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2015年9月 5日 (土)

ローマ教皇の“環境回勅”(5)

 人間が、自然界の他の生物より優れている理由は何だろうか? 
 前回の本欄で触れたように、生長の家では、人間は「神の最高の自己実現」であると説いているから、理由は明白だ。神自身が人間を通して、この世界に自己表現をしていると考えるのだ。「人間は神の子」であるという教えは、人間以外の生物を貶めるためにではなく、人間が他の生物にない“神的”な自覚を有しているという点にこそ重点がある。その点を、今日のカトリックの教えはどう捉えているのだろうか? 
 
 回勅はその65~67番目の段落で、『創世記』の天地創造の物語を扱い、人間がなぜ他の生物より優れているかの理由を、次のように述べている-- 
 
“『創世記』の最初の創造の記述では、神の計画は人間の創造を含んでいる。神は男女の人間を造ったあと「神はその造りたるすべてのものを見給いて、『とても良い』と言われた」のだ。(第1章31節)聖書は、あらゆる男女は神の愛により、しかも神の似姿として創造されたと教えている。(第1章26節参照)これは、人それぞれには偉大な尊厳があることを示している。それぞれの人間は単に「何か」であるのではなく、「誰か」であるのだ。彼は、自己を知ることができ、自己を所有(支配)することができ、自由に自己を他に与えることができ、他の人々と協力関係に入ることができる。聖ヨハネ・パウロ2世は、それぞれの人に対する神の特別の愛は、「彼または彼女に無限の尊厳を与える」と言った。人間の尊厳を護ることを重視する人々は、キリスト教の信仰の中にその最も深い理由を見出すことができるだろう。それぞれの人の生が、純粋なチャンスや終りのない円環に支配される世界の、希望のない混沌のただ中に浮かんでいるのではないという確信は、何とすばらしいことだろう! 創造主は、私たち一人一人に向かって「あなたが子宮の中で形づくられる前から、私はあなたを知っていた」(『エレミア書』第1章5節)と語りかけることができる。私たちは、神の御心の中で生を享けたのである。だから「私たちそれぞれが神の御心の結果である。それぞれが神に望まれており、愛されており、神にとって必要である」のだ。” 
 
 回勅のこの文章は、人間が他の生物より優れている理由は、「神の似姿として特別の愛を享けている」からで、神にとって必要であるからだと述べているようだ。しかし、「神の似姿」とはどういう意味であるかは、明確でない。上の記述に沿ってあえてその意味を想像すると、それは自己認識、自己支配、他者のための自己放棄と協力--そういう能力を人間が与えられているからだ、ということになるだろうか? 
 
 では、神の特別な恩寵を受けたこのような人間が、神の創造になる自然界を破壊するなどの罪をなぜ犯したのか。これについての解釈が、66番目の段落で記述される。回勅はまず、人間の生というものは、3つの基本的で、相互に結びついた関係の上に成り立っているとする。それは、神との関係、隣人との関係、そして地球それ自体との関係だという。生長の家的な表現を使えば、神・自然・人間の相互関係である。そして、聖書によれば、この3つの重要な関係は外向きにも、内向きにも破壊されていて、この断絶が罪であるという。では、なぜそれが起こったか-- 
 
“創造主、人間、被造物全体の調和が途絶えたのは、私たちが神の地位に上ろうとし、自分たちの被造物としての限界を認めることを拒否したからである。このことが、逆に「地を従わせよ」(『創世記』第1章28節)と「耕し守れ」(同書第2章15節)という神の命令を誤って読み取らせた原因である。その結果、本来調和的な関係にあった人間と自然とは、対立することになった。(同書第3章7~19節)アッシジの聖フランチェスコがすべての生物との間に経験した調和が、この関係途絶を癒す道の一つであると見られたことは、重要である。聖ボナボンチューレも、あらゆる被造物との全的調和を通して、聖フランチェスコはなぜか本来の罪のない状態に回帰することができたと述べている。このことは、今日の私たちが置かれた状況からほど遠いものだ。現在は、罪が様々な形で、戦争その他の数多くの暴力や虐待、最も弱いものの放棄、そして自然への攻撃の形で現れている。” 
 
 人間同士はもちろん、あらゆる生物との全的調和を通して、“神の似姿”としての本来の人間の姿が顕現し、罪のない世界が実現する--回勅のこれらの文章からは、こういうメッセージが読み取れるのではないか。「大調和の神示」の教えを思い出す人は、私だけではあるまい。 
 
 谷口 雅宣

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