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2020年3月

2020年3月22日 (日)

コロナウイルスは何を教える

 本年3月1日の生長の家春季記念日でも、それに続く3月11日の「神・自然・人間大調和祈念祭」でも述べたように、今回の新型コロナウイルスの地球規模の拡大が教えていることは、数多くある。そのうち、前記の2回の機会で強調したのは、「人間中心主義の弊害」ということだった。それを別の言葉で表現すれば、私たちは『生長の家』誌創刊号にあった「生長の家の宣言」の第1項が目指していた「生命を礼拝する」ことも「生命の法則に随順する」こともせずに、人間の物質的、肉体的欲望を満足させることを至上目的として、長期にわたって自然破壊を進めてきたという事実を指している。このことが、かえって人類社会の脆弱性(ぜいじゃくせい)を増幅しているのである。

 宇宙広しといえども、この「地球」という小惑星にしかない生命与え合いのシステムを、「人間だけがよければいい」という人類エゴが破壊している。私はすでに9年前に発表した「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中で、このことを次のように述べている――

 「多くの生物を絶滅させ、自然の与え合い、支え合いの仕組みを破壊しておいて、人間だけが永遠に繁栄することはありえない。生物種は互いに助け合い、補い合い、与え合っていて初めて繁栄するのが、大調和の世界の構図である。それを認めず、他の生物種を“道具”と見、あるいは道具と見、さらには“邪魔者”と見てきた人間が、本来安定的な世界を不安定に改変しているのである。その“失敗作品”から学ぶことが必要である。」

 今、肉眼には見えない極小の半生物・ウイルスのおかげで、世界中の株式が暴落し、交通機関は停止し、経済活動は極端に縮小し、多くの産業が経営危機や倒産のリスクに直面している。パリのルーブル博物館やニューヨークの公立図書館のような文化施設も次々と閉鎖され、大相撲春場所のような大規模スポーツイベントは軒並みに中止となるか、“観客ゼロ”という珍妙な方式で一見“通常どおり”を維持する努力を続けている。このあとに来るはずだった東京オリンピックが延期されるなどということは、今年初めには誰も予測しなかっただろう。

 このような人類社会の脆弱性は、いったいどこから来るのだろうか? それは、私が先の祈念祭でも紹介したイギリスの科学誌の記事に、分かりやすく説明されている――

「人間以外の動物に棲(す)むほとんどすべてのウイルスや細菌は、人間に全く無害である。しかし、そのうちのごく僅かな割合のものは、いわゆる“動物由来ウイルス病”を惹き起こす。そのような病気は、私たちにとって大問題だ。2012年の推計では、そういう病気は毎年25五億人の人を傷つけ、270万人を死に至らせている。動物由来ウイルス病のすべてが、人間に深刻な症状を起こさせるのではないが、例えば、エボラウイルスは、感染したほとんど全員を死に至らせる。

 このウイルス病の致死率がこれほど高い理由の1つは、そのウイルスに対する先天的な免疫を人間がもっていないからだ。もう1つの理由は、これらのウイルスが人間に適応していないからだ。人間同士の間で循環するウイルスは、時間が経つうちに人間に合わせて致死率を下げる。そうすれば、自分たちの勢力拡大がしやすいからだ。」

 

 ここにあるように、地球上の生物種と生物種の関係は、何億年、何十億年もの進化の過程で“天敵”と共存してきた。この“天敵”という用語は誤解を招きやすい。これは、「相手の絶滅を期して死闘する相手」ではない。前掲の文章にあるように、「時間が経つうちに相手に合わせて致死率を下げる」などして共存してきた捕食ないし寄生関係にある他の生物種のことだ。ところが人類だけが、多くの生物種を文字通り絶滅に追いやっている。そのことがかえって「自然の側から“敵”として扱われるような事態」(前掲の祈り)を現出しているのだ。

 もう一つ、今回の新型コロナウイルスの世界的伝播が教えているのは、過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)の弊害である。

 今の世界経済は、専門化による地球規模の分業が極端なレベルにまで進んでいる。ある製品を製造するためには、自前で部品を作るのではなく、外国の特定の会社からAという部品を、また別の国の特定の会社からBという部品を……というように、技術力と効率と価格の点で最も優れている会社に部品の供給を依存する傾向が強い。そうしなければ、他社との競争に勝てない場合が多いからだ。こういう相互依存関係が、網の目のように張り巡らされている。すると、災害などでこの網の目が突然切れると、製品全体の生産がストップしてしまうことになる。それが、今回のウイルス伝播でも起こっている。

 アメリカの外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』は本年3月16日の記事で、このことを「脆弱な効率性(fragile efficiency)」と呼び、実例を挙げて警告を発している。例えば、西ヨーロッパの自動車メーカーが生産する車の小型電子部品は、すべてを1社が担当しているので、その社のイタリアにある工場の1つが今回のウイルス感染で操業停止になると、西ヨーロッパで生産されるすべての自動車の生産がストップしたというのだ。また、ムダを省くために「できるだけ在庫を抱えない」という生産方式も、経済が順調であれば問題ないが、いったん災害や伝染病が発生すると、機能マヒに陥る可能性を生む。“ムダ”とされた製品在庫や部品在庫、生産能力の余剰が、非常時には一種の“安全装置”として働くのに、それが欠落しているからだ。

 このような効率優先、コスト優先の文明の弱点が今、明らかになっているのである。

谷口 雅宣 拝

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2020年3月11日 (水)

「生命の法則に随順する」とは?

 今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”において「神・自然・人間の大調和祈念祭」が行われ、その様子はインターネットを通じて全世界に放映された。以下は、同祈念祭での私のスピーチの概略である--

 皆さん、本日は「神・自然・人間の大調和祈念祭」にお集まりくださり、ありがとうございます。今「お集まりくださり」とは申しましたが、ご存じのように、現在、新型コロナウイルスの拡大抑止を目的として、大勢の人間による集会やイベントは行わないようにとの政府の方針に協力しているので、今回のこの祈念祭では、ほとんどの参加者はインターネットを経由して、お祭を間接的に視聴するという方式を採っています。にもかかわらず、恐らく大勢の方がここまでの祈念祭の様子に合わせて黙祷を捧げたり、神想観を実修されたと考え、心から御礼申し上げる次第です。ありがとうございます。

 さて、私は去る3月1日の立教記念日に、『生長の家』誌創刊号の裏表紙にある「生長の家の宣言」という歴史的文章を引用して、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」という言葉の意味をお話したのであります。その時、この「生命の法則」とは「生命顕現の法則」であって、それは決して「優勝劣敗」とか「弱肉強食」という言葉が示すように、他の生命--他の生物種を駆逐したり、絶滅させたりして、力まかせにいわゆる“ひとり勝ち”をすることではないということを述べました。また、「生命を礼拝する」という意味は、「人間だけを尊重するのではなく、人間を含めたすべての生命を尊重する」ということだとお話しました。しかし、人間はまさにその「人間だけを尊重する」人間至上主義的な生き方を長年、続けてきたために、今日、地球環境問題を含む深刻な問題に直面しているのですね。そのことを私は、『今こそ自然から学ぼう』というこの本から引用して、「自然への拷問が人間への拷問となっている」という言い方もしたのであります。

 私たちは現在「自然と共に伸びる」運動というのをしています。この「自然と共に伸びる」という意味は、これまでの“古い文明”のように、人間の幸福のためだけに自然を破壊する--例えば、生長の家の過去の運動を振り返ってみると、月刊誌の購読数や購読者を増やすために、その原料である紙パルプの消費を増大させ、森林伐採を促進し、あまつさえ大量の月刊誌が配布されずに多くの会員宅に積まれてあっても構わない--そんな考えではいけないということですね。こんな人間至上主義に陥らずに、運動が進展することと自然界が繁栄することを共に実現しようという運動であります。

 今日はその目的を念頭に置きながら、人類は今後、自然とどう付き合っていくべきかを考えたいのです。「生長の家の宣言」の第1項にあった「生命を礼拝する」とは、また「生命の法則に随順する」とは、具体的にどんなことをするのかということです。

 私たちは今、新型コロナウイルス(COVID-19)による感染症の拡大によって、多くの重要な教育を受けていると感じます。これを生長の家では“観世音菩薩の教え”とも言いますね。先ほど、白鳩会総裁が読まれた、「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中にも、この言葉は出てきました。「大地震は“神の怒り”にあらず、“観世音菩薩の教え”である」とありましたね。そこで、この教えの1つとして、私が立教記念日の時に申し上げたのは、この感染症の原因は、ウイルスとか動物の側にあるのではなく、人間の側にあるということでした。

 その時は、センザンコウという動物が、ワシントン条約で交易が禁止されているにもかかわらず、大量に取引きされているという話をしました。しかし、その際も申し上げましたが、今回のコロナウイルスの感染源ーー正確には「中間宿主」と言いますが、それはまだ確定されていません。また、センザンコウは単にウイルスを仲介しただけで、コロナウイルスはもともとコウモリと共生しているという学者もいるようです。そうです。コウモリはコロナウイルスを体内にもっていても、平和共存していて病気にはならないということですね。自然界には、そういう野生動物はたくさんいるし、私たち人間の体内にも沢山の細菌が棲んでいて、人体との間にギブアンドテイクの関係が成立しているのです。

 ところが、このような自然界のバランスを壊すと、生物同士が互いに傷つけ合う現象が起こるようになる。私がセンザンコウの例を挙げたのは、センザンコウが“悪い動物”だという意味ではなく、それを扱う人間の側に問題があるということでした。人間は、食用や医療の用途にするために、多くの動物を自然状態から引き離して、動けないほどの狭い場所に囲い込み、そこで残虐な方法で大量に屠殺するのです。

 この方法は、センザンコウだけでなく、ブタもウシもニワトリもヒツジも何もかも、現在、世界中で大々的に行われていることです。そういう食肉産業を発達させてきたのが、私たちの中にある人間至上主義の考え方です。本来動き回るのが自然の生き方だった動物たちを、狭い空間に閉じ込めながら、無理やりに不自然な食事を与え、彼等の苦しみや悲しみを全く無視して殺戮する。動物を殺せば当然、血や体液が周囲に飛散して、人間がそれを浴びることになります。人間に近い家畜の扱いがこれですから、野生動物を扱うにも、それとほとんど変わらない、いやそれ以上に残酷な方法を使うのです。

 このような屠殺によって、人間と動物の肉体の一部が混じることになります。そこで皆さんは、これを「自然と人間が一体」になったと考えますか? あるいは、ブタやウシの筋肉や内臓を人間が食することで、「自然と人間は一体だ」という自覚が生まれると思いますか? 私は断じて、そう思いません。これは動物たちの感情や意思をまったく無視して、人間本位の役割を強制する「自然侮蔑」の心、「生命功利論」の表現だと思います。生長の家の目的は、先に触れたように、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活する」ことですから、私たちは、その考えと反対の立場にある肉食の習慣をやめるという決断をしたのであります。

 では、ウシやブタのような家畜を食べることと、今回疑われているような野生動物を殺して人間の薬用や食用にすることの違いはどこにあるのでしょう? これに答えるには、質問を言い換えた方がいいかもしれません。私たちは家畜を屠殺して食することを長年やってきましたが、では、なぜ家畜の身体に棲んでいるウイルスや細菌が人間に感染して、病気を発症しないのでしょうか? また、発症してもそれが世界中に拡大して経済活動を阻害する、今回のような大被害を起こさないのでしょうか? 

Ns020820   この疑問に答えてくれる記事を、私はイギリスの科学誌『ニューサイエンティスト』の中に見つけました。ここにあるのは、今年2月8日付の同誌の表紙で、ご覧のように「コロナウイルス」の特集をしています。そして、「Viruses from animals」(動物からくるウイルスたち)という題の記事には、こうあります:

「人間以外の動物に棲むほとんどすべてのウイルスや細菌は、人間に全く無害である。しかし、そのうちのごく僅かな割合のものは、いわゆる zoonotic disease (人間に感染する動物病)を惹き起こす。そのような病気は、私たちにとって大問題だ。2012年の推計では、そういう病気は毎年25億人の人を傷つけ、270万人を死に至らせている。人間に感染する動物病のすべてが、人間に深刻な症状を起こさせるのではないが、例えば、エボラウイルスは、感染したほとんど全員を死に至らせる。

 この動物病の致死率がこれほど高い理由の1つは、そのウイルスに対する先天的な免疫を人間がもっていないからだ。もう1つの理由は、これらのウイルスが人間に適応していないからだ。人間同士の間で循環するウイルスは、時間が経つうちに人間に合わせて致死率を下げる。そうすれば、自分たちの勢力拡大がしやすいからだ。感染後の1日以内に人間が死んでしまうと、ウイルスはそれ以上繁殖できない。動物の体内にいるウイルスがヒトに感染するためには、そのウイルスに感染している動物と人間が接触しなければならない」

 ということで、動物のウイルスや細菌が人間に感染するためには、人間と動物との距離が接近する必要があることが分かります。現在の文明が進む方向で、それが起こっているのです。人間が自然を破壊して動物に近づいている。別の言い方をすれば、人間が不自然に近く、自然に近づいているということです。これは肉食の習慣が世界的に拡がっていることも指せば、それだけでなくて、人口爆発によって、都市が拡大し、森林がなくなり、動物の住処がなくなり、あるいは動物の食べ物が減って、生きるために動物たちが人家や民家の近くまで来ることも含んでいます。私が申し上げたいのは、生長の家がいう「神・自然・人間は本来一体」という教えは、人間が他の生物と物理的に一体になるという意味ではないということです。

 自然界を観察すれば、それぞれの生物種の個体と個体との間には、自然な距離があります。それを「縄張り」と呼ぶこともあります。同一種の生物だから、いつも互いに密着して生きているわけではない。子供と親は当初は密着していても、成長すると互いに距離をもつようになる。子供がまだ密着していたいという素振りを見せると、親の方が自分の子を攻撃することもありますね。私たちはそういう生き方も全部含めて「自然」と呼ぶのです。そう考えると、異種の生物間に物理的な距離があり、それが守られているということが「自然」なのであります。また、それが「生命の法則」だと考えることができます。すると、「生命の法則に随順する」ということは、人間があらゆる生物を物理的に近くに引き寄せて、自分たちの用途に供しようとすることは、「生命の法則に随順しない」ということになる。

 私は、今回の新型ウイルスによる感染症の拡大は、私たちが人間至上主義によって、動物たちとの間にあった自然な距離を撤廃し、不自然な距離にまで近づいていることに対する“警鐘”だと感じるのであります。自然を自然のままにしておかずに、欲望をもって引き寄せ、徹底的に利用する、あるいは利用しない部分は粗末にかなぐり棄てる。そういう“古い文明”が進めてきた生き方をやめ、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活する」必要がある。人間以外の生物と私たちとの間には“適切な距離”があるのが自然であり、生命の法則に随順することである--今回の感染症が教えていることの1つは、これだと思います。また、それが私たちが目指す“新しい文明”の方向であることを、ここで確認したいのであります。

 それでは、これをもって今回の「神・自然・人間の大調和祈念祭」での所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 拝

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2020年3月 1日 (日)

すべての生物を礼拝・尊重する

   今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”で「立教91年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式」が行われた。以下は、同式典での私のスピーチの概略である--

 皆さん、ありがとうございます。

Coronavirus2019 本日は、例年ならば「生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」を長崎の生長の家総本山で行なう日でありましたが、ご存じのように、新型コロナウイルスの感染防止対策に協力するため、急遽、式典の会場を総本山からここ山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”に移し、規模を大幅に縮小して、立教記念日をお祝いする会をもつことになりました。そして、この会場での式典の様子をできるだけ多くの幹部・信徒の皆さんに視聴してもらうために、インターネットで中継しているところであります。

 皆さん、本日は「立教91年」を迎えたこと、誠におめでとうございます。「立教91年」ということは、生長の家の運動が始まってから90年が経過し、今日から91年目に入るということですね。

 私はこの立教記念日には、立教の端緒である3月1日付の月刊誌『生長の家』創刊号を引き合いに出して、その創刊号の中の記事を様々な角度から紹介し、生長の家の創始者であられる谷口雅春先生、輝子先生の立教時のお気持や、視野や関心の広さ、知識や見識の素晴らしさ、神への信仰の深さなどについて述べてきたのであります。今日も、それと同じことをするのですが、今回は、創刊号の表紙の反対側、つまり裏表紙に掲げられた「生長の家宣言」について、皆さんと共に考えたいのであります。

 ここにあるのは、今日、「七つの光明宣言」と呼ばれているもの、これは『生命の實相』頭注版第1巻に収録されていますが、そのの“原型”とも言うべきもので、次の6項目です--

1.吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。
2.吾等は生命の法則を無限生長の道なりと信じ、個人に宿る生命も不死なりと信ず。
3.吾等は人類が無限生長の真道を歩まんがために生命の創化の法則を研究す。
4.吾等はリズム即ち言葉を以て生命の創化力なりと信ず。
5.吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんがために善き言葉の雑誌『生長の家』を発行す。
6.吾等は心の法則と言葉の創化力を応用して、病苦その他の人生苦を克服すべき実際方法を指導し、相愛協力の天国を地上に建設せんことを期す。

 この6項目の最初と2番目の項目に、「生命の法則」という言葉が出てきます。また、第3項目には、「生命の創化の法則」という言葉があって、この言葉は、どうも「生命の法則」をより詳しく述べた言葉と思われます。そう考えると、第4項にある「生命の創化力」という言葉は、この「生命の創化の法則」と関係が深いと考えられます。すると「言葉の創化力」という言葉も、「生命の創化の法則」と密接に関係していることになり、ここに挙げた6項目のすべてが、どうも「生命の創化の法則」「生命の法則」を基本として書かれていると、解釈できるのであります。

 では、その「生命の法則」とは何かといいますと、それは『生命の實相』第1巻に「『七つの光明宣言』の解説」として、雅春先生の解説が載っているのであります。ただ、『生命の實相』では、第2項は「生命の法則」ではなく「生命顕現の法則」という表現になっている点、創刊号の表記とは違います。そして、生命顕現の法則とは何かについて、解説には「生命顕現の法則とはなんであるかと申しますと、生々化育(生み生みて生長さす)ということであります」とあります。

 解説は、次のように続きますーー

「われわれは事実上生まれてきて生長しつつあるのであります。この事実より考えるとき、生命の法則は“生長”することにあるので退歩することではないことがわかるのであります。退歩する者は生命の法則にかなわないのでありまして、“生命の法則”にかなわないものは生命の世界においては落後することになっているのであります。」

 ここに書かれたことは、読み方によっては、かなり厳しい指針であると受け取られるかもしれません。今年は日本でオリンピック/パラリンピックがありますが、スポーツにおける“生長”や“進歩”とは、過去の記録を更新していくことですから、「退歩する者は生命の法則かなわず、生命の世界では落後する」ということは、「記録を破れない者は、スポーツの世界では落後する」と言っているようにも解釈できます。

 また、これに続いて『生命の實相』には次のように書いてありますーー

「進化といい生存競争といい優勝劣敗と申しますのは、いずれもこの現象(ことがら)をいい表わしたものなのであります。生存競争にやぶれたものは何か自分と競争している同輩にうち負かされたように思って恨んだりしがちでありますが、実は誰にもうち負かされたのではないのであって、生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長する、という厳とした法則によっておのおのの『生命』は宣告されているのであります。」

 これを読むと、生長の家では、生存競争や優勝劣敗--つまり、この世界は強い者が勝って、弱い者は負けていくーーという弱肉強食の世界を肯定しているかのように聞こえます。しかし、本当にそうでしょうか? この第2項の前に置かれた第1項の説明には、次のようにあります--

「自分自身が尊い『生命』であればこそ、自分自身をはずかしめない生活をすることもできるのでありますし、また他人の生命や個性や生活をも尊重することができるのでありまして、ひいては、われわれの『生命』の大元(もと)の『大生命』をも尊び礼拝したくなるのであります。」

 つまり、ここに書かれてあることは、私たちの実相は神の子であり、本質は皆、素晴らしい存在であるけれども、そのことに甘んじてしまっていて、実相を表現する努力をしないのではいけない、ということですね。今、流行っている言葉を使えば--「ボーッとして生きてんじゃないよ!」ということです。

 さて、そこで今日は、今世界中で問題になっている新型コロナウイルスについて少し考えてみたいのであります。生長の家では、すべての現象は、善いものも悪いものも皆、観世音菩薩の教えであると言いますから、今回のウイルス問題から私たちは何を学ぶべきかを考えましょう。

 先ほど、七つの光明宣言の第1項と第2項を紹介して、私は、人間の生き方として、「自己に宿る“神の子”の真性を表現する努力を怠ってはならない」という意味の話をしました。それが、立教当初からの生長の家の考え方の基本であるわけです。では、人類全体を考えてみた時は、私たちはこの基本的教えに沿って、ここまで生きてきたのでしょうか? 

Beyondanthro  私はこれまで、いろいろの本の中で、人類の歩みを振り返って、神の子の真性がまったく表現されて来なかったとは書きませんでした。しかし、人類の歩みに問題がなかったとも書きませんでした。特に、産業革命後の人類の歩みについては、公害問題を起こし、自然破壊を大々的に進めてきたことに批判的でした。例えば、今から18年前に出した『今こそ自然から学ぼう』という本には「人間至上主義を超えて」という副題をつけて、多くの私たちの考えの根本にある思想を批判しました。はしがきから少し、引用します。ここにはピューリッツア賞を取った生物学者、E・O・ウィルソン博士に触れてこう書いていますーー

「ウィルソン博士は“人類は地球というこの特定の惑星上で他の生きものといっしょに進化してきた。私たちの遺伝子の中には、これより他の世界はない”と言っている。この言葉を、私は生物の遺伝子操作によって世界が改善すると考えているすべての人々に読んでほしい。そして味わってほしい。ここで“他の生きもの”と博士が言っているのは、千や二千の種類ではない。何十万種、何百万種の生物を指しており、そのなかのほとんどは、どのような生き方をし、どのような機能を自然界で果たしているのか、人類はまだまったく知らないのである。
 が、我々はその生物種を急速に絶滅に追い込んでいる。自分の目先の利益を快適さのために、自然界の調和と安定を支えてきた無数の生物種を犠牲にし、少数の生物種だけを殖やし、新種を開発し、あまつさえ別種の生物との間で遺伝子を入れ替えたり、つけ加えたり、機能を止めたり、混ぜ合わせたりする作業に血眼になっている。これらはすべて、“自然は人間に不都合にできている”という考え方の産物だ。」

「生長の家創始者、谷口雅春先生の言葉を引用させていただけば、“宇宙全体が神の自己実現であるのである。”(天下無敵となる祈り)この“宇宙”とはもちろん“人間”だけの棲家(すみか)ではない。それを忘れて、人間だけの“天国”や“浄土”をつくることはできない。そのような人間至上主義は、個々の肉体としての人間を至高のものとする“肉体人間至上主義”である。生長の家は“人間は神の子”と教えるが、それは“肉体に執着した現象人間”が尊いという意味ではなく、宇宙の一切の存在を神の自己実現として観ずることのできる“本来の人間”(仏)が至高だという意味である。
 人間の多くがそのような自覚に達するには、まだ時間がかかる。それまでは、自然はその自覚を促す“警鐘”を我々の内外に鳴らし続けるだろう。我々はその意味を正しく理解し、間違いを正していかねばならない。自然を拷問にかけることで、我々自身を拷問にかけることは避けねばならない。」

 ここに「自然を拷問にかけることで、我々自身に拷問をかけている」という表現がありますが、ひと言でいうと、それが今回の新型コロナウイルスの世界的拡大から学ぶべきことなのです。先ほどの文章の中に「狂牛病」と「口蹄疫」という家畜の伝染病のことが出てきましたが、このあとには「SARS」とか「MERS」の流行があり、そして今回の新型コロナウイルスの事件があるという、一連の新しい感染症拡大は、人間の側に大きな原因があると考えるべきなのです。

 少し説明をしましょう。SARSは「severe acute respiratory syndrome」の略で、「重症急性呼吸器症候群」と訳されています。MERS「Middle East respiratory syndrome」の略で、「中東呼吸器症候群」です。それと今回のウイルスの共通点は「コロナウイルス」である点です。「コロナウイルス」は太洋の「コロナ」の形に似ていることから、その名がついたといいます。写真をご覧に入れますーー

 SARSは、2002年11月に中国広東省で発生し、翌年の7月末に終息するまでの9カ月に32カ国へ広がり、8,096人が発症し、死者は774人に上りました。致死率は9.6%といいます。MERSは、2012年9月以降、サウジアラビアやアラブ首長国連邦などの中東で蔓延し、3年後の2015年6月半ばまでに1,293人に感染し、うち458人が死亡しています。SARSの原因については、まだ確定的になっていませんが、ハクビシンだろうとか、もともとはコウモリがもっているウイルスだとか言われています。これに対し、MERSのウイルスはヒトコブラクダがもっているそうです。それとの“濃厚接触”が原因のようです。今回の新型コロナウイルスによる呼吸器症候群も、原因はまだ確定していませんが、センザンコウが中間宿主ではないかという説が、有力視されています。
これは2月22日付の『ナショナル・ジオグラフィック』誌のウェブサイトの記事に載っています--

「センザンコウが本当に新型コロナウイルスの中間宿主であるかについては、まだ正式な論文で発表されたわけではない。センザンコウからヒトにウイルスが感染したことが確認されてもいない。それでも、2020年2月現在、検証されている説の一つであり、アジア(とりわけ中国とベトナム)でのセンザンコウの消費と、大規模な違法取引に対する監視の目が厳しくなると考えられている。」

 センザンコウがどんな動物かを見てみましょう。

 センザンコウは、哺乳動物の中の「鱗甲目」に所属する動物の総称で、英語では「pangolin」といいます。アリやシロアリを食する。世界に8種類いて、アジアに4種、アフリカに4種。大きさは、小さい種類がイエネコぐらいで、大きい種類は体長75~85センチ。ワシントン条約で取引が禁止されているが、「世界で最も多く密売されている哺乳類」と言われ、毎年数万匹が密猟されている。とりわけ近年になって押収量が増加している。これは、中国が2018年に象牙の国内取引を禁止したことと関係があると見られている。象牙の値段が下がり、取引きのウマ味がなくなったため、犯罪組織がセンザンコウの取引に切り換えた可能性がある。ある調査によると、2016年には平均で2.4トンだったセンザンコウの押収量は、2019年には6.8トンまで急増している。

 センザンコウは肉が珍味とされ、ウロコは伝統薬の材料に使われ、ウロコの取引き価格は1匹あたり2700ドルという(2017年現在)。また、胎児のスープは、男性用の強壮剤になるとして売られている。またウロコは、インドではリウマチに効くお守りとして用いられ、アフリカでは魔除けとして用いられ、ベトナムではジャライ族が民族楽器クニーの素材として使うという。

 今回の新型コロナウイルスの感染は、武漢市の市場から始まったと言われているのですが、動物を生きたまま取引きする現場というのは、いわゆる「濃厚接触」が頻繁に起こることが分かります。動物は、センザンコウに限らずいろいろな種類のものが、小さな籠に入れられて市場の狭い空間に積み上げられたりするからです。これは皆、人間のためだけにそうするのです。自然界では、広い森や草原などで、外敵から身を守るためには、あるいは自分の縄張りをもつために、動物と動物の間には必然的に距離が生まれます。ところがそれを人間が市場で売買したり、飼育したりする場合には、そんな距離がなくなり、同種の動物も異種の動物も一緒にされて“満員電車”のような状態に長期に置かれます。また、殺されて肉になる場合は、血液、体液、内臓などが人間と直接接触する。そこに、人間がもともともっていない細菌やウイルスが、人間の体内に入る機会が生まれます。

Hogfactory  繰り返しになりますが、今回の感染症がセンザンコウのもつウイルスが原因かどうかはまだ確定していませんが、仮にそうでなくても、過去にはハクビシンやコウモリ、ヒトコブラクダの例があり、また狂牛病や口蹄疫の場合は、狭い空間にたくさんの動物を詰め込んで飼う飼育法が、人間のためだけの目的で行われているという事実を、確認しなければなりあせん。そして、まさにこの人間至上主義的な動物への処置が、結果的に人間に大きな被害や損害を与えているのです。私が「自然への拷問が人間への拷問となっている」というのは、こういう意味であります。

 さて私は、この話の最初に「生命顕現の法則」という言葉に触れましたが、この自然界と人間の関係を考えると、ある生命が現れて発展するためには、「優勝劣敗」とか「弱肉強食」という言葉が暗示するように、他の生命--他の生物種を駆逐したり、絶滅させたりして、いわゆる“ひとり勝ち”をすることではないということが分かります。そのような人間至上主義的生き方をしていると、人間自身が大きな問題を抱えることになる。生長の家では、「人間は神の最高の自己実現」といいますが、この意味は、人間が他の生物種を自己目的のために生殺与奪の権を振るって支配するということではない。それは「神」がすべての生物種の創造者であり、それら生物種を愛されているのと同じように、人間もすべての生物種を、自分もその一部である自然界の仲間として、また“神の作品”として尊重し、愛するというのでなければならないのです。そのことを説いているのが、生長の家の宣言の第1項目だと私は思います--「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。」

 皆さんもこの運動を進める中で、「自然と共に伸びる」という意味は、『七つの光明宣言』の第1項を生活に生きるということであることを、機会あるたびに思い出し、人々にも伝えていただきたいと念願する次第です。

 91回目の立教記念日に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 拝

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