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2016年3月 1日 (火)

個々の現象の“背後”を観よ

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山の出龍宮顕齋殿で「立教87年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」が挙行され、日本全国のみならず海外からも代表者が集まって、立教の精神を振り返り、今後の運動の進展を誓い合った。私は概略、以下のような内容の挨拶を行った--
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 皆さん、本日は立教87年の記念日を迎えたこと、誠におめでとうございます。立教記念日は、人間でいえば「誕生日」に当たりますから、今日は、生長の家の満86歳の誕生日であります。人間は「86歳」といえば、もう先が長くないと考えますが、宗教運動にとっては、100年に満たない年月はまだ「草創期」と言っても間違いないでしょう。 
 
 500頁になる分厚い本『キリスト教の歴史』(A History of Christianity)を書いたポール・ジョンソンという歴史家は、その第1章に「イエス派の台頭と救済」という題をつけ、紀元前50年から西暦250年までの出来事を書いています。つまり、イエスの死後250年ぐらいで、キリスト教の歴史にひと区切りつけられると考えたのです。しかもそれは、“イエス派”というユダヤ教の一派としての成立と考えました。御存じのように、キリスト教はその後、1760年ほどたっているのです。日本人の研究者である小田垣雅也という人は、『キリスト教の歴史』という同じ題の本の中で、キリスト教の成立は紀元1世紀末だと言っています。つまり、この場合も、キリスト教はイエスの死後100年ほどたってようやく成立したと考えている。 
 
 仏教にいたっては、皆さんもよくご存じのように、日本に伝わった大乗仏教は、その元となる『法華経』などの大乗仏典の成立が釈迦の死後、1世紀以上たってから(西暦150年頃)です。このように、宗教運動においては、立教80年、90年というのは、まだまだ始まったばかりと言っていいのです。 
 
 しかし、だからと言って、この草創期に説かれた教えをないがしろにしていいということはありません。そういう意味からも、私は毎年、この立教記念日には『生長の家』誌創刊号から引用して、皆さんとともに、創始者・谷口雅春先生の立教当時のお考えに立ち還り、これからの運動の行く手を照らす“光”を見出すことにしているのです。 
 
 さて今回は、子供の教育についての雅春先生のお考えから学ぶことにします。『生長の家』誌創刊号には「生命の法則による天才養成法」というご文章があって、子供に内在する神性・仏性をどのようにして引き出すかが詳しく書かれています。その一部、37頁から読みます-- 
 
 (中略)親や、家庭の年長者が自身の高き趣味から割りだして、子供のうまれつきの器用さ以上のものを強いることは善くない。建設的な方向へ生命力を使用するのでありさえすれば、子供がどんな方向に才能があろうとも、それが親の趣味とは反対な才能であろうとも自然の方向に子供を生長させよ。 
 自然が与えた才能には宇宙的な生命がバックしている。宇宙的な生命の法則に従うとき生命は最もよく生長する。 
 職業の高下を考えて自然の方向以外に才能を延ばそうと計るものは、生命の法則よりもホカのものに従うものだ。ある人間にAの才能が与えられてあり、またある人間にBの才能があたえられてあるということは実に意味深いことである。それに従うとき吾らは天地を造った神の大きな計画に参与するのだ。 
 生命を礼し、自然に信頼せよ。そこから無限が生長する。 
 如何なる方向であろうと子供に天賦の才能がみとめられれば全力をあげてその方向に才能を延ばせ。便宜を与えよ。賞讃せよ。励まし、鞭撻し、喜んでその仕事または遊びに従事させよ。 
 (引用終り) 
 
 ここで重要だと思うのは、「自然が与えた才能には宇宙的な生命がバックしている。宇宙的な生命の法則に従うとき生命は最もよく生長する」という箇所です。また、その後にある、「それ(生命の法則)に従うとき吾らは天地を造った神の大きな計画に参与するのだ」というところで、ここには「自然はそのままで素晴らしい」という“自然讃美”“生命礼讃”の考え方が明確に出ていると思うのであります。このように生長の家では、生命や自然は本来、善であって、それを自然に伸ばすことで、神性・仏性が反映した世界が地上に現れると考えるのであります。このご文章からも、生長の家の信仰は「善一元」の実相が現象の背後にあり、それのみが本当の存在だと考えるのが基本であることが分かります。 
 
 これに対して、自然界の生命現象には“善”もあるが“悪”も存在すると考えるのが、今の常識的な考え方でしょう。この考え方から生まれるのは、自然界の善は人間が利用し、悪は撲滅することで、世界は素晴らしくなる、という論理です。また、人間の中にも善と悪とがあり、善は悪を駆逐することで、平和な社会が実現する、という考え方も、ここから生まれます。この常識的考え方をひと言でいえば「善悪二元論」です。 
 
 生長の家は、国際本部を東京の原宿か北杜市に移してから3年目になりました。「石の上にも3年」という言葉がありますが、こういう時期になって、私たちはようやく、自然に囲まれた田舎の生活に慣れ、その環境と都会での生き方の違いを明確に感じるようになってきました。これは感性的、感情的な変化です。これに対して、理性的、論理的に田舎と都会の違いを考えることは、すでに行われています。私などは、それを『次世代への決断』や『宗教はなぜ都会を離れるか?』の中で行いました。これは言わば“左脳的”理解でしたが、最近は“右脳的”にも、そのことを感じることができるようになってきたので、「自然と共に伸びる」ための準備が整ってきたと考えるのであります。 
 
 私は今年の初めから、フェイスブックの「生長の家総裁」のページを使って、短い真理の言葉をほぼ毎日、書き綴っていますが、その2月21日の言葉には、こうあります-- 
 
「個々の現象の中に神を探すなかれ。多くの現象の背後に厳然と存在する生かす力、生かす知恵、生かす愛を観じ、それらに感謝しよう。」 
 
 --これが自然界における観察の仕方、ものの見方だと思うのです。自然が豊かな環境では、私たちが気にかけるのは、天候がどうであるのか、季節がどうめぐるか--というような大きな“全体的な実感”から出発します。気温や湿度も重要です。なぜなら、それによってその日の生活が左右されるからです。気温が氷点下であり、地面にまだ雪が残っていれば、私は自転車で通勤することをためらい、別の方法で本部へ行くことを考えます。また、気温しだいでは、服装を変える必要がある。これは当たり前のことですが、都会生活をしていた頃は、ある程度の環境の変化は都会のインフラが整備されているおかげで、気にする必要がない。つまり、寒い時季には暖房があり、暑いときは冷房がある。だから、どこへ行っても一応快適である。人間の側は、自然を気にすることなく、自分の好きなこと、あるいは社会的に必要なことに注目して問題を処理すればそれでいい。だから、自然界の出来事を意識の中心に置くことなど、ほとんどありません。こうして、都会生活をしていると、人間はどんどん自然から遠ざかっていくことになります。 
 
 すると、目の前で生起する「個々の現象」が、重要に見えてくるのです。先ほど引用した文章の中には、「個々の現象の中に神を探すなかれ」とありましたが、ここでいう「神」とは、「神のようなもの」という言葉に置き換えてもいい。つまり、何か普通でない素晴らしいこと、素晴らしいもの、他より秀でていること、英語では「excellence」といいますが、優秀でステキなことです。個々の現象を、このような他より優れた、素晴らしいものにしなければならないと考えることが、「個々の現象の中に神を探す」という意味です。これを追求するのが、都会生活の本質の一つだと私は考えます。都会では、個々の会社がどれだけ優れているか、個々の商品が他よりどれだけ優れているか、個人の才能が他よりどれだけ優れているか、個人の能力がどれだけあるか、個人の給与がどれだけ高いか、ビルが他のビルよりどれだけ高いか、コンピューターの処理能力がどれだけ速いか……など、個々の現象の優秀さを追求することが人々の目的になっている。 
 
 私は、それをしてはいけないと言っているのではありません。私は生長の家の講習会で、人間なら誰にも向上心があり、それは「神の子」の本質を表していると言っています。だから、個々の現象が素晴らしくなることは善いことです。しかし、それを「神」のように最高最大のもの、至上の目的と考えると問題がある、というのです。これは、個々の現象の中の最高最大のものを「神」のように尊ぶことにつながりますから、一種の“偶像崇拝”に近い。私たちが信仰する神は、個々の現象や個別のものの中にあるのではない。確かに、個別のものの中に、神の御徳の一部が表現されることはあります。しかし、それは神の全体ではない。その証拠に、聖経『甘露の法雨』には、こうあります-- 
 
 神があらわるれば乃ち
 善となり、
 義となり、
 慈悲となり、
 調和おのずから備わり…… 
 
 慈悲や調和は、個人や個別では成り立ちません。他者への思いやる心、他者を自分のように感じる「抜苦与楽」の心が慈悲であり、調和は、自他の調和、自分と全体との調和です。この視点が欠けてしまうと、個々の現象の優秀さを追求することは、他者を蹴落としたり、自分の利益のためならば、社会や自然環境を犠牲にすることも厭わないような考え方や行動につながる危険性が出てきます。 
 
 最近、大阪・梅田のスクランブル交差点で、悲惨な事故が起こりました。運転中に大動脈解離という血管性の発作を起こした人の車が暴走して、横断中の人や通行人をはね、2人が死亡、1人が重体、8人が重軽傷を負いました。これは不幸な事故で、犠牲者は誠に気の毒なのですが、都会での出来事として象徴的だと思うのです。 
 
 私は東京在住の頃、渋谷のハチ公前のスクランブル交差点をよく利用しました。ここをうまく渡るためには、歩行者用信号が青になったら、前だけを見て、できるだけ一直線に早足で歩くのがいいのです。そうでなく、周囲から一斉に来る歩行者の行く方向をいちいち慮っていては、かえって人とぶつかるし、自分が立ち止まる必要が出てきてしまいます。つまり、「個が優先される」という意識をしっかりもって、周囲を無視して歩く必要がある。そういう意味では、好き勝手に自由に歩けるようではありますが、渡らないで見ていると、とても無秩序で、混乱していて、美しくありません。「慈悲」も「調和」もありません。強くて、歩くのが速い若者や男性は優先的に進めるけれども、体が不自由な人、老人などは、歩くのが却って危険です。私は、そういう点が「個々の現象の中に神を探す」という都会の生き方を象徴していると感じます。 
 
 ですから、歩行者個人にとって善いことでも、その個々の現象の背後にあることについては、注意を払うことができないのです。私が言いたいのは、スクランブル交差点を渡る人は、自分の前の青信号しか見ることはできないから、信号無視の自動車を視認できないし、それを避けることも難しいのです。 
 
 「個人が自己主張すれば素晴らしくなる。あわよくば神に近づくことができる」と考えることは、誤りです。それは、自分の主張の妨げになる人やものを“悪”として排斥するような狭い人生観に結びつき、衝突や争いを生み出すでしょう。私たちは、すでに「善一元の世界」が実在するという信仰を掲げ、その本来ある善を、自分個人のみならず、あらゆる人々から、またあらゆる生物から引き出す生き方を実践する時期に来ているのです。 
 
 自然界を深く観察すると、個は、個だけでは存在しえないことがよく分かります。周囲の環境を破壊して自分だけが伸びることは、できません。生態系の一部として、自分に与えられた能力を他の利益のためにも発揮して、初めて生きることができ、また喜びを感ずることもできる。これが四無量心の実践であり、これを人間社会で行えば人々に喜ばれ、自分も喜び、これを自然界まで視野に入れて実践すれば、真の生き甲斐を得ると共に、調和と美を体験することができるでしょう。 
 
 皆さんとともに、この精神をもって“自然と共に伸びる”運動を明るく、生き甲斐をもって展開していくことを決意して、私の立教記念日の挨拶といたします。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣 先生
合掌ありがとうございます。
私は、「草創期」というお言葉に、ものすごく・トテモ喜びを感じます。
パワーが湧いてくるような気がします。
もう一つ心の琴線に残っているお言葉は、「自由による多様性の調和」です。

再拝

投稿: 志村 宗春 | 2016年3月 2日 (水) 12時36分

立教記念日、法燈記念日、おめでとうございます。生長の家は、まだ始まったばかりで、私たちが頑張って後世に光明思想を伝えていかなければならないのですね。
講習会でも向上心についてお話し頂いて、有難うございます。私も40代になりましたが、病気などで未来を明るく思えない時もありましたが、最近は元気になりました。油絵の勉強をしていましたが、卒業が決まったので、今度は童話を書く勉強をしようと思っています。明るい調和に満ちた、美しい童話や物語を書けるようになりたいです。
それでは、失礼します。
有難うございます。岡本淳子

投稿: 岡本淳子 | 2016年3月 2日 (水) 22時16分

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