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2017年2月

2017年2月28日 (火)

“次の当たり前”でいいのか?

Jrejad_022817  生長の家の春季記念日のために長崎へ向かう途中、久しぶりに新宿駅へ降りた。すると、駅のエスカレーターを昇ったところに、新旧の新幹線の先頭車両を真ん中から縦に割ってつなぎ合わせ、それを正面から撮影した写真(=写真)が目に入った。JR東日本の宣伝ポスターだ。ポスターの下部には、「次の当たり前をつくろう。」というコピーが大きな文字で入っている。1987年の車両と今年の車両を視覚的に比べて、「30年間でこれだけ変わった」ことを分かりやすく見せている。広告としてはよいできだと思った。 
 
 しかし、その広告が訴えようとしているメッセージには、大きく首をかしげた。これは科学技術のこれまでの歩みを“進歩”として無条件に認め、人類がこの方向に今後も進むことに何の疑問も感じないどころが、「それがわが社の使命!」とばかりに胸を張っている、と感じる。ポスターの左上部に小さい文字で5行に分けて文章が書かれいる-- 
 
 「どんなに夢だ、未来だと騒がれた先端技術も、 
 やがて見慣れた風景になる。それでいい。 
 私たちの仕事は、人々の暮らしを支える当たり前をつくること。 
 これまでの30年も、これから先も。 
 変えたかったのは、歴史じゃない。日常だ。」 
 
 この文章の最後の1行の意味は、わかりにくい。が、そこにいたる4行に書かれていることは、「先端技術の無限の進歩が、人々の暮らしを支える」ということで、科学技術による経済発展礼讃論だ。また、「日常を変える」ことが“善”だと考えているフシが感じられるから、この会社にとって日常は“悪”なのか、それとも少なくとも“不満の種”なのか、と勘繰りたくなる。生長の家では、日常生活の中に真理があり、また真理を日常に活かすのが信仰だと説いている。さらに、日常の「当たり前の生活」の素晴らしさを認め、感謝するのが信仰生活だと教えている。 
 
 朝、まだ雪が残る北杜市を出発し、早春の大都会・東京に着いたとたん、このような理解の違いを目の前にした私は、一種の“カルチャー・ショック”を覚えたのだった。 
 
Mirai022817  この種の「科学技術による経済発展礼讃論」は、しかしJR東日本だけでなく、都会全体を支配しているように感じる。というのは、妻と私を新宿から羽田空港まで運んでくれたタクシーが、「ミライ」という最先端の燃料電池車だったからかもしれない。これに乗るのは、今回で2回目だ。特に選んでいるのではなく、温暖化が深刻化している現在、「ガソリン車は避けたい」という希望を出すと、タクシー会社の方で電気自動車などの“低公害車”を回してくれるのだ。が、私としては「ミライ」よりも「リーフ」が好きである。こういう言い方が個人的過ぎるならば、燃料電池車よりも電気自動車が好きだと言おう。理由は、前者よりも後者の方が自然エネルギーと親和性があり、エネルギーの分散利用にもつながると考えるからだ。 
 
 が、本当は、自動車などに乗らなくても、自転車の利用で、あるいは徒歩で、どこかへ行くだけでも十分幸福な生活ができるのがいい。神さまとご先祖さまからいただいた優秀な2本の脚を使って、大地を踏みしめながら歩くことで「ありがたい」と感じ、しかも健康維持や健康増進につながるならば、これほど素晴らしいことはないではないか。このようにほとんどの人々が簡単にできる多くのことを、「当たり前」すぎるといって価値を低く見るのは、生長の家でお勧めしている「日時計主義」とは反対の生活態度である。その点は、私がすでに本欄で発表した「凡庸の唄」を読んでいただけば、読者はきっと理解されるだろう。 
 
 燃料自動車「ミライ」は、トヨタの世界戦略車の1つだが、この会社が描く“未来”の姿を暗示させるもう1つの“技術の粋”に、今日私は遭遇した。といっても、物理的な遭遇ではなく、ネット上でのバーチャルな遭遇である。しかも、その動画は10年も前のものだから、読者はすでにご存じかもしれない。カナダ駐在の生長の家本部講師である高義晴氏がFacebook上でシェアしてくれたので、私の目に留まったのだ。 
 
Roboviolinist2   ビデオの中身を簡単に言えば、トヨタ製の人型ロボットがバイオリンを弾いている映像だ。これを見ると、技術的には、ロボットにバイオリンを弾かせることは、そんなに難しくはないようだ。ただし、上手に弾くかどうかは別だ。ビデオでの弾き方はかなり稚拙だが、10年後の今日は、技術的にはもっと向上しているだろう。が、上手か下手かの問題より重要なのは、人手不足をロボットの開発で補おうという、現在の政府などの考え方の是非である。 
 
  労働を機械に置き換えていく流れは、産業革命以来ずっと続いているが、これは短期的には良さそうでも、中長期的に見ると、失業者を増やすことは確実である。そのことは、今の欧米の経済問題が有力に語っている。最近テレビで見た日本のニュースでは、あるコンビニチェーンが代金支払いを「無人化」しつつあると伝えていた。コンビニ店は、すでに相当の省力化が進んでいて、店員数は極限まで抑えられているように見えるが、ついに無人となるのだろうか。これによって誰が得をするのか、損をするのかは、誰にも明白だ。産業の自動化・ロボット化は結局、社会の“非人間化”につながるだろう。 
 
 私は、その方向にまったく疑問を感じずに「この道をまっすぐ!」と進もうとしている日本の政治家と、産業界の重鎮たちの心境が、よく理解できないのである。 
 
 谷口 雅宣

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2017年2月20日 (月)

“代替事実”はウソ?

「代替事実」という言葉が流行っているそうだ。といっても、日本のことではなく、主としてアメリカでである。だから、もっと正確に言えば、英語の「alternative facts」という言葉が流行っているのである。理由はたぶん、従来のアメリカ政治の常識を覆すトランプ新政権の性格を、よく表しているからだろう。 
 
 この言葉は、日本の解説者によっては「もう一つの事実」などと訳されている。こちらの方が日本語としては分かりやすい。しかし、私がこれを使わない理由は、「もう一つ」を認めると、「更にもう一つ」とか「三つ目の」という表現もあり得るようなニュアンスが生まれるからだ。「alternative」という英語には、そういう意味はない。語幹が共通する「alternate」という形容詞は、「交互の」とか「かわるがわるの」という意味だから、「選択肢が2つ」しかない中での「もう一方」なのである。例えば、「alternative medicine」という英語は、すでに「代替医療」とか「代替医学」などと訳されて広く使われているが、この場合も、「西洋医学」に対する「もう一方」の医学--漢方やアーユルヴェーダ、超越瞑想法など--を一団の「非西洋医学」として捉え、それ全体を指している。 
 
 こんな背景を頭に入れて考えてみると、「代替事実」という言葉の意味は、「事実以外にも、別の事実がある」というのだから、何か不思議で、探偵小説のようなミステリアスな香りがしてくる。が、アメリカのジャーナリストの間では、この言葉はきわめて評判が悪い。というのも、それがトランプ大統領の側近の口から出たためで、「事実を曲げる」目的に使われたと考えられるからだ。 
 
 問題の発端は、今年の1月21日のホワイトハウスでの記者会見だった。発足したてのトランプ政権の新報道官、シーン・スパイサー氏が、トランプ大統領の就任式について「史上最大規模の国民が参加した」と発言したことに、記者側から異議が出された。アメリカのメディアは、その時点ですでに「オバマ大統領の2期目の就任式(2013年)よりも少なかった」と報道していたからだ。 
 
 するとスパイサー報道官は、就任式当日の現場に通じる地下鉄の利用者数を引き合いに出し、それが「42万人」だったのに、オバマ氏の時は「31万7千人」だったと主張した。が、この数字の根拠は不明だった。実際の数字は、当日の午前零時から11時までの利用者数が、2017年が19万3千人、2013年は31万7千人、就任式当日24時間の利用者数は、2017年が570,557人、2013年は782,000人で、いずれもオバマ氏の就任式の方がトランプ氏を大きく上回っている。それどころか、2つの就任式の会場を当日、上空から撮影した映像を比べても、群衆の列の長さは、オバマ氏の時の方がトランプ氏の時よりも明らかに長いことが示された。 
 
 このことを指摘されると、スパイサー報道官は、今回の就任式では初めて、会場の地面を白いカバーで覆ったから、それが視覚的に群衆の列の長さを短く見せたのだ、と説明した。ところが事実はそうではなく、白い地面の覆いは、2013年のオバマ氏の就任式の際も敷かれていたという。 
 
 こんな見え透いたウソを大統領報道官がメディアに向かって堂々と発表するのでは、トランプ政権の発表には今後、誰もが疑いの目を向けることになる。そんな問題が論じられている同じ時期に、今度は大統領顧問のケリーアン・コンウェイ氏が、『ミート・ザ・プレス』というNBCのTV番組でインタビューに答え、この問題について「そんなに大袈裟に騒がなくていいでしょう。あながたはこれを間違いだと言うけれど、私たちの報道官、シーン・スパイサーは、それに対する代りの事実を述べただけよ」と言ったのだ。この「代りの事実」に相当するのが「alternative facts」である。インタビューアーは即座に、「代りの事実なんてのは事実でなく、間違いのことですよ」と反論したという。 
 
 こうして「代替事実(alternative facts)」という言葉は、アメリカのメディアやソーシャル・ネットワークで皮肉や嘲笑を交えて取り上げられることになった。これを「流行語」と表現するのが正しくないとすれば、新政権の危うさを示した「象徴語」と言えるだろう。
 ところで私は、ここに挙げられたような政治家とメディアとの関係では、アメリカのジャーナリズムの反応に全面的に賛成する。世界最強の国で最高権力を握るアメリカ大統領が、国民や世界に対して事実を告げずに、自分に都合のいい解釈や、事実を曲げた情報を“代替事実”として発表するようになれば、民主主義は崩壊する。また、世界には間違った判断が蔓延して、戦争や災害を含めた悲惨な事態に陥る可能性が大きい。かつてのイラク戦争が、当時のブッシュ大統領の事実誤認と判断の間違いによって起こったことは、読者の記憶にも新しいだろう。その結果、アフガニスタンとイラクは崩壊し、破壊と荒廃の中から立ち現れた「イスラーム国」なるテロ集団が今、世界を震撼させているのである。
 
  谷口 雅宣

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