内なる神
神との間に何ごとも介在させずに、あなたの内なる神の御心に聴け。
「内なる神」という言葉の意味は、わかったようでいて、実はよくわからない場合がほとんどではないでしょうか。人間の内部には、いろいろの思いや希望、欲望、恐怖などが潜んでいて、それらは、外部の状況に応じて出たり、引っ込んだり、変化したりします。
例えば、空腹時にレストランの前を通ったときには、ショーウィンドウの中の肉料理が魅力的に感じられる人もいるでしょう。 その時の、「肉が食べたい」という思いを“内なる神の声”だと考え、その店に入ってステーキを食べる行為を考えてみましょう。この人は、本当に「神の御心に聴く」ことをしたのでしょうか。それとも、この人の場合、神との間に「欲望」が介在したために、「神の御心に聴かなかった」と考えるべきなのでしょうか。また、この場合の“神の御心”とは何でしょうか?
人類の肉食の習慣が今日の自然破壊や地球温暖化の大きな原因の一つとなっていることを、この人は知らなかったとします。その場合は、「肉を食べたい」との欲望の声に素直に従うことは、神の御心に聴いたことになるのでしょうか。答えは「否」です。神の御心とは、人間の肉体的欲望のことではありません。それが起こった時に、自分がその欲望を満たすことによって、どんな結果が生ずるかを予測し、その結果の倫理的価値を判断する--この価値判断を導く“声”のことです。この“声”と欲望の声との違いが判別できないと、人間はしばしば倫理的過ちを犯すことになります。
ある行為が正しくないことを頭では分かっていても、「ほかの人もやってるから」とか、「この程度なら実害がないだろう」とか、「たまにはハメを外させてほしい」とか……欲望の側から聞こえてくる正当化の声は種々様々です。その一つ、あるいは全部を採用して欲望に身を任せることを、ここでは「神との間に何かを介在させる」と表現しています。
欲望は必ずしも悪ではありません。その満足が善い結果を生むことも少なくありません。食欲、睡眠欲、性欲の満足は、適切で正しい状況の中では身体の発達、家庭調和、子孫繁栄をもたらします。ここでの意図は、欲望全体の否定ではなく、「内なる神」が私たちに“警鐘”を鳴らすのに気づいた時の、私たちの正しい選択の仕方です。「欲望こそ自分の本心である」との浅薄で誤った人間観を採用せず、「内なる神の御心」に従った行動をすることで、心の底からの満足感が得られることを体験してほしいです。
谷口 雅宣
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