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2017年4月

2017年4月24日 (月)

“愛のある秩序”の実現へ

 今日は澄みきった晴天のもと、午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山で「谷口輝子聖姉二十九年祭」が執り行われた。御祭が行われた谷口家奥津城前の広場には、地元・長崎南部教区、同北部教区の幹部・信徒など百余名が参集し、谷口輝子聖姉の遺徳を偲び、人類光明化運動・国際平和信仰運動の益々の進展を誓い合った。本年祭の模様は一部、インターネットを経由して全世界に中継された。 
 
 私は御祭の最後に概略、以下のような挨拶を行った-- 
 
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  皆さん、今日は「谷口輝子聖姉二十九年祭」にお集まりくださり、誠にありがとうございます。谷口輝子先生は、生長の家創始者、谷口雅春先生の妻として、生長の家の人類光明化運動を力強く支え、今日の私たちの運動の基盤を整えてくださいました。皆さまもご存じのように、現在の私たちの運動は、生長の家白鳩会が主力となって展開されていますから、初代の白鳩会総裁だった谷口輝子先生の御功績は、雅春先生よりも目立たないかもしれませんが、大変大きなものであります。 
 
 今日は、その輝子先生が書かれたご著書の中から、夫婦関係、家族関係について書かれたものの一つを紹介し、生前、輝子先生がどのようなお考えとお気持をもって運動を進めてこられたかを学ぶ機会にしたいと考えます。 
 
 ここに持って来たのは、輝子先生が昭和33年に出版された『光をみつめて』というご著書です。この中に「秩序といういふこと」という随筆がありますが、そこに昭和31(1956)年の3月号の『生長の家』誌に掲載された家族写真について触れたご文章があるのであります。今から61年も前の写真ですが、その頃には私はすでに生まれていて4~5歳の年齢でしたから、家族写真には総勢8人が写っています。谷口雅春先生ご夫妻と、清超先生ご夫妻、そして私を含めた4人の孫です。3月号に載った写真ですから、それより2カ月前の元旦に撮影されていて、大人たちは皆、着物の正装です。この8人がどういう順番に並んでいるかを皆さん、想像してみてください。『生長の家』誌3月号の口絵として掲載された写真です。 
 
 その写真を見て、輝子先生に投書してきた人がいるのですが、その投書の内容を紹介します-- 
 
「3月号の『生長の家』誌の御家族の御写真を拝見して以来今日まで、十数日考えましたが、思い切って御尋ねいたします。何故、総裁先生と若先生が真中で、大奥様と若奥様を外側へ立たせられているのですか。家長中心と云うことは知っていますが、せめて総裁先生と大奥様とを真中にして、若先生御夫婦は両側に立たせられませぬか、西洋臭くなりますが、お二人の奥様を中にして、先生お二人が外側に立たせられた方が自然のように思われます。主人が中心ではあるが、婦人のカヨワさを護られる意味の(愛)現れが必要ではありませんか。あのお写真は如何にも不自然に見えます。何かに拘泥(とらわれ)がありませんか。動物でも、女性を保護します。何かの機会に御答え下さい。」(同書、p.87. 原文は旧漢字旧カナ遣い) 
 
 こういう内容の葉書が届いたというのであります。葉書の主は女性ではなく、男性です。輝子先生はこの男性の意見に対して、次のように書いておられます-- 
 
「この一誌友の言われる通り、女性は男性に比して肉体的には骨格も逞しくなく、筋肉も強くなく、身長も短いし、精神的にも男性の雄々しさに比べて、やさしく柔かいのが天性であるから、この人の言われるごとくカヨワい存在であるかも知れない。男性はその力強い手によって女性に力を貸し、保護すべき時は大いに保護していただきたいものである。 
  しかし、いつどのような場合でも、男性は女性に手を貸さねばならないであろうか。否と私は言いたい。カヨワいと言われる女性でも、事柄によっては、誰の手も借りないで立派に処理出来るばかりでなく、男性に手を貸すことも屡々(しばしば)あるのである。女性は外面的には優しく弱弱しく見えているけれども、時に応じては、男性に劣らぬ健気(けなげ)な働きをする力を内に蔵してもいるものである。どんな場合に男性は女性を保護すべきであるか、それは人、時、処をわきまえなければならないと思う。男性は女性を保護すべき者だと云うことにとらわれて、無闇に女性を甘やかしてはならない。時には、冷ややかそうに見過ごすことによって、女性は自分に内蔵されている逞しい実力を発揮させることが出来ることもある。今、この時にこの場合に於いて、如何に処すのがふさわしいかを考えて行動しなければならない。」(pp.87-88) 
 
 ここには、男女の違いについての輝子先生のお考えが書かれていると解釈できます。外面的、肉体的には男性は女性を上回ることがほとんどだが、内面的、精神的には女性は男性に劣ることはない、というお考えです。では、これが男女関係だけでなく、夫婦関係、家族関係に拡がっていくとどうなるか--それについて、輝子先生は次のように書かれています-- 
 
「写真を撮るとき、女性をカヨワいと意識して並べ方を考える必要はないと私は思う。あの場合、私は、雄々しいだの繊(か)弱いだのとは考えていなかった。ふた夫婦が上段に並んで、子供たちは姉から妹(いもうと)弟(おとうと)へと順序よく並べただけであった。二夫婦のうち、夫が中心に立つか、妻が中心に立つか、それをいずれと迷う人などあろうとは思わない。夫が主であって妻が副であることは当然の秩序である。」 
 
 --このように書かれています。男女が結ばれて家族を構成するときには、男女の肉体的、精神的な強弱のことなど意識するのではなく、一つの有機体として、生命体としての「家族」はどうあるべきかを考えて--言い換えれば、家族構成員のそれぞれの“機能”をもとにして順序を考える、ということですね。これは極めて合理的なお考えだと私は思います。その場合、忘れてはならないことは、誰が家族の“中心”か、ということです。また、夫婦が2組いるときには、どちらが“軸”の役割をするかということです。 
 
 しかし、その一方で、家族はいつもこういう原理原則や機能本位で生きているわけではありません。このような“固定的”な関係では息がつまってしまうし、第一不自然です。そこには当然、家族相互の愛情や喜怒哀楽が自由に表現される“流動的”な関係があるはずです。そこで、輝子先生は次のように、書かれています-- 
 
「私たちは、家庭に於いて時々写真を撮って貰うことがある。不断着のままで、室内で撮ったり、庭で撮ったり、親を中心に撮ったり、子供たちを中心に撮ったり、いろいろな撮り方をして貰うことがある。いちいち窮屈に親を中心とばかり考えていては、有りのままの面白い写真は撮れないものである。 
 三月号に載った写真は、元旦に於ける、紋服と云う正装をしたものであった。不断着でふざけている姿ではないのであった。正装をした場合は、秩序に従って整然と列び、紋服にふさわしく、子供と雖も、礼儀正しく立っているのである。凡(すべ)て、その時に、その場に相応しくあるのが正しい在り方なのである。」(p.89) 
 
 このような輝子先生のお考えを知ってみると、私たちは生長の家が人・時・処のそれぞれに適応した柔軟で、自由な考えの中で進展してきたということが分かるのであります。それは、「勝手気まま」というのではなく、さりとて原理原則を貫いて「型にはめる」のでもない。社会の公的、正式な場ではきちんと秩序を重んじながらも、それ以外では、構成員それぞれの個性と時と場所に合った生き方を薦め、応援する。そのように「規律と愛」「秩序と自由」が共存するような関係が、輝子先生がおっしゃる「正しい在り方」なのであり、それが私たち生長の家の目標とするものでもある、と思うのであります。 
 
 私たちが進めている光明化運動も、白・相・青という三つの組織が大きな枠組みや秩序として続いていて、その組織内には役職者と一般会員など、どちらかというと階層的な役割分担があります。しかしそれだけでは、「型にはまった」固定的で、つまらない運動になる恐れがあります。そこで最近では、三つの組織に囚れない、組織協働的、組織横断的な活動--例えば「自然の恵みフェスタ」や、会員個人の趣味や特技や個性を生かし、従来の組織の制約を超えた「プロジェクト型組織」などが推進されているのであります。 
 
 もし皆さんの中に、こんなカタカナの名前のものは谷口雅春先生や輝子先生の時代にはなかったから、“余計な運動”だと考えられている人がいたならば、どうかそうではないことを理解し、そのことをお伝えしていただきたい。生長の家は、ゴリゴリの上意下達の軍隊のような組織ではありません。有機的な運動としての秩序を重んじますが、その運動を展開する人々の間には、血の通った家族同士のような、愛と知恵と命に溢れた温かい関係がなければなりません。谷口輝子先生は、そういう“愛のある秩序”を希求された人であることをこの機会にぜひ確認されて、これからの運動を先生の御心に沿う形で喜びをもって伸び伸びと展開してまいりたいと念願いたします。 
 
 これをもちまして「谷口輝子聖姉二十九年祭」に当たっての所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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