不思善悪
生長の家の講習会のため小淵沢から東京へ向かう「あずさ8号」の中でのことだった。甲府駅もすぎ、八王子も過ぎて、新宿駅に着いた。そこで多くの乗客が降り、いきなり周囲の空間が広がった。その時私は、ちょうど谷口雅春先生の『新版 生活と人間の再建』の中の一文を読んでいた。題は「善悪の境を超えて」である。禅書『無門関』の第二十三則にある「不思善悪」の公案を解説したご文章で、善一元の世界の実相を観ずることができないのは、「“悪”をみとめて排斥している」からで、そうしている限りは、「“悪”を心に描くから、“悪”の消えようがないのである」として、“悪”を見ない心を出して来なければならない、と説かれていた。世に言う「悪」とは結局、人間の心が下す“マイナスの評価”が、現象の表面に映し出されているだけだとの教えである。
通路を挟んだ私の隣の席は、新宿駅までは2席とも埋まっていたが、その時、空いているのに私は気がついた。ブルーとチャコール・グレイを基調とした椅子と、それより薄い色のグレーと青の縞模様が入った絨毯の床が、広い空間を作っている。と、その床の上に5センチ角ほどの白っぽい紙片が落ちているのである。横長の紙を2つに折られ、ほぼ正方形をしており、表面に大きく人の上半身が印刷されている。その顔には、見覚えがある。それは、野口英世だった。「えっ」と、私は思った。「1000」という数字も見える。千円札なのである。とたんに、私は周囲を見た。また、そんな動作をする自分をおかしく思った。
私は、講習会での自分の講話の一部を思い出していた。受講者に「1万円=27.8円」という数式を示して、その意味を問うのである。それに応えて場内から手が上がることはめったにないから、次に続けて「5千円=25.9円」「千円=18.2円」と示す。これらは、それぞれ1万円札、5千円札、千円札の製造原価である。だいぶ前に得た情報だから、現在流通している紙幣の製造原価とは、同じでないかもしれない。が、同じでなくても構わない。私の話の主旨は、この世のものの価値とは、「心で認めた通り」のもので、本当の価値とは異なるという点で、紙幣の実際の原価を正確に示すのが目的ではないからだ。
これは、「富」も人間の心の産物だということを示している。紙幣が、特別の価値をもった印刷物として世の中に流通する理由は、私たちが、その印刷物が、印刷された通りの価値をもつと信じているからである。本当の価値が30円に満たなくても、日本国民のほとんどが、その紙片に「1万円の価値」を認めれば、その通りの価値として日本社会に流通する。そして、日本で流通している紙幣は、世界でも相対的に--つまり、外国為替市場の取引を通じて--その価値が認められるのである。
この話を思い出してから、私は再び隣の席の床に落ちた千円札を見た。「ああ、この原価は18.2円だ」と思うと、心の表面にわだかまっていた不自然な緊張が、とたんに消えた。と同時に、製造原価が20円前後のものは、千円札以外にも周囲にたくさんあることに気がついた。いや、20円を超えるものも少なくない。例えば、私の席の前の椅子の背中に収められたJRの車内誌は、どうだろう? いや、車内に整然と並んだ乗客用の椅子の製造原価は、きっとすべてが20円をはるかに上回るだろうし、天井のライトも、窓も、足置きも、空気清浄装置も……何もかも。こう考えると、「お金」というものに特別な価値を認めていた自分の心が、とても不自然であり、魔法にかけられた状態にも似ていたことに気づくのである。
このように、この世のものの価値とは、ほとんどの場合、人間の心が作り出した創作物である。だから、その心が変われば、価値は変わる。そんな不確かなものに、自分の人生の基盤を置くことは愚かなことである。なぜなら、それらはすべて自分の肉体の死とともに雲散霧消してしまうからだ。
では、お金を“プラスの価値”の1つと考えた場合、“マイナスの価値”とは何だろう? それは普通、私たちが「悪」と呼ぶものではないだろうか。こんな表現が大げさなら、「悪」を「不都合」に置き換えてもいい。自分の都合をさまたげるものは、その人にとって「不都合」であり、その不都合の程度が大きすぎて、不合理、不条理に達すると感じられるものを、私たちは「悪」と呼ぶ。とすると、「悪」とは客観的、永続的存在ではなく、主観が生み出した“仮のマイナスの評価”ということになる。なぜなら、私たちが心に抱く「自分の都合」とは、これまた変化するものだからだ。
ご文章から引用しよう--
「善だ悪だといっている間は、必ずものの反面には暗い面があるのでその暗い面を心でみつめるようになるのである。すると、この世界の現象は、心でみとめたものが形に現れるのであるから、吾々は、善から切りはなされて悪のみを一そう多くみつめることになるのである。悪をみつめれば悪の想念を以て自分の意識の中(うち)をみたすのである。そういう習慣がつく限り吾々はあらゆる事物の反面に悪を見る。そしてこの世界を“悪”の一色で塗りつぶすのである。」(pp. 49-50)
人生の光明面に注目し、それを自分の心に印象づけるだけでなく、表現活動を通して他の人々や社会にも印象づける生き方の重要性が、ここに明確に示されている。
谷口 雅宣
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