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2019年11月19日 (火)

社会を離れず、されど社会に呑まれず

 今日は午前9時半から、山梨県北杜市の生長の家国際本部「森の中のオフィス」で第68回生長の家代表者会議が行われた。この会議は、生長の家の運動を展開している全世界の幹部・代表者が集まり、次年度の人類光明化運動・国際平和信仰運動の方針や方策について説明を受け、質疑応答によって内容をよく理解するために毎年開かれている。この日は、ブラジル、アメリカなどの海外からの出席者やオブザーバーを含め338名が参加し、熱心な議論が行われた。私は、本会議の最後に概略、以下のような挨拶を行なった--

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 皆さん、ありがとうございます。


 今日、皆さんに申し上げたいのは「社会を離れず、社会に呑まれず」ということです。皆さんもご存じのように、私たち生長の家は、宗教としては早い時期から地球温暖化問題の重要性に気づき、その防止や抑制を運動として展開してきました。また、長年、東京という大都会に中心地を置いて布教活動を展開してきました。にもかかわらず、6年前の2013年、その便利さを捨てて標高1300mのこの“森の中”に中心地を移しました。東京は、日本社会の中心地ですから、これによって言わば「社会から離れた」わけです。

Dm_img_0532  その理由は、すでに何回も申し上げていますが、物質中心、経済中心であり、資源・エネルギーの大量消費を前提とし--したがって温室効果ガスの排出が多い、大都市の生活を自ら楽しんでいながら、他人に対して「温室効果ガスの排出をやめよう」というような運動は、論理的に矛盾している。それは、自分でできないことを人にさせようとしているという意味で、自己欺瞞に陥っているから効果的でなく、したがって成功しないということです。これを言い直せば、「社会に呑まれたまま社会の動向を批判できない」ということです。

 そこで私たちは、物理的に「社会から離れた」わけです。では、「社会に呑まれないために社会から離れる」というだけでいいのでしょうか? これだけでいいのならば、私たちは今日もここでこんな会議をする必要はまったくないですね。なぜなら、国際本部は“森の中”にあっても、そこへ集まった皆さん方の大部分は、都市から来ているからです。生長の家は都市には不要であるというのならば、都市から来た皆さんも不要であるということになりま  す。しかし、宗教は第一義的には自然を救うためにあるのではなく、人間を救うことが目的です。人間の大部分は都市生活者です。その都市生活者を相手にしないのでは、宗教は存在意義がなくなってしまう。また、都市に住む皆さんが不要であるということになると、運動自体が成り立たないことは明白です。

Dm_img_0533_20191124134101  そこで重要になってくるのが、「社会を離れず、しかし社会に呑まれず」ということです。これは、「都市を離れず、しかし都市に呑まれず」と言い換えることができるのですが、このことは実は「言うは易く行うは難し」であります。

 私たち国際本部の役職員は、東京から物理的に離れましたが、それによって心もある程度「都市を離れる」ことになったと思います。しかし、私たちの関心が完全に都市から離れるということは、あってはなりません。それは、先ほど言ったように、宗教の第一の使命は人々を救うことで、大部分の人々は都市に住んでいるからです。その都市で、人々がどのような問題を抱え、どのように感じて生きているかを知らずして、それらの人々を救うことはできません。だから、宗教者の心が「都市を離れない」ことは重要です。

Dm_img_0534  しかし、その一方で、都市は“欲望の中心地”であります。このことは、『宗教はなぜ都会を離れるか?』(拙著)という本の中にも詳しく書きました。都市に長く生活していると、そこでのやり方や価値観が当たり前で当然のものになる。宗教もその例外ではなく、とりわけ宗教が、都市を拠点とする権力や富と結びつくと、腐敗の道へ歩み始めることになります。

 次の文章は、イスラーム最大の歴史哲学者の一人とされるイブン・ハルドゥーン(1332~1406)のものです--

Dm_img_0535 「都会の人は一般にさまざまな快楽に耽(ふけ)り、奢侈(しゃし)や現世における栄達や欲望の追求に身を委ねがちである。このためかれらの心は悪に染まってしまい、善の道からはずれてしまっている。田舎や砂漠の人は都会の人と同じように現世のことに関心をもっているといっても、生活必需品に関してであって、奢侈とか快楽の対象となるものについてではない。田舎や砂漠の人の行動を規制する習慣は、その生活同様に単純であって、かれらの犯す過ちも都会の人の過ちと較べると微々たるものでしかない。

 田舎や砂漠の人は自然状態に近く、都会の人と違い、罪深くて醜い行為を繰り返すうちに芽生える悪徳に、その心が染まっていない。田舎や砂漠の人に対しては容易に罪を諭し、善行に導くことができる。都会の生活は文化の頂点であると同時に、堕落への出発点である。都市生活は悪の最後の段階であり、善から最も遠い。」(同書、pp. 259-260)

 イブン・ハルドゥーンが生まれたのは、日本では鎌倉幕府が亡びる前年ですから、時代的にはずいぶん昔の人です。しかし、私はここに描かれている都市の人々の関心事については、現代とそれほど違わないと感じます。もちろん、皆さま方は都市から来たといえども、宗教運動の中心にいる方々ですから、この描写には当てはまりません。が、都会生活の悪い所を見てみると、この描写に当てはまる人は数多くいるのではないでしょうか?

 ただし、現代は鎌倉時代やその後に続く室町時代とは違います。大きく違う点の一つは、多様な情報が簡単に入手できる点でしょう。だから、週刊誌やインターネットにどんなに低俗な情報が溢れていても、生長の家の聖典等のような、低俗でない情報を得ることも簡単にできますから、きっと皆さま方は、それを意識して毎日、「善を選ぶ」ことをされていると思います。違いますか? しかし、都市は欲望の対象となるものを数多く備え、しかもそれらを宣伝する手段に溢れています。コマーシャルや広告や看板、スマホに飛び込むネット広告、チラシ、景品販売……などです。それらすべてを退けて、正しい選択をするということは、至難の業ではないでしょうか?

Dm_img_0537  しかし、この「正しい選択をする」ということが今、いちばん求められていることだと私は思います。また、先ほど「多様な情報が簡単に入手できる」という現代社会の特徴に触れましたが、そういう環境の中で正しい選択をするためには、従来のピラミッド型組織は不十分なのですね。これまでの運動では、本部の会議で決まったことが、時間をかけて地方の運動に伝わっていく。第一線の皆様にとっては、「上からの指示待ち」の状態が多かったと思います。しかし、「上からの指示待ち」ではスピードが足りず、創造性が生かされず、内発的でないため、他人任せで面白くないのです。

Dm_img_0540  生長の家の運動は、ご存じのように、“文書伝道”の形で推進されてきました。また、地域をベースにした細分化した組織を、ピラミッド型の階層に組み立てて運動してきました。ところが、いわゆる“文書”が発行されるのは多くても1カ月に1回です。その文書にもとづいて運動を進める場が“誌友会”ですから、これも多くて1カ月に1回です。これに対して、私たちが日常的に接する新聞やテレビは、毎日更新されます。ネット上の情報は、それこそ分刻みに変っていきます。こういう情報の大部分が“欲望中心”の“迷いの情報”だと考えると、私たちの光明化運動は、もう最初から負けていると言わねばなりません。

 もっと迅速に、日時計主義に立った正しい情報を私たちが入手し、それに基づいて、もっと頻繁に私たちの行動を更新していく必要があるのです。そのためには、文書伝道と階層的組織運営を基本としている従来型組織では、対応しきれないというところに、1つ問題があると考えます。この従来型組織の弱点をカバーするために考案されたのが、プロジェクト型組織(PBS)だと言えます。

Dm_img_0541  ご存じのようにPBSの活動は、インターネットを主なコミュニケーション手段、情報源として使います。しかしインターネットは、これまた皆さんご存じのように、フェイクニュースやニセ情報が本物らしく飛び交っています。しかし、ネットの速報性や情報量の多さ、そこからの情報の入手のしやすさは、ほかの手段を大きく上回っている。ですから、私たちも運動の中でそれを積極的に使っていくのですが、それに際して大切なことを1つ申し上げたい。それは、生長の家による「生え抜き」の情報をどんどん提供すべきだということと、そうでない「接ぎ木」や「借り物」や「寄せ集め」は極力避けようということです。

 「生え抜き」の情報とは、生長の家の教えから直接出てくるもののことです。これに対して「接ぎ木」「借り物」「寄せ集め」というのは、その名のごとく、生長の家とは異なる運動や考え方であっても、外見が似ているものを運動の中に取り入れて、これを推進していくことです。具体的な例を、いくつか申し上げましょう。

Dm_img_0542  1つは、「バービー人形」です。これは何年か前、自然の恵みフェスタでの展示物に、大量のバービー人形を導入した所があった。ヴィンテージ物だから、古いものの再利用になると考えたのでしょうか? フェスタでは、地元の材料を使った手作り品や不用品を別の用途に再利用することは歓迎されます。しかし、この場合は、外見的には「古い人形の再展示」で、廃品の再利用のように見えるかもしれないが、実質的には、アメリカの大手玩具メーカーが作った比較的高価な製品を展示して、宣伝することになった。

 2つめの例は、初期のクラフト倶楽部の活動の中で、100円ショップで売られている工作キットやそれに類する材料を使った手作り品を自分で作り、写真に撮って出していた人がいました。これなんかは、「手作り品」なら何でもいいと考えた人が当初はいたことを示しています。でも、今ではクラフト倶楽部で“べからず集”みたいなものを出していますから、間違う人は少ないでしょう。また自転車部でも、海外製の高価なスポーツタイプの自転車を買わないといけないと誤解した人がいたようです。省資源、省エネ、あるいは低炭素の活動になるのか否かを、きちんと考えて判断することが必要です。

 また、3つ目の例は、食生活の面に関することです。昨年の国際教修会での発表が、『ムスビの概念の普遍性を学ぶ』(谷口監修、生長の家刊)という本に掲載されています。これを読むと分かりますが、「マクロビオティック」と呼ばれている料理は「身土不二」の思想から出発していて「自然食」と呼んでもいいかもしれない。私たちの考え方と近いと言えば近いのですが、日本で生まれた考えであるにもかかわらず、マクロビの料理では、それを日本で作るのに海外から輸入した食材に頼っていたりするし、肉食はあまり問題にされないのです。

 さらに環境運動の面では、「グリーンピース」という団体は生長の家より昔から、世界的な環境保護活動を展開しています。しかし、皆さんもご存じと思いますが、かなり先鋭的で、過激な側面をもっている。つまり、目的のためには手段を選ばない傾向があり、社会の混乱を作り出すことを意識しているようにも思われます。こういう点では、生長の家がマネをすべきでない活動と言えます。しかし、彼らの目的は私たちの目的とそれほど違わないところにあるようです。

Dm_img_0543  このように考えてくると、私たちは生長の家の教えから直接導き出される活動指針や活動形態を早く作り、皆さんに提供する必要があるのです。そのことを今年の運動方針では、2カ所で謳っています。2頁と3頁です。2頁では、「インタープリテーションの方法を取り入れた生長の家独自の環境教育」とは何であるかを、早く明確化する必要が書かれています。また、3頁の表現で重要なのは、「時代の変遷や科学上の真理との整合性を常に意識する」ということですね。生長の家は、科学を否定していないどころか、科学上の真理が生長の家の教えの正しさを証明しているということは、私はいつも講習会で申し上げていることの1つです。しかし、生長の家の講師の中には、まだ、科学や医学を否定するような言動をする人がいる。それは、誤解にもとづくものがほとんどなので、そういう点を、講師教育の中で正していく必要があります。

 これらはほとんど私と国際本部の仕事ですが、皆さんもこの方向性をしっかりと見定めて、普段から聖典等をよく読んで研鑽を続けていただきたいと考えます。私が来年、研鑽会のためにブラジルへ行かせていただくのも、そういう目的だとご理解ください。

 それでは、「社会を離れず、社会に呑まれず」の標語の下、生長の家「生え抜き」の情報の学習と拡大に向かって、来年度の運動を明るく、積極的に展開していきましょう。皆さん、よろしくお願い申し上げます。これで私の話を終ります。

 ご清聴、ありがとうございました。

谷口 雅宣 拝

 

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