている同じ時期に、今度は大統領顧問のケリーアン・コンウェイ氏が、『ミート・ザ・プレス』というNBCのTV番組でインタビューに答え、この問題について「そんなに大袈裟に騒がなくていいでしょう。あながたはこれを間違いだと言うけれど、私たちの報道官、シーン・スパイサーは、それに対する代りの事実を述べただけよ」と言ったのだ。この「代りの事実」に相当するのが「alternative facts」である。インタビューアーは即座に、「代りの事実なんてのは事実でなく、間違いのことですよ」と反論したという。 
 
 こうして「代替事実(alternative facts)」という言葉は、アメリカのメディアやソーシャル・ネットワークで皮肉や嘲笑を交えて取り上げられることになった。これを「流行語」と表現するのが正しくないとすれば、新政権の危うさを示した「象徴語」と言えるだろう。
 ところで私は、ここに挙げられたような政治家とメディアとの関係では、アメリカのジャーナリズムの反応に全面的に賛成する。世界最強の国で最高権力を握るアメリカ大統領が、国民や世界に対して事実を告げずに、自分に都合のいい解釈や、事実を曲げた情報を“代替事実”として発表するようになれば、民主主義は崩壊する。また、世界には間違った判断が蔓延して、戦争や災害を含めた悲惨な事態に陥る可能性が大きい。かつてのイラク戦争が、当時のブッシュ大統領の事実誤認と判断の間違いによって起こったことは、読者の記憶にも新しいだろう。その結果、アフガニスタンとイラクは崩壊し、破壊と荒廃の中から立ち現れた「イスラーム国」なるテロ集団が今、世界を震撼させているのである。
 
  谷口 雅宣

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2016年6月10日 (金)

「与党とその候補者を支持しない」

 この表題のもとに9日付で発表された生長の家の方針は、各方面に驚きをもって受け止められているようだ。この“驚き”の中には、誤解から生まれたものも少なくない。それは「生長の家=自民党」という冷戦時代の古い方程式しかご存じない人の場合である。私は、もうだいぶ前から自民党政権に愛想をつかし、本ブログあるいはその前身の「小閑雑感」上で民主党を応援してきたことは、本欄の読者ならよく知っているはずだ。ただ、宗教法人「生長の家」として、特定の政党の支持、不支持を表明したことはここ30年ほどないだろう。そんなわけで、今回の声明は“方針転換”と受け取られたのかもしれない。 
 
 しかし、法人もしくは教団は、私とは同一でないものの、考えがまったく違うわけでもない。だから、今回の方針表明がどういう経緯で行われたかは、今回の公式な説明以外にも、私のブログでの過去の発言を読んでいただくと、もっとよく理解していただけると思う。そんな理由で、以下に私の過去の“政治的発言”の主なものの表題を時系列でリストアップさせていただいた。興味をもたれた方は、リンク先の記事を読んでいただければ幸いである-- 
 
2009年8月31日
2010年7月12日
2012年12月10日
2012年12月12日
2014年1月30日
2014年7月3日
2014年7月 5日
2015年5月16日
 谷口 雅宣

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2014年7月 3日 (木)

憲法軽視で「法の支配」を言うなかれ

 安倍晋三首相は7月1日の閣議で、戦後の歴代内閣が、現憲法下では禁止されていると解釈してきた集団的自衛権の行使を、一定の条件では認められるという解釈の変更をした。これによって今後、法整備が進めば、日本への直接攻撃がなくても、他国への攻撃によって自衛隊が武力を行使する道が開けることとなる。当然のことながら、自衛隊が武力行使をすれば、行使された相手は日本を攻撃する法的理由をもつこととなる。だから、他国の始めた戦争に日本が参加する可能性が従来よりも高くなる。安倍首相はこのことを「抑止力が強まる」と表現しているが、同じことを別の表現で言っているだけだ。ある種の国は、武力を使うための足枷が多くある国に対しては、チョッカイを出しやすいが、すぐにでも武力を使う用意のある国には、チョッカイを出しにくいということだ。日本は自衛隊発足後60年の今日まで前者の国だったが、これからは後者の方向へ動き出すことになる。
 
 「生長の家としてはどう考えるか?」と質問されそうだが、答えはそう簡単でない。理由は、この問題には、①生長の家の運動における歴史的経緯、②政治レベルの解釈、③宗教としての解釈、など複雑な要素がからんでいるからだ。歴史的には、谷口雅春先生の時代には、「大日本帝国憲法復元改正論」を明確に唱えていた。これをごく簡単に言えば、「現憲法は占領下に強制的に押しつけられたものだから、本来無効であり、日本の首相は速やかに無効を宣言して旧憲法を復元し、その改正によって自主憲法を制定すべし」というものだ。軍隊をどうするかという点では、「現憲法第9条は自衛権も否定しているから破棄すべきものだ」と考えられていた。ところが歴代の日本の(自民党の)首相は、「憲法第9条は自衛権を否定していない」という解釈を打ち立て、それを維持してきたので、雅春先生とは意見が異なっていた。雅春先生が現憲法に反対された理由は、第9条に問題があると考えられたからだけではない。前文を含んだ日本国憲法の精神そのものが、日本の伝統を否定し、肉体民主主義を謳歌するものだと考えられたからである。この問題に関する当時の先生のご著書の題名を見るだけで、先生の現憲法否定のお考えが伝わってくるだろう--『占領憲法下の日本』(1969年)、『続 占領憲法下の日本』(1970年)、『占領憲法下の政治批判』(1971年)、『諸悪の因 現憲法』(1972年)。生長の家が政治運動を熱心にしたのは、こういう「現体制批判」の考えからだった。
 
 そういう過去の歴史的立場から見れば、今回の安倍首相の行動は、拡大解釈によって憲法第9条を実質的に骨抜きにしようとの意図が明らかだから、自衛隊の機能拡大を除いては、戦後日本の民主主義体制そのものを維持する「現体制温存」を選択したのである。「現体制を形骸化し、実質的に無視してしまえば、それでいい」と考える人がいるかもしれないが、私はそう思わない。無視するものがヤクザの規則や、町内会の取り決めであれば、さほどの弊害はないかもしれないが、国家の基本を定める憲法の、しかも万が一の時の国の防衛をどうするかという重要な決断を「定められた通りにしない」という前例を作るのである。それを、一国の首相が国民の面前で堂々と実行するのが“日本を取りもどす”方法だというのである。法学部出身の私としては、こんな乱暴な法律無視がまかり通るなら、法治国家としての日本の将来は大変暗いと考える。
 
 次に、政治レベルの問題を語ろう。ただし、これは多岐にわたることなので、この場ではごく一部--国際政治に関することだけを取り上げる。それは、「解釈変更がなぜ今か?」という問題とも関連する。私は、安倍首相の今回の動きは、個人的信念にもよるだろうが、アメリカの外交政策と密接に関係していると感じる。読者もご存じのように、9・11後のアメリカは、アフガニスタンやイラクへの派兵で疲弊し、中東とヨーロッパから軍隊を引き揚げつつ、アジアに軸足を移す決断をした。従来のアメリカは、世界で2つの地域戦争を戦えるような軍事力を維持することを国の方針としていたが、それではあまりにもコストがかかることを知り、最近、地域戦争の実行力は1つにしぼり、あとは兵器の近代化と、ハイテク装備の軍隊を迅速に展開する方法を採用するなど基本的な戦略転換をした。また、9・11の経験から、今後の自国への脅威は、国家としての敵よりもテロ組織になると判断しているようだ。そんな中で、アジアへ軸足を移す理由は何か。それは、きっと北朝鮮と中国があるからだ。特に、北朝鮮は、現に核兵器を開発してアメリカ西海岸を狙うと明確に脅している。中国は、アメリカに次ぐ経済大国であり、かつ核保有国であり、近年は貿易や資本関係でアメリカ経済と密接につながっている。
 
 ところが、日本周辺の東アジアを眺めてみると、日韓、日中の関係が思わしくない。日韓両国は、アメリカにとって同盟国である。双方の関係が良好であれば、北朝鮮と中国に対する“緩衝地帯”として効果的だ。しかし、そうでない現在、朝鮮半島有事の際には問題が起こり得る。また、日中関係は“最悪”といっていい状態だ。特に危険なのは、尖閣諸島をめぐって、両国が武力をもって対峙するようになっている点だ。アメリカは日米安保条約によって日本防衛の義務を負っているから、「尖閣諸島も防衛義務の範囲内である」と宣言して、中国の冒険主義を抑えている状態だが、これだけで危険が去るとは思えない。日米、日中、米中の間で何かの誤解や計算違いがあると、本当に武力紛争が起こりかねない状態なのだ。そこで、アメリカとしては、日韓の関係を改善させて対北朝鮮の“重石”とし、日中間の武力衝突を防ぐために、日中融和を進める一方で、日米間の外交と軍事関係の一体化を図りたいのだろう。「一体化」という表現は何か無害に聞こえるが、別の言葉を使えば、日本を(中国に対して)アメリカ側に引きつけておく一方、経済、軍事面で従来のアメリカの役割の一部を「肩代わり」してもらいたいのだろう。
 
 安倍首相は、いわゆる自民党の“保守派”だから、現行憲法を改正し、自衛隊を軍隊として増強することが“日本を取りもどす”ことだと夢見ているに違いない。しかし現在は、政権の一部を公明党が担っているから、公明党の反対を押し切ってそれをすることは不可能である。ということで今回、同党とのギリギリの交渉の結果、いろいろの条件付きではあるが、憲法を改正しないままで集団的自衛権の行使容認を取り付けた。これにより、公明党は“平和政党”としてのイメージを大きく損なうことになったが、政権の一画に留まることになったのである。原理原則で譲ってしまえば、「自民党の補完役」と言われても仕方がないだろう。
 
 それで私がきわめて残念に思うのは、これだけ重大な政策変更をするに際して、安倍政権は国民の意思を問うことをしなかった点である。もっと具体的に言えば、すでに書いたように、一内閣の解釈変更によって、憲法という国家の最高法規に明記された事項を軽視する選択を行ったことである。それでいて、7月1日の閣議決定には、次のような文章を入れている--
 
「我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、政府としての責務を果たすためには、まず、十分な体制をもって力強い外交を推進することにより、安定しかつ見通しがつきやすい国際環境を創出し、脅威の出現を未然に防ぐとともに、国際法にのっとって行動し、法の支配を重視することにより、紛争の平和的な解決を図らなければならない。」
 
 自国の基本法である憲法の規定を軽視しておきながら、国際法にのっとって行動することが、どうして法の支配を重視することになるのか? この重大な矛盾とゴマカシは、きっと将来に禍根を残すことになるだろう。力に任せたこういう強引なやり方を、2日の『朝日新聞』は「解釈改憲」という言葉で批判しているが、私もそれが実態だと思う。
 
 谷口 雅宣

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2012年10月18日 (木)

『週刊文春』を買うなかれ!

 週刊誌がいいかげんな記事を書くことは読者も十分ご存じだろうが、10月25日号の『週刊文春』で生長の家に触れた記事のデタラメさには開いた口が塞がらなかった。今朝の新聞に載った同誌の広告の見出しを読んで、同誌を買おうと考えている人がもしいたとしたら、私は「お金と時間のムダ遣いは、やめた方がいいです」とご忠告申し上げたい。では、そんなツマラナイ記事のためにお前はなぜブログを書くのか? と訊かれるならば、「事実無根のデタラメを、事実だと認めるわけにはいかないから」とお答えするほかはない。
 
 同誌の記事の大要をひと言で表現すれば、「橋下大阪市長の“日本維新の会”の東京事務所の維持費を生長の家が負担する合意ができた」ということで、全くのデタラメである。同記事は、この資金提供の理由もまことしやかに書いているが、これまた全くのデタラメである。同記事によると、その理由は、生長の家総裁である私が「政治に未練を残していても不思議はない」からだと言う。アホらしくて、反論する気にもなれない。本欄の読者なら誰でも、私が今の日本の政治に何か希望や期待をしているなどと感じていられないだろうし、いわんや「生長の家が政治活動に復帰する」などということが、いかに現実的でないかをよくご存じである。私たちは、今のグチャグチャ状態の国政に見切りをつけて、信仰によって国民一人一人の自覚を深め、“神の御心”を生活に実践し、人々にそれを伝えることを通して社会を変革していく道を、従来の方針通りに力強く進んでいくだけである。
 
 ジャーナリズム出身の私として、この記事について最も解せないことは、この完全な“ガセネタ”(根拠のない情報)を橋下氏自身が記事の中で完全に否定し、生長の家の広報担当者も否定し、生長の家と橋下氏との間に立ったとされる中田宏・前横浜市長に訊いても「全面的に否定するコメントが事務所を通じて寄せられた」と書いているにもかかわらず、強引に記事に仕立て上げて出版するという態度である。ある事象について、その関係者全員が全面否定していることを事実だとして書くことがあるならば、その記事は“おとぎ話”か“空想物語”だと呼ぶべきだと私は思う。しかし、その場合でも、実在の人物を実名で登場させるというのは、いかにも想像力が枯渇していないだろうか……。

 谷口 雅宣

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