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2015年7月

2015年7月 7日 (火)

七重塔の意味するもの

 今日は午前11時から、山梨県北杜市の生長の家“森の中のオフィス”にある万教包容の広場で「万教包容の御祭」が執り行われた。この御祭は2年前のオフィス落慶の年から行われているもので、今回で3回目。昭和7年の7月7日に「万教包容の神示」が下されたことに因み、万教帰一の教えを象徴する七重塔の前で、その教えを通して、神・自然・人間の大調和による世界平和の実現を誓うもの。 
 
 私は御祭の最後に概略、以下のような言葉を述べた: 
 
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 皆さん、本日は「万教包容の御祭」にご参加くださり、ありがとうございます。この御祭は、ちょうど2年前(2013年)の今日、生長の家では初めて執り行われたもので、その時は、この“森の中のオフィス”の落慶式の日でありました。つまり、私たちのこの“オフィス”は、7月7日に合わせて落慶したのであります。その理由はいくつもありますが、そのいくつもの理由を象徴しているのが今、私たちの目の前にある「七重塔」であります。 
 
 このことはすでにオフィス落慶のときに発行されたパンフレットに詳しく書かれていることですが、重要なのでここで繰り返して説明いたしましょう。 
 すでにご存じの方も多いと思いますが、「7」という数字が「すべて」のこと、また「完成」を意味することは、洋の東西で共通しています。1週間は7日あり、7日たつとその週が完成する--別の言い方をすれば、私たちは7日ですべての日を経験するのであります。そういう生き方を、人類は大昔からやってきました。そして、その習慣と密接に関係していると思われるのが、聖書の『創世記』にある天地創造の物語です。それによると、神は6日間で天地を創造され、7日目には休まれたとあります。このことも、「7は完成を意味する」と解釈される理由です。 
 
 東洋の伝統でも、「7」は「すべて」や「完成」を意味します。観世音菩薩は「三十三身に身を変ずる」と言われますが、別の表現では「七観音」というのがあります。「7」ですべてを表すという考えが背後にあります。儒教で「七教」といえば「人が守るべき7つの教え」であり、「七経(けい)」といえば、儒教の主要の教典全部です。仏教では「七大」とは、物質と精神を含んだ宇宙の万物一切のことです。また、「七賢」とは、周の時代の七賢人のことで、これは「賢人全部」のことです。決して、山梨県のお酒の名前だけではありません。 
 
 このように、「7」という数が、「すべて」や「完成」を象徴する数字であることを理解すれば、皆さんも7月7日に七重塔の前で儀式をすることの意義が納得されると思います。「すべて」も「完成」も実相世界を示す言葉であります。現象世界は、常にどこかが欠けていて「すべて」があるわけではない。また、不完全な部分も多くあってまだ「完成」していない。これは、現在の“現象人間”や“現象国家”がどんな状態であるかを思い出してみればわかることです。これに対して、神が創造されたままの実相世界には、すべてが在って完成しているのであります。 
 
 そのことは、聖経『甘露の法雨』には象徴的に、次のように表現されています-- 
 
 神があらわるれば乃ち
 善となり、
 義となり、
 慈悲となり、
 調和おのずから備わり、
 一切の生物処を得て争うものなく、
 相食むものなく、
 病むものなく、
 苦しむものなく、
 乏しきものなし。 
 
 この「すべて」が「完成」している姿を、象徴的に形に表したのが、七重塔です。この七重塔の構造を見るとわかるのは、中心に鉄の芯が縦に1本貫いていて、それに結ばれて7つのお社が重なり合っていることです。7つのお社はそれぞれ別のように見えていても、中心を共有してバランスよくまとまっているため、遠方から見れば1つに見える。先ほど触れたように、7は「すべて」や「完成」を意味していますから、この形は「すべてのものが中心帰一して、1つの完成した全体を構成している」ことを表しているのです。 
 
 ただ、この「すべてのもの」という表現が抽象的で、よく分からない、判然としないという人もいるので、より具体的に、どんな分野のどんなものを指しているかを示すのが分かりやすく、親切であろうというので、7つの分野の7種類のものを例示してあります--それらは①宗教、②大陸、③民族、④文化、⑤世代、⑥生物、⑦拠点・組織、と表現されています。これも誤解してほしくないのは、ここでの「7」という数字は、具体的な数ではなく「すべて」という意味です。 
 
 例えば、七重塔の七層のお社の一番上を「7つの宗教」だと言えば、それは具体的にキリスト教、イスラーム、仏教、ヒンズー教、神道、ゾロアスター教、ジャイナ教だと考えると、その他の宗教--儒教や道教、ユダヤ教、マニ教など--は含まれないなどと考えがちです。が、そうではなく、「7つの宗教」は「すべての宗教」を意味すると考えてください。同じようにして、「7つの大陸」と言えば普通は、アジア、ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカ、アフリカ、オーストラリア、南極を指しますが、それではインド亜大陸や中米は含まれないのかといえば、含まれるのです。また日本のような島国も別に排除されるわけではない。「7つの大陸」とは「地球上の海でないところすべて」という意味です。 
 
 同じようにして、「7つの民族」とは「すべての人類」という意味であり、「7つの文化」は「すべての文化、「7つの世代」とは「すべての世代」ですから「永遠に」という意味になり、「7つの生物」は「生きとし生けるものすべて」であり、「7つの拠点・組織」とは「すべての拠点・組織」という意味です。つまり、七重塔が示しているのは、「時間、空間の制約を超えて、多様なものがすべてそろい、しかも一つの中心に統一されている」ことを表しています。それが、神の創造になる世界の実相であり、私たちはそれを縦・横・厚みの3次元の形に表現したものを目の前にしているのです。ですから、私たちが谷口雅春先生が揮毫された「實相」の御軸を目の前にしているのと、この七重塔に相対しているのとは、同じ意味がある--そう理解していただけると有難いです。 
 
 さて、このような理由で、今日の「万教包容の御祭」では新たに加わった七重塔を除幕し、その前で『観世音菩薩讃歌』を読誦したのでした。この七重塔の最下部には、サンスクリット文字で「5」という数字が入っています。3基しか見えないのになぜ「5」であるかの理由は、すでにご存じの方も多いでしょう。それは、すでに赤坂と原宿の「いのちの樹林」に3基目と4基目の塔が設置されているからです。このようにして、七重塔を毎年増設していこうというのが、私たちの考えです。それは、万教帰一の考え方が、毎年毎年、世界中に拡がっていくことを私たちは目指し、祈り続けているからです。その誓願を形に表した儀式が、この「万教包容の御祭」です。 
 
 また、除幕式では、『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』が塔の基台に収められました。これらの経本は1年間、このオフィスで本部講師の方々が世界平和と自然との大調和を祈りながら読誦し続けたものです。「神・自然・人間の大調和」による世界平和を実現するという私たちの誓願が、これらの七重塔に具現しているのであります。 
 
 このような私たちの誓願にもかかわらず、「世の中はあまり変わらない」という印象はあるかもしれません。しかし、変わらないところはあっても、変わりつつあるところもあります。最近の私のブログを読まれた方はご存じですが、宗教界では大きな変化が起こりつつあります。それは、これまでどちらかというと人間中心主義に傾いていたカトリック教会が、フランシスコ教皇の登場によって、自然重視の方向に転換することを示す「回勅」という公式文書を発表したことです。その回勅から1節を引用して、今日のご挨拶の言葉を締めくくりたいと思います-- 
 
“私たちの時代には、人間以外の被造物は人間の利益に完全に従属すると語るだけでは、教会は不十分だ。それでは、彼ら被造物はそれ自体の価値をもたず、人間の考え次第でどうにでも扱われることになる。ドイツ司教会では、他の生物種に関してこう教えている--私たちは、「存在する」ことを「利用できる」ことに優先して語ることができる、と。教義要覧は、ゆがんだ人間中心主義を、このように明確に、力強く批判している--「それぞれの被造物は、それ固有の善さと完全性を備えている(…中略…)多くの様々な被造物は、それぞれがそれ自体の存在を望まれており、それぞれの独自の仕方で神の無限の英知と善の光を反映している。人間はだから、あらゆる被造物の特定の善さを尊敬し、秩序のない利用を避けなければならない。” 
 
 ここでローマ教皇は、人間の利益のために生物を利用し続けてきた生き方を「不十分だ」と批判し、すべての生物種にはそれ自体に固有の価値があることを認め、それらは「神の無限の英知と善の光の反映」であると説いています。この考え方は、今から15年前に決定した私たち生長の家の環境方針の「基本認識」と変わりません。それを思い出していただくために引用します-- 
 
「今日、吾々人類に必要とされるものは、大自然の恩恵に感謝し、山も川も草も木も鉱物もエネルギーもすべて神の生命(いのち)、仏の生命(いのち)の現れであると拝み、それらと共に生かさせて頂くという宗教心である。この宗教心にもとづく生活の実践こそ地球環境問題を解決する鍵であると考える。」 
 
 このように、私たちが進んでいる方向に世界は大きく舵を切りつつあるのです。どうか皆さん、自然と共に伸びる生き方の実現を期して建設された、この“森の中のオフィス”落慶の日に、また「万教包容の神示」が下されたこの日に、私たちの目指す方向をしっかりと再確認し、自信と勇気と創造力をもって“新しい文明”の構築に向かって進んでいきましょう。 
 
 これで私の言葉を終ります。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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2015年7月 6日 (月)

ローマ教皇の“環境回勅”(4)

 ところで、今回の回勅のタイトルである「ラウダート・シ」がどんな由来の言葉であるかを知ると、フランシスコ教皇の意図がより明確になるだろう。カトリック中央協議会のウェブサイトによると、このラテン語は、アッシジのフランチェスコの詩『太陽の讃歌』の中の「ラウダート・シ、ミ・シニョーレ」(「讃えられよ わが主」の意)から取られているという。つまり、神への讃美を表している。また、現在の教皇自身--本名は、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(Jorge Mario Bergoglio)--が教皇としての自分の名前に「フランシスコ」(イタリア語の発音では「フランチェスコ」)を選んだこと自体が、カトリック教会の中心者として自分が目指す方向性を、従来の“多数派”路線ではなく、“少数派”であったこの聖人の精神に照準を合わせていることを窺わせる。 
 
『太陽の讃歌』という詩は、「兄弟である太陽に捧げる讃歌」というのが正式名称だ。この詩は、実は、今回の回勅の87番目の段落に一部が引用されている。このことを考えても、現教皇がアッシジのフランチェスコをいかに模範としているかが推測できる。引用部分の日本語訳を以下に掲げる-- 
 
 たたえられよ わが主
 あなたから 造られたもの
 わけても 貴き兄弟太陽によって
 彼は 昼をつくり
 主は 彼により われらを照らす 
 
 彼は 大いなる光によって
 美しく 照り輝き
 いと高き あなたの
 み姿を 映す 
 
 たたえられよ わが主
 姉妹なる月と あまたの星によって
 あなたは それを 大空にちりばめ
 美しく貴く きらめかす 
 
 たたえられよ わが主
 兄弟なる風 大気や雲
 さま変る 天の事象によって
 あなたは それにより
 造られた すべてを支える 
 
 たたえられよ わが主
 姉妹なる水によって
 それは みなを生かし
 おごることなく 貴く
 また 清らかに澄む 
 
 たたえられよ わが主
 あなたは 兄弟なる火によって
 夜の闇を 照らす
 彼は美しく 心地好く
 たくましく 力あふれる 
 
 この箇所で注目されるのは、普通は「天体」とか「自然現象」とか「物質」と考えられるものを、作者は自分と同レベルで親しい関係を示す「兄弟」「姉妹」という言葉で呼んでいる点だ。これらすべてが「神を讃える」という崇高な目的のもとに造られたという意識が、その背後に感じられる。彼は、太陽や月、星、風、水、大地など、神がつくられた全てのものを通して神を讃美している。彼の中には、現代の物理学や天文学が前提とするような機械論的宇宙観は存在せず、すべてが生命に溢れる神の創造だと感得されていたのだろう。宗教学者のデヴィッド・キンズレー氏(David Kinsley)によると、「われわれは“もの言わぬ自然”と言うが、フランチェスコにとっては、自然は“ものを言わない”どころでなく、大声で歌を歌い、創造主の美しさを証言している」のである。 
 
 ここで読者には、自然界のすべてのものが、このように「創造主の美しさを証言」したり、讃美すると認めることは、一種の汎神論ではないか、という疑問が湧いてくるかもしれない。しかし、回勅は78番目の段落で、汎神論を明確に否定している-- 
 
“それと同時に、ユダヤ=キリスト教の思想は自然を神秘化しなかった。それは、自然の偉大さや広大さに感嘆し続けながら、自然を神聖化しなかった。その代わり、人間の自然に対する責任を最大限に強調したのである。このような自然の再発見は、人間の自由と責任の犠牲によるものであってはいけない。人間は、世界の一部として自然を保護し、その潜在力を開発するために、人間の能力を高める義務がある。もし私たちが自然の価値とその壊れやすさ、それと共に神から与えられた私たちの能力を認めるならば、私たちは無限の物質的進歩という現代の神話からやっと卒業することができるだろう。神から人間に世話を委ねられた壊れやすい世界は、私たちの力を方向づけ、開発し、制御する知恵ある方法を見出すよう、私たちに挑戦している。” 
 
 人間は、自然界の生物や事象を神秘化したり、神聖視するのではなく、自然を神の被造物として大切に管理し、自己目的にではなく、神の目的のために世話し、制御する義務を負う。そのための方法を開発するために努力しよう--そういうメッセージがここからは読み取れる。神・自然・人間の三者の関係では、「神-人間-自然」という序列が付されているように思える。しかし、生長の家も、人間を単なる被造物の一つとはとらえずに、「神の最高の自己実現」と評価しているから、違いはそれほど大きくないだろう。 
 
 谷口 雅宣
【参考文献】
○レオナルド・ボフ著/石井健吾訳『アシジの貧者・解放の神学』(エンデルレ書店、1990年)
○David Kinsley, "Christianity as Ecologically Responsible," in This Sacred Earth: Religion, Nature Environment, ed. Roger Gottlieb (London: Routledge, 1996).

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2015年7月 2日 (木)

ローマ教皇の“環境回勅”(3)

 回勅『ラウダート・シ』では、教典解釈の変更について2箇所で述べている。最も詳しいのは67番目の段落で、次のようにある-- 
 
“私たちは神ではない。私たち以前に地球はここにあり、それは私たちに与えられたものだ。この事実は、「地を従わせよ」との『創世記』の記述をもとにしたユダヤ=キリスト教の思想が、人間が本来専制的、破壊的に自然から際限なく搾取することを奨励したという批判に応える道を与えている。この見方は、教会が考える聖書の正しい解釈ではない。私たちキリスト者がかつて教典を間違って解釈していたことは事実だが、昨今においては、人間は神の似姿に創造され地の支配権を与えられたのだから、他の被造物を絶対的に支配することができるという考えを、強く拒絶しなければならない。” 
 
 この文章で、「私たちキリスト者がかつて教典を間違って解釈していた」と明確に認めていることは注目に値する。「私たちキリスト者」(we Christians)という表現は、実際は誰を指すのか明確ではないが、カトリック教会の最高位の人物が、過去の間違いを認める表現としては精一杯のものではないだろうか。それに続く、今後はその誤った教典解釈を「強く拒絶しなければならない」という決意表明は見事だと思う。 
 
 そして、そのあとに来る文章は、聖書からの引用をいくつも重ねながら、なぜ過去の解釈が誤りであるかを説明している-- 
 
“聖書の記述は、文脈を考え、適切な解釈をもって--ここでは、神が世界の庭を「耕させ、守らせられた」(『創世記』第2章15節)とあるのを取り入れて理解されるべきである。「耕す」とは、耕作することであり、鋤を入れることであり、働くことである。「守る」とは、世話をし、保護し、管理し、保存することである。これは、人間と自然との相互に責任のある関係を暗示している。生存のためには、それぞれの地域の人々は土地の恵みから取ることができるが、それと同時に、それらの人々はその土地を保護し、後世の人々のために土地の豊かさを確保する必要がある。「地と、それに満ちるもの……は主のものである」(『詩篇』第24章1節)。「地と、地にあるものとはみな」(『申命記』第10章14節)主に属する。このように、神は絶対的所有権の主張をすべて拒否されている--「地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである」(『レビ記』第25章23節)。” 
 
 ここにあるのは、人間の絶対的所有権の否定である。この世で人間が住む土地は、たとい法律的には個人や団体の名で所有権登記がされていても、本当の意味では人間や、その集団である団体に属するものではなく、神に所属すると明言している。これは、ヨハネ・パウロ2世の「すべての財産は“社会的抵当”に入っている」という言葉に呼応するし、自然界を「人間のための宿」と呼んだアウグスティヌスの比喩とも整合する。しかし、その地と、地にあるすべてのものが、代々の人間の生存と関わりなく、それ自体で価値があるかどうかについては、この文章は何も言っていない。 
 
 それを述べているのは、69番目の段落である-- 
 
“私たちは、地の財産を責任をもって使う義務があるとともに、神の目から見れば、他の生物種はそれぞれの価値をもっていることを認めなけばならない。そのことは、教義要覧に「その存在自体が神を讃え、神に栄光を与えている」と、また「主がそのみわざを喜ばれるように」(『詩篇』第104章31節)とある。私たち人間に与えられた独自の尊厳と知性という恩恵によって、私たちは神の創造と固有の法則を敬うことを求められている。なぜなら、「主は知恵をもって地の基(もとい)をすえ」(『箴言』第3章19節)られたからである。” 
 
 人間が自然を敬わねばならない理由は、すべての被造物が神を讃えるためにあり、また神が英知をもってそれらを創造されたからだ--というのが、ここで述べられている論理だ。この論理は、聖書からの引用で組み上げられていて、言わば“過去”からの正当性を示すものだが、そのあとに続く文章は明確に“今の時代”を見すえ、この論理を援用し、その上で人間以外の被造物の存在価値を讃えている-- 
 
“私たちの時代には、人間以外の被造物は人間の利益に完全に従属すると語るだけでは、教会は不十分だ。それでは、彼ら被造物はそれ自体の価値をもたず、人間の考え次第でどうにでも扱われることになる。ドイツ司教会では、他の生物種に関してこう教えている--私たちは、「存在する」ことを「利用できる」ことに優先して語ることができる、と。教義要覧は、ゆがんだ人間中心主義を、このように明確に、力強く批判している--「それぞれの被造物は、それ固有の善さと完全性を備えている(…中略…)多くの様々な被造物は、それぞれがそれ自体の存在を望まれており、それぞれの独自の仕方で神の無限の英知と善の光を反映している。人間はだから、あらゆる被造物の特定の善さを尊敬し、秩序のない利用を避けなければならない。” 
 
 ここまで読み進めれば、読者は、今日のカトリック教会が進もうとしている道が、これまで私たち生長の家が歩んできた道とあまり変わらないことを理解してくれるだろう。このたび『万物調和六章経』に収録された私の「神の無限生命をわが内に観ずる祈り」には、神・自然・人間の一体性が次のように描かれている。それは、上に引用した今回の回勅の精神を、より詩的に表現していると言えないだろうか-- 
 
“神さまはすべてのすべてですから、
 神さまの「外」にあるものはありません。
 神さまの内にあって、
 私は植物を愛で、
 植物に生かされ、
 植物に与えるとともに、
 植物は神さまの命を私に与えてくれます。
 (…中略…)
 神さま、
 私は鳥や動物の愛らしさ、
 俊敏さ、
 美しさを心に強く感じます。
 彼らとともに地上に生きることに
 荘厳な意義を感じます。
 彼らはそれぞれ
 人間のおよばない美点を備え、
 私に
 神さまの無限の命と知恵が
 そこにあることを教えてくれます。” 
 
 谷口 雅宣

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