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2016年3月

2016年3月11日 (金)

原発と決別し「大調和の神示」の教えを生きよう

 今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家“森の中のオフィス”のイベントホールで、「神・自然・人間の大調和祈念祭」が行われた。同ホールでの参加者は、オフィスに勤務する職員だけだったが、祈念祭の様子はインターネットを通じて全世界に放映された。私は同祭の最後に概略、以下のような挨拶を行った-- 
 
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 皆さん、本日は「神・自然・人間の大調和祈念祭」にお集まりくださり、有難うございます。この御祭は、2011年3月11日に起きた東日本大震災と福島県の原子力発電所の事故をきっかけにして、新しく設けられた重要な御祭です。その意義については、すでに多くの方はご存じと思いますが、この場で改めて確認させてください。 
 
 先ほどは「黙祷」のあとで聖歌『水と森の歌』を皆さんと一緒に歌いましたが、この歌の歌詞を読むと、自然界のすべてのものは「ありがたい」と讃嘆する内容であることが分かります。特に強調されているのは、タイトルにある「水」と「森」の恩恵についてです。普通の考え方では、台風やハリケーン、大雨などは、人間の生活の障害になるから迷惑だと嫌われて当たり前ですが、作者の谷口清超先生は、もっと広い視点から、こう歌われている-- 
 
 大いなる 日のちから 
 限りなく照り むら雲となり 
 台風や ハリケーン  
 大雨となり 大河となりて 
 果てしなく どこまでも  
 水は流れて やむことなきか 
 ありがたきかな 
 
 つまり、ここには、太陽の温める力で地球の表面の大気に対流が起こり、それが一定の条件下では、台風やハリケーンとなる、という科学的な分析が入っています。それだけでなく、台風やハリケーンがもたらす大雨は、大河のように陸を流れて海へ入る。この水の流れが途絶えることがないのは、ありがたいことだと感謝の気持を述べています。「台風やハリケーンもありがたい水の流れの一つだ」ということで、これはなかなか簡単に言えることではない。テレビで気象予報士がそんなことを言えば、視聴者からきっと非難の電話がかかてくるでしょう。なぜなら、台風の被害に遭う人にとっては、台風は“悪”としてしか感じられないからです。それを「ありがたい」とは、トンデモないというわけです。しかし、生長の家は、そんな現象の表面的な姿に一喜一憂せず、背後にある神の御心--実相--を直視して本当のことを言うのです。 
 
 この聖歌のあとで、私たちは「四無量心を行ずる神想観」を実修しました。この神想観のポイントは、「すべての衆生」--つまり、人間や一部の動物--だけでなく、「地球のすべての生命と鉱物の一切」に対して--つまり、植物や菌類や石ころも含めた自然界全体に対して、慈悲喜捨の心を起こすことでした。これもなかなか普通の人はしないことです。私たち人間は普通、自分の好みを優先して、人を差別的に扱うことはもちろん、同じ哺乳動物であっても、イヌやネコをそれこそ“ネコかわいがり”する一方で、ブタやウシは残酷な飼い方をして殺し、舌鼓を打って食べます。こういう自己中心的で、自分の嗜好を中心にした執着心を野放しにしたまま、さらにはそれを経済発展の原動力として称揚しているのでは、人間と自然との調和を実現することは難しいでしょう。 
 
 そのことは、神想観の次に朗読された「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中にも、はっきり書かれていました-- 
 
“その実相を見ず、「個」が実在であり、世界の中心であると見るのは迷妄である。「個人の損得」を中心にすえるとき、人間は自然との大調和を見失うのである。自然界に不足を見出し、自然界を障害と見なし、自然界を自己の支配下に置こうとして、自然界の機構を自己目的に改変し利用することは、愚かなことである。自然の一部を敵視して破壊することは、恥ずべきことである。” 
 
 この一節は、私たちの現在の文明のことを批判しているのです。肉体的な個人を世界の中心に置いて、その個人が自然界からどれだけ快楽を得ることができるかで、ものの価値を決めようとする傾向が強い。私は今、個人の考え方だけを言っているのではなく、社会全体がそういう動きをしていて、それを“善”だと考えている点を問題にしているのです。都市とか都会というものは、人間が「自然界を障害と見なし、自然界を自己の支配下に置こうとして」建設されたものです。だから、森林を伐採して道路を通し、“害虫”や“害獣”は死滅させて、鉄筋コンクリートのビルを建てるのです。この考え方を徹底させていくと、原子力発電所の建設と、放射性物質の大量生産に結びつく、と私は考えます。 
 
 私は、生長の家講習会ではいつも、この“森の中のオフィス”の紹介ビデオを上映するのですが、その中では、5年前の3月11日を経験して、生長の家はその時、設計を進めていた「オフィスの建設計画を大幅に変更した」というナレーションが流れます。何のことか分かりますね? そうです。それは、当初、東京電力との電力の売買によって“炭素ゼロ”を目指していたものを、この時から考えを変えて、東京電力から電気をもらわないでも“炭素ゼロ”を実現する--つまり、電力自給を目指す方向に切り替えたのであります。その理由は、「原発によるエネルギーを使うべきでない」という判断があったからです。 
 
 原発の利用は、なぜいけないのでしょうか? それは、原子力発電という技術の基本にあるものの考え方が、「自然と人間の大調和」という私たちの運動の目的に反するからです。もっと言えば、生長の家の最も重要な神示である「大調和の神示」の教えに反するからです。どうしてそう言えるでしょう? それは、大量の放射性物質を排出せずに、原子力発電を行うことはできないからです。この放射性物資は、人間のみならず、すべての生物の設計図であるDNAを破壊することがよく知られています。にもかかわらず、そういう危険物質を大量生産してでも、人間にだけ有益な結果がもたらせると信じることは、事実上、「自然と人間の利害は相反する」と信じていることになる。その考え方は「大調和の神示」の否定であり、「神・自然・人間の大調和」の否定です。 
 
 『ニューヨークタイムズ』国際版に、3月7日付で、イギリスのオックスフォード大学で核エネルギーと環境学の研究をしているピーター・ウィン・カービー(Peter Wynn Kirby)という人が、福島第一原発の事故後の処理について論説を書いていました。それによると、福島県ではこれまで、政府による放射能除染のための大規模な作業が行われてきたが、削り取った表土などの汚染物質の廃棄場所と処理方法が決まっておらず、決まる見込みもたっていないと言っています。 
 
 カービー氏は、この「除染」という言葉は誤解を招きやすく、その作業は簡単に言えば“間違い”だと批判しています。福島県で実際に起こっていることは、「除染」ではなく、「汚染の移動(transcontamination)」だというのです。つまり、汚染物質はいったん集められ、袋に入れられてから、県内のある場所から他の場所に移され、さらに別の場所に移動されている、それだけだという意味です。いわゆる“仮仮置き場”から“仮置き場”へ移されている。環境省の職員によると、最高で3千万トンの汚染土壌は結局、福島第一原発の近くに設けられた、さらにもう一段階上の第3レベルの中間処理施設に収められるだろうといいます。しかし、その施設の建設は、地主から用地買収の同意が得られていないため、まだほとんど行われていないそうです。だから現在、汚染土壌などは、風呂の浴槽ぐらいの大きさの袋に詰められたまま、福島県内のあちこちに--道路脇や耕作放棄地などに放置されたままだといいます。昨年の10月半ば、富岡町では40個ぐらいの袋詰めの汚染土壌が小さな墓地の端に置かれていて、雑草に覆われているのを、カービー氏は見たそうです。 
 
 この袋は3年が寿命なので、定期的に詰め直す必要がある。そしてこの袋は、そこから出る放射線量にしたがって置き場を移動させられます。昨秋までには、1トンの袋にして900万個分の汚染廃棄物が出ていました。トラック1台に積めるのは10袋ぐらいですから、これらの汚染物質は、ゆっくりと福島県内を定期的に循環していることになります。カービー氏によると、放射性物質から現実的、また経済合理的に放射線を出させなくする方法は、ありません。だから、汚染土壌などは、取り除かれ、他のものから分離され、自然に崩壊するのを待つしかありません。ということは、そこから出る放射能の扱いには、基本的に2つの選択肢しかない--①汚染地域の放射線量が自然に減るのを待つ、②汚染物質を隔離する--です。 
 
 人口密度の高い日本では、福島県のような広大な土地を放棄するわけにはいかないでしょう。だから、最初の選択肢はありません。すると、汚染物質を除去して隔離しなければならないのですが、汚染物質を恒久的に安全に貯蔵しておく施設はまだ存在しないのです。そこで日本の政策決定者たちは、汚染物質を順繰りに県内を移動させていく方法を採用しているのです。しかしこれは時間稼ぎに過ぎず、首尾一貫した処理方針とは言えません。 
 
 こう述べた後、カービー氏は、2つの方法を提言しています。1つは、日本政府が汚染物質の最終貯蔵施設を作る地域を半ば強制的に決定するか、2番目は、福島第一原発跡の立入禁止地域を、巨大な汚染物質のごみ捨て場として、永久的に使う決定をすることです。 
 
 福島第一原発だけでも、これほどの問題があるのですが、原子力発電所からは、どんな原発も、稼働していれば常に大量の放射性廃棄物が出ます。そして、その処分についても同じ困難があるのです。日本は、人口に比べて土地が狭く、また、火山の噴火や地震が頻繁に起こる不安定な地殻の上にあります。そんなところには、将来にわたって絶対安全に放射性廃棄物を貯蔵することなど不可能です。 
 
 ということは、原子力発電を日本のエネルギー政策の中に組み入れる決定は間違いなのです。これは、核エネルギーの専門家が、科学的、技術的見地から言っていることですが、私たちはそれ以上に、「神・自然・人間の大調和」が実相世界の構図であるとの信仰上の観点からも、原子力発電という技術からの決別を声を大にして訴えなければなりません。 
 
 この“森の中のオフィス”は、それを理論や信仰告白として宣言するだけでなく、実生活上にも具体的に実践することを意図し、今日、見事に実現させていると言えます。どうか皆さん、人類が文明的な岐路に立つこの時代にあって、多くの人々に私たちの信仰と考え方を伝え、また私たちの実生活においても、「神・自然・人間の大調和」の実現に向かってライフスタイルを開発し、勇気をもって実践していこうではありませんか。 
 
 それでは、これをもって私の挨拶といたします。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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2016年3月 4日 (金)

一個の肉体

 自分が一個の肉体だという考えを超えたとき、あなたの中に霊的エネルギーが湧き上がってくる。
 
 ここでいう「一個」の個とは、二個、三個、四個……と続く、ものを数える単位ではない。これは「個人」というときの、社会の最小単位としての存在を指す。英語では individual という語がこれに相当する。これは、社会をどんどん細かく分割していき、もうこれ以上分割できない(in--否定、divide --分割する)という最小単位を意味する。  
 
 人間は感覚器官を通して見るかぎり、このように他人とは分離した肉体としての「個人」だと感じられる。親子も、兄弟も、肉体としては分離しているし、愛し合う恋人同士さえ、心は通い合っても体は別々である。 
 
「自分は一個の肉体だ」と考えると、個々の人間はそれぞれ孤立し、利害は対立し、自分の利益は自分で護るほかないのだから、「利己主義は当然」と考える方向に、心は動いていきやすい。となると、人々は自己主張を強め、社会はギクシャクしてうまく機能しなくなる。 
 
 だから、「自分は一個の肉体である」というこの分離感は、本当ではないということを、多くの人々は気づいている。そもそも恋愛感情が起こるということが、この分離感を否定している。愛のない、単なる肉体的な結合を求める場合でも、人はそれによって分離感を克服し、一体感を得たいと望んでいる。 
 
 この希望を幻想だと思ってはいけない。人間は決して孤立していないということは、相思相愛の二人に聞くまでもなく、科学的にも真実である。私たちの肉体と心を制御する遺伝子は、父母の遺伝子を半分ずつ受け継いでいる。それどころか、先祖の遺伝子はもちろん、生物共通の遺伝子も大量に共有している。遺伝子を共有するということは、身体的に同じような特徴をもち、同じように行動するということだ。それだけでなく、喜怒哀楽などの感情も、一部が共通している場合もあるということだ。 
 
 だから、私たちの感覚器官が生み出す「一個の肉体」という錯覚に惑わされずに、人間同士の目に見えないつながりを思い出し、それが社会の本当の姿であるとの理解に至れば、孤立感、孤独感、無力感は、一体感、共有感、そして生命の躍動感へと変貌する。これに加え、「人間は自然と一体なり」という当たり前の真実に気がつけば、「我生きるにあらず、神われと共にあり、すべては我と共にあり」の自覚にいたる。歴史上の多くの大事業は、そんな覚者によって成し遂げられてきたのである。 
 
 谷口 雅宣

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2016年3月 1日 (火)

個々の現象の“背後”を観よ

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山の出龍宮顕齋殿で「立教87年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」が挙行され、日本全国のみならず海外からも代表者が集まって、立教の精神を振り返り、今後の運動の進展を誓い合った。私は概略、以下のような内容の挨拶を行った--
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 皆さん、本日は立教87年の記念日を迎えたこと、誠におめでとうございます。立教記念日は、人間でいえば「誕生日」に当たりますから、今日は、生長の家の満86歳の誕生日であります。人間は「86歳」といえば、もう先が長くないと考えますが、宗教運動にとっては、100年に満たない年月はまだ「草創期」と言っても間違いないでしょう。 
 
 500頁になる分厚い本『キリスト教の歴史』(A History of Christianity)を書いたポール・ジョンソンという歴史家は、その第1章に「イエス派の台頭と救済」という題をつけ、紀元前50年から西暦250年までの出来事を書いています。つまり、イエスの死後250年ぐらいで、キリスト教の歴史にひと区切りつけられると考えたのです。しかもそれは、“イエス派”というユダヤ教の一派としての成立と考えました。御存じのように、キリスト教はその後、1760年ほどたっているのです。日本人の研究者である小田垣雅也という人は、『キリスト教の歴史』という同じ題の本の中で、キリスト教の成立は紀元1世紀末だと言っています。つまり、この場合も、キリスト教はイエスの死後100年ほどたってようやく成立したと考えている。 
 
 仏教にいたっては、皆さんもよくご存じのように、日本に伝わった大乗仏教は、その元となる『法華経』などの大乗仏典の成立が釈迦の死後、1世紀以上たってから(西暦150年頃)です。このように、宗教運動においては、立教80年、90年というのは、まだまだ始まったばかりと言っていいのです。 
 
 しかし、だからと言って、この草創期に説かれた教えをないがしろにしていいということはありません。そういう意味からも、私は毎年、この立教記念日には『生長の家』誌創刊号から引用して、皆さんとともに、創始者・谷口雅春先生の立教当時のお考えに立ち還り、これからの運動の行く手を照らす“光”を見出すことにしているのです。 
 
 さて今回は、子供の教育についての雅春先生のお考えから学ぶことにします。『生長の家』誌創刊号には「生命の法則による天才養成法」というご文章があって、子供に内在する神性・仏性をどのようにして引き出すかが詳しく書かれています。その一部、37頁から読みます-- 
 
 (中略)親や、家庭の年長者が自身の高き趣味から割りだして、子供のうまれつきの器用さ以上のものを強いることは善くない。建設的な方向へ生命力を使用するのでありさえすれば、子供がどんな方向に才能があろうとも、それが親の趣味とは反対な才能であろうとも自然の方向に子供を生長させよ。 
 自然が与えた才能には宇宙的な生命がバックしている。宇宙的な生命の法則に従うとき生命は最もよく生長する。 
 職業の高下を考えて自然の方向以外に才能を延ばそうと計るものは、生命の法則よりもホカのものに従うものだ。ある人間にAの才能が与えられてあり、またある人間にBの才能があたえられてあるということは実に意味深いことである。それに従うとき吾らは天地を造った神の大きな計画に参与するのだ。 
 生命を礼し、自然に信頼せよ。そこから無限が生長する。 
 如何なる方向であろうと子供に天賦の才能がみとめられれば全力をあげてその方向に才能を延ばせ。便宜を与えよ。賞讃せよ。励まし、鞭撻し、喜んでその仕事または遊びに従事させよ。 
 (引用終り) 
 
 ここで重要だと思うのは、「自然が与えた才能には宇宙的な生命がバックしている。宇宙的な生命の法則に従うとき生命は最もよく生長する」という箇所です。また、その後にある、「それ(生命の法則)に従うとき吾らは天地を造った神の大きな計画に参与するのだ」というところで、ここには「自然はそのままで素晴らしい」という“自然讃美”“生命礼讃”の考え方が明確に出ていると思うのであります。このように生長の家では、生命や自然は本来、善であって、それを自然に伸ばすことで、神性・仏性が反映した世界が地上に現れると考えるのであります。このご文章からも、生長の家の信仰は「善一元」の実相が現象の背後にあり、それのみが本当の存在だと考えるのが基本であることが分かります。 
 
 これに対して、自然界の生命現象には“善”もあるが“悪”も存在すると考えるのが、今の常識的な考え方でしょう。この考え方から生まれるのは、自然界の善は人間が利用し、悪は撲滅することで、世界は素晴らしくなる、という論理です。また、人間の中にも善と悪とがあり、善は悪を駆逐することで、平和な社会が実現する、という考え方も、ここから生まれます。この常識的考え方をひと言でいえば「善悪二元論」です。 
 
 生長の家は、国際本部を東京の原宿か北杜市に移してから3年目になりました。「石の上にも3年」という言葉がありますが、こういう時期になって、私たちはようやく、自然に囲まれた田舎の生活に慣れ、その環境と都会での生き方の違いを明確に感じるようになってきました。これは感性的、感情的な変化です。これに対して、理性的、論理的に田舎と都会の違いを考えることは、すでに行われています。私などは、それを『次世代への決断』や『宗教はなぜ都会を離れるか?』の中で行いました。これは言わば“左脳的”理解でしたが、最近は“右脳的”にも、そのことを感じることができるようになってきたので、「自然と共に伸びる」ための準備が整ってきたと考えるのであります。 
 
 私は今年の初めから、フェイスブックの「生長の家総裁」のページを使って、短い真理の言葉をほぼ毎日、書き綴っていますが、その2月21日の言葉には、こうあります-- 
 
「個々の現象の中に神を探すなかれ。多くの現象の背後に厳然と存在する生かす力、生かす知恵、生かす愛を観じ、それらに感謝しよう。」 
 
 --これが自然界における観察の仕方、ものの見方だと思うのです。自然が豊かな環境では、私たちが気にかけるのは、天候がどうであるのか、季節がどうめぐるか--というような大きな“全体的な実感”から出発します。気温や湿度も重要です。なぜなら、それによってその日の生活が左右されるからです。気温が氷点下であり、地面にまだ雪が残っていれば、私は自転車で通勤することをためらい、別の方法で本部へ行くことを考えます。また、気温しだいでは、服装を変える必要がある。これは当たり前のことですが、都会生活をしていた頃は、ある程度の環境の変化は都会のインフラが整備されているおかげで、気にする必要がない。つまり、寒い時季には暖房があり、暑いときは冷房がある。だから、どこへ行っても一応快適である。人間の側は、自然を気にすることなく、自分の好きなこと、あるいは社会的に必要なことに注目して問題を処理すればそれでいい。だから、自然界の出来事を意識の中心に置くことなど、ほとんどありません。こうして、都会生活をしていると、人間はどんどん自然から遠ざかっていくことになります。 
 
 すると、目の前で生起する「個々の現象」が、重要に見えてくるのです。先ほど引用した文章の中には、「個々の現象の中に神を探すなかれ」とありましたが、ここでいう「神」とは、「神のようなもの」という言葉に置き換えてもいい。つまり、何か普通でない素晴らしいこと、素晴らしいもの、他より秀でていること、英語では「excellence」といいますが、優秀でステキなことです。個々の現象を、このような他より優れた、素晴らしいものにしなければならないと考えることが、「個々の現象の中に神を探す」という意味です。これを追求するのが、都会生活の本質の一つだと私は考えます。都会では、個々の会社がどれだけ優れているか、個々の商品が他よりどれだけ優れているか、個人の才能が他よりどれだけ優れているか、個人の能力がどれだけあるか、個人の給与がどれだけ高いか、ビルが他のビルよりどれだけ高いか、コンピューターの処理能力がどれだけ速いか……など、個々の現象の優秀さを追求することが人々の目的になっている。 
 
 私は、それをしてはいけないと言っているのではありません。私は生長の家の講習会で、人間なら誰にも向上心があり、それは「神の子」の本質を表していると言っています。だから、個々の現象が素晴らしくなることは善いことです。しかし、それを「神」のように最高最大のもの、至上の目的と考えると問題がある、というのです。これは、個々の現象の中の最高最大のものを「神」のように尊ぶことにつながりますから、一種の“偶像崇拝”に近い。私たちが信仰する神は、個々の現象や個別のものの中にあるのではない。確かに、個別のものの中に、神の御徳の一部が表現されることはあります。しかし、それは神の全体ではない。その証拠に、聖経『甘露の法雨』には、こうあります-- 
 
 神があらわるれば乃ち
 善となり、
 義となり、
 慈悲となり、
 調和おのずから備わり…… 
 
 慈悲や調和は、個人や個別では成り立ちません。他者への思いやる心、他者を自分のように感じる「抜苦与楽」の心が慈悲であり、調和は、自他の調和、自分と全体との調和です。この視点が欠けてしまうと、個々の現象の優秀さを追求することは、他者を蹴落としたり、自分の利益のためならば、社会や自然環境を犠牲にすることも厭わないような考え方や行動につながる危険性が出てきます。 
 
 最近、大阪・梅田のスクランブル交差点で、悲惨な事故が起こりました。運転中に大動脈解離という血管性の発作を起こした人の車が暴走して、横断中の人や通行人をはね、2人が死亡、1人が重体、8人が重軽傷を負いました。これは不幸な事故で、犠牲者は誠に気の毒なのですが、都会での出来事として象徴的だと思うのです。 
 
 私は東京在住の頃、渋谷のハチ公前のスクランブル交差点をよく利用しました。ここをうまく渡るためには、歩行者用信号が青になったら、前だけを見て、できるだけ一直線に早足で歩くのがいいのです。そうでなく、周囲から一斉に来る歩行者の行く方向をいちいち慮っていては、かえって人とぶつかるし、自分が立ち止まる必要が出てきてしまいます。つまり、「個が優先される」という意識をしっかりもって、周囲を無視して歩く必要がある。そういう意味では、好き勝手に自由に歩けるようではありますが、渡らないで見ていると、とても無秩序で、混乱していて、美しくありません。「慈悲」も「調和」もありません。強くて、歩くのが速い若者や男性は優先的に進めるけれども、体が不自由な人、老人などは、歩くのが却って危険です。私は、そういう点が「個々の現象の中に神を探す」という都会の生き方を象徴していると感じます。 
 
 ですから、歩行者個人にとって善いことでも、その個々の現象の背後にあることについては、注意を払うことができないのです。私が言いたいのは、スクランブル交差点を渡る人は、自分の前の青信号しか見ることはできないから、信号無視の自動車を視認できないし、それを避けることも難しいのです。 
 
 「個人が自己主張すれば素晴らしくなる。あわよくば神に近づくことができる」と考えることは、誤りです。それは、自分の主張の妨げになる人やものを“悪”として排斥するような狭い人生観に結びつき、衝突や争いを生み出すでしょう。私たちは、すでに「善一元の世界」が実在するという信仰を掲げ、その本来ある善を、自分個人のみならず、あらゆる人々から、またあらゆる生物から引き出す生き方を実践する時期に来ているのです。 
 
 自然界を深く観察すると、個は、個だけでは存在しえないことがよく分かります。周囲の環境を破壊して自分だけが伸びることは、できません。生態系の一部として、自分に与えられた能力を他の利益のためにも発揮して、初めて生きることができ、また喜びを感ずることもできる。これが四無量心の実践であり、これを人間社会で行えば人々に喜ばれ、自分も喜び、これを自然界まで視野に入れて実践すれば、真の生き甲斐を得ると共に、調和と美を体験することができるでしょう。 
 
 皆さんとともに、この精神をもって“自然と共に伸びる”運動を明るく、生き甲斐をもって展開していくことを決意して、私の立教記念日の挨拶といたします。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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