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2016年3月 4日 (金)

一個の肉体

 自分が一個の肉体だという考えを超えたとき、あなたの中に霊的エネルギーが湧き上がってくる。
 
 ここでいう「一個」の個とは、二個、三個、四個……と続く、ものを数える単位ではない。これは「個人」というときの、社会の最小単位としての存在を指す。英語では individual という語がこれに相当する。これは、社会をどんどん細かく分割していき、もうこれ以上分割できない(in--否定、divide --分割する)という最小単位を意味する。  
 
 人間は感覚器官を通して見るかぎり、このように他人とは分離した肉体としての「個人」だと感じられる。親子も、兄弟も、肉体としては分離しているし、愛し合う恋人同士さえ、心は通い合っても体は別々である。 
 
「自分は一個の肉体だ」と考えると、個々の人間はそれぞれ孤立し、利害は対立し、自分の利益は自分で護るほかないのだから、「利己主義は当然」と考える方向に、心は動いていきやすい。となると、人々は自己主張を強め、社会はギクシャクしてうまく機能しなくなる。 
 
 だから、「自分は一個の肉体である」というこの分離感は、本当ではないということを、多くの人々は気づいている。そもそも恋愛感情が起こるということが、この分離感を否定している。愛のない、単なる肉体的な結合を求める場合でも、人はそれによって分離感を克服し、一体感を得たいと望んでいる。 
 
 この希望を幻想だと思ってはいけない。人間は決して孤立していないということは、相思相愛の二人に聞くまでもなく、科学的にも真実である。私たちの肉体と心を制御する遺伝子は、父母の遺伝子を半分ずつ受け継いでいる。それどころか、先祖の遺伝子はもちろん、生物共通の遺伝子も大量に共有している。遺伝子を共有するということは、身体的に同じような特徴をもち、同じように行動するということだ。それだけでなく、喜怒哀楽などの感情も、一部が共通している場合もあるということだ。 
 
 だから、私たちの感覚器官が生み出す「一個の肉体」という錯覚に惑わされずに、人間同士の目に見えないつながりを思い出し、それが社会の本当の姿であるとの理解に至れば、孤立感、孤独感、無力感は、一体感、共有感、そして生命の躍動感へと変貌する。これに加え、「人間は自然と一体なり」という当たり前の真実に気がつけば、「我生きるにあらず、神われと共にあり、すべては我と共にあり」の自覚にいたる。歴史上の多くの大事業は、そんな覚者によって成し遂げられてきたのである。 
 
 谷口 雅宣

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コメント

 手元にアインシュタイン博士の言葉を集めた本がありますが、こんな文があります。

 
「海は、形容しがたい壮大な姿をしています。とりわけ、日が沈む瞬間は。そんなとき、自分が自然に溶け込み、ひとつになるように感じます。そしていつも以上に、個人という存在の無意味さを感じるのです。それは幸せな気分です。」

 また、こうもあります。

「人間とは、わたしたちが宇宙と呼ぶ全体の一部であり、時間と空間に限定された一部である。わたしたちは、自分自身を、思考を、そして感情を、他と切り離されたものとして体験する。意識についてのある種の錯覚である。
 
 この錯覚は一種の牢獄で、個人的な欲望や最も近くにいる人々への愛情にわたしたちを縛り付けるのだ。

 わたしたちの務めは、この牢獄から自らを解放することだ。それには、共感の輪を、すべての生き物と自然全体の美しさに広げなければならない。実質的に新しい思考の形を身につけなければ、人類は生き延びることができないだろう。」

 ・・最後の文がちょっと不気味ですが、先生のご文章を読んで、上の内容を思い出さずにはいられませんでした。

投稿: 片山一洋 | 2016年3月10日 (木) 23時01分

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