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2015年5月

2015年5月27日 (水)

液状食はいかが?

 私は、4月24日の本欄で、食事についての生長の家の考え方を書き、食事を単に「栄養補給の手段」としてしか考えない現代の風潮と、食生活の乱れを嘆いた。ところが、問題が多いその現代の食事観の“到達地点”のような食事法が、現代文明の最先端を行くアメリカのシリコンバレーの起業家、技術者の間で行われているらしいのだ。それは「食べる」こともできるだけ省略し、代わりに「飲む」ことで代用して時間を生み出し、仕事に没頭する人々のことだ。5月26日の『インターナショナル・ニューヨークタイムズ』が報じていた。 
 
 この記事は、教育関係のベンチャー企業に勤めるアーロン・メロシック(Aaron Melocik)という34歳のプログラマーの生活を取り上げ、次のように描いている-- 
 
 彼は毎晩、約2リットルの水に、大さじ3.5杯のマカデミア・ナッツ油、480ccの袋入りのシュモイレント(Schmoylent)という商品名の粉末サプリ1袋を混ぜ、その液体を2本の広口瓶に入れて冷蔵庫に保管する。翌朝、彼はその2本を会社へ持っていき、1本を会社の冷蔵庫に入れ、他方をデスクに置いて仕事を始める。仕事は朝の6時半から午後3時半までで、最初の瓶は朝食代わり、2本目の瓶は昼食代わりで、1日に約415ccのシュモイレント・ミックスを消費するという。その間、デスクの前でプログラミングの仕事に没頭するのである。
 この液体ミックスのおかげで、彼は午後7時ごろまで、「食べる」ということから自由になる。そういう仕事の仕方が、競争の激しい現代のソフトウエア開発会社では求められているかのように書かれている。 
 
Soylent  ネットで調べてみると、この種の“飲む食事”用の粉末サプリは、シュモイレントのほかにソイレント(Soylent)、シュミルク(Schmilk)、ピープルチョウ(People Chow)などいろいろあるらしい。これらのセールス・ポイントは、安価で、迅速に作れ(水かミルクを混ぜて振るだけ)、そして栄養価は保障されているという点だ。ハイテク企業が集まるサンフランシスコ周辺では、地価が高く、従って食費もかさむ。シリコンバレー近辺のレストランで食事をすると、1人50ドルもする場合もあるらしい。安い店に入ろうとすると、恐らく長い列に並ばねばなるまい。そういう時間が、彼ら“ハイテク戦士”にとってはムダ遣いに感じられるのだろう。 
 
 しかし……と、私は考える。いくら時間の節約といっても、同じ味と食感の液状食を毎日、繰り返し、続けていくことの“コスト”は生じないだろうか? 人間は時間さえあれば、優れた仕事ができるというものではない。豊かな発想や、多面的、多角的応用のアイディアが、単調で変化のない食事から生まれるかどうか、かなり疑問に感じる。が、「食事は栄養補給の手段」だと考えれば、栄養豊か、安価、簡単、の3拍子がそろった液状食は、1つの論理的帰結であるかもしれない。 
 
 もちろん私は、この考え方に反対である。理由はすでに述べた。さらに付け加えて言わせてもらえば、人間は、企業の求める効率の道具ではないからだ。「自分は仕事のロボットである」と考えれば、エネルギーが不足してきたら、それを迅速、安価に、そしてフルに補給すればいいという結論が出るだけだ。 
 
Hobazushi_1  ところで最近、初めて「朴葉寿司」というのをいただいた。岐阜県の信徒の方が青々とした朴葉を恵送くださり、妻が料理本と首っぴきで作ってくれたものだ。写真をここに掲げるが、なんと存在感のある食事だろうと思う。しかも、自然界の恵みばかりで構成されていHobazushi_2 る。それを食べることで、様々な素材の味が個別に味わわれるだけでなく、その組み合わせの妙が体に染み入る。酢絞めの魚、シイタケ、フキ、カンピョウ、サヤエンドウ、錦糸卵などがよく酢飯と調和し、その上に生姜と山椒の香りが漂う……もし液状食の愛用者が近くにいたら、ぜひ味わってもらいたい、と思った。そして、「豊かさ」とは何かを改めて考えてほしい。 
 
 谷口 雅宣

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2015年5月23日 (土)

不思善悪

 生長の家の講習会のため小淵沢から東京へ向かう「あずさ8号」の中でのことだった。甲府駅もすぎ、八王子も過ぎて、新宿駅に着いた。そこで多くの乗客が降り、いきなり周囲の空間が広がった。その時私は、ちょうど谷口雅春先生の『新版 生活と人間の再建』の中の一文を読んでいた。題は「善悪の境を超えて」である。禅書『無門関』の第二十三則にある「不思善悪」の公案を解説したご文章で、善一元の世界の実相を観ずることができないのは、「“悪”をみとめて排斥している」からで、そうしている限りは、「“悪”を心に描くから、“悪”の消えようがないのである」として、“悪”を見ない心を出して来なければならない、と説かれていた。世に言う「悪」とは結局、人間の心が下す“マイナスの評価”が、現象の表面に映し出されているだけだとの教えである。 
 
Thousandnote  通路を挟んだ私の隣の席は、新宿駅までは2席とも埋まっていたが、その時、空いているのに私は気がついた。ブルーとチャコール・グレイを基調とした椅子と、それより薄い色のグレーと青の縞模様が入った絨毯の床が、広い空間を作っている。と、その床の上に5センチ角ほどの白っぽい紙片が落ちているのである。横長の紙を2つに折られ、ほぼ正方形をしており、表面に大きく人の上半身が印刷されている。その顔には、見覚えがある。それは、野口英世だった。「えっ」と、私は思った。「1000」という数字も見える。千円札なのである。とたんに、私は周囲を見た。また、そんな動作をする自分をおかしく思った。 
 
 私は、講習会での自分の講話の一部を思い出していた。受講者に「1万円=27.8円」という数式を示して、その意味を問うのである。それに応えて場内から手が上がることはめったにないから、次に続けて「5千円=25.9円」「千円=18.2円」と示す。これらは、それぞれ1万円札、5千円札、千円札の製造原価である。だいぶ前に得た情報だから、現在流通している紙幣の製造原価とは、同じでないかもしれない。が、同じでなくても構わない。私の話の主旨は、この世のものの価値とは、「心で認めた通り」のもので、本当の価値とは異なるという点で、紙幣の実際の原価を正確に示すのが目的ではないからだ。 
 
 これは、「富」も人間の心の産物だということを示している。紙幣が、特別の価値をもった印刷物として世の中に流通する理由は、私たちが、その印刷物が、印刷された通りの価値をもつと信じているからである。本当の価値が30円に満たなくても、日本国民のほとんどが、その紙片に「1万円の価値」を認めれば、その通りの価値として日本社会に流通する。そして、日本で流通している紙幣は、世界でも相対的に--つまり、外国為替市場の取引を通じて--その価値が認められるのである。 
 
 この話を思い出してから、私は再び隣の席の床に落ちた千円札を見た。「ああ、この原価は18.2円だ」と思うと、心の表面にわだかまっていた不自然な緊張が、とたんに消えた。と同時に、製造原価が20円前後のものは、千円札以外にも周囲にたくさんあることに気がついた。いや、20円を超えるものも少なくない。例えば、私の席の前の椅子の背中に収められたJRの車内誌は、どうだろう? いや、車内に整然と並んだ乗客用の椅子の製造原価は、きっとすべてが20円をはるかに上回るだろうし、天井のライトも、窓も、足置きも、空気清浄装置も……何もかも。こう考えると、「お金」というものに特別な価値を認めていた自分の心が、とても不自然であり、魔法にかけられた状態にも似ていたことに気づくのである。 
 
 このように、この世のものの価値とは、ほとんどの場合、人間の心が作り出した創作物である。だから、その心が変われば、価値は変わる。そんな不確かなものに、自分の人生の基盤を置くことは愚かなことである。なぜなら、それらはすべて自分の肉体の死とともに雲散霧消してしまうからだ。 
 
 では、お金を“プラスの価値”の1つと考えた場合、“マイナスの価値”とは何だろう? それは普通、私たちが「悪」と呼ぶものではないだろうか。こんな表現が大げさなら、「悪」を「不都合」に置き換えてもいい。自分の都合をさまたげるものは、その人にとって「不都合」であり、その不都合の程度が大きすぎて、不合理、不条理に達すると感じられるものを、私たちは「悪」と呼ぶ。とすると、「悪」とは客観的、永続的存在ではなく、主観が生み出した“仮のマイナスの評価”ということになる。なぜなら、私たちが心に抱く「自分の都合」とは、これまた変化するものだからだ。 
 
 ご文章から引用しよう-- 
 
「善だ悪だといっている間は、必ずものの反面には暗い面があるのでその暗い面を心でみつめるようになるのである。すると、この世界の現象は、心でみとめたものが形に現れるのであるから、吾々は、善から切りはなされて悪のみを一そう多くみつめることになるのである。悪をみつめれば悪の想念を以て自分の意識の中(うち)をみたすのである。そういう習慣がつく限り吾々はあらゆる事物の反面に悪を見る。そしてこの世界を“悪”の一色で塗りつぶすのである。」(pp. 49-50) 
 
 人生の光明面に注目し、それを自分の心に印象づけるだけでなく、表現活動を通して他の人々や社会にも印象づける生き方の重要性が、ここに明確に示されている。 
 
 谷口 雅宣

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2015年5月16日 (土)

今なぜ、国防政策の大転換か?

 戦後日本の国防政策を根本から変更する内容をもった安全保障法制に関する11法案が15日、国会に提出された。戦後歴代の政府は集団的自衛権について、憲法第9条を解釈して「もっているが使えない」との立場を貫いてきたが、安倍内閣は昨年夏、この解釈を変更して「使える」とした。今回は、そのことを法律に明記するために、3つの条件をつけて武力攻撃事態法改正案に盛り込んだ。また、朝鮮半島有事に自衛隊が米軍を支援することを想定して作られた「周辺事態法」からは、「周辺」の言葉を外し「重要影響事態法」とし、さらに支援対象を米軍以外にも広げることで、事実上、世界のどの地域にでも自衛隊を派遣し、軍事支援をできるようにした。 
 
 さらに新法である「国際平和支援法」を制定し、国際社会の平和のために活動するアメリカその他の軍隊への後方支援や弾薬提供を可能とする道を開いた。このほかにも、PKO協力法、船舶検査法、米軍行動円滑化法、海上輸送規制法、捕虜取扱い法、特定公共施設利用法、国家安全保障会議設置法などを一括して改正する法案を、今国会に提出し、夏までに成立させる計画だという。これが、安倍首相が提唱する「積極的平和主義」の具体的な中身なのだろう。ということは、この考えは“平和主義”とはいっても、これまでの平和主義とは全く性質が異なる。ありていに言えば、「アメリカ等の同盟国と一体となって、世界各地に軍隊を派遣し、必要ならば戦い、また軍事支援を行う」ことで平和を維持できる--こういう考え方にもとづいている。
 
 私は、この関連11法案に反対する。理由の最大のものは、法治国家の大原則を無視しているからだ。このことはすでに、昨夏の閣議決定による「集団的自衛権」容認のときに述べた通りだ。その時の記述(昨年7月3日の本欄)から引用しよう--
 
「……私がきわめて残念に思うのは、これだけ重大な政策変更をするに際して、安倍政権は国民の意思を問うことをしなかった点である。もっと具体的に言えば、すでに書いたように、一内閣の解釈変更によって、憲法という国家の最高法規に明記された事項を軽視する選択を行ったことである」。
 
 昨年、一内閣による憲法の解釈変更で「集団的自衛権」を行使できるようにし、今回は、それを法制上合理化するために11の法律を一括して改正しようというのである。憲法の記述に一切触れないでこれをやるということは、たとい憲法違反であっても、法律改正は可能であるという判断が安倍首相とその側近にはある、ということだ。これは、一国の政治状況として恐ろしいことではないだろうか? 国の最高の権力者が憲法の規定を守らないことが明白でも、国民はそれを理解し、容認してくれるだろうと高をくくっているのだ。
 
 ある国で民主主義が機能しているということは、そこで“善い政治”が行われていることを必ずしも意味しない。また、必ず“正しい政策”が実行されるということでもない。米英の例を思い出してほしい。両国では民主主義は機能しているが、それでもイラク戦争のような間違った戦争に突入することはあり、国民の多くが死傷し、国費は浪費され、テロ事件を国内に呼び込んでしまった。民主主義は、たとい採択した政策が誤っていても、それを策定する際に民主主義の手続きが確実に踏まれているかどうかで、機能の有無が判断される。私はここで、イラク戦争は米英の民主主義の産物だと言いたいのではない。そうではなく、イラク戦争が間違った判断にもとづいて開始された戦争であることが事後、両国で検証して明らかになったことが、両国での民主主義の健全性を表していると言いたいのだ。この検証が不可能であれば、その国は同じ過ちを何回でも犯すことになる。
 
 民主主義は、国民から政治権力の行使をゆだねられた政策決定者が、自己利益ではなく、国民全体の利益を考えて政策を実行することを、憲法以下の法律や社会制度によって担保する仕組みである。その背後には、「人間は皆、本質的に平等であるとともに、間違いを犯す存在である」という考え方がある。生長の家的な表現を使えば、「現象人間はみな間違う」ということである。一国の政策が間違うと、国民はもちろん、その他の国々にも悪影響が及ぶから、間違う人間をできるだけ間違わないように導く仕組みが必要になる。そこで、政策決定過程にできるだけ多くの意見を反映させ、またその過程の透明性が求められる。今ふうに表現すれば、政策決定過程の“見える化”である。そして、強大な国家権力をごく一部の“間違う人間”に独占させないように、権力の分離(三権分立)が行われる。複数政党、両院制の議会、議員の改選、ジャーナリズムによる監視……も、すべてこの“現象人間の不完全性”を補う目的で考案された民主主義の仕組みである。
 
 だから、民主主義は政策決定までの手続きが煩雑であり、そして効率が悪い。それを北朝鮮のような独裁制や、中国のような一党支配の社会主義と比べると、外からは「決定が遅い」とか「うまく機能していない」ように見える。が、そのようなマイナス面の背後には、これまでの歴史の教訓から学んだ、国民の自由を尊重する知恵が隠されているのである。したがって、民主主義を尊重するということは、面倒であっても、また時間がかかっても、政策決定過程における民主的手続きを大切にするということである。
 
 この仕組みの根本原理を定めたものが憲法である。そして、憲法の定めた原理を、一国の政治・経済・国民生活万般に反映させるための決まりが法律であり、法律の決まりを各都道府県の事情に合わせてより具体的に反映させたものが条令である。近代国家においては、この①憲法→②法律→③条令の優先順位は、変えることができない。言い直せば、それを変えたならば、その国はもはや民主主義国家とは呼べないのである。にもかかわらず、安倍政権は、国防政策という国家の大問題に関して、憲法の条文を一切変えずに、解釈の変更によって集団自衛権の行使を決め、それを今回、10を超える法律を一気に変更することで、法律上に定着させようとしているのである。
 
 野党の間から、昨年の集団的自衛権行使の決定が“解釈改憲”と呼ばれ、今回の11法案が“戦争法案”と批判されるのは、理由のないことではないのである。これを今、民主的手続きを省略してなぜ急ぐのか。その理解は困難である。
 
谷口 雅宣

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