日本全国の生長の家教化部や道場などにはすでに通知されているが、今年の10月下旬には、山梨県北杜市の生長の家“森の中のオフィス”を中心とした地域で、「自然の恵みフェスタ 2014」という行事が行われる。
これは、簡単に言えば秋の収穫祭である。ただし、作物の収穫だけでなく、芸術的収穫なども含んだ一種の文化祭のようなものになる予定だ。この時期には、次年度の生長の家の運動を決める重要会議が予定されているため、全国の教化部長が当地に集まる。その機会をねらって、文化的行事を開催しようというわけだ。ちょうど10月28日は、前生長の家総裁、谷口清超先生の年祭に当たるため、清超先生の御遺徳を偲びつつ、ご生前に撮影された写真の展示会や地元の音楽家が参加する音楽会も開かれる。これらの“芸術系”のイベントは、国際本部が東京にあった時代にも「生光展」やチャリティーコンサートの形で行われてきたが、開催日はバラバラで必ずしも統一性がなかった。それを今回初めて一時期に集めて開催することで、“生長の家の文化祭”のようなものとなる。さらに今回は、生長の家の行事としては異例と思われるスポーツ・イベントも行われる予定だ。これは「天女山ヒルクライム」という自転車競技で、オフィスの近くにある天女山(標高1,529m)の山頂まで上るタイムを競うものだ。
なぜスポーツ・イベントか?--という疑問を抱く読者もいると思うので、少し説明しよう。
「自然の恵みフェスタ 2014」という行事は、以下の4つの目的で行われる--
①私たちの肉体を含めた自然の恵みを実感しつつ、豊かな環境と
農作物の収穫を神様に感謝する。
②地域の人々などとの交流を通じて、日頃の感謝の気持を表す。
③生長の家が推奨するノーミート料理の意義とレシピを伝える。
④調理に炭や枝を利用するなどして生長の家の環境保全活動の一
端を紹介する。
これらのうち①が、スポーツと関係するものだ。ここにある「肉体も自然の恵みの一部」という考え方には、馴染みのない人がいるかもしれない。しかし、自然の恵みである農産物をいかに美味しく作っても、それを食べる肉体がなければ、「恵み」を体験することはできない。言い換えれば、私たちにとって農産物が恵みであるためには、肉体が必要なのである。当たり前といえば当たり前のことだが、普段はあまり意識しない事実である。生長の家では「肉体はナイ」と説くことがあるが、この教えを誤って理解する人もいる。それは、「肉体はナイ」のだから、肉体の健不健にこだわることなく、暴飲暴食をしたり、喫煙にふけり、睡眠時間を極端に削り、あるいは不規則でいい加減な食事をすることも、人類光明化運動のためには一向差し支えないと考える場合だ。このような考えは、「生長の家の食事」という神示を読めば、まったくの誤りであることが了解される。そこには、「食事は、自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である」と明記されているからだ。
この「自己に宿る神」が活躍するための最も重要な“道具”が、肉体である。これを清浄健全に保つことは、だから私たち信仰者の義務であると言っていい。それは、「肉体の欲望に身を任せる」ことではない。この違いは、とても重要だ。「自己に宿る神」とは欲望のことではない。欲望は、1つのものが満たされたら次のものを要求し、次のものが満たされたら、さらにその次を要求するというように、際限なく“他から奪う”感情である。これに身を任せて食事をすれば、肉体は肥満し、成人病となり、うまく機能しなくなる。これに身を任せてセックスをすれば、体力は弱まり、人間関係は破壊され、反社会的と見なされる。では、肉体に属する欲望をできるだけ抑制し、無欲禁欲を目標として生きるべきかというと、それでは肉体は衰弱し、学習能力は低下し、子孫は生まれない。つまり、「自己に宿る神」は、私たちの肉体を通して活躍できなくなるのである。
では、どうすればいいのか? これについては、『大自然讃歌』が明確な指針を与えてくれる--
欲望は
肉体維持発展のための動力にして、
生物共通の“炎”なり、
“生命の炎”なり。
(…中略…)
肉体は神性表現の道具に過ぎず、
欲望もまた神性表現の目的にかなう限り、
神の栄光支える“生命の炎”なり。
(…中略…)
されば汝らよ、
欲望の正しき制御を忘るべからず。
欲望を
神性表現の目的に従属させよ。
(…中略…)
“生命の炎”を自在に統御し、
自己の内なる神の目的に活用せよ。
スポーツの良いところは、「肉体の欲望を制御しつつその機能を拡大する」という点だ。これを実現するためには、「肉体の欲望」を超えた目標--精神的目標をもたねばならない。肉体の欲望に振り回されるのではなく、より高度な目標のために肉体を振り回すのである。そうすると不思議なことに、肉体は最初はいやいやであっても、やがてその目標に向かって自分を再組織化しはじめる。そして、さらに訓練を続けていると、肉体は精神的目標の達成に積極的に協力するようになる。つまり、神性表現の道具として正しく機能し、機能拡大さえするようになる。このことが「自然の恵み」だと私は考える。人間の肉体は自然の状態で、「使う」ことで機能を拡大する。私たちの肉体は--筋肉や血管や骨や皮膚組織、そして脳細胞も--「使わない」のではむしろ機能が低下する。そういう性質と機能を自然に与えられていることは、「自然の恵み」の重要部分である。なぜなら、それは「努力すれば向上する」という約束が、自分の肉体に組み込まれていることを意味するからだ。スポーツは、この「自然の恵み」を実感しつつ感謝することにつながる。
では、なぜ自転車競技か? これは、自転車でなければならないという意味ではない。また、自転車競技であっても、都会の中の同じ場所をグルグル周回するだけでは、「自然の恵み」はあまり感じられないだろう。それよりは、高原の空気を思う存分呼吸しながら、体に風を感じ、鳥の声を聞き、紅葉・黄葉を眺め、さらには自分の肉体の小ささ、微力さを思い知る……そういう体験は、登山やトレッキング、マラソンでも可能だ。が、自転車には実用性もある。競技が終わった後は、通勤、通学、買い物、サイクリングなどに使える。それは、“炭素ゼロ”のライフスタイルの一部となる。そんなこんなの理由から、今回の「天女山ヒルクライム」の自転車競技は開催されるのである。

「ヒルクライム」とは hill climb という英語から来た言葉だ。「丘を登る」という意味で、その反対に「丘を下る」のは「ダウンヒル(down hill)」だ。普通の山道では、上り坂があれば必ず下り坂もある。が、今回のコースには下り坂はない。ということは、自転車に乗る楽しみの1つである「風を切って坂を下る」快感は味わえない。いや、もっと正確に言えば、その快感は、競技が終了したあとで各人が味わうことになる。これを「過酷」と思うか「後楽」と感じるかは、参加者それぞれの判断に任せよう。出発点の甲斐大泉駅(標高 1,158m)から、終着点の天女山山頂(標高 1,529m)までは4.6km で、自転車で走る距離としては大したものではない。しかし、私の試走では40分強かかっている。私の半分の年齢のO氏の試走では、35分ほどだ。時間がかかる理由は、上り坂ばかりが続くからで、参加を考えている人は覚悟しておいてほしい。これだけの時間内に、標高差で400m弱を上る。スタート地点がすでに千メートルを超えているから、平地よりも空気が薄い中でのヒルクライムである。もちろん、「競走」など意識せずに、秋の山道を楽しむつもりの人は、競技の時間は2時間とたっぷりあるので、疲れたら自転車から降りて、天女山の自然を味わいながら、自転車を押しつつゆっくりと上ってほしい。
谷口 雅宣