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2016年9月

2016年9月22日 (木)

一生とは無限成長の一段階  

 今日は午前10時半から、山梨県北杜市にある生長の家“森の中のオフィス”のイベントホールで、「生長の家布教功労物故者追悼慰霊祭」が執り行われた。あいにくの小雨模様で、気温も10月半ばぐらいの肌寒さだったが、布教功労者のご遺族を初め、本部職員を含めた参列者は、布教活動に捧げられた功労者の生前の遺徳を偲び、光明化運動のさらなる進展に決意を新たにした。 
 
 私は、奏上の詞を朗読したほか、御祭の最後に概略、以下のような挨拶を述べた-- 
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 皆さん、本日は生長の家の布教功労物故者追悼慰霊祭に大勢お集まりくださり、ありがとうございます。 
 
 この慰霊祭は、生長の家の運動に長年にわたって挺身・致心・献資の誠を捧げてくださった幹部・信徒のうち、ここ1年ほどの間に霊界に旅立っていかれた方々の御霊をお招きして、感謝の誠を捧げるという大切な行事であります。昨年は316柱の御霊様のお名前を呼び、供養させていただきましたが、今年は304柱でした。その中には、私が妻と共に生長の家講習会のために地方へ行ったときに親しく出迎えて下さり、また運動推進に尽力された方々の名前も多く見られ、当時の交流を懐かしく思い出すと共に、残念な想いを禁じ得ないのであります。 
 
 遺族代表として挨拶していただいたのは、元教化部長の有好正光(のぶみつ)さんの奥様でしたが、ご主人の有好さんは、私が生長の家本部に入った当初から、同じ部で数年間、一緒に仕事をさせていただいた方です。コンピューターの知識に詳しく、私にその分野のことをいろいろ教えてくださり、本部の事務合理化に貢献された後は、教化部長として東北地方などの教区の運動の先頭に立って活躍されました。 
 
 ブラジル伝道本部に勤めておられたカチア・メトラン・サイタさんは、伝道本部では数少ない英語を理解する講師で、生長の家の国際教修会など、英語からポルトガル語への通訳や翻訳を行う際には欠くべからざる存在でした。私のスピーチの通訳もして下さったことがあります。 
 
 このほかのすべての御霊さまも、それぞれの地域で、それぞれの個性と優れた能力を発揮されながら、光明化運動に大きく貢献された方々です。心から感謝申し上げるとともに、今後の私たちの運動を霊界から守護していただき、霊界での真理宣布に活躍されることをお願いするものであります。 
 
 私たちは、そこにあることが“当たり前”だと思っていた人・物・事がなくなると、それらの掛け替えのなさ、大切さを、「失う」ということで思い知ることがあります。肉親の死はもちろん、友人や運動の同志の死も、そういう機会の最たるものであります。「失われることによって知る、人の命の大切さ」と言われるものです。また、「死は教化(きょうげ)する」とも言われます。しかし、生長の家では、そういう人々の命は、死によって「失われる」とは考えないのであります。確かに肉体は失われますが、魂は永遠に生き続ける。それも、私たちとは縁も所縁(ゆかり)もない全く別の所へ行ってしまうのではなく、私たちの魂の“近く”で、守護霊として、また助言者として共にあると考えるのです。 
 
 それは鉄道に喩えると、山手線のような環状線と、東海道線や中央線のような一方向に延びる鉄道の違いにも似ています。環状線は、英語ではサイクリック(cyclic)とかサイクリカル(cyclical)と表現され、東海道線や中央線はリニア(linea)と言われますね。その違いは、リニアの鉄道では、人を一端新宿で送り出したら、もう追いかけて行ってもつかまえることができない。しかし、山手線のような環状線であれば、新宿で別れても、少し待っていれば、その電車は再び同じ駅に入ってくるから、また会うことができるかもしれない。そんな違いがあります。 
 
 それはちょうど、季節の変化にも似てますね。今日は秋分の日ですから、秋がやってきています。その前は夏でしたが、私たちは「夏が終る」とは言っても「夏を失う」とは言いません。冬になっても「秋を失った」などとは考えない。なぜなら、また来年、「同じ夏が来る」「同じ秋が来る」と考えるからです。しかしよく考えると、夏はめぐり、秋もめぐってきますが、「同じ夏」「同じ秋」というものは、決してめぐってきません。そのことを私は、東京にいる時は強く感じなかったのです。街に住んでいると、季節を感じるのは、自然との触れ合いからというよりは、人工的な手段によるからです。例えば、デパートや商店の飾り付け、ショウウインドーのマネキンの服装などで感じることが多いのです。街では、ファッションや食品などは“季節の先取り”をする。だから、自然界の変化に先駆けて、人工的な手段によって季節の変化を実際より早く知ることになる。それは学校のグラウンドをぐるぐる回るように、周囲の風景は変わりませんから、いつも同じ季節が来るという感覚になるのだと思われます。 
 
 しかし、森での生活は、自然そのものから感じる季節の変化です。それも、こちらは八ヶ岳の斜面にありますから、季節が南の低地から北の高地へと移動するのがよく分かるのです。また、自然界は常に変化していますから、去年どこにあったサクラの樹が、今年も同じ日に同じ状態で咲いたり、紅葉したりすることはない。微妙に変化しています。キノコにいたっては、去年はある場所でドッサリ獲れたとしても、今年は同じ時期、同じ場所でもまったく姿が見えないなどということは、ざらにあります。 
 
 しかし、全体としては、季節は確実にめぐって来ます。私が何を申し上げたいかというと、霊界にも“親和の法則”が働いていますから、私たちと魂のレベルや霊的な進化の程度の近い人たちは、霊界に移行しても私たちの近辺におられるかもしれない。しかし、顕幽両界は変化するし、私たち自身も霊的に進歩したり退歩したりします。霊界に移られた御霊様も、そこでの修行によってレベルの変化があるかもしれない。そういうようにして、私たちと御霊様との関係は、生前とまったく同じ状態が細部まで続くことはないが、季節がめぐって「ああ、秋が来た」と分かるように、「ああ、ここにあの人がいる」とか「ああ、あの人が教えてくれた」というレベルの経験をもつことはできる、ということです。 
 
 しかし、私たちは霊界に先に行かれた御霊様に感謝し、親愛の情を保つことは素晴らしいことで、ぜひ毎年続けていただきたいが、いつまでも自分の近くにつなぎ止めておこうと執着してはいけません。それは、霊界で飛躍すべき御霊様の魂の成長を邪魔することになるし、自分の魂の成長も止めてしまうかもしれないからです。この肉体をもった世界も、霊界も、魂の成長のため--言い換えれば、神の子の無限内容の表現のためにあるのですから、一箇所や一種類の環境に留まるのでは、その目的は達成しません。そのことを書いた「祈りの言葉」があるので、最後にそれを紹介しましょう。『日々の祈り』に収録された“「終り」は「始まり」であることを知る祈り”の一部を朗読いたします-- 
 
「私はいま神の御心を静かに観ずるに、この現象世界は無限表現の舞台であることを知る。物事は変化しながら繰り返され、繰り返されながら変化していくのである。諸行無常といえども、無常は無秩序ではなく、変化には一定のパターンがあり、そのパターンは繰り返されるのである。一日は、朝で始まり夜に終る。一年は、春夏秋冬を経て12カ月で終る。人間の肉体には誕生があり、成長があり、老衰があり、死がある。物事には始まりがあり、終りがあるといえども、終りはすなわち始まりである。夜のあとに朝があり、冬の後に春があり、死の後に生があり、その継続が繰り返される。この変化と繰り返しの過程で、無限の表現が行われるのである。時間と空間のひろがりの上に有限が展開することで、無限は表現されるのである。 
 
 私はだから、変化を恐れないのである。終りは始まりの揺り篭であり、始まりは一層高度な表現を約束する。失業は新方面への発展を切り拓き、転勤は自己拡大のチャンスである。一つの環境に留まっているのでは“神の子”の表現は出来ない。一つの能力に頼っていては“神の子”の力は発揮できない。一分野の知識だけでは“神の子”の知恵は開発されない。一つの仕事だけでは“神の子”の無限性は表現できない。一回の人生では“神の子”の全相が現れるものではない。しかし私は、“一つ”をおろそかにしないのである。“一つ”は“無限”への階段である。一段を踏み外すものは十段に達することができない。基礎をおろそかにして応用は不可能である。与えられた場で最善を尽くすことで、次なる飛躍が初めて可能となるのである。」(pp. 179-180) 
 
 人の一生は、さらなる飛躍と発展の一段階であるということです。今日、祭祀申上げた御霊様は今生においてベストを尽くし、次の生に旅立っていかれました。私たちも今生でさらに精進を重ね、真理を拡大し、御霊さまの魂の成長に遅れをとらないように、益々世界平和のため光明化運動に邁進したいと考えるものです。 
 
 本日はご参列、誠にありがとうございました。これをもって慰霊祭の挨拶といたします。 
 
 谷口 雅宣

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2016年9月18日 (日)

『新潮45』のメチャクチャな記事

 こんな表題で本欄を書かねばならないことは誠に遺憾だが、メチャクチャを書かれて黙っていたら、その内容を認めたことになると考え、不本意ながらキーボードを叩いている。新潮社発行の『新潮45』が10月号で“いま宗教に「救い」はあるか”という特集を組み、その中でフリーライターの藤倉善郎という人物が“「反安倍」となった日本会議の母体「生長の家」”という題の記事を書いている。このタイトル自体はそれほど問題はないが、副題となっている次の2行の文章がデタラメなのだ。曰く-- 
 
 政界にも人を送り込んだ「右翼教団」は、いつの間にか「エコ左翼宗教」となっていた。現総裁は、創始者の信者を追い出し、親兄弟をも排除し、「自分の宗教」を作りあげた。 
 
 --こういう言い草は今、生長の家の運動に反対して嫌がらせを続けている“反対勢力”の主張そのものである。それをそのまま記事にするような人が、はたしてジャーナリストと言えるだろうか? きちんと教育されたジャーナリストならば、取材対象とした二者の間にもし争いがあるのだとしたら、その双方の意見をきちんと聞いてから、それぞれの主張を紹介し、自分の判断を述べるべきだ。にもかかわらず、記事を書いた藤倉氏は、一方の主張だけを延々と書きつらね、私たち教団側の主張については、公式発表の差し障りのないものだけを紹介し、あとは私を名指しして言いたい放題に批判している。いったい藤倉氏は、私に何か個人的な恨みでもあるのかと疑いたくなる。 
 
 私も短期間だがジャーナリストとして生活していた経験があるから言わせてもらうが、こんな記事は、私の時代にはデスクの段階でボツになるに決まっている。「掲載に耐えない」と判断されるのだ。理由は「客観性」「中立性」がないからだ。そういう種類のものが一流の出版社が出す月刊雑誌に堂々と掲載されるということは、日本のジャーナリズムは相当質が低下したと考えざるを得ない。実に嘆かわしい現象だ。本欄の読者に助言申し上げるが、興味のある方はこの記事を読んでくださっても構わないが、「定価880円」を出して買う価値は決してない。立ち読みで十分であるし、その時間と労力ももったいない。他のもっと重要なこと、楽しいことに使われた方がいい。 
 
 上記のことから分かるように、藤倉氏の記事は、ほとんど裏付けのない事柄を独断的に書き、独断がマズイと思う箇所は、取材源の人物名を書いて、その人物に好き放題を言わせている。ところが、その人物は誰かと思えば、生長の家以外の人間であったり、生長の家との裁判で係争中の相手だったり、はたまた反対運動の熱心な推進者である。これを「一方的記事」と言わずに何と言うべきか。 
 
 こういう取材態度や断定の中で私が最もデタラメだと感じ、怒りを禁じ得ないのは、私と父の第2代総裁、谷口清超先生との間に「親子対決」があったという事実無根の話だ。それを言っているのは「犬塚博英」という生長の家の職員だったことのない人物である。その犬塚氏が、さも内情通であるかのように記事に登場し、私が副総裁に就任した頃の“内情”と称して、こんなことを言っている-- 
 
「当時は総裁と副総裁が父子間で主導権争いをしていた。これには家族関係をめぐる屈折した感情もあったようです。雅春先生は、しつけに厳しく、雅宣氏が食事中に誤って味噌汁をこぼした際、雅春先生から床にこぼれた味噌汁をすすらされたというエピソードもあります。そんな祖父に対する恨みが強かったように思います」 
 
 なんというメチャクチャな論理だろう。私が副総裁になったのは、父の谷口清超先生から薦められたからで、父子間の対立などなかったからである。また、“味噌汁事件”は、私が小学生の頃の笑い話だ。味噌汁がこぼれたのは「床」ではなく、漆塗りの「卓袱台」の上だった。私はその漆の香の混じった味噌汁の味を今でも懐かしく思い出す。それは祖父への恨みなどではなく、「食べものを粗末にするな」という教えとして受け取り、感謝の気持をもってその教えの通りに今日まで生きてきている。冷静に考えれば、生長の家に勤めたこともない犬塚氏に、私のそんな心情など分かるはずはないのに、取材した藤倉氏は、悪意からでなければまったく安易に、犬塚氏のいい加減な憶測を事実と受け取って記事にしている。 
 
 だいたい万が一、私が祖父を恨んでいたとしても(もちろん事実ではないが)、その恨みがどうして祖父ではない父親に振り向けられるのか? 人間性の理解という面でも、藤倉氏は実におざなりである。明治生まれの祖父は確かに厳格だったが、大正生まれの父は自由主義者だった。そんなことは、教団の内部ではよく知られていることで、取材不足もはなはだしい。私に留学の資金を出してくれたのは祖父であるし、留学後は新聞記者になることに賛成してくれたのは、父である。個人の自由意思を重んじる父は、「教団へもどって来い」などとは言わなかった。私は若い頃のこの2つの経験を大変貴重なものと感じており、祖父と父には感謝しこそすれ、恨みに思うなどと考えるのはトンデモない妄想である。 
 
 このように、藤倉氏のトンデモ記事について私の言いたいことはいくらでもあるが、時間のムダ遣いはしたくない。読者にはとにかく「読む価値のない記事」であることを知っていただき、間違っても「880円」をムダにしないでいただきたい。 
 
 冒頭で「日本のジャーナリズムは廃れた」という意味のことを書いたが、もっと正確に言えば、「大手ジャーナリズムは廃れた」と書くべきかもしれない。なぜなら、『週刊 金曜日』という週刊誌は、日本会議と生長の家との関係について私にきちんと取材し、今年8月5日-12日合併号と同月19日号で公平な記事を書いてくれている。このインタビュー記事は、同誌の御好意で、近く発行される『生長の家』誌に転載される予定である。読者はどうか、こちらの記事にあることを事実として理解していただきたい。 
 
 谷口 雅宣

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