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2015年6月

2015年6月29日 (月)

ローマ教皇の“環境回勅”(2)

 前回の本欄で、私は今回の回勅の内容について「これまで生長の家が言い続けてきたことと大きく違わず、私たちの現在の運動とも軌を一にしている」と書いた。この表現は抑制を効かせたつもりで、もっと直截に言えば「生長の家が言ってきたことと、ほとんどそっくりだ」と書きたかった。ただ、そう表現して、何がどうそっくりであるかを説明しないのは不親切なので、本欄を使って少し解説を加えよう。  
 
 まず、宗教上とても重要な「教典解釈」の面で方針転換が明示されたことが注目に値する。具体的には、旧約聖書の『創世記』にある有名な天地創造の物語の“再解釈”である。同書第1章には、神が天地創造をされた際に、最後に人間も創り、その人間に「海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」と言われ、男女の人間を創造されて「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物を治めよ」と言って祝福された、と書いてある。この「地を従わせよ」(28節)という表現--英語では dominion over the earth--の意味を、これまでのカトリックの教えでは「人間の目的のために利用してよい」と解釈する傾向が強かった。 
 
「傾向が強かった」と書いたのは、過去にはそうでない解釈も少数ながら存在したからだ。しかし、アウグスティヌス(354-430)からトマス・アクィナス(1225-74)をへて、さらには20世紀の後期にいたるまで、カトリック教会の思想の趨勢は、神・自然・人間の三者を「神→人間→自然」という優先順位で考える点で一貫していた。少数派は、有名なアッシジのフランチェスコ(1182-1226)の系統を継ぐフランシスコ会などである。 
 
 もちろん、アウグスティヌスは「自然を破壊せよ」とは言わず、「神の創造物を保護せよ」と教えた。そして、この地は「旅の宿」のようなものでキリスト者は「巡礼の旅人」であるとの比喩を使い、再び巡礼の旅へ帰る人は、宿で使った食器や寝具は次の人のためにきちんと置いていくのが正しいと説いて、創造物の保護を訴えた。しかし、これは自然界をあくまでも「人間のための宿」とする考えであり、自然それ自体に固有の価値を認めるものではなかった。自然界は人間の魂の進歩のための“場”ではあるが、その場自体が神の創造として完璧だとか、完全だとは考えず、人間がその場に手を加えることで、より完全なものとなる。だから、その場に次に来る人のために、自然界を保護するべきだと教えたのである。 
 
 アクィナスは、十戒の第7番目の「汝、盗むなかれ」の教えを論じた際、非常時には人間社会の法律よりも、すべての財は人間の必要のために共有されるべきだとの自然法が優先されると説いた。だから、飢饉の際は、貧しい人が豊かな人の倉庫に忍び入って食糧を得ることは「盗み」ではないとした。そして、これと同じように、ある人が隣人がもたない必需品を“主人の倉庫”から得ることは、許されるべきだとした。つまり、人間にとって必要であれば、神の創造である自然界から奪うことは、盗むことではないと説いたのである。 
 
 このようにアウグスティヌスもアクィナスも、自然界を人間の目的に利用できるとしたが、それと同時に、この「人間」とは一部の特定の個人や団体ではなく、「すべての人間」だと考え、貧しい人々の衣食住に必要な財が行きわたらないような状況に反対したのである。その伝統は、現在のカトリックの思想にも延々と引き継がれている。 
 
 カトリック教会の、このような人間中心的な聖書解釈とは一線を画したのが、アッシジのフランチェスコである。フランチェスコは、神の被造物のすべてを「兄弟」「姉妹」と見なした。彼は、伝統的なカトリックの「貧しい人々に対する愛」を、すべての生物、さらには生命をもたない被造物全体に拡げたと言えるかもしれない。彼が作った有名な歌『兄弟である太陽に捧げるカンティクル』(Canticle of Brother Sun)の中では、普通、生命をもたないと考えられている太陽、月、地球、火、水などが「兄弟」「姉妹」と呼ばれ、それらのおかげですべての生物が生かされていることが描かれ、神・自然・人間の調和を観ずる彼の信仰がよく表れている。 
 
 フランチェスコ以降のカトリック教会の思想は、しかし、神・自然・人間の調和や自然保護を説く方向へではなく、人間社会の困窮や貧困、虐げられた人々の救済の方向へ、再び重点を移していくことになる。ボストン大学でキリスト教倫理学を教えるジョン・ハート教授によると、20世紀が終りに近づくにつれてカトリック教会は確かに「地球の自然の保護」を説き始めたが、それは「人類生存の必須条件を提供する場」としての価値に限定されていたという。それでもやがて、カトリックにおいても地球それ自体の価値、そこに棲む生物それ自体の価値が説かれるようになったが、それは教会組織の上層部の主導ではなく、科学研究の成果によって地球規模の環境危機の到来に目覚めた神学者や倫理学者、その他の学者の考えに触発されたものだという。 
 
 ローマ教皇自身が地球環境問題を正面から取り上げるようになったのは、ヨハネ・パウロ2世からである。同教皇は、1979年1月にメキシコを訪問した際、ラテン・アメリカの司教会議で「すべての財産は“社会的抵当”に入っている」と宣言した。これは、土地というものは、たとい私的財産となっていても、本質的には人類社会の共有財産であるとの教会の立場を示したものだ。これに加えて1990年に、教皇は『環境の危機』と名付けられたメッセージの中で、「とりわけキリスト者は、神の創造のなかでの自らの責任と、自然と創造主への義務が、私たちの信仰の本質部分であることに気づかなければならない」と述べた。そして、同メッセージの別の部分では、地球は、最終的には「共有の相続財産」であるとし、「特権的な少数者があり余る物資をかき集めて、入手できる資源を浪費する一方で、大勢の人々がやっと生きられるという最低限の生活を余儀なくされる悲惨な状態にあることは、誰にも明白な不正義である」と宣言した。これは、世界の貧困の構造的問題に目を向けなければ、環境問題は解決しないという、経済と環境の双方の問題をリンクさせる訴えで、フランシス教皇の回勅にも受け継がれている。 
 
 このような経緯を理解して今回の回勅を読むとき、その変化の大きさが理解できるのである。 
 
 谷口 雅宣
【参考文献】
○ジョイ・A・パルマ―編/須藤自由児訳『環境の思想家たち 上 古代-近代編』(みすず書房、2004年)
○Roger S. Gottlieb, ed., The Oxford Handbook of Religion and Ecology, (New York: Oxford University Press, 2006)

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2015年6月22日 (月)

ローマ教皇の“環境回勅”

 フランシスコ・ローマ教皇が18日に発表した「回勅」が、大きな話題となっている。とは言っても、日本のジャーナリズムではなく、欧米の新聞などでのことだ。私はすでにフェイスブック上の私のページで『ワシントンポスト』紙の記事を紹介したが、『ニューヨークタイムズ』国際版でもここ数日にわたって取り上げられ、西洋社会では今後、その影響が拡がることが予測される。今回の回勅でフランシスコ教皇は、気候変動の問題と世界の貧困問題をはっきりと結びつけ、後者を解決するためには前者の解決が必要であることを述べ、さらにそのためには先進諸国が浪費と欲望優先のライフスタイルを改めなければならないとしている。
 
 ローマ法王庁は、ヨハネ・パウロ2世やベネディクト16世の時代にも地球環境問題を正面から取り上げたことはあるが、英文で180ページを超える今回の回勅のように、地球環境問題に特化した正式文書を出したことはない。また、この回勅は、現在の教皇の下でのカトリック教会の今後の方向性を示していると思われる点で重要である。回勅の主旨は、これまで生長の家が言い続けてきたことと大きく違わず、私たちの現在の運動とも軌を一にしていることから、私としては強力な“援軍”を得た思いで、大変感謝している。 
 
 まず、国内でこのニュースを見落とした人のために、『毎日新聞』の記事(6月18日)を一部転載しよう-- 
 
“【アテネ福島良典】フランシスコ・ローマ法王は18日、環境問題への対処指針を示した重要文書を発表した。地球温暖化について「今世紀にとてつもない気候変動と、生態系の未曽有の破壊が起き、深刻な結末を招きかねない」と警告し、国際社会に迅速な行動を呼びかけた。今年末にパリで開かれる国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)本会合の論議に影響を与える狙いがある。
 「回勅」と呼ばれる重要文書で法王は「私たち共通の家」の地球が「巨大なゴミ集積場の様相を呈し始めている」と懸念を示し、温暖化は「主に人間の活動の結果として排出された温室効果ガスの濃度が高まったことによる」と指摘。化石燃料の過剰使用を戒め、米国などを念頭に「排出大国」に削減努力を求めた。温暖化否定論を振りかざす米国の保守派に再考を促した形だ。
 また、法王は「富裕国の大量消費で引き起こされた温暖化のしわ寄せを、気温上昇や干ばつに苦しむアフリカなどの貧困地域が受けている」として先進国市民に「使い捨て」の生活様式を改めるよう要請。「回勅」にはカトリック史上初の中南米(アルゼンチン)出身法王として、社会的弱者に寄り添う「貧者の教会」路線が反映されている。” 
 
 この回勅発表について、前掲した『ワシントンポスト』の記事は、「Release of encyclical reveals pope's deep dive into climate science」という見出しをつけている。この回勅は、教皇が「気候変動の科学の中に深く飛び込んだことを示している」という意味だ。「科学の中に飛び込んだ」という表現は奇妙だが、これまで多くの科学者が様々な機会に「地球温暖化の原因は人間の活動だ」と示してきたことをつなぎ合わせた文章が、この回勅のかなりの部分を構成していて、そのことを指していると思われる。 
 
 また、この記事は、フランシスコ教皇の性格について、「環境意識がとても高いだけでなく、政策に細かい人であることを自ら露わにした」とも書いている。原文は、こうなっているい-- 
 
Pope Francis unmasks himself not only as a very green pontiff, but also as a total policy wonk.
 
 ここで使われている「policy wonk」という英語の表現は、「退屈な人」という否定的な意味合いがある。その裏には、「教会の代表者がなぜ、国の細かい政策や社会の動向などについていちいち指図するのか」というような、一種の不満があるように思われる。ジャーナリストにとっては、たぶん「自分の領域にまで入ってきた」という警戒感があるのかもしれない。 
 
 それはさておき、回勅の内容を概観してみよう。20~21日付の『ニューヨークタイムズ』国際版は、こうまとめている-- 
 
「木曜日に教皇が発表した環境についての回勅は、現在の地球規模の経済秩序に対する告発であると同程度に、世界に対して気候変動に立ち向かうことを訴える論説である。
 それは、21世紀の資本主義を強く批判し、市場経済への疑念を表し、消費主義を非難し、経済成長がもたらすコストに警鐘を鳴らしている。」 
 
 ということは、回勅は、これまでの世界の経済発展のエンジンとなってきた自由主義にもとづく市場経済と、消費拡大による経済発展の方向そのものが、今日の地球温暖化と気候変動をもたらせたとの考え方をとっているのだろう。だから、現在と将来の気候変動にともなうコストを負担すべきなのは、原因を作った先進諸国である--こういう主張につながるのだ。そのことを同じ記事は、こう伝えている-- 
 
「フランシスコ教皇の回勅はまた、富んだ国々は、温室効果ガスの排出削減のための経済的負担を引き受けるべきだという主張を増幅させる。この問題は、何年もの長いあいだ、気候変動条約の締結交渉の進展を妨げてきたものだ。」 
 
 フランシスコ教皇が、なぜこの時期に回勅を地球環境問題に特化して発表したかの理由の一つが、ここに暗示されている。この12月には、国連気候変動枠組条約締約国会議(COP21)がパリで行われる予定になっており、それに先立つ9月には、教皇は訪米して国連総会とアメリカ議会で演説する計画もある。アメリカの大統領選挙の前哨戦も始まっており、オバマ大統領がカトリック信者であるだけでなく、共和党の対立候補も同じカトリック信者であるらしい。だから、最大の効果をねらった回勅の発表--という視点も成り立つのだ。 
 
 谷口 雅宣

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2015年6月17日 (水)

万物調和の実現に向かって

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山の谷口家奥津城において、団体参拝練成会の参加者など約900人が参列して谷口雅春大聖師三十年祭がしめやかに執り行われた。私は玉串拝礼、聖経『甘露の法雨』一斉読誦のあと、概略次のようなあいさつを述べた: 
 
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 皆さん、本日は谷口雅春大聖師三十年祭に大勢お集まりくださり、誠にありがとうございます。谷口雅春先生は昭和60年の今日の日に昇天されましたが、あれから30年が過ぎていきました。晩年の雅春大聖師は、この長崎・総本山の地で、豊かな自然に囲まれながら、原稿を書かれ、団体参拝練成会などで講話をされていました。先生がこの地の自然を愛されたということは、龍宮住吉本宮の境内地を美しく整備されたことからも容易に拝察できます。 
 
 一方、その当時の世界は“東西冷戦”の最中で、アメリカとソ連は大量の核兵器を相互に向け合っていました。そんな時代も過ぎ、ソ連は崩壊し、後継国のロシアは資本主義を採用し、中国もそれに加わって、世界は「経済発展」に向かって足並みをそろえて突き進んでいるのが現状です。冷戦の時代とは雲泥の違いと言えます。 
 
 ところが、この経済発展のために、自然は破壊され、温室効果ガスは大量に排出され、生物多様性は大幅に減衰し、気候変動に伴う災害の頻発や農産物の不作などで、多くの人々が苦しみ、また“反文明”的な色彩の濃いテロリズムの動きが起こっています。そんな中で、生長の家の運動は、その中心目的を“鎮護国家”から“世界平和”へと移し、世界平和実現のために、経済至上主義と欲望優先の都会の生き方から脱却し、“自然と共に伸びる”生き方を開発し実践しようと力強く進みだしているところであります。 
 
 この点については、皆さんも生長の家講習会や団体参拝練成などを通してご理解いただいていると考えます。さて今日は、谷口雅春先生が書かれたお祈りの言葉から、先生の自然を愛する御心を学ぶために『万物調和六章経』というのを、ここへ持ってまいりました。『万物調和六章経』--皆さんはこの出版物をご存じでしょうか? 実は、このお経は、正式にはまだ発行されていません。もうまもなく発行され、皆さんのお手元に届く予定のものです。
 
 このお経は、その名が示すように、生長の家の教えの根本である「神の創造になる実相6harmony_sutra 世界では、すでに万物が大調和し、幸福に満たされている」という唯神実相の真理を説いた、6つの祈りの言葉から構成されています。この6つのうち3つは、谷口雅春先生の『真理の吟唱』にある祈りの言葉であり、残りの3つは私の『日々の祈り』から採ったものです。この六章経が発行された目的は、人間が自然を破壊せずに、自己の欲望を適切に統御する生き方を実践するためで、そのためには、私たちが日ごろから、神の世界の万物調和を観ずることが必要であるとの考えにもとづくものです。ちなみに、今年の運動方針の「平和・環境・資源の問題解決への貢献」の項目には、次のように書かれています-- 
 
 “世界の幹部・信徒は、『真理の吟唱』の中の「天地一切と和解する祈り」「天下無敵となる祈り」「有情非情悉く兄弟姉妹と悟る祈り」、また、『日々の祈り』の中の「“すべては一体”と実感する祈り」「神の愛に感謝する祈り」「神の無限生命をわが内に観ずる祈り」などの読誦を通して日々、自然界の「ムスビ」の働きを意識しながら「神・自然・人間の大調和」の顕現に向けて運動と生活を実践する。” 
 
 それでは、この6つのうち雅春先生が書かれた「有情非情悉く兄弟姉妹と悟る祈り」を、これから朗読いたします。その祈りの言葉の中から、雅春大聖師が自然界に対して、どのようなお考えをもち、どう感じていられたかを皆さんには再確認していただきたいのです-- 
 
(祈りの言葉を朗読) 
 
 今、日本の国会では、同盟国と一丸になって戦闘行為をできるような体制を作ることが、平和の維持にとって必要だと考える政治家が、憲法の規定に違反する疑いが濃い中で11の法律を一挙に変更し、軍備を拡大しようとしています。グローバル化が進んだ現代では、このような軍備一辺倒の国防政策で国の安全が保障されると考えるのは時代遅れであり、誤りです。また、人間の争いの心が自然界の諸相に反映されるという教え、そして、現象は認めた通りに現れるという唯心所現の教えからすれば、かえって逆効果になる可能性が大きいのです。また、私がすでにブログに書いたように、憲法の規定に反する法律を制定するということは、民主主義の根本原則である「立憲主義」をないがしろにするもので、必ず将来に禍根を残すでしょう。 
 
 私たちは今、中国やロシアと軍備拡大競争をしている場合ではないのです。地球上のすべての国々は互いに協力し、知恵を出し合って、地球温暖化やエネルギー問題、核兵器拡散というようなグローバルな共通問題の解決に真剣に取り組んでいかねばなりません。そういう意味からも、今後、皆さんは、この『万物調和六章経』を繰り返し読誦され、その大調和のメッセージを心に深く刻みながら、自他対立の心を起こすことなく、明るく、積極的に、万物の平和共存に向かって邁進していただきたい。谷口雅春大聖師の三十年祭に当たり、生長の家の教えの根幹である「万物大調和」の実相世界への信仰をいよいよ深め、その実現を改めて決意いたしましょう。 
 
 これをもって、本日の年祭の所感とさせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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2015年6月 8日 (月)

テロ事件と集団的自衛権

 6月7日、旭川市の旭川市民会館で行われた生長の家講習会で、このブログの読者から質問をいただいた。講習会では、午前中の私の講話に関連した質問を受講者から出してもらい、それに答える時間を午後に設けている。しかし、その中のいくつかは、講話とは関係のないものが混じっている場合も少なくない。その日も、6つ出された質問の中に、次のようなものがあった。同市内に住む60歳の会社員、T氏からのものだ-- 
 
「いつもブログで現代の事象を分かりやすく御教示頂き、ありがとうございます。午前のご講話内容でなく恐縮ですが、ブログの内容で教えて頂きたいことがあります。集団的安全保障についてです。今の内閣がしようとしていることは憲法違反であるとのことは、理解しました。一方で、海外で生活している(私たち)日本人が、紛争に巻き込まれ、生命の安全が脅かされたり、殺されたりしている時に、今の日本の国は助け出すことができない事態が発生しています。それに対し、同悲同慈の心からは何とかできないものか、と思うのもわかる気がします。 
 
 集団的安全保障を進めることが憲法違反ということは、今の憲法を国民の生命と安全を守れるようにしなければならないということでしょうか? 御教示頂けましたら幸いです。」 
 
 私はこの件に関連して、5月16日の本欄で「今なぜ、国防政策の大転換か?」と題して書いたのだった。それを読んだT氏は、私が「憲法に違反する内容をもった法律改正を、11もの安全保障関連法に対して一挙に行う」という今回の安倍首相の意図に反対する理由は理解してくださったようだ。だが、現行の憲法下でも海外で実際に、テロリストによって日本国民が惨殺されるという事件が起こったのだから、この種の暴力事件を未然に防げるような対策をすべきではないか。そして、その対策が憲法改正を必要とするものなら、改憲もすべきではないか--そういう質問だと私は理解した。 
 
 まず、T氏が言う「海外で生活している(私たち)日本人が、紛争に巻き込まれ、生命の安全が脅かされたり、殺されたりしている」という認識は、どうだろか? これは恐らく、いわゆる“イスラーム国”の人質となって2人の日本人が殺されたことを指しているのだろう。このことと集団的自衛権の問題は関係が薄い、と私は思う。
 
 まず“イスラーム国”という集団は、国際法上でいう国家ではない。しかし、これまでのテロリスト集団とは違って、一定の地理的領域を占めているから「国家」だと見なされる可能性はあるかもしれない。が、現状では、日本がその集団を国家として認知していない以上、日本人にとっては国家ではない。したがって、通常の国際関係(国と国との関係)は成立していない。つまり、国交がある国家間の取り決めでは通常、相手国にいる邦人の保護はその国の義務になり、日本国内にいる相手国の国民の保護は日本政府の義務になるが、そういう関係は成立していないのだ。もっと簡単に言うと、“イスラーム国”側には日本人の身体や人権を保護する法的義務はないのである。 
 
 では、“イスラーム国”にそれがなくても、“イスラーム国”が支配している地域を国内にもつ国(シリアやイラク)には法的義務は発生するのではないか、との疑問が湧く。が、この場合でも、当該国が内戦状態であるか、あるいはそれと同等の混乱状態である場合は(現状がそうである)、そんな義務は守られないし、守られなくても責任は問われないのが普通だ。これが残念ながら、内戦状態のような国家の統治圏外にある地域の実情である。 
 
 今回犠牲となった2人の日本人の場合、この「内戦状態」というきわめて危険な地域を選んで、自らの判断でそこへ行った。そういう場合、その地で戦闘している当事者のいずれかに拘束されても、日本の自衛隊が救助に飛んでくることを期待するというのは、世界の実情を知らない非常識な考えだ。 
 
 内戦状態というのは、その地域に統治権を有する国家が存在しないか、あるいはまともに機能していない状態を指す。常識のある人間は、そんな危険な戦闘地域や無法地帯へは行かない。ただし、人道的あるいは、報道の目的でそういう場所へあえて行く人はいる。その場合は、いわゆる“自己責任”である。自国の政府が「行くのは避けろ」と言っているところへ行くのだから、政府の救助がなくても仕方がないのである。イスラーム国側に殺害された2人は、これに該当する。 
 
 これに対して、平和な生活が保たれていた国で突然、大規模なテロや内戦が勃発した場合、その国にいた邦人を救出することは日本政府の重要な役割となる。その場合、当該国政府がまず救出の努力をし、それが及ばない場合は、外国の援助を要請するか否かを判断することになる。その要請があった場合、自衛隊を派遣するか否かは日本国憲法と法律の定めによることになる。ただし、そんな場合でも集団的自衛権が発動されるケースはきわめて少ないと考えられる。なぜなら、このほとんどの場合は、事件に遭遇した邦人個人は危機的状況にあっても、それが直ちに「国家存立の危機」とは言い難いからである。通常の場合、事件があった当該国の要請または容認があれば、自衛隊の派遣なくしても、その国に航空機や船舶を送って邦人を救出することになるだろう。安全保障法制の大改革などしなくても、これらは現状で行えることだ。 
 
 このように、集団的自衛権で言われる「自衛」とは、個人を対象とするのではなく、国が自衛する権利である。国と国との間で結ばれる安全保障条約は、個人の自衛のことではなく、国の自衛のことだ。だから、仮に日本人が国外でならず者に拉致され、身代金を要求されたとしても、それは日本の国の自衛権とは直接関係がない。この場合はまず、拉致という違法行為が行われた国の政府が、その日本人を助け出し、ならず者を処罰する義務を負う。日本の警察は、その国の犯罪捜査に協力するだろうが、日本の警察の機動隊や特殊部隊を相手国に派遣して邦人救出を敢行することはないだろう。なぜなら、その国の法秩序はその国で守ることが、国際社会での原則だからだ。ましてや、軍隊(自衛隊)が出動して救助に向かうことはまずない。なぜなら、そんなことをすれば、派遣先の国の主権を侵すことになるからだ。もちろん、当該国が依頼した場合は、主権の侵害には当たらない。 
 
 このように考えていくと、T氏が心配しているような事態と、今回の集団的自衛権をめぐる法律改正の動きとは、直接的な関係はあまりないことが分かる。ただ、同時期に起こった海外の事件で、国民には様子がよく分からず、さらに前代未聞の残虐さをともなったことから、国民の間に不安と怒りが拡がったことは確かだ。しかしそれは、国家間の集団安全保障の問題と同一視しない方がいいのである。 
 
 谷口 雅宣

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