スポーツ

2014年9月 8日 (月)

天女山ヒルクライム

 日本全国の生長の家教化部や道場などにはすでに通知されているが、今年の10月下旬には、山梨県北杜市の生長の家“森の中のオフィス”を中心とした地域で、「自然の恵みフェスタ 2014」という行事が行われる。
 
  これは、簡単に言えば秋の収穫祭である。ただし、作物の収穫だけでなく、芸術的収穫なども含んだ一種の文化祭のようなものになる予定だ。この時期には、次年度の生長の家の運動を決める重要会議が予定されているため、全国の教化部長が当地に集まる。その機会をねらって、文化的行事を開催しようというわけだ。ちょうど10月28日は、前生長の家総裁、谷口清超先生の年祭に当たるため、清超先生の御遺徳を偲びつつ、ご生前に撮影された写真の展示会や地元の音楽家が参加する音楽会も開かれる。これらの“芸術系”のイベントは、国際本部が東京にあった時代にも「生光展」やチャリティーコンサートの形で行われてきたが、開催日はバラバラで必ずしも統一性がなかった。それを今回初めて一時期に集めて開催することで、“生長の家の文化祭”のようなものとなる。さらに今回は、生長の家の行事としては異例と思われるスポーツ・イベントも行われる予定だ。これは「天女山ヒルクライム」という自転車競技で、オフィスの近くにある天女山(標高1,529m)の山頂まで上るタイムを競うものだ。
 
 なぜスポーツ・イベントか?--という疑問を抱く読者もいると思うので、少し説明しよう。
 
 「自然の恵みフェスタ 2014」という行事は、以下の4つの目的で行われる--
 ①私たちの肉体を含めた自然の恵みを実感しつつ、豊かな環境と
  農作物の収穫を神様に感謝する。
 ②地域の人々などとの交流を通じて、日頃の感謝の気持を表す。
 ③生長の家が推奨するノーミート料理の意義とレシピを伝える。
 ④調理に炭や枝を利用するなどして生長の家の環境保全活動の一
  端を紹介する。
 
 これらのうち①が、スポーツと関係するものだ。ここにある「肉体も自然の恵みの一部」という考え方には、馴染みのない人がいるかもしれない。しかし、自然の恵みである農産物をいかに美味しく作っても、それを食べる肉体がなければ、「恵み」を体験することはできない。言い換えれば、私たちにとって農産物が恵みであるためには、肉体が必要なのである。当たり前といえば当たり前のことだが、普段はあまり意識しない事実である。生長の家では「肉体はナイ」と説くことがあるが、この教えを誤って理解する人もいる。それは、「肉体はナイ」のだから、肉体の健不健にこだわることなく、暴飲暴食をしたり、喫煙にふけり、睡眠時間を極端に削り、あるいは不規則でいい加減な食事をすることも、人類光明化運動のためには一向差し支えないと考える場合だ。このような考えは、「生長の家の食事」という神示を読めば、まったくの誤りであることが了解される。そこには、「食事は、自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である」と明記されているからだ。
 
 この「自己に宿る神」が活躍するための最も重要な“道具”が、肉体である。これを清浄健全に保つことは、だから私たち信仰者の義務であると言っていい。それは、「肉体の欲望に身を任せる」ことではない。この違いは、とても重要だ。「自己に宿る神」とは欲望のことではない。欲望は、1つのものが満たされたら次のものを要求し、次のものが満たされたら、さらにその次を要求するというように、際限なく“他から奪う”感情である。これに身を任せて食事をすれば、肉体は肥満し、成人病となり、うまく機能しなくなる。これに身を任せてセックスをすれば、体力は弱まり、人間関係は破壊され、反社会的と見なされる。では、肉体に属する欲望をできるだけ抑制し、無欲禁欲を目標として生きるべきかというと、それでは肉体は衰弱し、学習能力は低下し、子孫は生まれない。つまり、「自己に宿る神」は、私たちの肉体を通して活躍できなくなるのである。
 
 では、どうすればいいのか? これについては、『大自然讃歌』が明確な指針を与えてくれる--
 
 欲望は
 肉体維持発展のための動力にして、
 生物共通の“炎”なり、
 “生命の炎”なり。
 (…中略…)
 肉体は神性表現の道具に過ぎず、
 欲望もまた神性表現の目的にかなう限り、
 神の栄光支える“生命の炎”なり。
 (…中略…)
 されば汝らよ、
 欲望の正しき制御を忘るべからず。
 欲望を
 神性表現の目的に従属させよ。
 (…中略…)
 “生命の炎”を自在に統御し、
 自己の内なる神の目的に活用せよ。
 
 スポーツの良いところは、「肉体の欲望を制御しつつその機能を拡大する」という点だ。これを実現するためには、「肉体の欲望」を超えた目標--精神的目標をもたねばならない。肉体の欲望に振り回されるのではなく、より高度な目標のために肉体を振り回すのである。そうすると不思議なことに、肉体は最初はいやいやであっても、やがてその目標に向かって自分を再組織化しはじめる。そして、さらに訓練を続けていると、肉体は精神的目標の達成に積極的に協力するようになる。つまり、神性表現の道具として正しく機能し、機能拡大さえするようになる。このことが「自然の恵み」だと私は考える。人間の肉体は自然の状態で、「使う」ことで機能を拡大する。私たちの肉体は--筋肉や血管や骨や皮膚組織、そして脳細胞も--「使わない」のではむしろ機能が低下する。そういう性質と機能を自然に与えられていることは、「自然の恵み」の重要部分である。なぜなら、それは「努力すれば向上する」という約束が、自分の肉体に組み込まれていることを意味するからだ。スポーツは、この「自然の恵み」を実感しつつ感謝することにつながる。
 
 では、なぜ自転車競技か? これは、自転車でなければならないという意味ではない。また、自転車競技であっても、都会の中の同じ場所をグルグル周回するだけでは、「自然の恵み」はあまり感じられないだろう。それよりは、高原の空気を思う存分呼吸しながら、体に風を感じ、鳥の声を聞き、紅葉・黄葉を眺め、さらには自分の肉体の小ささ、微力さを思い知る……そういう体験は、登山やトレッキング、マラソンでも可能だ。が、自転車には実用性もある。競技が終わった後は、通勤、通学、買い物、サイクリングなどに使える。それは、“炭素ゼロ”のライフスタイルの一部となる。そんなこんなの理由から、今回の「天女山ヒルクライム」の自転車競技は開催されるのである。
 
Tennyosanhillclimb2014_2 「ヒルクライム」とは hill climb という英語から来た言葉だ。「丘を登る」という意味で、その反対に「丘を下る」のは「ダウンヒル(down hill)」だ。普通の山道では、上り坂があれば必ず下り坂もある。が、今回のコースには下り坂はない。ということは、自転車に乗る楽しみの1つである「風を切って坂を下る」快感は味わえない。いや、もっと正確に言えば、その快感は、競技が終了したあとで各人が味わうことになる。これを「過酷」と思うか「後楽」と感じるかは、参加者それぞれの判断に任せよう。出発点の甲斐大泉駅(標高 1,158m)から、終着点の天女山山頂(標高 1,529m)までは4.6km で、自転車で走る距離としては大したものではない。しかし、私の試走では40分強かかっている。私の半分の年齢のO氏の試走では、35分ほどだ。時間がかかる理由は、上り坂ばかりが続くからで、参加を考えている人は覚悟しておいてほしい。これだけの時間内に、標高差で400m弱を上る。スタート地点がすでに千メートルを超えているから、平地よりも空気が薄い中でのヒルクライムである。もちろん、「競走」など意識せずに、秋の山道を楽しむつもりの人は、競技の時間は2時間とたっぷりあるので、疲れたら自転車から降りて、天女山の自然を味わいながら、自転車を押しつつゆっくりと上ってほしい。
 
 谷口 雅宣 

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2014年6月 8日 (日)

自由と不自由 (4)

 私は本シリーズの第2回で、「主観的自由は、私たちの心しだいで感じることができるのだから、それを享受しながら、希望をもって積極的に人生を歩むことができる」と書いた。今回は、その方法について書こう。つまり、このような積極的な人生の歩み方は、どうすれば実現するかという問題である。そのためにまず確認したいことは、「不自由の中から自由が生まれる」ということである。この話は、本シリーズの1~2回ですでに述べた。復習すると、自由とは単なる可能性ではなく、実際に何かをする自由である。しかし、「○○をする自由」を実現するためには、「○○以外のこと」はできないという不自由を同時に認めなければならない。そして「○○」と「○○以外のこと」とでは、量的には後者の方が圧倒的に多い。つまり、「○○をする」自由は、それ以外の数多くのことができないという圧倒的な不自由と同時にある。だから私は、先に「不自由の中から自由が生まれる」と書いたのである。これを簡単に言えば、コーヒーを飲んでいるときは、トマトジュースも牛乳もビールもウイスキーも同時には飲めないということだ。
 
 さて、そういう前提のもとに、次の文章を読んでほしい--
 
「人の世に生きていくということは、苦しいことも、うれしいこともいろいろあるものだ。その苦しいことに耐えなければ、何ごとも成し遂げられない。」
 
 この一文は今日、長岡市で行われた生長の家講習会の帰途、同市内にある「河井継之助記念館」に立ち寄ったとき、受付でもらったパンフレットに印刷されていた言葉だ。これを河井継之助自身が言ったかどうかは、明らかでない。が、その内容は至極もっともだと思う。読者もきっと同感だろう。そこで質問したい--この文は人生の不自由さを描いているのか、それとも自由さを表現しているのだろうか? この答えはたぶん、文章のどこに注目するかで変わってくる。「苦しいことに耐える」という部分に注目する人は、「面倒くさいなぁ~」と感じて不自由さを述べていると解釈するだろう。しかし、「何ごとも成し遂げ」という部分に注目すれば、「努力さえすれば何ごとも成し遂げられる」というメッセージを読み取ることができるので、人生は自由だと感じるだろう。読者はいずれの解釈を選ぶだろうか?
 
 私としては、後者の解釈をお勧めする。それが、主観的自由を自ら創り出す積極的な生き方につながるからだ。このことをもっと具体的に、私の最近の体験からお話ししよう。
 
 今日の新潟越南教区での講習会後に行われた幹部懇談会で、白鳩会の副会長さんの一人が私の健康を心配してくださった。というのは、北杜市に移住して以降、私が通勤のためにマウンテンバイクに乗っているということを、本欄やフェイスブックを通して知ったからだ。それを読まれ、ご自分が自転車で通勤されている経験から、「マウンテンバイクは体を鍛えている人にはよくても、そうでない場合は、上半身にも負担がかかるので大変です」と親切に助言して下さった。そして、電動アシスト付の“ママチャリ”を推薦してくださった。私は彼女のご好意に心から感謝したあと、「ご心配なく」と付け足した。が、この助言を今日ではなく、北杜市に移住したばかりの昨年10月ごろに聞いていたならば、私の決意は揺らいだかもしれない。なぜなら、その頃は本当に自転車通勤は「大変だぁ」と感じていたからである。
 
 私の自宅から“森の中のオフィス”までは3キロ強ある。平地の舗装道路を自転車で3キロ走ることは何の問題もないどころか、快適であるに違いない。しかし、自宅とオフィスの標高差は100メートルほどあり、オフィスの方が標高が高い。加えて、自宅から数百メートルの道は舗装のないラフロードだから、一度坂を下りてから再び坂を上る。だから、オフィスにいたる最後の上り坂は、かなり厳しいのである。昨年秋の段階では、私は最後の上り坂を完走できず、自転車から降り、車体を押して歩いた。しかし、これにめげずに自転車通勤を続けていると、歩く距離はしだいに短くなり、やがてノンストップ通勤が実現した。この時の喜びは、筆舌に尽くしがたい。60歳を過ぎたら肉体の能力は衰えるばかりかと思っていたが、決してそうでないことを発見し、「自分は本当に無限力か!」と一瞬思ったほどだ。もちろん、この考え方は実相と現象を混同していて間違っている。が、実感としては両者を混同しそうなほど、感激したのである。
 
Makibapark_052414  オフィスへのノンストップ・ヒルクライムが実現した後は、さらにそれより高地にある県立「まきば公園」を目指すようになった。標高差はさらに100メートルほどあるが、これはさほどの苦労や苦痛をともなわずに実現した。坂の傾斜が、オフィス前の坂道より緩やかだからだ。「まきば公園」(=写真)はその名の通り牧場を擁していて、ウシやヒツジ、ウマなどが放牧された見晴らしのよい広大な土地である。晴れた日に、苦しみもがいたすえにそこへ到達した時の達成感と爽快感は、味わったものでなければ分からない。だから私は、河井継之助記念館のパンフレットにあった「苦しいことに耐えなければ、何ごとも成し遂げられない」という言葉を、「苦しいことに耐えれば、何ごとも成し遂げられる」と読み替えて、密かに喜んでいるのである。 
 で、このことと「自由」の問題はどう関係するのか、と考えてほしい。私がまきば公園で感じる達成感と爽快感は、努力のすえ獲得した自由の感覚だと思う。これまで不可能だったことが、可能になったのだ。しかし、そのためには、通勤に自動車を使わないことはもちろん、自転車でも中途降車をせず、歩かずに、ただひたすらにサドルの上で苦しみもがくという「不自由」きわまりない困難を通過しなければならなかった。このようにして、自由は不自由から生まれるのである。この考えが理解できれば、私たちはいつ、どんな時でも、“自由への道”を歩んでいると言えるのである。それがたとい、人から強制された不自由であっても、「強制された」という考え方を変えてしまえば、不自由はそのまま自由になる。
 
 このことを谷口雅春先生は、『新版 生活の智慧365章』の中で次のように説いておられる--
 
「人間の自由は、彼が環境や境遇の奴隷でなくなったときにのみ得られるのである。環境がどうだから出来ないとか、こんな境遇ではとても思うようにならないとかいうのでは、環境や境遇の奴隷であって、自由の主体である“神の子”の自覚を得たものということができないのである。もっと神想観して絶対者との一体感を深めなさい。すべての環境・境遇は、その人が或る能力を発現さすための運動用具のようなものである。木馬や鉄棒や平均台や吊環などはいずれも、運動の選手がそ能力を発現さすために是非なくてはならない環境又は境遇であるのである。運動の選手はみずからそのような環境・境遇の条件をもとめて、それを克服し、自由に肉体の運動美を発揮するための用具とするのである。このとき運動選手は主人公であり、自由の主体である」。(p. 119)
 
 実に味わい深いご文章ではないだろか。
 
 谷口 雅宣
 

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2013年9月 8日 (日)

オリンピックの東京開催をどう考えるか

 2020年のオリンピックを東京で開催することが決まった。私はすでに前回(2009年)の開催地選考の際に東京での開催に反対していたから、読者はきっと驚かれないと思う。ただ、今回の決定が前回に比して特に残念なのは、2011年の東日本大震災と原発事故という日本と世界にとって極めて大きな経験から、日本が国家として何も学ばなかったと思われるからである。何万人もの尊い命が失われ、それ以上の数の人々の故郷が失われたにもかかわらず、「これまで通りの経済発展を目指すことが日本の進む道だ」という方針を、わが国は少なくとも7年後まで継続することになるだろう。

 私は2006年8月末のブログで、五輪の東京開催に反対する理由をこう書いた--
 
「私が東京五輪に反対の理由は、この人口超過密の世界最大のヒートアイランドに、さらに建設資材と機材とエネルギーを投入して温暖化を促進し、そこへエアコン装備の巨大施設を造り、世界中から大勢の人を招び寄せて、さらに大量のCO2を排出することを、京都議定書を生んだ国の政治・経済政策にしてはならないと思うからである」。

 その後、京都議定書からは、日本は事実上脱退してしまった。自分で作っておいて、自ら放棄したのである。しかし、だからとって、温暖化対策を放棄してしまっていいということにはなるまい。わが国は、民主党政権下で温室効果ガスの削減目標を「2020年までに1990年比で25%」とした。それを、今の自民党政権は反故にしてしまおうとしている。安倍首相はこの目標を「ゼロベースで見直す」と明確に指示したからだ。そういう文脈の中で五輪の東京開催を強力に進めてきたのも安倍首相である。彼が目指していることは明らかではないか。地球温暖化対策は適当にごまかして、五輪開催にともなう大規模な公共工事や資本投下を実施することで、GDPやGNPの値をつり上げ、従来のような経済至上主義的な「日本を取りもどす」のである。

 この考え方の背後には、もう一つ無視してはいけない前提がある。それは、原発の本格的再稼働である。東京五輪を準備するためには、東京に大量のエネルギーと資材を供給しなければならない。そのエネルギーを今のように火力発電に頼ることはできない。原油の高騰と温暖化ガス排出増で、出費はかさむし批難されることは目に見えているからだ。しかし、五輪準備のためには原発の再稼働は必須である。が、福島第一原発の事故が継続中で、被災者救済事業も進んでいない現状では、原発再稼働への道は険しい。そこへ「五輪開催」という“錦の御旗”が手に入った。これが得られれば、「経済発展のため」という怪しげな理由に加えて、「五輪を成功させるため」という“夢のある”理由ができる。国民も都民も「スポーツの祭典」という美しい言葉に目を奪われて、きっと原発再稼働を容認するだろう……そんな思惑が見えてくるのである。
 
 しかしまぁ、先の参院選で自民党が圧勝したことで、こういう“従来路線”への回帰は予想されていた。私は民主主義を信奉する者であるが、それが完璧な政治制度だとは思っていない。他の政治形態よりはマシであるが、欠陥はいくつもあると考えている。その一つが「衆愚政治に堕す危険」が常にあることで、今回ほどこの危険を身近に感じたことはない。願わくば、無抵抗でズンズン突き進む自民党政治に有力な対抗勢力が早く現われ、「従来路線では日本も世界も救われない」という正論を展開し、自然と人間との調和を目指す現実的な政策を打ち出してほしいのである。
 
 ところで今日は、山形市で生長の家講習会があった。私が講話で「五輪の東京開催決定」の話に触れたこともあり、それに関する質問が2つ出た。1つは、山形市に住む男性のもので、こうあった--
 
「私は今日朝4時に起床して、2020年オリンピック開催地のテレビ中継を見ました。東京に決定して大変よろこびました。しかし、先生はオリンピック開催はあまり感心しないようなお話がありました。環境問題も含めてのことだと思いますが、よろしくお願いします。」

 この男性は、オリンピックの東京開催に賛成の立場だったが、私はそれに反対する理由を上記のものを含めて講習会で詳しく述べたので、今はどう考えておられるか分からない。もう1つの質問は、「五輪の東京開催」には明確な反対意思を表明していた。私の午後の説明を聞く前に書かれた質問だから、初めからこの問題を疑問視されていたのだろう。大石田町に住む75歳の女性からの質問である--
 
「明るい方向に目と心を向けるべきとは分かっているつもりですが、東日本被災地、人々の事を思うとき、きまったばかりの2020年のオリンピックのことを考えると、どうしても心が晴れません。オリンピックの東京開催を、何事もなかった、ないように喜んでいる特に政治家の、心の内が理解しかね、悩んでいます。」

 大石田町は、山形県の内陸部の最上川に面した町で、江戸時代は河港町として栄えた。天領として船役所が置かれ、奥羽山脈を越えて仙台藩にまで至る物資の流通ルートの要だった。そして、福島県にも近い。だから、この女性が「東日本被災地、人々の事を思う」と書いているのは、もしかしたら福島県から避難してきた人を直接知っているからかもしれない。そういう数多くの人々の破壊された故郷が、五輪の東京開催で今後どうなっていくのか……この疑問に政府は答えていない。巨額の借金を抱えた国が、五輪への投資と東北復興の両方をやるといっても、誰も信じないだろう。大都市と大企業の繁栄のために、東北地方は再び犠牲になるのかという疑念と不安は深刻だと思う。

 そんな中で、異常気象が続いていることは前回、8月27日の本欄ですでに述べた。その際は、日本周辺の、我々の生活に直接影響することに限定して書いたが、異常気象は決して日本周辺だけに起こっているのではなく、世界中で頻発しているのだ。今日の『朝日新聞』は、そのことを分かりやすくまとめている。気象庁が「異常気象」という場合、それは「30年に一度あるかないか」という気象現象だという。そういう現象が、今年の1~7月だけで合計72件に及んでいるのだ。つまり、月平均にして10件程度、「30年に1度」の異常現象が起こっているのだ。ということは、異常現象が常態化しつつあるということだ。それは例えば、どんなことか?--
 
「インドでは6月中旬、北西部のウッタラカンド州デラドゥーンで大雨となり、洪水などで560人が死亡。これを含めインド全体で658人の死亡が確認された。欧州も5~6月に各地で大雨となった。5月のドイツの降水量は1881年以降で2位。チェコでは非常事態宣言が出されて2万人が避難。チェコ、ドイツ、オーストリアで計18人の死亡が確認された。
 中国南部は7月、平年より気温が高く、降水量は少なかった。米国オクラホマ州では5月、竜巻がたびたび発生、40人以上の死亡が伝えられた。ロシア北部のオレニョクでは5月の平均気温が平年より7.9度も高かった」。
 
 先進諸国は、インフラや技術が整備されているため、異常気象に対する抵抗力は比較的強い。しかし、途上国はそうはいかないから、異常気象による死傷者の数は当然、途上国の方が先進国を上回ることになる。つまり、我々の贅沢な生活や、放縦的なライフスタイルによって途上国の罪のない人々が死傷するという現象が、今後続いていくことになる。それでも五輪を開催して、自分たちの経済発展を進めていこうというのだろうか。私は、こういう倫理観の欠如した国の政策を嘆くのである。
 
 谷口 雅宣

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