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2017年10月28日 (土)

自由で多様な運動を展開しよう

 今日は午前10時から、生長の家国際本部“森の中のオフィス”で谷口清超大聖師九年祭が行われ、私は概略、以下のような挨拶の言葉を述べた: 
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 皆様、本日は、谷口清超大聖師九年祭にお集まりくださいまして、ありがとうございます。 
 
 谷口清超先生がお亡くなりになってからもう9年になりました。まだ10年はたっていませんが、私は「十年一日」という言葉を思い出します。この言葉の意味は、普通は「10年たっても何も変わらない、進歩がない」という否定的な意味で使われますが、私の場合はそうではなく、清超先生の記憶はまだ新しく、先生の教えは少しも古くなっていない。つい1日前に説かれたように新鮮である、というような印象をもつからです。 
 
 この9年前に谷口清超大聖師追善供養祭というのが東京・飛田給の生長の家本部練成道場でありましたが、その時、参列された皆さんに私が申し上げた言葉があります。それは実は私の言葉ではなく、谷口清超先生がご生前、音楽についての考え方をインタビューの中で語られている記事があって、そこから引用した先生御自身のお言葉でした。『真・善・美を生きて』という先生の追悼グラフの中に収録されています。 
 
 この記事の中でインタビューアーは、先生がバイオリンからギターに、ギターからピアノやオルガンに楽器を替えてこられた理由を尋ねているのであります。その質問に対して、先生はこう答えておられます: 
 
「やっぱり、あの和音の美しさが、ああいう弦楽器ではなかなか出ないでしょう。それに僕はギターをいじくっていた頃に、ギターの和音というのがね、非常に不自由だということを痛感しましてね。それでギターの和音には無理があるし、それにギターというのは調子がやっぱり片寄るんですね。弾きやすい調子と、弾きにくい調子があって……。その点、ピアノやオルガンは、和音の作り方はどんな調子での自由自在でしょう。おまけにオルガンときたら足まで使うから、非常に複雑な和音ができるんで……。」 
 
 このように、清超先生は自由で、多様な表現を求められながら、趣味として音楽をされていたことが分かります。で、このことが先生が進められた生長の家の運動と大いに関係があるのであります。次に、インタビューアーが「“生長の家的”な音楽というものはあるのでしょうか?」と質問すると、先生はこう答えておられます-- 
 
「『生長の家』というのは、要するにすべてがそこに入ってないと本当の『生長の家』って言えないんじゃないかな。一部分だけ取り出して『生長の家はこれだ』ってわけにいかんと思うんですね大抵の人はそうおもってるけどね……。宗教の中でも“右翼的宗教”だなんて思ってたりして……。そんなもんじゃないんだな。そこにすべてがあるところの“霊的大宇宙”が生長の家だからね、だからそういう点で、チャイコフスキーも、ストラビンスキーもいいですね。それから僕は、ポップスやらジャズの中にとてもいいのがあると思うんですねぇ。ことに最近の音楽はね、1つの可能性があるのは、アドリブが多いでしょう。あれがいいと思うんですね。非常に自由でしょう。そういう所にちょっと魅力を感じてますね。」 
 
 この間の10月22日に、この“森の中のオフィス”では「自然の恵みフェスタ」が開催されました。そこで行なわれた「森の日だまり音楽祭」を聴きにこられた人も多いでしょう。この音楽祭のプログラムには、いろいろな音楽が含まれていましたね。聖歌の合唱あり、ピアノ独奏あり、ボーカルあり、大人数の吹奏楽団の演奏あり、また今年から英語のミュージカルのダンスまでありました。このように多様で自由な発表の精神は、私はまさに清超先生がおっしゃっている“生長の家”のイメージに近づきつつあると思うのであります。 
 
 音楽以外の分野でも、SNIクラフト倶楽部の活動として、このフェスタに作品を出す人の数は、確実に増えています。昨年のフェスタでは2教区から33人が出品しましたが、今年は5教区から同数の33人です。さらに、自転車競技の天女山ヒルクライムでは、参加者が前年より11人(16.4%)増え、参加地域の数は、ヨーロッパを含めて12教区と1地域(21.9%)増えました。ますます多様化しています。 
 
 このヒルクライムというのはスポーツイベントですが、生長の家は“スポーツ宗教”に変わったということでは、決してありません。「生長の家」という言葉の意味は、実相世界の「大宇宙」のことですから、もとも全ての良きものが存在している。そのうち、この地上にどのような分野が表現されるかと言えば、宗教はもちろんのこと、音楽も工芸も、スポーツも技術も学問も、表現のルートとしては多様に存在していていいのです。神の子である人間の表現手段としては、肉体があるだけではないということを、谷口清超大聖師は、『生と死の教え』(p.49)の中で、次のように説かれています: 
 
「繰り返して言うが、人間は『肉体』ではない。従って肉体的にみると、人間の能力は馬の速さ(時速約60km)にも及ばず、鳥の飛翔力にも及ばない。鳥は空高く飛んでも、人間のように酸素欠乏で苦しまない。それは彼らが肺ばかりでなく、気嚢という袋の中に空気を入れて、骨を通して一部の呼吸をするから、酸欠に陥らず、低気圧の高空を飛べるのだ。さらにラクダのような耐熱力も耐渇力もなく、個体としては猿類より樹登りが下手だ。しかし人間はこの『肉体』という道具を使い、『神の子』としての本来の無限力を、あらゆる方法で(共同研究や製作などで)表現しつつ、さらに次生や後生では『道具』をよりすぐれた霊的なものへと取り替えつつ、この無限力を展開して行くのである。ただ心でこの力を自己限定したり、無視したり、出ししぶったりしないようにすることが肝要だ。そして外見や因習にとらわれない自由自在な生き方を展開することが、何よりも切実に望まれている新世紀だということができるであろう。」 
 
 「因習にとらわれない自由自在な生き方」--これが神の子の実相を表現する生き方であるということですね。この清超先生の教えを体現する意味もあって、最近、生長の家で公的な変化がありました。 
 
 このフェスタの前に行われた拡大最高首脳者会では、生長の家教規の改正が行われました。何が変わったかというと、これまで「最高首脳者会」と「拡大最高首脳者会」と呼ばれていた教団の重要会議の名称が変わったのであります。どう変わったかといえば、「最高首脳者会」は「参議会」に、「拡大最高首脳者会」は「拡大参議会」になりました。ずいぶん簡単な名前になったと思う方もいると思います。「最高」とか「首脳者」という言葉が消えて、「何か重たさがなくなった」と思う方、あるいは「ずいぶんビジネスライクになった」と感じる方もいるかもしれません。この名称変更の理由は、大きく分けて2つあります。 
 
 ①会議の中での自由な意見交換を促進するため
 ②会議での決定事項が“絶対視”されて運動に教条主義が持ち込まれ
  ないためです 
 提案書から、提案理由を引用しましょう。
 ①の理由については、こうあります。 
 
 「名は体を表す」という言葉があるように、名前はそのものや人の性質や実態を過不足なく表現すべきものです。構成員相互の自由闊達な意見交換が行われるためには、会議体の名称には任意性や自由性が表現されるべきであると考えます。現在の名称はその点、若干の問題があります。 
 
 ②については、こう表現されています: 
 
 「最高首脳者会」という名称は、(…中略…)同会議で意思決定が行われた後にも、その決定を実施する本部職員や教区レベルの幹部・信徒の受け取り方にも、間違った印象を与えるリスクを内包しています。そのリスクとは、「最高首脳者会での決定は無謬である」と考えるリスクです。これは、「最高」という日本語が、生長の家の教義と組み合わさって「実相」と混同される場合に起こると思われます。このリスクが現実化すると、最高首脳者会で決められたことは“神のご意思”であるかのように、絶対服従が要求されるだけでなく、「事情や時代の変化があっても未来永劫に変えてはいけない」と考える硬直した“教条主義”や、慣習に縛られた“前例主義”を運動の中に持ち込むことになります。 
 
 このような理由から、生長の家の最も重要な2つの意思決定機関の名称は変わりました。つまり、意思決定や運動の方法にもっと自由性をもたせ、一度決まったことでも、現状に合わないものは再検討し、廃止すべきものは廃止し、修正すべきものは修正し、逆にまた強調すべきことは強調して、時代応現の正しい運動を遂行していこう、ということです。なぜそうすべきかというと、先ほど清超先生のインタビューの中にもありましたが、最大の理由は、生長の家をこの地上に表すためには、自由の中に多様性が表現されていくべきだからであります。実相顕現のあり方は、そうでなければならないからです。 
 
 私たちは現在、“新しい文明”の基礎を築くための3カ年計画の中途にありますが、どうか皆さん、昨今の狭いナショナリズムの台頭や「〇〇ファースト」の潮流に迷わされることなく、生長の家は実相世界の自由で多様性に満ちた豊かなアイディアをこの地上に顕現していく運動であることを再確認され、谷口清超大聖師の自由を愛する御心をわが心として、自然と共に伸びる運動を喜びをもって推進していきましょう。 
 
 清超先生の九年祭にあたって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣 拝

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コメント

合掌ありがとうございます。
総裁先生の仰せられた教規の改正に関するご教示、我々末端の信徒の気持ちまで誠に丁寧にお汲み取りいただいたことに大変感激致しました!今回会議の名称をご変更になられたことは生長の家が新しい文明を築き上げるための大きな飛躍に向け重要な決定打になること間違いなしと心の底から信じて総裁先生のお考えに一生ついてまいります!

投稿: 有田芳主 | 2017年10月30日 (月) 10時35分

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