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2017年11月

2017年11月22日 (水)

“個人の救い”は自然との調和の中に

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山出龍宮顕齋殿に、地元の長崎県などから約280名を集めて「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が執り行われた。私は同式典にて祝詞奏上を行ったほか、谷口雅春先生のお誕生日に因んで概略、以下のような挨拶を行った。 
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 皆さん本日は、谷口雅春大聖師御生誕日記念式典のために、この生長の家総本山・出龍宮顕齋殿にお集まりくださり、有難うございます。また、この顕齋殿には来られていませんが、インターネットを通じて式典に参加して下さっている日本全国の、さらには海外在住の生長の家信徒の方々にも心から感謝申し上げます。ありがとうございます。 
 
 さて、谷口雅春先生は、明治26年のこの日、西暦では1893年のお生まれですから、現在肉体を表しておられたならば、今日で満124歳になられることになります。亡くなられたのが、今から32年前ですから、ずいぶん歳月が過ぎました。今年の雅春大聖師の三十二年祭では、私は雅春先生がご生前、物質主義的繁栄を求めるだけでは人間は決して幸福になれない、と説き続けられたことをお話ししました。それは人にそう説かれたというだけでなく、ご自身の生活においても、贅沢や無駄遣いを決してされない質素なライフスタイルを貫徹されたということであります。 
 
 雅春先生は82歳のときに、この総本山の地へ移住され、山と森だけだった広大な敷地に、顕齋殿を初めとした数々の建物、また金龍湖、七つの燈台などの宗教的な建造物を構想され、総本山建設の陣頭指揮に立たれました。ですから、この地は、雅春先生の自然に対するお考え--難しく言えば「自然観」がよく表現されているのであります。 
 
 どうですか皆さん、この地では自然と人間とがケンカしているでしょうか。それとも仲良く調和しているでしょうか? 今、長崎の地は紅葉の季節でありますが、皆さんは今日、都会を離れてここへ来られ、秋の自然界の美しさを存分に堪能されているのではないでしょうか? 「神・自然・人間の大調和」という標語、あるいは、「自然と人間は神において本来一体である」という表現は、今の時代に作られました。しかし、これらの表現は、雅春先生の自然観、雅春先生の自然に対するお考えを反映していると信じて疑わないのであります。 
 
Kamishizen2  こちらへ寄越していただく前の11月19日には、私が住んでいる山梨県北杜市の“森の中のオフィス”では、生長の家代表者会議という重要な会議がありました。その会議は、全世界の生長の家の幹部が一堂に集まって、来年度の運動方針について理解を深める場でした。そこでの質疑応答の時間に、ある教区の幹部の人が、「今の生長の家の運動では、“個人の救い”が疎んじられているのではないか?」との疑問が提出されました。これはきっと、私たちの現在進めている運動の中で、「神・自然・人間の大調和」という言葉が頻繁に出てくるからだと思います。その人は、「神・自然・人間の大調和」はもちろん大切だが、宗教運動では「個人の救い」も大切で、それを言わないのはオカシイという意見を表明されたのです。 
 
 しかし、皆さん、よく考えていただきたいのですが、「神・自然・人間の大調和」という標語と、“個人の救い”とは別々のものなのでしょうか? 私は決してそう思いません。生長の家は今も昔も、“個人の救い”を軽視したり、無視してはいません。「神・自然・人間の大調和」を実現しようという現在の運動は、“個人の救い”を無視しているのではなく、21世紀の現代では、本当の意味での“個人の救い”を成就するためには、「自然と人間は神に於いて一体である」という真理を知ることが必要だと考えるのであります。 
 
 だいたい「個人」と「自然」とを分離して考え、一方が繁栄すれば、他方はその犠牲になるというような視点を、生長の家はもたないのであります。これは、自然と人間を対立させて考える“旧い文明”の基礎にある考え方で、今日の科学的知見にも反します。今日の生態学、遺伝学、分子生物学、認知心理学などが教えてくれるのは、人間は周囲の生態系の一部であり、人間の肉体の構造は、自然界を構成する他の生物と基本的に変わらず、人間の心の幸福は自然界と切り離して考えられないということです。 
 
 そのことは、東日本大震災とそれに伴う原発事故で、福島県を含む東北地方の多くの人々が体験されたことではないでしょうか? 「兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川……」という唄が、何を教えてくれるかを思い出してください。それは、私たちの心の故郷は、自然界との交わりの中にあるということです。にもかかわらず、私たちは経済発展を目指して、山を崩し、森林を破壊し、川を埋め立てて、高速道路やショッピングセンターを造ることで、自然を自分から遠ざけてきました。こうしてGNPやGDPの数値は上がりましたが、自殺者は減らず、先端的技術を使った新しい詐欺が次々と生まれ、子供たちの間にはアレルギーが蔓延しています。 
 
Kamishizen3  生長の家は、決して“個人の救い”をやめたのではありません。雅春先生の時代からずっと継続的に、各地の練成会や練成道場や誌友会の場において、“個人の救い”のためにも真剣に取り組んでいます。しかし、今日の運動では、“個人”を自然から切り離して考えるのではなく、「自然と人間との関係において捉える」という、より大きな視点をもって取り組んでいるという点が、違うといえば違うのです。また、「日本」という地理的に限定された地域の人間のことだけを考えるのではなく、「地球」という大きな環境の中で人間社会全体が自然と共存・共栄する方法を、信仰のレベルから考え、具体的に提案しようとしているのであります。 
 
 私は最近、人間が自然の一部であり、人間の幸福は自然を壊すのではなく、その懐に入って仲良くすることで体験できるということをよく感じるのであります。 
 
 NHKの番組でマツタケを育てている長野県・伊那地方の人のことを伝えていました。この人は毎年、トラック何台分ものマツタケを収穫するというのです。マツタケはアカマツと共生するキノコですが、アカマツがあれば必ずマツタケが出るというような簡単なものではないことは、皆さんはご存じでしょう。日本の森にはアカマツ林はいくらでもありますが、マツタケが採れるのは、その中のごく一部です。この番組によると、日本では昔はマツタケがよく採れたのに、私たちの生活上のある変化がきっかけになって、採れなくなっていくのです。その変化とは、何でしょうか? それは、化石燃料の利用です。もっと具体的には、プロパンガスを利用する生活が都会だけでなく、田舎にも普及してくると、人々は山に入って燃料用の木ーー折れた枝や灌木など--を採らなくなってしまった。つまり、日本昔話にあるように、「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に……」というライフスタイルがなくなってしまい、山や森が放置されていくのです。 
 
 マツタケは、落ち葉や折れた枝がたくさんある土地には生えないそうです。湖や沼に栄養分が過度に流れ込んだ状態を「富栄養化」と言いますが、そんなところはプランクトンが増殖しすぎて魚が棲めなくなります。それと同じように、人々が山に入って下草を取ったり柴刈りをしなくなると、それは言わば“富栄養化”された森になって、そこではマツタケは発生しないそうです。だから、テレビで紹介されたマツタケ名人は、定期的にアカマツの森に入って、せっせと下草刈りや枯れ枝、枯葉の除去をして、土地を“貧栄養化”する作業をしているそうです。 
 
 この話を聞いて、私は自然界の絶妙なバランスの素晴らしさに感動しました。人間が自然に関与することによって、自然は必ずしも破壊されないどころが、生物多様性が拡大し、人間も自然も共に栄えるウィンウィンの状態が実現するーーこのことは、田圃のある里山の自然についても言われていることですから、決して例外的に起こることではないのです。ただ、問題なのは、私たち人間が欲望を掻き立てて、人間が好む生物種だけを数多く生産して金儲けを企むと、生物多様性は破壊され、自然と人間のウィンウィンの関係もなくなってしまうのです。 
 
Owlapple2  もう1つ、同じような人間と自然との仲良い関係を教えてくれる例がありました。それはついこの間、11月18日付の『朝日新聞』夕刊で取り上げられていた「リンゴとフクロウ」の話です。リンゴの産地である青森県の人は、すでにご存じのことでしょう。しかし、そうでない人は、いったいリンゴとフウロウの間にどんな関係があるか想像できるでしょうか? 私はできませんでした。フクロウは猛禽類で肉食ですから、リンゴの実を食べるのではないし、かと言って、リンゴに発生する虫は、フウロウが食べるには小さすぎます。記事を読みますーー 
 
「フクロウに期待されているのはネズミ退治だ。
 リンゴの木は苗木から採算が取れるまでに7、8年かかるとされるが、ネズミは冬場にエサが不足すると、リンゴの木をかじり出す。冬の間は1.5メートルもの積雪があるため、春まで被害がわからず、枯れてしまうケースもある。(中略)
 かつてリンゴ農園でよく見かけられたフクロウにとって、ネズミは子育てに欠かせないものだった。普段は森や林の木の上で生活しているフクロウは、3月ごろにリンゴの木の幹に空いた洞の中で産卵。ヒナが巣立つまでの約2カ月、農園にいるネズミをエサに子育てをしていた。 
 ところが、リンゴ農園では1970年代以降、生産効率向上や省力化のため、小ぶりな木への植え替えが進んだ。その結果、洞のある古い大きな木が減少し、フクロウは姿を消した。」 
 
 ここにあるように、自然と人間はもともと対立しているのではないのですね。ある土地に適切な量のリンゴを作るので満足していれば、リンゴを太くなるまで大切に育て、その木に洞ができてフクロウが棲みつき、冬場にネズミが木をかじるのを防いでくれる。しかし、人間の欲望の度が過ぎてしまうと、リンゴの木の苗を不自然な形に育て、木を太らせず、したがってフクロウは巣を作らないし、やって来ない。すると人間が自分の力でネズミと戦うことになり、殺鼠剤を撒く。それは当然、人間の体にも害が及ぶ。こうして自然と人間との良好な関係が崩れてしまうことが分かります。 
 
 先ほど、現代人のアレルギーの問題に触れましたが、これも人間が自然界の生物を過度に嫌って、抗菌剤とか、殺虫剤とかを多用してきたために、本来もっていた抵抗力を失ったことが、大きな原因だと言われています。言い換えれば、親や祖父母の時代には存在した自然と人間との体内での調和が失われたため、ソバが食べられない、ダイズが食べられない、小麦製品が食べられない、ミルクが飲めない、チーズが食べられない……そういう子供たちが増えている。これは“個人の救い”の問題ですか、それとも「神・自然・人間の大調和」の問題でしょうか? もちろん、その答えは「両方の問題」なのです。これら2つは、別々の問題ではないのです。 
 
 11月20日付の『読売新聞』には、こういう記事が載っていますーー 
 
「日本小児アレルギー学会は19日、アレルギー専門医療機関への全国調査で、食物アレルギーの検査や少しずつ食べて体に慣れさせる経口免疫療法に関連して、少なくとも7医療機関で9人が、人工呼吸器が必要になるなどの重いアレルギー症状を起こしたことが分かった、と発表した。」 
 
 この記事にあるように、現在、子供の食物アレルギーについては、アレルギー源を避けるのではなく、少しずつ食べさせて体に慣れさせるという方法が有望な治療法として採用されているのです。薬で治すのではなく、アレルギー源を与えることで、アレルギーを治すのです。人間の体には、いろいろの重要な食物に対して、アレルギー反応を起こさせないような仕組みが本来備わっているのですが、何らかの理由でその仕組みが壊れてしまった。私はこれは、自然を敵視する過度な衛生管理の結果だと思います。その証拠に、アレルギー源を与え続けるとアレルギー反応がなくなるという逆説的な治療が有効だからです。 
 
 同じ記事に、こうありますーー 
 
「有効な治療薬もない中で、原因となる卵、牛乳などを少しずつ食べて体を慣れさせる経口免疫療法は大きな福音となっている。食物の種類で効果は違うが、3~8割の患者で症状が出なくなるという報告もある」。
 
 このような例を考えてみると、私たちの現在の生活における“悩み”の中には、人間と自然との良好な関係が壊れてしまったことが原因になっていることが結構あることがわかります。それらは、“個人の悩み”であることは勿論ですが、それと同時に社会の問題であり、自然と人間の関係の問題であり、さらには自然と人間の関係をどうとらえるかという哲学や信仰の問題でもあるわけです。 
 
 そういう広い視野で現代の様々な問題をとらえて、「神・自然・人間の大調和」を訴えているのが生長の家の運動です。ですから、自分の悩みの根源について深く理解せずに、狭い周辺のことしか考えない人にとっては、生長の家の運動は“個人の悩み”を軽視していると見えるかもしれません。しかし、思い出してください。生長の家の教えでは“個人”などという肉体的に孤立した人間など、ニセモノだと説いているのです。「人間は神の子である」という教えは、バラバラな存在としての「個」なるものは、あくまでも仮の姿であって、実相ではないと否定しています。なぜなら、神はすべてのすべてだからです。その御徳をすべて譲り受けている神の子同士は、バラバラの“個”であるはずがないのです。 
 
 皆さんはぜひ、この教えの一部分だけを見て、「これが生長の家だ」と限定してしまわないようお願い致します。そして、谷口雅春先生は、この自然豊かな長崎の地で晩年を過ごされながら、公私両面から自然と調和した生き方を実践されたことを忘れずに、「神・自然・人間の大調和」実現に向かって、喜びをもって進んでいこうではありませんか。雅春先生の御生誕日に当たって、所感を述べさせていただきました。 
 
 ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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2017年11月19日 (日)

実相の展開は多様性に向かう

 今日は午前9時半から、山梨県北杜市にある生長の家“森の中のオフィス”のイベントホールで「第66回 生長の家代表者会議」が行われ、来年度の教団の運動のポイントについて、全世界の生長の家の代表者が意見交換を通して理解を深めた。私は、午後の質疑応答と決意発表の時間の後、概略、以下のような言葉を述べた: 
 
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 皆さん、ありがとうございます。 
 
 今日は66回目の生長の家代表者会議ということで、遠くはブラジルやヨーロッパ、また近県を含む日本全国からも大勢の幹部が集まって下さったことを、心から感謝申し上げます。今日は、先日の拡大参議会で決定した来年度の運動のポイントを皆さんと共に勉強し、理解を深め、さらに積極的なフィードバックをいただいて、これからの運動を全世界で心を1つにして進めていくための会議でした。多くのご意見をいただいたことを、心から感謝申し上げます。 
 
 さて、私は先日、10月28日の谷口清超大聖師の九年祭で、清超先生が自由と多様性を重んじて生きて来られたことを「音楽」の例を挙げてお話ししました。そして、自由と多様性が大切な理由は、先生の思想とか趣味というような個人的な問題ではなくて、「生長の家」という言葉が大宇宙を表していて、すべての良きものが充満している実相大宇宙の全相を表現するのが、私たちの運動の究極的な目的であるからだと申し上げたのであります。 
 
 このことは、谷口雅春先生が昭和7年に受けられた「久遠天上理想国実現の神示」の中にハッキリ書いてあることなので、皆さんには思い出していただくため、この神示から少し引用いたします: 
 
<『生長の家』の因縁を書き置く。『生長の家』とは人間が付けた名
 ではない。神がつけさせたのである。『生長の家』とはタカアマハ
 ラのことである。タテに無限に生(の)びることを『生』と言い、ヨ
 コに無限に長(の)びることを『長』と言い、タテとヨコとが十字に
 交叉した中心を息叉(イヘ、家)と言う、タテの生命とヨコの生命と
 が交叉した中心が『家』である。イヘ(エ)のヘ(エ)は交叉の形を象
 徴(かたど)ったものである。家のことを巣と言い、住むと言う。住
 むと言うのは中心に集まることである。一切のものは中心に集り、
 中心に統一せられることによって澄む即ち浄められるのである。> 
 
 ここには実相世界のイメージが象徴的な言語で表現されているのですが、これを間違って解釈すると、実相世界とは、すべてのものが「一色に」統一されているというような、個性のないノッペラボーの単純世界、あるいは全体主義の世界であるかのように感じられるかもしれません。英語に「モノリス」(monolith)という言葉があります。これは、建築や彫刻用の一枚岩(いわ)「のことを言います。まだ加工されていない、これから切断して柱にしたり、床板にしたりする、その前の状態の大きな岩です。この語は、アーサー・C・クラークとスタンレー・キューブリックによるSF映画『2001年 宇宙の旅』(1968年)に登場する映像によって、日本でも有名になりましたね。 
 
 しかし、生長の家の教えで明らかなように、実相世界はこんな単純一色のモノリスではなく、すべてのものが大調和して存在している完全世界であります。それは、聖経『甘露の法雨』に、次のように書いてある通りです: 
 
 神があらはるれば乃ち
 善となり、
 義となり、
 慈悲となり、
 調和おのづから備はり、
 一切の生物処を得て争うものなく、
 相食むものなく、
 病むものなく、
 苦しむものなく、
 乏しきものなし。
 
 この豊かで、多様なイメージが内在した完全世界が、時間と空間のスクリーンに徐々に映し出されつつあるのが、私たちが今経験している現象世界です。このことは、皆さんもよくご存じの通りです。 
 
Development  実際、科学の研究によっても、現象世界は、あらゆる側面において「単純から複雑へ」という複雑化の方向に展開しつつあるということが、分かってきています。宇宙の成立と膨張、生命の誕生と多様化、そして人類の誕生と地球全面への伸展と、これに伴う民族と文化の多様化……これらすべての現象世界の展開は、実相のイメージが徐々に現れつつある姿である、というのが生長の家の理解であり、世界観です。 
 
Development2  私たちの運動も、この原則に従って展開しているところであります。谷口雅春先生の時代には、生長の家の地方組織は「誌友相愛会」という、主として男性が牛耳る会を中心にして、その下に青年会も白鳩会もーー老若男女が一緒に含まれて運動していた。それを、谷口清超先生は、男性が女性を支配するのでは、女性独自の長所を生かした運動の妨げになる。それはひいては運動の進展を阻害するということで、白鳩会と相愛会を切り離し、青年会も独自の総裁を置いて、若者の特長を生かした運動を希求された。これが現在の白・相・青の組織運動が発足した理由でした。 
 
 ところが、組織が分かれると、特徴ある運動が生まれたことは事実ですが、そして会員の数がぐんと伸びたことは確かですが、反面、組織と組織の間に見えない“壁”が生まれてきました。また、生長の家講習会を組織別に推進する態勢がキッチリ決まってしまうと、組織間の協力がやりにくくなる。1つの家庭内でも、夫と妻が受講券や受講者をめぐって「どちらの組織の成果にするか」で対立することも出てきた。三者協力よりも三者競争が出てくると、これは運動にマイナスの効果が生じかねない。 
 
Development3  そんな理由もあって、現在は、白・相・青の組織を横断的に支える「地方講師会」の役割が重視され、あるいは白・相・青の組織に縛られない運動が求められてきているわけです。今日の運動方針のディスカッションの中でも出てきましたが、プロジェクト型組織(PBS)という考え方、運動の仕方が、そのような必要に呼応するものです。組織運動の固定化、硬直化、マンネリ化を打破するために、清超先生の御心である「自由と多様性」を強調した運動形態が新しく生まれてきているのであります。 
 
Namechanges  このような私たちの運動の“大きな流れ”を理解していただきますと、今回、生長の家の運動の中での最も重要な会議の名称が変わった理由も、了解してもらえると思うのであります。「最高首脳者会」が「参議会」になり、「拡大最高首脳者会」が「拡大参議会」になったことです。このことは、10月28日の清超先生の9年祭のときに、私は詳しく申し上げましたが、その話はインターネット経由で流れただけで、私のブログには書きましたが、まだ活字になっていないので、今日、改めて紹介いたします。ブログの文章を読みます: 
 
<このフェスタの前に行われた拡大最高首脳者会では、生長の家教規の改正が行われました。何が変わったかというと、これまで「最高首脳者会」と「拡大最高首脳者会」と呼ばれていた教団の重要会議の名称が変わったのであります。どう変わったかといえば、「最高首脳者会」は「参議会」に、「拡大最高首脳者会」は「拡大参議会」になりました。ずいぶん簡単な名前になったと思う方もいると思います。「最高」とか「首脳者」という言葉が消えて、「何か重たさがなくなった」と思う方、あるいは「ずいぶんビジネスライクになった」と感じる方もいるかもしれません。この名称変更の理由は、大きく分けて2つあります。 
 
 ①会議の中での自由な意見交換を促進するため
 ②会議での決定事項が“絶対視”されて運動に教条主義が持ち込まれ
  ないため、です 
 
 提案書から、提案理由を引用しましょう。 
 ①の理由については、こうあります。 
 
 「名は体を表す」という言葉があるように、名前は、そのものや人の性質や実態を過不足なく表現すべきものです。構成員相互の自由闊達な意見交換が行われるためには、会議体の名称には任意性や自由性が表現されるべきであると考えます。現在の名称はその点、若干の問題があります。 
 
 ②については、こう表現されています: 
 
Saikomubyu  「最高首脳者会」という名称は、(…中略…)同会議で意思決定が行われた後にも、その決定を実施する本部職員や教区レベルの幹部・信徒の受け取り方にも、間違った印象を与えるリスクを内包しています。そのリスクとは、「最高首脳者会での決定は無謬である」と考えるリスクです。これは、「最高」という日本語が、生長の家の教義と組み合わさって「実相」と混同される場合に起こると思われます。このリスクが現実化すると、最高首脳者会で決められたことは“神のご意思”であるかのように、絶対服従が要求されるだけでなく、「事情や時代の変化があっても未来永劫に変えてはいけない」と考える硬直した“教条主義”や、慣習に縛られた“前例主義”を運動の中に持ち込むことになります。 
 
 このような理由から、生長の家の最も重要な2つの意思決定機関の名称は変わりました。つまり、意思決定や運動の方法にもっと自由性をもたせ、一度決まったことでも、現状に合わないものは再検討し、廃止すべきものは廃止し、修正すべきものは修正し、逆にまた強調すべきことは強調して、時代応現の正しい運動を遂行していこう、ということです。なぜそうすべきかというと、先ほど清超先生のインタビューの中にもありましたが、最大の理由は、生長の家をこの地上に表すためには、自由の中に多様性が表現されていくべきだからであります。実相顕現のあり方は、そうでなければならないからです。> 
 
 さて、このイベントホールの入口の所にパソコンが何台も並んでいることに、皆さんは気づかれたと思います。このパソコン上で動いているのは「ムスビ・ワールド」というスロット・マシンに似たゲームです。このゲームは、10月に行われたこのオフィスでの「自然の恵みフェスタ」に初めて登場した生長の家のオリジナル・ゲームソフトです。製作したのは、オフィスに勤務する職員有志による「NeoBook研究会」というグループです。このゲームは一見、スロット・マシンのように見えますが、ゲームのルールはスロット・マシンとは全く逆になっていて、「同質のものを合わせる」のではなく、「異質のものを組み合わせる」ことで点数が増えていくという、世界に類を見ないゲームなのです。しかも、「神・自然・人間は本来一体」を表現していることを強調したい。詳しいことは、印刷物もあるし、ゲームをするパソコンの近くにいる担当者に聞いてください。ひと言で言えば、「ムスビの働き」をゲームで表現したものです。 
 
S_dsc_5008  また、SNI自転車部の事務局はこのオフィスにありますが、ここで最近、購入した自転車はとてもユニークです。それは、自転車のフレーム(骨組み)が植物の竹でできているのです。自転車は、このフレームにどんな金属を使うのか、あるいは炭素繊維を使うのか等々で、値段が大きく違ってきます。ところが、稀少金属やカーボンを使うと、自然破壊やCO2の排出の問題が出てきます。しかし、地球上のいたる所に自然に生えている「竹」を使えば、自然破壊やCO2の排出の問題をかなり緩和できます。日本の山々が孟宗竹林の浸食で荒れている問題の緩和にも貢献できるかもしれません。そんな一石二鳥、一石三鳥のアイディアが生まれてきたのも、このPBSの活動からです。 
 
 PBSのメンバーが教区にいなかったり、まだ少ない場合、メンバーを増やしてください。若い人、発想が豊かな人、前例に囚われない人、そういう人々を積極的に運動の中に迎え入れていかない限り、私たちの運動は発展しないどころか、社会の高齢化の中でどんどん衰退していってしまうでしょう。 
 
 自由闊達な意見交換による多様性の実現。また、自由なアイディアの展開による、多様な運動の展開。前例に囚われず、教条主義に陥らない運動ーーこれが“新しい文明”の基礎をつくるためには、絶対不可欠であるということを、私は皆さんに申し上げたい。皆さんはぜひ、それぞれの場所、それぞれの役割の中で、そのような「自由なアイディアの展開による、多様な運動」を、楽しく、生き甲斐をもって展開していってください。壮年層の拡大、後継者の育成は、この自由の拡大と多様性の実現によらなければならない、と私は考えるのであります。 
 
 それでは皆さん、今年はあと1カ月になりましたが、この1カ月をフルに生かし、来年はさらに自由と多様性を表現しながら、ご一緒に人類光明化と国際平和の実現に向かって、喜びをもって進んでまいりましょう。よろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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