ローマ教皇の“環境回勅”(3)
回勅『ラウダート・シ』では、教典解釈の変更について2箇所で述べている。最も詳しいのは67番目の段落で、次のようにある--
“私たちは神ではない。私たち以前に地球はここにあり、それは私たちに与えられたものだ。この事実は、「地を従わせよ」との『創世記』の記述をもとにしたユダヤ=キリスト教の思想が、人間が本来専制的、破壊的に自然から際限なく搾取することを奨励したという批判に応える道を与えている。この見方は、教会が考える聖書の正しい解釈ではない。私たちキリスト者がかつて教典を間違って解釈していたことは事実だが、昨今においては、人間は神の似姿に創造され地の支配権を与えられたのだから、他の被造物を絶対的に支配することができるという考えを、強く拒絶しなければならない。”
この文章で、「私たちキリスト者がかつて教典を間違って解釈していた」と明確に認めていることは注目に値する。「私たちキリスト者」(we Christians)という表現は、実際は誰を指すのか明確ではないが、カトリック教会の最高位の人物が、過去の間違いを認める表現としては精一杯のものではないだろうか。それに続く、今後はその誤った教典解釈を「強く拒絶しなければならない」という決意表明は見事だと思う。
そして、そのあとに来る文章は、聖書からの引用をいくつも重ねながら、なぜ過去の解釈が誤りであるかを説明している--
“聖書の記述は、文脈を考え、適切な解釈をもって--ここでは、神が世界の庭を「耕させ、守らせられた」(『創世記』第2章15節)とあるのを取り入れて理解されるべきである。「耕す」とは、耕作することであり、鋤を入れることであり、働くことである。「守る」とは、世話をし、保護し、管理し、保存することである。これは、人間と自然との相互に責任のある関係を暗示している。生存のためには、それぞれの地域の人々は土地の恵みから取ることができるが、それと同時に、それらの人々はその土地を保護し、後世の人々のために土地の豊かさを確保する必要がある。「地と、それに満ちるもの……は主のものである」(『詩篇』第24章1節)。「地と、地にあるものとはみな」(『申命記』第10章14節)主に属する。このように、神は絶対的所有権の主張をすべて拒否されている--「地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである」(『レビ記』第25章23節)。”
ここにあるのは、人間の絶対的所有権の否定である。この世で人間が住む土地は、たとい法律的には個人や団体の名で所有権登記がされていても、本当の意味では人間や、その集団である団体に属するものではなく、神に所属すると明言している。これは、ヨハネ・パウロ2世の「すべての財産は“社会的抵当”に入っている」という言葉に呼応するし、自然界を「人間のための宿」と呼んだアウグスティヌスの比喩とも整合する。しかし、その地と、地にあるすべてのものが、代々の人間の生存と関わりなく、それ自体で価値があるかどうかについては、この文章は何も言っていない。
それを述べているのは、69番目の段落である--
“私たちは、地の財産を責任をもって使う義務があるとともに、神の目から見れば、他の生物種はそれぞれの価値をもっていることを認めなけばならない。そのことは、教義要覧に「その存在自体が神を讃え、神に栄光を与えている」と、また「主がそのみわざを喜ばれるように」(『詩篇』第104章31節)とある。私たち人間に与えられた独自の尊厳と知性という恩恵によって、私たちは神の創造と固有の法則を敬うことを求められている。なぜなら、「主は知恵をもって地の基(もとい)をすえ」(『箴言』第3章19節)られたからである。”
人間が自然を敬わねばならない理由は、すべての被造物が神を讃えるためにあり、また神が英知をもってそれらを創造されたからだ--というのが、ここで述べられている論理だ。この論理は、聖書からの引用で組み上げられていて、言わば“過去”からの正当性を示すものだが、そのあとに続く文章は明確に“今の時代”を見すえ、この論理を援用し、その上で人間以外の被造物の存在価値を讃えている--
“私たちの時代には、人間以外の被造物は人間の利益に完全に従属すると語るだけでは、教会は不十分だ。それでは、彼ら被造物はそれ自体の価値をもたず、人間の考え次第でどうにでも扱われることになる。ドイツ司教会では、他の生物種に関してこう教えている--私たちは、「存在する」ことを「利用できる」ことに優先して語ることができる、と。教義要覧は、ゆがんだ人間中心主義を、このように明確に、力強く批判している--「それぞれの被造物は、それ固有の善さと完全性を備えている(…中略…)多くの様々な被造物は、それぞれがそれ自体の存在を望まれており、それぞれの独自の仕方で神の無限の英知と善の光を反映している。人間はだから、あらゆる被造物の特定の善さを尊敬し、秩序のない利用を避けなければならない。”
ここまで読み進めれば、読者は、今日のカトリック教会が進もうとしている道が、これまで私たち生長の家が歩んできた道とあまり変わらないことを理解してくれるだろう。このたび『万物調和六章経』に収録された私の「神の無限生命をわが内に観ずる祈り」には、神・自然・人間の一体性が次のように描かれている。それは、上に引用した今回の回勅の精神を、より詩的に表現していると言えないだろうか--
“神さまはすべてのすべてですから、
神さまの「外」にあるものはありません。
神さまの内にあって、
私は植物を愛で、
植物に生かされ、
植物に与えるとともに、
植物は神さまの命を私に与えてくれます。
(…中略…)
神さま、
私は鳥や動物の愛らしさ、
俊敏さ、
美しさを心に強く感じます。
彼らとともに地上に生きることに
荘厳な意義を感じます。
彼らはそれぞれ
人間のおよばない美点を備え、
私に
神さまの無限の命と知恵が
そこにあることを教えてくれます。”
谷口 雅宣
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コメント
合掌 ありがとうございます。
ローマ教皇による環境回勅の本文を読ませてもらいました。
総裁先生の多くのご著書に書かれてあるエッセンスが、今回カトリック教の専門用語で語られたような印象を持ち、大変感動いたしました。
第9 の「環境問題の倫理的そして、精神的な原因を探らなければいけない。消費から供儀へ、欲から寛大さへ、廃棄から分配へと、辞退するというただの禁欲ではなく、与えることを学ぶこと」…「私が欲しいという段階から徐々に神の世界は何を必要とするかと移行していく愛の仕方である」(平峰訳) というフレーズは、四無量心を行じようと言っているのではないかと思いました。
第11 では聖フランシスコが太陽や月、微生物などを称賛していたことが書かれてあり、私達は内面的一体であるとの気持ちで称賛と喜びを持って自然と環境に接しなければいけないというところは、自然との一体感について語っていると思いました。表現はされていないが、日時計主義の生き方を思い出しました。
第12 では団参に参加する度に聞く「この広大な大自然に真理の説法が鳴り響いている」という言葉を思い出しました。
第49あたりからは、大都会に集中する社会の弊害について、そして人工的ではなく本物の自然と触れ合う大切さについて語られていると理解しました。
勉強不足で解釈が間違っておりましたら、ご指摘ください。
多くのところで感動しましたけど、全てを申し上げると長くなります。既に長いですが…
カトリック教がほとんどである国に生まれ育ち、小中学校をカトリック教会の付属学校を通ったことを誇りに思いました。
そして、生長の家であることをもっともっと深く誇りに思わせてもらいました。
この回勅の力を大きく期待できるのではないかと思っております。
すぐに全信徒さんに伝わるとは思いませんが、大きな大きな一歩を私達人類は進めたのではないかと信じています。
総裁先生のご指導を心より感謝申し上げます。
再拝
投稿: 平峰 恵利花 | 2015年7月28日 (火) 00時57分