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2019年11月

2019年11月22日 (金)

“他を害する心”を捨てよう

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山の龍宮住吉本宮出龍宮顕斎殿で、九州地方と山口県の幹部・信徒290名が参列して「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が厳かに執り行われた。私は式典の最後に概略、以下のような言葉を述べた:

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 皆さん、本日は「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」にお集まり下さり、有難うございます。皆さんとは毎年この時期に、ここ総本山の出龍宮顕斎殿でお会いして、あるいは最近は、皆さんがお住まいのそれぞれの地でインターネットを通じてお会いして、谷口雅春大聖師が約90年前に始められた人類光明化運動の意義を確かめ、今後の運動発展への決意を新たにする機会をもてることは、大変ありがたく、すばらしいことと感じ、神さまと皆様に心から御礼申し上げます。ありがとうございます。

 さて、昨年のこの記念日では、私は昨今の気候変動にともなう世界各地の災害の増加を話題にしました。ご記憶の人は多いと思いますが、昨年は夏に、広島、岡山など中国地方で洪水が起こり、山肌が崩壊して人家に大きな被害が起こりました。生長の家の幹部や信徒の家にも被害がありました。その時、私はこの種の災害は今後、頻繁に起こることが予測できるので、生長の家ではその際の「救援活動」を教団として組織的に行うための仕組みを作ったことを報告いたしました。

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 残念ながら、この予測は的中して、今年も台風15号、19号などが襲来して、日本中に甚大な被害をもたらしました。しかし、「不幸中の幸い」と言えるのは、生長の家ではこの救援活動のための組織ができていたので、今年はそれを利用して、日本各地で信徒のボランティア活動による救援活動が展開されました。信徒の皆さんの愛行の実践が、新たな分野に展開されていることを感じ、心から感謝、讃嘆申し上げます。ありがとうございます。

 今年の日本での自然災害のうち、大きかったのは台風19号によるものではなかったかと思うのですが、実は私20191124_img_0546
も妻と共に、長野県の被災地に救援活動のため入らせていただきました。千曲川の氾濫により、長野市のリンゴ農家が被災したところへ10月20日に行ってまいりました。台風19号が山梨県・長野県を通過したのは10月の12日ごろですから、被災から約1週間たっていましたが、現場は大変な状態でした。何枚か写真を示してご説明します。

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 この救援活動をして感じたことは、いくつもありますが、一番強く感じたことは、「ひとりの人間の力はわずかだ」ということです。また、それに比べて「自然の力は偉大だ」と感じました。約20人のボランティアが汗と泥だらけになって、1日中仕事をしても、リンゴ農家の倉庫1棟から、泥に埋まった様々な物品を持ち出して庭の一角に集め、後に残った泥をかき出すことしかできませんでした。私は出張で北杜市を離れるとき以外は、約4キロの上り坂を仕事場まで自転車通勤しているので、肉体的にはまだ老衰していないと自負していましたが、水をたっぷり含んだ泥を運び出す重労働には、さすがに疲労を感じました。当たり前のことなのですが、人間の肉体の力は、被災地のように最低限の道具しか使えない環境では、ほんとにわずかなものなのです。

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しかしその反面、人間は科学技術を道具として使うと、大変な力を発揮して、自然を破壊することができます。大体、今回の台風による洪水や、水害の原因には、人間の活動が大きく関わっています。私が申し上げているのは、地球温暖化は人間の活動の影響であるということで、世界のほとんどの気象学者がそれを指摘しています。それにも拘わらず 、先進国の政治指導者は経済発展を優先して、温暖化対策と真剣に取り組もうとしていません。

生長の家は、この問題の大きさに早くから気がついて、温暖化の防止、そして最近では温暖化が進む世界でどう考え、どう生きるかを提案し、実践しつつあるのですが、その考え方の元となっているのが「神・自然・人間は本来一体」という信仰です。これは何も私が発明した考えではなく、谷口雅春先生の教えであることを忘れないで頂きたい。

多くの方はすでにお持ちと思いますが、雅春先生と私の祈りの言葉を6つ集めた『万物調和六章経』というのがあります。その中に、『真理の吟唱』から転載した雅春大聖師の「有情非情悉く兄弟姉妹と悟る祈り」がありますが、一部を次に引用して、そこに「神・自然・人間は本来一体」であることが説かれていることを確認いたしましょう--

「すべての生きとし生けるもの、在りとしあらゆる物ことごとくに“神の生命(いのち)”が宿っており、そのすべてが私たちの生命と一体であるから、天地一切のものは、私たちの心の響きに感応して、或る結果をもたらすのである。それゆえに、物質と見えているものでも、私たちがそれに感謝し、それに宿る神の生命(いのち)を直視して祝福するならば、その祝福に感応するのである。」

 ここには、自然界のすべてのものと「私たち」すなわち人間は一体であることが説かれています。私たち人間と自然界とが一体である理由は、すべてに“神の生命がやどっているから”だと、ここでは説かれています。つまり、神を媒介として、自然界のすべてのものと私たち人間はつながっているということです。

 少し先には、次のように書いてありますーー

「神は人間を万物の霊長として、天地一切のものを霊的に支配する権能を与え給うたのである。それゆえ、如何なる物も、人間が義しき心をもって生活し、他を害する心を起こさない限り、自分が害されるということはあり得ないのである。」

20191124_img_0555  ここで重要なのは、人間が他の生物など“天地一切のもの”を「霊的に支配する」と書かれていることです。「物質的に支配する」とは書かれていません。この違いは何でしょうか? 私たちが現在、動植物に対してどのように対処しているかを思い出してみてください。今、私が住んでいる山梨県では、韮崎市で豚コレラという病気が発生したため、発病したブタのいる農場のブタ890頭が、17日までに、健康なブタも含めてすべて殺処分されました。感染を防ぐためです。今回はまだ千頭未満の犠牲でしたが、かつて宮崎県で口蹄疫が発生した時は、何十万頭もの家畜が殺されたことがありました。これは「霊的な支配」でしょうか、それとも「物質的な支配」でしょうか? 答えは、明らかに後者ですね。では、生物の細胞内にあるDNAを組み替えて、人間に都合のよい形質をもたせることは「霊的な支配」でしょうか、「物質的な支配」でしょうか? DNAはデオキシリボ核酸という物質ですから、これを人工的に組み替えるのはもちろん「物質的支配」です。それでは、山の中にダムを建設したり、コンクリートで川岸を固めることは「霊的支配」でしょうか、それとも「物質的支配」でしょうか? この答えも、明白ですね。

20191124_img_0557  このように考えてくると、私たち人類がこれまで進んできた道は、他の生物や自然環境を物質的に支配しようとした歴史であることが分かります。では、その物資的支配の「動機」は何だったでしょうか? それらの科学技術を開発するに当たり、「義しき心」をもってそれをなし、「他を害する心」を起こさなかったでしょうか? 決してそうではありませんでした。私たちが科学技術を開発してきた最大の動機は、経済発展--つまり、人間本位の他の動植物の利用であり、物資的繁栄ではなかったでしょうか? 核エネルギーの利用技術の開発などは、敵国を破壊する--つまり「他を害する心」そのものが最初の動機でした。

 「他を害する心」は、核エネルギー以外にも多くの技術の元になっていることがあります。例えば、「農薬」などは如何ですか? また、樹木を育てるときに剪定というのをやりますが、これをやりすぎると、樹木は枯れてしまいます。では、電線の邪魔にならないように、街路樹をボコボコに短く伐ることはどうでしょうか? 効率よく食肉を生産するために、本来、動き回ることが好きな動物や魚類を、狭い囲いの中に詰め込んで飼うことは、どうでしょうか? これらは、「他を害する心をもって動植物を物質的に支配」してきたことを示していないでしょうか? 私は、その通りだと思います。

 私は今回、台風19号の被災地で汚泥の掻き出し作業をしながら、不思議な光景を目にしました。それは、予測はしていたのですが、リンゴ畑のリンゴの木は、すべて人間の手が届くような低さに剪定されていること。このため、木を見ても少しも美しくないのです。いびつに曲り、多くの枝が垂れ下がったリンゴの木に沢山の実が成っているのです。すると、洪水が起こると、ほとんどすべての実が泥の中に浸るか、泥がかかってしまい出荷できません。また、倉庫にあったほとんどすべてのものが泥だらけでしたが、中には、泥がついているだけで、使えるものも沢山ありました。が、そこのご主人に訊くと、「全部捨てて下さい」と言うのです。例えば、植物を支える支柱など、泥を洗えばまだ充分に使えると思うのですが、ご主人は見向きもしないのです。また、中身がいっぱい入った灯油の缶もありましたが、それも「全部捨てて下さい」と言われました。

 が、その一方で、ご主人に「それは取っておいて」と言われたものがあります。それは小型のペットボトルに入った農薬でした。それも1本や2本でなく、10本以上のものを、ご主人は大切そうに別の場所へ持って行かれました。また、倉庫内には、大型の農薬散布用の車があって、それをご主人はいかにも大切そうに扱っていることが、私たちには分かりました。

 私はここで、このリンゴ農家が洪水の被害に遭ったのは、「他を害する心」をもっていたからだと言いたいのではありません。地球温暖化の問題は、ある特定の個人の心がどうだったかというミクロの原因では説明できないし、解決できないでしょう。しかし、産業革命以降、長年にわたって、地球全体に住む多くの人々が、人間中心主義の考えにもとづいて繰り返し繰り返し、他の生物や自然環境を傷めつけながら物質的に支配しようとしてきたと言えないかを、皆さんには考えていただきたい。

20191124_img_0559  雅春大聖師の祈りの言葉には、「如何なる物も、人間が義しき心をもって生活し、他を害する心を起こさない限り、自分が害されるということはあり得ない」と説かれています。これを言い換えれば、「人間が邪な心をもって生活し、他を害する心を起こして、霊的にではなく、物質的に自然界を支配しようとしてきた」ことが、現代社会の様々な問題の背景にはあるということです。

 この人類的な心の傾向は、今も続いています。だから、それを正し、「神・自然・人間は本体一体である」という真理に、もっともっと多くの人々が目覚めることが、そして、人間を含めた自然界に対して、様々なやり方で四無量心を行じることが、今日ほど求められている時代はないと考える次第です。このことは、約90年前に、この運動を始められた谷口雅春大聖師の御心を現代に反映させるご恩返しになるということを、今日はぜひ皆様には知っていただきたいのであります。
 
 それでは、これをもって大聖師ご生誕日記念式典の所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。
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谷口 雅宣 拝

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2019年11月19日 (火)

社会を離れず、されど社会に呑まれず

 今日は午前9時半から、山梨県北杜市の生長の家国際本部「森の中のオフィス」で第68回生長の家代表者会議が行われた。この会議は、生長の家の運動を展開している全世界の幹部・代表者が集まり、次年度の人類光明化運動・国際平和信仰運動の方針や方策について説明を受け、質疑応答によって内容をよく理解するために毎年開かれている。この日は、ブラジル、アメリカなどの海外からの出席者やオブザーバーを含め338名が参加し、熱心な議論が行われた。私は、本会議の最後に概略、以下のような挨拶を行なった--

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 皆さん、ありがとうございます。


 今日、皆さんに申し上げたいのは「社会を離れず、社会に呑まれず」ということです。皆さんもご存じのように、私たち生長の家は、宗教としては早い時期から地球温暖化問題の重要性に気づき、その防止や抑制を運動として展開してきました。また、長年、東京という大都会に中心地を置いて布教活動を展開してきました。にもかかわらず、6年前の2013年、その便利さを捨てて標高1300mのこの“森の中”に中心地を移しました。東京は、日本社会の中心地ですから、これによって言わば「社会から離れた」わけです。

Dm_img_0532  その理由は、すでに何回も申し上げていますが、物質中心、経済中心であり、資源・エネルギーの大量消費を前提とし--したがって温室効果ガスの排出が多い、大都市の生活を自ら楽しんでいながら、他人に対して「温室効果ガスの排出をやめよう」というような運動は、論理的に矛盾している。それは、自分でできないことを人にさせようとしているという意味で、自己欺瞞に陥っているから効果的でなく、したがって成功しないということです。これを言い直せば、「社会に呑まれたまま社会の動向を批判できない」ということです。

 そこで私たちは、物理的に「社会から離れた」わけです。では、「社会に呑まれないために社会から離れる」というだけでいいのでしょうか? これだけでいいのならば、私たちは今日もここでこんな会議をする必要はまったくないですね。なぜなら、国際本部は“森の中”にあっても、そこへ集まった皆さん方の大部分は、都市から来ているからです。生長の家は都市には不要であるというのならば、都市から来た皆さんも不要であるということになりま  す。しかし、宗教は第一義的には自然を救うためにあるのではなく、人間を救うことが目的です。人間の大部分は都市生活者です。その都市生活者を相手にしないのでは、宗教は存在意義がなくなってしまう。また、都市に住む皆さんが不要であるということになると、運動自体が成り立たないことは明白です。

Dm_img_0533_20191124134101  そこで重要になってくるのが、「社会を離れず、しかし社会に呑まれず」ということです。これは、「都市を離れず、しかし都市に呑まれず」と言い換えることができるのですが、このことは実は「言うは易く行うは難し」であります。

 私たち国際本部の役職員は、東京から物理的に離れましたが、それによって心もある程度「都市を離れる」ことになったと思います。しかし、私たちの関心が完全に都市から離れるということは、あってはなりません。それは、先ほど言ったように、宗教の第一の使命は人々を救うことで、大部分の人々は都市に住んでいるからです。その都市で、人々がどのような問題を抱え、どのように感じて生きているかを知らずして、それらの人々を救うことはできません。だから、宗教者の心が「都市を離れない」ことは重要です。

Dm_img_0534  しかし、その一方で、都市は“欲望の中心地”であります。このことは、『宗教はなぜ都会を離れるか?』(拙著)という本の中にも詳しく書きました。都市に長く生活していると、そこでのやり方や価値観が当たり前で当然のものになる。宗教もその例外ではなく、とりわけ宗教が、都市を拠点とする権力や富と結びつくと、腐敗の道へ歩み始めることになります。

 次の文章は、イスラーム最大の歴史哲学者の一人とされるイブン・ハルドゥーン(1332~1406)のものです--

Dm_img_0535 「都会の人は一般にさまざまな快楽に耽(ふけ)り、奢侈(しゃし)や現世における栄達や欲望の追求に身を委ねがちである。このためかれらの心は悪に染まってしまい、善の道からはずれてしまっている。田舎や砂漠の人は都会の人と同じように現世のことに関心をもっているといっても、生活必需品に関してであって、奢侈とか快楽の対象となるものについてではない。田舎や砂漠の人の行動を規制する習慣は、その生活同様に単純であって、かれらの犯す過ちも都会の人の過ちと較べると微々たるものでしかない。

 田舎や砂漠の人は自然状態に近く、都会の人と違い、罪深くて醜い行為を繰り返すうちに芽生える悪徳に、その心が染まっていない。田舎や砂漠の人に対しては容易に罪を諭し、善行に導くことができる。都会の生活は文化の頂点であると同時に、堕落への出発点である。都市生活は悪の最後の段階であり、善から最も遠い。」(同書、pp. 259-260)

 イブン・ハルドゥーンが生まれたのは、日本では鎌倉幕府が亡びる前年ですから、時代的にはずいぶん昔の人です。しかし、私はここに描かれている都市の人々の関心事については、現代とそれほど違わないと感じます。もちろん、皆さま方は都市から来たといえども、宗教運動の中心にいる方々ですから、この描写には当てはまりません。が、都会生活の悪い所を見てみると、この描写に当てはまる人は数多くいるのではないでしょうか?

 ただし、現代は鎌倉時代やその後に続く室町時代とは違います。大きく違う点の一つは、多様な情報が簡単に入手できる点でしょう。だから、週刊誌やインターネットにどんなに低俗な情報が溢れていても、生長の家の聖典等のような、低俗でない情報を得ることも簡単にできますから、きっと皆さま方は、それを意識して毎日、「善を選ぶ」ことをされていると思います。違いますか? しかし、都市は欲望の対象となるものを数多く備え、しかもそれらを宣伝する手段に溢れています。コマーシャルや広告や看板、スマホに飛び込むネット広告、チラシ、景品販売……などです。それらすべてを退けて、正しい選択をするということは、至難の業ではないでしょうか?

Dm_img_0537  しかし、この「正しい選択をする」ということが今、いちばん求められていることだと私は思います。また、先ほど「多様な情報が簡単に入手できる」という現代社会の特徴に触れましたが、そういう環境の中で正しい選択をするためには、従来のピラミッド型組織は不十分なのですね。これまでの運動では、本部の会議で決まったことが、時間をかけて地方の運動に伝わっていく。第一線の皆様にとっては、「上からの指示待ち」の状態が多かったと思います。しかし、「上からの指示待ち」ではスピードが足りず、創造性が生かされず、内発的でないため、他人任せで面白くないのです。

Dm_img_0540  生長の家の運動は、ご存じのように、“文書伝道”の形で推進されてきました。また、地域をベースにした細分化した組織を、ピラミッド型の階層に組み立てて運動してきました。ところが、いわゆる“文書”が発行されるのは多くても1カ月に1回です。その文書にもとづいて運動を進める場が“誌友会”ですから、これも多くて1カ月に1回です。これに対して、私たちが日常的に接する新聞やテレビは、毎日更新されます。ネット上の情報は、それこそ分刻みに変っていきます。こういう情報の大部分が“欲望中心”の“迷いの情報”だと考えると、私たちの光明化運動は、もう最初から負けていると言わねばなりません。

 もっと迅速に、日時計主義に立った正しい情報を私たちが入手し、それに基づいて、もっと頻繁に私たちの行動を更新していく必要があるのです。そのためには、文書伝道と階層的組織運営を基本としている従来型組織では、対応しきれないというところに、1つ問題があると考えます。この従来型組織の弱点をカバーするために考案されたのが、プロジェクト型組織(PBS)だと言えます。

Dm_img_0541  ご存じのようにPBSの活動は、インターネットを主なコミュニケーション手段、情報源として使います。しかしインターネットは、これまた皆さんご存じのように、フェイクニュースやニセ情報が本物らしく飛び交っています。しかし、ネットの速報性や情報量の多さ、そこからの情報の入手のしやすさは、ほかの手段を大きく上回っている。ですから、私たちも運動の中でそれを積極的に使っていくのですが、それに際して大切なことを1つ申し上げたい。それは、生長の家による「生え抜き」の情報をどんどん提供すべきだということと、そうでない「接ぎ木」や「借り物」や「寄せ集め」は極力避けようということです。

 「生え抜き」の情報とは、生長の家の教えから直接出てくるもののことです。これに対して「接ぎ木」「借り物」「寄せ集め」というのは、その名のごとく、生長の家とは異なる運動や考え方であっても、外見が似ているものを運動の中に取り入れて、これを推進していくことです。具体的な例を、いくつか申し上げましょう。

Dm_img_0542  1つは、「バービー人形」です。これは何年か前、自然の恵みフェスタでの展示物に、大量のバービー人形を導入した所があった。ヴィンテージ物だから、古いものの再利用になると考えたのでしょうか? フェスタでは、地元の材料を使った手作り品や不用品を別の用途に再利用することは歓迎されます。しかし、この場合は、外見的には「古い人形の再展示」で、廃品の再利用のように見えるかもしれないが、実質的には、アメリカの大手玩具メーカーが作った比較的高価な製品を展示して、宣伝することになった。

 2つめの例は、初期のクラフト倶楽部の活動の中で、100円ショップで売られている工作キットやそれに類する材料を使った手作り品を自分で作り、写真に撮って出していた人がいました。これなんかは、「手作り品」なら何でもいいと考えた人が当初はいたことを示しています。でも、今ではクラフト倶楽部で“べからず集”みたいなものを出していますから、間違う人は少ないでしょう。また自転車部でも、海外製の高価なスポーツタイプの自転車を買わないといけないと誤解した人がいたようです。省資源、省エネ、あるいは低炭素の活動になるのか否かを、きちんと考えて判断することが必要です。

 また、3つ目の例は、食生活の面に関することです。昨年の国際教修会での発表が、『ムスビの概念の普遍性を学ぶ』(谷口監修、生長の家刊)という本に掲載されています。これを読むと分かりますが、「マクロビオティック」と呼ばれている料理は「身土不二」の思想から出発していて「自然食」と呼んでもいいかもしれない。私たちの考え方と近いと言えば近いのですが、日本で生まれた考えであるにもかかわらず、マクロビの料理では、それを日本で作るのに海外から輸入した食材に頼っていたりするし、肉食はあまり問題にされないのです。

 さらに環境運動の面では、「グリーンピース」という団体は生長の家より昔から、世界的な環境保護活動を展開しています。しかし、皆さんもご存じと思いますが、かなり先鋭的で、過激な側面をもっている。つまり、目的のためには手段を選ばない傾向があり、社会の混乱を作り出すことを意識しているようにも思われます。こういう点では、生長の家がマネをすべきでない活動と言えます。しかし、彼らの目的は私たちの目的とそれほど違わないところにあるようです。

Dm_img_0543  このように考えてくると、私たちは生長の家の教えから直接導き出される活動指針や活動形態を早く作り、皆さんに提供する必要があるのです。そのことを今年の運動方針では、2カ所で謳っています。2頁と3頁です。2頁では、「インタープリテーションの方法を取り入れた生長の家独自の環境教育」とは何であるかを、早く明確化する必要が書かれています。また、3頁の表現で重要なのは、「時代の変遷や科学上の真理との整合性を常に意識する」ということですね。生長の家は、科学を否定していないどころか、科学上の真理が生長の家の教えの正しさを証明しているということは、私はいつも講習会で申し上げていることの1つです。しかし、生長の家の講師の中には、まだ、科学や医学を否定するような言動をする人がいる。それは、誤解にもとづくものがほとんどなので、そういう点を、講師教育の中で正していく必要があります。

 これらはほとんど私と国際本部の仕事ですが、皆さんもこの方向性をしっかりと見定めて、普段から聖典等をよく読んで研鑽を続けていただきたいと考えます。私が来年、研鑽会のためにブラジルへ行かせていただくのも、そういう目的だとご理解ください。

 それでは、「社会を離れず、社会に呑まれず」の標語の下、生長の家「生え抜き」の情報の学習と拡大に向かって、来年度の運動を明るく、積極的に展開していきましょう。皆さん、よろしくお願い申し上げます。これで私の話を終ります。

 ご清聴、ありがとうございました。

谷口 雅宣 拝

 

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