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2017年11月22日 (水)

“個人の救い”は自然との調和の中に

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山出龍宮顕齋殿に、地元の長崎県などから約280名を集めて「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が執り行われた。私は同式典にて祝詞奏上を行ったほか、谷口雅春先生のお誕生日に因んで概略、以下のような挨拶を行った。 
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 皆さん本日は、谷口雅春大聖師御生誕日記念式典のために、この生長の家総本山・出龍宮顕齋殿にお集まりくださり、有難うございます。また、この顕齋殿には来られていませんが、インターネットを通じて式典に参加して下さっている日本全国の、さらには海外在住の生長の家信徒の方々にも心から感謝申し上げます。ありがとうございます。 
 
 さて、谷口雅春先生は、明治26年のこの日、西暦では1893年のお生まれですから、現在肉体を表しておられたならば、今日で満124歳になられることになります。亡くなられたのが、今から32年前ですから、ずいぶん歳月が過ぎました。今年の雅春大聖師の三十二年祭では、私は雅春先生がご生前、物質主義的繁栄を求めるだけでは人間は決して幸福になれない、と説き続けられたことをお話ししました。それは人にそう説かれたというだけでなく、ご自身の生活においても、贅沢や無駄遣いを決してされない質素なライフスタイルを貫徹されたということであります。 
 
 雅春先生は82歳のときに、この総本山の地へ移住され、山と森だけだった広大な敷地に、顕齋殿を初めとした数々の建物、また金龍湖、七つの燈台などの宗教的な建造物を構想され、総本山建設の陣頭指揮に立たれました。ですから、この地は、雅春先生の自然に対するお考え--難しく言えば「自然観」がよく表現されているのであります。 
 
 どうですか皆さん、この地では自然と人間とがケンカしているでしょうか。それとも仲良く調和しているでしょうか? 今、長崎の地は紅葉の季節でありますが、皆さんは今日、都会を離れてここへ来られ、秋の自然界の美しさを存分に堪能されているのではないでしょうか? 「神・自然・人間の大調和」という標語、あるいは、「自然と人間は神において本来一体である」という表現は、今の時代に作られました。しかし、これらの表現は、雅春先生の自然観、雅春先生の自然に対するお考えを反映していると信じて疑わないのであります。 
 
Kamishizen2  こちらへ寄越していただく前の11月19日には、私が住んでいる山梨県北杜市の“森の中のオフィス”では、生長の家代表者会議という重要な会議がありました。その会議は、全世界の生長の家の幹部が一堂に集まって、来年度の運動方針について理解を深める場でした。そこでの質疑応答の時間に、ある教区の幹部の人が、「今の生長の家の運動では、“個人の救い”が疎んじられているのではないか?」との疑問が提出されました。これはきっと、私たちの現在進めている運動の中で、「神・自然・人間の大調和」という言葉が頻繁に出てくるからだと思います。その人は、「神・自然・人間の大調和」はもちろん大切だが、宗教運動では「個人の救い」も大切で、それを言わないのはオカシイという意見を表明されたのです。 
 
 しかし、皆さん、よく考えていただきたいのですが、「神・自然・人間の大調和」という標語と、“個人の救い”とは別々のものなのでしょうか? 私は決してそう思いません。生長の家は今も昔も、“個人の救い”を軽視したり、無視してはいません。「神・自然・人間の大調和」を実現しようという現在の運動は、“個人の救い”を無視しているのではなく、21世紀の現代では、本当の意味での“個人の救い”を成就するためには、「自然と人間は神に於いて一体である」という真理を知ることが必要だと考えるのであります。 
 
 だいたい「個人」と「自然」とを分離して考え、一方が繁栄すれば、他方はその犠牲になるというような視点を、生長の家はもたないのであります。これは、自然と人間を対立させて考える“旧い文明”の基礎にある考え方で、今日の科学的知見にも反します。今日の生態学、遺伝学、分子生物学、認知心理学などが教えてくれるのは、人間は周囲の生態系の一部であり、人間の肉体の構造は、自然界を構成する他の生物と基本的に変わらず、人間の心の幸福は自然界と切り離して考えられないということです。 
 
 そのことは、東日本大震災とそれに伴う原発事故で、福島県を含む東北地方の多くの人々が体験されたことではないでしょうか? 「兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川……」という唄が、何を教えてくれるかを思い出してください。それは、私たちの心の故郷は、自然界との交わりの中にあるということです。にもかかわらず、私たちは経済発展を目指して、山を崩し、森林を破壊し、川を埋め立てて、高速道路やショッピングセンターを造ることで、自然を自分から遠ざけてきました。こうしてGNPやGDPの数値は上がりましたが、自殺者は減らず、先端的技術を使った新しい詐欺が次々と生まれ、子供たちの間にはアレルギーが蔓延しています。 
 
Kamishizen3  生長の家は、決して“個人の救い”をやめたのではありません。雅春先生の時代からずっと継続的に、各地の練成会や練成道場や誌友会の場において、“個人の救い”のためにも真剣に取り組んでいます。しかし、今日の運動では、“個人”を自然から切り離して考えるのではなく、「自然と人間との関係において捉える」という、より大きな視点をもって取り組んでいるという点が、違うといえば違うのです。また、「日本」という地理的に限定された地域の人間のことだけを考えるのではなく、「地球」という大きな環境の中で人間社会全体が自然と共存・共栄する方法を、信仰のレベルから考え、具体的に提案しようとしているのであります。 
 
 私は最近、人間が自然の一部であり、人間の幸福は自然を壊すのではなく、その懐に入って仲良くすることで体験できるということをよく感じるのであります。 
 
 NHKの番組でマツタケを育てている長野県・伊那地方の人のことを伝えていました。この人は毎年、トラック何台分ものマツタケを収穫するというのです。マツタケはアカマツと共生するキノコですが、アカマツがあれば必ずマツタケが出るというような簡単なものではないことは、皆さんはご存じでしょう。日本の森にはアカマツ林はいくらでもありますが、マツタケが採れるのは、その中のごく一部です。この番組によると、日本では昔はマツタケがよく採れたのに、私たちの生活上のある変化がきっかけになって、採れなくなっていくのです。その変化とは、何でしょうか? それは、化石燃料の利用です。もっと具体的には、プロパンガスを利用する生活が都会だけでなく、田舎にも普及してくると、人々は山に入って燃料用の木ーー折れた枝や灌木など--を採らなくなってしまった。つまり、日本昔話にあるように、「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に……」というライフスタイルがなくなってしまい、山や森が放置されていくのです。 
 
 マツタケは、落ち葉や折れた枝がたくさんある土地には生えないそうです。湖や沼に栄養分が過度に流れ込んだ状態を「富栄養化」と言いますが、そんなところはプランクトンが増殖しすぎて魚が棲めなくなります。それと同じように、人々が山に入って下草を取ったり柴刈りをしなくなると、それは言わば“富栄養化”された森になって、そこではマツタケは発生しないそうです。だから、テレビで紹介されたマツタケ名人は、定期的にアカマツの森に入って、せっせと下草刈りや枯れ枝、枯葉の除去をして、土地を“貧栄養化”する作業をしているそうです。 
 
 この話を聞いて、私は自然界の絶妙なバランスの素晴らしさに感動しました。人間が自然に関与することによって、自然は必ずしも破壊されないどころが、生物多様性が拡大し、人間も自然も共に栄えるウィンウィンの状態が実現するーーこのことは、田圃のある里山の自然についても言われていることですから、決して例外的に起こることではないのです。ただ、問題なのは、私たち人間が欲望を掻き立てて、人間が好む生物種だけを数多く生産して金儲けを企むと、生物多様性は破壊され、自然と人間のウィンウィンの関係もなくなってしまうのです。 
 
Owlapple2  もう1つ、同じような人間と自然との仲良い関係を教えてくれる例がありました。それはついこの間、11月18日付の『朝日新聞』夕刊で取り上げられていた「リンゴとフクロウ」の話です。リンゴの産地である青森県の人は、すでにご存じのことでしょう。しかし、そうでない人は、いったいリンゴとフウロウの間にどんな関係があるか想像できるでしょうか? 私はできませんでした。フクロウは猛禽類で肉食ですから、リンゴの実を食べるのではないし、かと言って、リンゴに発生する虫は、フウロウが食べるには小さすぎます。記事を読みますーー 
 
「フクロウに期待されているのはネズミ退治だ。
 リンゴの木は苗木から採算が取れるまでに7、8年かかるとされるが、ネズミは冬場にエサが不足すると、リンゴの木をかじり出す。冬の間は1.5メートルもの積雪があるため、春まで被害がわからず、枯れてしまうケースもある。(中略)
 かつてリンゴ農園でよく見かけられたフクロウにとって、ネズミは子育てに欠かせないものだった。普段は森や林の木の上で生活しているフクロウは、3月ごろにリンゴの木の幹に空いた洞の中で産卵。ヒナが巣立つまでの約2カ月、農園にいるネズミをエサに子育てをしていた。 
 ところが、リンゴ農園では1970年代以降、生産効率向上や省力化のため、小ぶりな木への植え替えが進んだ。その結果、洞のある古い大きな木が減少し、フクロウは姿を消した。」 
 
 ここにあるように、自然と人間はもともと対立しているのではないのですね。ある土地に適切な量のリンゴを作るので満足していれば、リンゴを太くなるまで大切に育て、その木に洞ができてフクロウが棲みつき、冬場にネズミが木をかじるのを防いでくれる。しかし、人間の欲望の度が過ぎてしまうと、リンゴの木の苗を不自然な形に育て、木を太らせず、したがってフクロウは巣を作らないし、やって来ない。すると人間が自分の力でネズミと戦うことになり、殺鼠剤を撒く。それは当然、人間の体にも害が及ぶ。こうして自然と人間との良好な関係が崩れてしまうことが分かります。 
 
 先ほど、現代人のアレルギーの問題に触れましたが、これも人間が自然界の生物を過度に嫌って、抗菌剤とか、殺虫剤とかを多用してきたために、本来もっていた抵抗力を失ったことが、大きな原因だと言われています。言い換えれば、親や祖父母の時代には存在した自然と人間との体内での調和が失われたため、ソバが食べられない、ダイズが食べられない、小麦製品が食べられない、ミルクが飲めない、チーズが食べられない……そういう子供たちが増えている。これは“個人の救い”の問題ですか、それとも「神・自然・人間の大調和」の問題でしょうか? もちろん、その答えは「両方の問題」なのです。これら2つは、別々の問題ではないのです。 
 
 11月20日付の『読売新聞』には、こういう記事が載っていますーー 
 
「日本小児アレルギー学会は19日、アレルギー専門医療機関への全国調査で、食物アレルギーの検査や少しずつ食べて体に慣れさせる経口免疫療法に関連して、少なくとも7医療機関で9人が、人工呼吸器が必要になるなどの重いアレルギー症状を起こしたことが分かった、と発表した。」 
 
 この記事にあるように、現在、子供の食物アレルギーについては、アレルギー源を避けるのではなく、少しずつ食べさせて体に慣れさせるという方法が有望な治療法として採用されているのです。薬で治すのではなく、アレルギー源を与えることで、アレルギーを治すのです。人間の体には、いろいろの重要な食物に対して、アレルギー反応を起こさせないような仕組みが本来備わっているのですが、何らかの理由でその仕組みが壊れてしまった。私はこれは、自然を敵視する過度な衛生管理の結果だと思います。その証拠に、アレルギー源を与え続けるとアレルギー反応がなくなるという逆説的な治療が有効だからです。 
 
 同じ記事に、こうありますーー 
 
「有効な治療薬もない中で、原因となる卵、牛乳などを少しずつ食べて体を慣れさせる経口免疫療法は大きな福音となっている。食物の種類で効果は違うが、3~8割の患者で症状が出なくなるという報告もある」。
 
 このような例を考えてみると、私たちの現在の生活における“悩み”の中には、人間と自然との良好な関係が壊れてしまったことが原因になっていることが結構あることがわかります。それらは、“個人の悩み”であることは勿論ですが、それと同時に社会の問題であり、自然と人間の関係の問題であり、さらには自然と人間の関係をどうとらえるかという哲学や信仰の問題でもあるわけです。 
 
 そういう広い視野で現代の様々な問題をとらえて、「神・自然・人間の大調和」を訴えているのが生長の家の運動です。ですから、自分の悩みの根源について深く理解せずに、狭い周辺のことしか考えない人にとっては、生長の家の運動は“個人の悩み”を軽視していると見えるかもしれません。しかし、思い出してください。生長の家の教えでは“個人”などという肉体的に孤立した人間など、ニセモノだと説いているのです。「人間は神の子である」という教えは、バラバラな存在としての「個」なるものは、あくまでも仮の姿であって、実相ではないと否定しています。なぜなら、神はすべてのすべてだからです。その御徳をすべて譲り受けている神の子同士は、バラバラの“個”であるはずがないのです。 
 
 皆さんはぜひ、この教えの一部分だけを見て、「これが生長の家だ」と限定してしまわないようお願い致します。そして、谷口雅春先生は、この自然豊かな長崎の地で晩年を過ごされながら、公私両面から自然と調和した生き方を実践されたことを忘れずに、「神・自然・人間の大調和」実現に向かって、喜びをもって進んでいこうではありませんか。雅春先生の御生誕日に当たって、所感を述べさせていただきました。 
 
 ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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