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2020年4月11日 (土)

コロナウイルスは何を教える (2)

 生長の家は、山梨県北杜市にある国際本部“森の中のオフィス”と、同本部の広報・制作/編集部門がある別棟のメディアセンターの2つの施設を明日、4月12日から同21日まで閉鎖することにした。これは、同メディアセンターに勤務する男性職員が4月初旬から発熱や倦怠感などを覚えて体調が優れず、4月7日からは休務していることを重く見たもの。同職員はPCR検査をまだ受けていないが、検査を実施して結果が出るまで対応を長引かせるよりは、新型コロナウイルスの感染拡大防止を最優先に考え、迅速な対応を行なうことにしたもの。2施設の閉鎖中の業務は、基本的に職員が「在宅」で行うことになる。

 今回の新型コロナウイルスによる感染症の世界的蔓延は、かつて例のない規模と速度を伴いつつ、人命や社会の経済活動に甚大な影響を及ぼしている。私は前回のブログで、この感染症によって現代社会が甚大な被害を受ける理由の1つとして、「過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)」を挙げた。この表現は、社会のあり方のマイナス面を強調したものだが、プラス面を強調して言い直せば、今の社会の営みは細部まで分業が進行しているため、物事が正常に進んでいれば“便利で効率がいい”ということなのだ。

 しかし、21世紀の世界での一番の問題は、「物事が正常に進んでいる」という最も基本的で、重要な前提が崩れつつあることである。戦後の日本は、9年前の3月11日までは、「原発が正常に動いている」という基本的な前提が存在した。しかし、東日本大震災と東京電力の業務上の判断ミスなどが重なって、未曾有の原発事故が起こった。戦後の世界の経済発展は一見、「物事が正常に進んでいる」という認識を私たちに与えたが、その陰で自然破壊や温室効果ガスの大量排出の影響が無視され続けてきたため、今や地球規模の気候変動が不可逆的に起こっていて、その影響として、台風やハリケーンは巨大化・凶暴化し、豪雨が河川を決壊させ、人家を押し流し、旱魃が肥沃の地を不毛化し、人間の手に負えない山火事が都市部まで広がり、そして、これまでにない新種のウイルスや細菌による感染症が世界に拡がっているのである。これらの一連の“マイナスの変化”は、人間の活動から生まれているという事実を、私たちはこれ以上無視してはならないのである。

 人間が原因を作っているために起こる現象のことを、「自然現象」とか「自然災害」と呼んではならない。それらはすべて「人為現象」「人為災害」と呼び、人間に改めるべきところがあれば、改めなければなくならない。「自然が相手だから仕方がない」という言葉は、一時代前には妥当だったとしても、現在ではあまり物を考えない人のゴマカシの弁でしかない。私は2012年に出版した『次世代への決断』(生長の家刊)という本の中で、「人間が生んだ地球」(the anthropogenic Earth)という言葉を紹介したが、この言葉の通り、現在私たちが足を踏みしめている地球は、そこに生える植物、空を飛ぶ鳥、動き回る虫や獣、そして目に見えない細菌やウイルスを含めて、人間の影響を受けているものの方が、受けていないものよりも圧倒的に多いのである。

 地球環境を含む自然界の秩序を無視または軽視して、“便利で効率がいい”という方向にのみ社会を発展させてきたことが、今ある「人間が生んだ地球」の原因である。この表現を“裏返し”にすれば、「過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)」の結果を、私たちは今目の前にしていると言えるだろう。だから、現在の社会で私たちが“便利”と“効率”を考えるときには、それらの裏側にある「過剰なスペシャリゼーション」の問題を思い出してほしい。「過剰なスペシャリゼーション」とは、自分の力や努力によらず、他人や他者(社会制度やインフラ)に生活の多くのものを依存しているということである。自立のための知恵や技術の習得、自律心・独立心を放棄して、金銭によって何でも得られると考えることである。そういう考え方の誤りを、新型コロナウイルスは私たちに教えている、と私は思う。

 今、世界の多くの人々ーーとりわけ都市で生きる大勢の人々が、自宅や自室から外に出られず、出ても自由に歩き回れず、買い物に制限を加えられ、娯楽や遊興が白眼視される風潮を感じていることだろう。そんな時、他に依存せず、他から求めず、慣れないことも自ら行い、自ら学び、自ら製作し、他に与える生き方をしてみるのはどうだろう? そう、これが「メンドー臭い生き方」である。しかし、これが「過剰なスペシャリゼーション」から自由になる唯一の方法だと私は思う。物事が正常に進んでいたときには、すべて省略していたことでも、この機会に自分で頭を使い、手を使ってやってみるのである。きっと「不自由」と思っていた領域が減り、内心の「自由」が拡がっていくことを体験されることと思う。

谷口 雅宣 拝

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コメント

総裁 谷口雅宣先生
合掌ありがとうございます。
3月1日からのブログの中で、新型コロナウイルスが教えていることは、大きく分けて
①人間中心主義の弊害
②過剰なスペシャリゼーション(専門家、特殊化)の弊害
と、教えて頂いています。
この中の②の「過剰なスペシャリゼーション(専門家、特殊化)の弊害」の話を3月22日のブログで読んだ時、私は最初、よく意味が分かりませんでした。何故ここで経済の話が出て来たのだろうか? 企業が効率優先、コスト優先で事業を展開していくのはあまりのも当然だからです。そうしなければ価格競争で負けてしまいますから。
ところが、4月11日のブログでその件について丁寧にお説きくださり、感謝しております。
以下抜粋させて頂きます。
『「過剰なスペシャリゼーション」とは、自分の力や努力によらず、他人や他者(社会制度やインフラ)に生活の多くのものを依存しているということである。自立のための知恵や技術の習得、自律心・独立心を放棄して、金銭によって何でも得られると考えることである。そういう考え方の誤りを、新型コロナウイルスは私たちに教えている、と私は思う。』
このご文章の中で私は、「金銭によって何でも得られると考えることである。」というところが心に刺さりました。それは以下の理由によります。
私は、大学を卒業して自動車メーカに入社しましたが、入社したその年の夏休みに北海道で交通事故にあいました。乗っていた車がカーブで横転したのです。3回転半したらしいのです。その時横方向におおきな力を受け、あばら骨を十数本骨折し、肩の高さも左右で若干差が出てしまいました。その肩の高さを合わせることについて、私が師と仰ぐ生長の家の知り合いの方に相談したところ、方法は二つあると言われました。一つ目は、整体院に行って治してもらう、二つ目は、自分で柔軟体操を根気強くやっていく、というものでした。推奨されたのは、二つ目の「自分で柔軟体操を根気強くやっていく」でした。その理由の一つは、整体院の場合、良い先生に巡り合えれば良いが、そうでなければかえって悪化させる可能性がある、と言うことでした。しかし本当の理由は、安易に他に頼って治そうとする姿勢が間違っているという事でした。即ち、自分は何も努力せず、お金を払って、他人任せで治してもらう姿勢が安易をむさぼっていることになるからでした。そして次のように言われました。「この世においてお金で解決できるほど安いことはない」と。確かに根気強く努力を継続することより、お金があればお金を払って解決した方が楽に決まっています。でもそれでは魂の進歩はないという事です。
今回、先生の御文章を読ませて頂き、37年ほど前の記憶をよみがえらせていただきました。改めて、「メンドー臭い生き方」が、3月1日の御文章の
『私たちの実相は神の子であり、本質は皆、素晴らしい存在であるけれども、そのことに甘んじてしまっていて、実相を表現する努力をしないのではいけない、ということですね。』
に書かれている、「実相を表現する努力」につながっていることを勉強させて頂きました。ありがとうござしました。

投稿: 間宮 清 | 2020年4月29日 (水) 00時33分

間宮さん、
 ご丁寧な感想をお寄せくださり、ありがとうございます。
 交通事故などからの復帰のためにリハビリテーションを熱心に続ける人々は全国に数多いと思います。その場合、正しい療法やアドバイスを受けるのに必要なお金は、使うことが「安易」だとは思いません。医学的なアドバイスを受け、治療を受けることも「安易」とは言えないでしょう。私が申し上げたいのは、「人間の努力を省くことによって社会や人間が進歩する」という考え方が安易であり、事実とは異なるという点でした。

投稿: 谷口 | 2020年4月29日 (水) 09時59分

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