« 2015年7月 | トップページ | 2015年10月 »

2015年9月

2015年9月27日 (日)

野生動物との共存

 9月27日の『北海道新聞』にアザラシと人間の食をめぐる興味ある“せめぎ合い”の話が載っていた。日高管内の襟裳岬周辺のサケ漁では、ゼニガタアザラシが定置網を上手に出入りしてサケを食い荒らすのが問題になっていたが、そのアザラシの数が増えたため、同月15日には環境省が定めるレッドリストの「絶滅危惧Ⅱ種」から「準絶滅危惧」にクラス替えされたというのである。これはアザラシにとっては喜ぶべきことかもしれないが、人間との関係は簡単でない。漁師の立場からは、捕獲が可能になったのだから捕獲すればいいのだろうが、記事によると「アザラシは学習能力が高く、適切に捕まえるのは容易ではない」として、研究者も漁業者も頭を悩ませているのである。  
 
 アザラシの学習能力の高さを、記事はこう述べる-- 
 
「定置網内でサケを食い荒らすのは特定の成獣とみられ、多くは漁業者の来ない時間を見計らって網を出入りする。中には、侵入中の定置網を引き揚げに来た漁船かどうかをエンジン音で聞き分け、船が近づくと逃げる個体もいるという。(中略)
 環境省や北大などの研究事業で、定置網に侵入を防ぐ特殊な網を付けたところ、アザラシが前脚で器用に隙間をこじ開けて出入りしていたことが分かり、研究者を驚かせた。」 
 
 北海道全体でのゼニガタアザラシによる漁業被害額は、近年増加しており、2014年度は、前年度比46%増の1億1700万円に達したという。襟裳岬周辺では、サケ漁の被害の大きさに廃業を考えている漁師もいるらしい。 
 
 この話から私の脳裏に浮かんだのは、シカと人間との関係である。これは抽象的な問題ではなく、私たち夫婦が住む北杜市大泉町近辺にいるシカと、私たち自身との具体的な関係だ。正確な数を記録しているわけではないが、私たち二人の印象では、今年の春から夏にかけての半年間、生活の中で出会うシカの数が前年より減った。この実感の根拠の一つは、家の周りに植えたブルーベリーや畑の作物への被害が、昨年よりも少ないことだ。これは大変ありがたいことだが、その理由が判然としない。山梨県での野生のシカの生息数については、「増加の一途」というのが公の見解である。理由は、天敵の不在や漁師の減少だと言われている。 
 
 私たちが勝手に考えた「減少」の理由は、温暖化と捕獲数の拡大だ。地球温暖化は当然、高地の植生に影響を与える。これまで低地でしか育たなかった植物種も、しだいに高地で育つようになる。ということは、シカは比較的高地でも食べる植物を多く見つけることができるから、人間と遭遇する危険を冒してまで低地に降りてくる必要が減る。また、今年の早春に漁師と遭遇したシカたちは、人間の危険性を身をもって学習しただろうから、人家のあるところを避けて通るようになるだろう。そんな理由で、今年はシカとあまり遭わないのだ--私はそう解釈している。 
 
 もちろん、私は彼らとまったく遭わないわけではなく、生長の家の“森の中のオフィス”の敷地内で彼らの姿を見たこともあるし、彼らの声を聞いたこともある。また、自転車での通勤の途上、人家近くの畑で出会ったことも、八ヶ岳高原道路を渡る十頭ほどの群と遭遇したこともある。さらに、自宅裏の森の中を歩けば、彼らの“落とし物”はいくらでもあるし、庭の池の周囲に足跡を発見することも珍しくない。ただ、実感としては、そういう機会が昨年よりも減っていると感じるのだ。 
 
 いずれにせよ、自然度の高い山地などでは、人間と野生動物は生活の場を共有し、食糧を分け合って生きていかねばならない。その際、人間の都合ばかりを主張すると、動物たちを排除し、殺すこととなり結局、自然破壊に加担する。動物は、自然界の重要な構成員だからだ。「自然を愛する」と言いながら、自然破壊をする人間のジレンマがここにある。この問題を解決するには、人間が自分の都合ばかりを主張せず、野生動物の都合を一部認め、彼らにも人間の都合を一部認めてもらう--そんな相互謙譲の関係を成立させる必要があるだろう。 
 
 谷口 雅宣 

| | コメント (0)

2015年9月23日 (水)

宗教の本領は“ムスビの働き”

 今日は、午前10時半から、山梨県北杜市の生長の家“森の中のオフィス”のイベントホールで、「布教功労物故者追悼慰霊祭」がしめやかに執り行われた。私はこの御祭で「奏上の詞」を読み、玉串拝礼を行ったほか、最後に概略以下のような挨拶を述べた: 
 
------------------------------
 皆さん、本日は生長の家の布教功労物故者追悼慰霊祭に大勢お集まりくださり、誠にありがとうございます。 
 
 この慰霊祭は、生長の家の人類光明化運動・国際平和信仰運動に挺身・致心・献資の誠を捧げてくださった幹部・信徒のうち、ここ1年ほどの間に霊界に旅立っていかれた方々の御霊をお招きして、感謝の誠を捧げるために行われます。昨年は358柱の御霊様のお名前を呼び、供養させていただきましたが、今年は316柱でした。 
 
 今回の慰霊祭は、生長の家の国際本部が東京から北杜市の“森の中のオフィス”へ移転してから2回目のものです。ちょうど2年前の今日は、午前中に東京・原宿の本部会館での最後の慰霊祭を行ったあと、午後には本部職員は一斉に荷造りをして、このオフィスへ引っ越してきました。そのことをまだよく憶えている方も多いと思います。あれから2年たって、私たちは漸く、森の中の生活にも慣れてきたのではないでしょうか? 東京はあらゆるものがとても便利にできていますが、こちらは不便なことが多くあります。その中でも、私は講習会などで各地に行く際、交通の便の悪さはよく感じます。日本の交通網は、陸路も空路も、ほとんどが東京に出やすいように造られていて、山梨県へ来やすいようにはできていない。だから、山梨県には空港はなく、陸路では東京から山地を2つほど越えねばなりません。最低でも2時間はかかります。今回は、それにもかかわらず、布教功労者の遺族の方々は、この慰霊祭のために日本各地から八ヶ岳の山奥までよく来てくださいました。ご足労をかけました。あらためて心から御礼申し上げます。ありがとうございます。 
 
 しかし、不便であることは、必ずしも悪いことではありません。皆さんはこの地に来られて、都会にはない優れたところが数多くあることに気づかれたと思います。まず空気はきれいで、水は豊かでおいしい。木々や山々は色鮮やかで美しい。農産物、特に果物類が豊かに育ち、おいしいです。モモは極上。今はブドウとリンゴ、そしてキノコの季節です。県外から来られた方は、どうか山梨県産の季節のものを味わってからお帰りください--こんな話をすると、まるで観光案内のようです。しかし、人間と自然が密接な関係にありながら、しかも調和し共存しているということは、とても大切なことであります。これは、双方が「結び合う」関係にあるということです。それが、自然と人間との本来の関係であるということを、私は皆さんに申し上げたい。都会には、残念ながら、この素晴らしい関係がもはや存在しません。 
 
 生長の家は昨年秋、龍宮住吉本宮の大祭のとき、ご祭神として住吉大神に加えて、天之御中主大神、高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)の、いわゆる“造化の三神”を新たに勧請し、自然界のムスビの働きから学び、その回復を志すと共に、私たちの日常生活にも“結び合う”心をもっともっと反映させる運動を進めていこうとしています。これは、現在の世界全般の状況が、テロリズムや資源獲得競争に見られるように、相互に“結び合う”よりも、お互いに“はじき合ったり”“退け合ったり”“対立する”方向に進んでいることに危機感をもつからです。 
 
 宗教は一見、離れてバラバラに見えるものを結び合わせ、融合させるところに、本来の存在意義があるのです。それが残念ながら現在、一部の宗教においては、人々や社会をバラバラにする方向に動いている。これは誠に残念なことです。カトリック教会のフランシスコ教皇は就任後、アメリカとキューバの国交回復に大きく貢献されました。また、近代以降の人類の自然破壊の歴史を批判され、神の被造物である自然界は尊いものだから、人間はそれを讃え、大切に養う義務があることを、最近出された回勅の中で雄弁に説かれています。一見分離し、対立するように見える自然と人間の関係を、「融合する」方向に導かれようとしているのです。これこそ、宗教本来の役割です。 
 
 この慰霊祭も、心を「結び合わせる」ための宗教行事であることを、皆さんは思い出してください。慰霊祭は「先祖の霊に感謝する」のが目的ですが、この「先祖の霊に感謝する」際には、私たちはどんな心境にならねばならないでしょうか? その際は、祖父母や親の生前の私たちへの想いや愛情、信念、信仰、社会的業績などを振り返ります。それは、ひと言でいえば、親やご先祖の心を、自分の中に取り込むことです。別の言い方をすれば、個人としての“心の壁”を取り払って、親やご先祖の心にまで自分の意識を拡大させるのです。親やご先祖の心を我が心としようという試みです。一見、別物のように感じられていた親やご先祖と自分の心の共通点を見出し、確認し、喜ぶことです。これが、宗教の得意とする“ムスビの働き”です。 
 
 人間は、この“ムスビの働き”によって救いを得るのです。人間は、最終的には個人として生きるだけでは幸せになることはできません。なぜなら、私たちは、誰でも必ず肉体を棄てる時が来るからです。そのときには、どんなに多くの富、どんなに高い地位、どんな名誉を得た人も、それらを肉体と一緒にすべて捨てていかねばなりません。もし努力して得たものすべてを棄ててなお、幸せを感じる人がいたならば、その人は、それらのものを他の人や、団体、あるいは国家に与えること--つまり、遺していくことに喜びを感じるからです。もうその時には、その人は「個人」として生きているのではなく、より大きなものの一部として生きている。つまり、「個」を棄てているか、あるいは「個」を超えているのです。より高次のものと結び合っているから幸せを感じるのです。 
 
 今度の連休中に多くの人たちレジャーを楽しみました。その一方で、メディアの報道によると、この貴重な時間を自分のためにではなく、茨城県常総市の洪水被害者救援のために使った人もかなりいらしたそうです。こういうボランティア活動は、「個」を超えて他者と融合する活動で、宗教本来の“ムスビの働き”の表現でもあります。 
 
 今日、祭祀された御霊様たちは皆、生長の家の真理を多くの人々に伝えることで、「個」を超えた“ムスビの働き”を長年にわたり率先垂範された方々ですから、霊界においても「個」を超える幸せを味わっていられるに違いないのであります。皆さまも安心され、生前の御霊様のご意思を我が心として、これからも人類光明化運動・国際平和信仰運動に邁進していただくことを念願いたします。 
 
 それでは、これをもって私の慰霊祭での言葉とします。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2015年9月18日 (金)

「青々舎通信」 (1)

 「青々舎」とは、今から22年前の1993年、冷夏の影響で深刻なコメ不足が起こった時、個人輸入のルートを使って海外産米の入手を手助けした“団体”の名称である。団体とは書いたが、私一人が「代表」という立場で、輸入希望者の注文を海外の輸出業者に取り次いだだけで、団体のメンバーが何人もいたわけではない。そんな“団体”の名前が今、なぜ登場したかというと、今年の2月ごろから、私がクラフト(手工芸品)を製作した際に、完成品に付けるブランド名としてこの名称を採用したからだ。 

 
「青々」は「あおあお」ではなく、「せいせい」と読む。日本語の「青」は通常は「ブルー」を意味するが、古典的には「緑」--とりわけ「草の葉の緑」を意味していて、私が現在居を構える北杜市大泉町の環境を象徴する色と考え、使うことにした。 
 
 生長の家の“森の中のオフィス”には、「こもれび」という名前の小さな売店がある。主として生長の家の書籍類、CDなどを販売するが、職員の有志が製作したクラフトも置いてあり、継続的に買われている。職員の間の需要もあり、またオフィスの見学者が来場して買ってくださる。私も時々ここに手製のマグネットなどを出品している。私がなぜクラフト製作などをしているかという理由については、昨年11月9日や、今年1月22日の本欄にすでに書いたので、詳しいことは省略する。が、簡単に言えば、手を使う“もの作り”は人間のごく自然な営みであり、これによって人間は太古から自然を感じ、自然の中から道具を作り、それを使って厳しい自然環境で生き抜き、かつ自己表現をしてきたからである。 
 
 私が作るものがマグネットである理由は、定かでない。たぶん「手軽だから」という要素が大きい。また、表現の幅が案外ある。私は普段、講演旅行をしたり、原稿を書いたり、会議をしたりで、時間的余裕は少ないから、ちょっと空いた時間を使って作れるものの種類は、自ずから限定される。掌に載る大きさのもので、工程も道具もそれほど複雑でなく、比較的短時間にできる……となると、マグネットは適当なのだろう。昨年秋にオフィスで初めて行われた「自然の恵みフェスタ」に出品して以来、月1回くらいのペースで出品している。 
 
Ladybugs  最近、テントウムシをあしらった円形のマグネットを製作した。(=写真)なぜテントウムシか? テントウムシは、バラなどにつくアブラムシを食べてくれる“益虫”である。また私は、あの赤地に黒の斑点が7つついたナナホシテントウのデザインが好きである。色の組み合わせだけでなく、斑点の数が7つと少ないのがいい。ニジュウヤホシテントウという、斑点が28個もある黄色いテントウムシもいるが、デザインが煩雑すぎて親しみがあまり湧かない。ずいぶん勝手な言い草かもしれないが、好みは理屈ではなかなか説明できない。 
 
 テントウムシは、英語では「ladybird」とか「ladybug」などというエレガントな呼ばれ方をする。その場合、大抵は赤地に黒の斑点がついたナナホシテントウのことを指す。こっちの方が「かわいらしいから」だ、と私は勝手に解釈している。そんなこんなで、私はワイシャツを誂える際には、腕に付けるイニシャルのデザインとしてテントウムシを使うことにしている。その場合、テントウムシのデザインには七星の赤地に黒のものしか用意されていない。ワイシャツメーカーのデザイナーも、私と同じ感覚であるに違いない。  
 
 こう考えるのは、人間の悪いクセかもしれない。人間は、自然界のおびただしい数の生物の中から、自分勝手の好みや嗜好にもとづき、ごく少数の種類を選んで偏愛するのである。これははたして“自然な”感覚なのか、それとも“人工の”感覚なのか……。 
 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2015年9月 5日 (土)

ローマ教皇の“環境回勅”(5)

 人間が、自然界の他の生物より優れている理由は何だろうか? 
 前回の本欄で触れたように、生長の家では、人間は「神の最高の自己実現」であると説いているから、理由は明白だ。神自身が人間を通して、この世界に自己表現をしていると考えるのだ。「人間は神の子」であるという教えは、人間以外の生物を貶めるためにではなく、人間が他の生物にない“神的”な自覚を有しているという点にこそ重点がある。その点を、今日のカトリックの教えはどう捉えているのだろうか? 
 
 回勅はその65~67番目の段落で、『創世記』の天地創造の物語を扱い、人間がなぜ他の生物より優れているかの理由を、次のように述べている-- 
 
“『創世記』の最初の創造の記述では、神の計画は人間の創造を含んでいる。神は男女の人間を造ったあと「神はその造りたるすべてのものを見給いて、『とても良い』と言われた」のだ。(第1章31節)聖書は、あらゆる男女は神の愛により、しかも神の似姿として創造されたと教えている。(第1章26節参照)これは、人それぞれには偉大な尊厳があることを示している。それぞれの人間は単に「何か」であるのではなく、「誰か」であるのだ。彼は、自己を知ることができ、自己を所有(支配)することができ、自由に自己を他に与えることができ、他の人々と協力関係に入ることができる。聖ヨハネ・パウロ2世は、それぞれの人に対する神の特別の愛は、「彼または彼女に無限の尊厳を与える」と言った。人間の尊厳を護ることを重視する人々は、キリスト教の信仰の中にその最も深い理由を見出すことができるだろう。それぞれの人の生が、純粋なチャンスや終りのない円環に支配される世界の、希望のない混沌のただ中に浮かんでいるのではないという確信は、何とすばらしいことだろう! 創造主は、私たち一人一人に向かって「あなたが子宮の中で形づくられる前から、私はあなたを知っていた」(『エレミア書』第1章5節)と語りかけることができる。私たちは、神の御心の中で生を享けたのである。だから「私たちそれぞれが神の御心の結果である。それぞれが神に望まれており、愛されており、神にとって必要である」のだ。” 
 
 回勅のこの文章は、人間が他の生物より優れている理由は、「神の似姿として特別の愛を享けている」からで、神にとって必要であるからだと述べているようだ。しかし、「神の似姿」とはどういう意味であるかは、明確でない。上の記述に沿ってあえてその意味を想像すると、それは自己認識、自己支配、他者のための自己放棄と協力--そういう能力を人間が与えられているからだ、ということになるだろうか? 
 
 では、神の特別な恩寵を受けたこのような人間が、神の創造になる自然界を破壊するなどの罪をなぜ犯したのか。これについての解釈が、66番目の段落で記述される。回勅はまず、人間の生というものは、3つの基本的で、相互に結びついた関係の上に成り立っているとする。それは、神との関係、隣人との関係、そして地球それ自体との関係だという。生長の家的な表現を使えば、神・自然・人間の相互関係である。そして、聖書によれば、この3つの重要な関係は外向きにも、内向きにも破壊されていて、この断絶が罪であるという。では、なぜそれが起こったか-- 
 
“創造主、人間、被造物全体の調和が途絶えたのは、私たちが神の地位に上ろうとし、自分たちの被造物としての限界を認めることを拒否したからである。このことが、逆に「地を従わせよ」(『創世記』第1章28節)と「耕し守れ」(同書第2章15節)という神の命令を誤って読み取らせた原因である。その結果、本来調和的な関係にあった人間と自然とは、対立することになった。(同書第3章7~19節)アッシジの聖フランチェスコがすべての生物との間に経験した調和が、この関係途絶を癒す道の一つであると見られたことは、重要である。聖ボナボンチューレも、あらゆる被造物との全的調和を通して、聖フランチェスコはなぜか本来の罪のない状態に回帰することができたと述べている。このことは、今日の私たちが置かれた状況からほど遠いものだ。現在は、罪が様々な形で、戦争その他の数多くの暴力や虐待、最も弱いものの放棄、そして自然への攻撃の形で現れている。” 
 
 人間同士はもちろん、あらゆる生物との全的調和を通して、“神の似姿”としての本来の人間の姿が顕現し、罪のない世界が実現する--回勅のこれらの文章からは、こういうメッセージが読み取れるのではないか。「大調和の神示」の教えを思い出す人は、私だけではあるまい。 
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

« 2015年7月 | トップページ | 2015年10月 »