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2015年4月13日 (月)

物質的繁栄をさらに求めて

 本欄の「ていねいに生きること」と題したシリーズの3回目で、私はクラフト製作の価値について少し書いた。その際、「消費生活が爛熟期を迎えた現代にあって、手作り品や工芸品がかえって見直され」ていることに触れたが、本当はもっと突っ込んだ表現をしたかった。それは、昨今の一般的な工場生産方式と製品販売戦略がエネルギーと資源の浪費を招き、自然破壊、廃棄物の増加、海水の酸化、地球温暖化などの元凶になってきたという事実についてである。これは、かなり以前から識者が口を酸っぱくして言い続けてきたことだが、それを改める政策が国の政治に取り入れられたことはない。もちろん、有害化学物質をむやみに自然界に放出しないという意味での公害対策は進んだ。しかし、この「有害化学物質」の中には温暖化の主要原因であるCO2は含まれていないし、原子炉が出し続ける強力な放射線も含まれていない。国はもっぱら経済団体の意向を心配しながら、「経済成長」とか「需要拡大」とか「国民所得の拡大」という言葉を使い、それがまるで国家の“理想目標”であるかのように扱ってきた。
 
 しかし、よく考えてみてほしい。これら3つの“理想目標”を追求する結果として、「エネルギーと資源の浪費」「自然破壊」「廃棄物増大」「地球温暖化」が起こるのである。ということは、これらは決して“理想目標”などではないのである。だから、今日の地球規模の生態学的問題を解決するため--いや、少なくともその緩和のためには、早々に3つの目標を掲げることをやめなければならないのだ。言い換えれば、経済発展至上主義はもはや“地に落ちている”のを通り越して、地球全体にとって“有害である”ことをはっきり認めねばならない。 
 
 この経済発展至上主義が長く続いたおかげで今、世界的に起こっているのが貧富の格差の拡大である。読者は、「世界の富裕層の上位1%が、世界資産の40%を占有している」ことをご存じだろうか。これは、国連大学世界開発経済研究所(UNU-WIDER)が2008年に行った研究によって明らかになったことだ。研究対象となった数字は、2000年の時点のものだ。同じデータを違った切り口で表現すると、「上位5%」の富裕層の場合は世界資産の「71%」を占有しており、「上位10%」ならば実に「85%」に達する。2000年からすでに10年以上が経過しているが、格差が縮小したというデータはないから、世界の貧富の差はさらに拡大していると考えるべきだろう。 
 
 世界の富の分配に、このような圧倒的な遍在(不平等)があるという事実をよく考えてみよう。これは第二次大戦後、人類が加速度的に進めてきた「地下資源を地上に掘り出して使う」という資源とエネルギーの利用法が、この富を生み出してきたということだ。富の偏在は経済力の偏在であり、技術力の偏在であり、さらには政治への影響力の偏在である。だから、科学の発達によって、地下資源の利用が自然界や地球環境にどんなに有害であるかがわかってからも、地球温暖化の抑制に力を入れようとする動きは遅々として進まないのである。世界の動向に圧倒的な影響力をもつ人々は、これまで積み上げてきた富や技術、政治的利益を犠牲にしてまで、“地球にやさしい社会”などつくりたくないのだろう。 
 
 こんな書き方をすると、「日時計主義はどこへ行った!」と多くの読者から怒られるかもしれない。だから、上の文章には条件をつけよう。それは、「人間が自己利益の増進を最大の目的として生きると考えた場合」という条件だ。もちろん私は、それが人間の本質だと考えてはいない。「人間は神の子である」という教えは、そんな考えを否定している。だが、現象的には「人間は自分が信じたとおりのものになる」のだから、「物質的繁栄が人間の幸福だ」という考えが、社会の上層部の人々--つまり、世界の80%の富を占有している実力者たち--の間に浸透するにつれて、地球社会は後もどりができない混乱の中に沈潜していく可能性を否定してはいけないのである。「人類光明化」と「国際平和」を希求する私たちの運動が、もっと強力に展開され、停滞してはいけない理由がここにある。 
 
 第18回統一地方選挙の前半戦の結果が出た。投票率が各地で最低を記録するなか、10の道県知事選ですべて現職が当選し、“与野党対決”と言われた北海道、大分知事選でも与党系が勝ち、41の道府県議選でも大阪を除き、自民党が第一党になった。つまり、国民の意思は「現状路線を継続しろ」ということだろう。大規模で後戻りできない地球規模の環境劣化が進むなかで、日本国民の大半は「それでも経済発展を望む」との意思表示をしたことになる。ただし、41道府県のうちほとんどで投票率が過去最低となり、50%に届かない府県が3分の2を超えた。この現象の背後にある国民の心を、悲しむべきなのか、それとも期待すべきなのか……。 
 
谷口 雅宣

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コメント

合掌 
   一向に地球環境に対して政府トップの考えは
 繁栄・繁栄のようであります。声の届かないもどかしさ、悔しさを感じております。
 
人間・神の子だからといって、神の御心に相応しくない
行為を甘んじていてはならないと個人的にも考えます。 機会あるごとに、 良識あるところから発信しなければならないと思っています。 地球の命は私たちの命でもあるのですから、微力な私ですが、以前とは違った生活スタイルの中にあっても、日時計日記の「環境に配慮したこと」に一つでも実践できたとき善い事に協力出来たと言う 喜びを感じます。            感謝・合掌               島根教区 足立冨代

投稿: 足立冨代 | 2015年4月13日 (月) 18時39分

総裁先生

昨日、近所のスーパーマーケットに夕食の買い物に行ったら、隣接するモールの入り口で、wildlifeを守るための募金活動をしているボランティアの人たちがいました。
Nature doesn't need people  People need nature と、書いたプラカードに興味を持ち、彼らの説明を聞いていたのですが、人間が地球に誕生して以来、自然に必要とされていた時期などあったのか、と考えてしまいました。

人間はどの辺まで自然と友達だったのでしょうか。
少なくとも大きな自然破壊をしないで、自然の中で暮らしていたのは、漠然と石器時代位かな、と思いました。
鉄を使いだす前、その辺に落ちている石をとがらせて刃物の代わりにしていた頃なら、何となく自然の一部でいたような感じを受けますが、地下資源を使いだしたら、たちまち自然とは遠くかけ離れ、自然の中に居ながらも人口生活をする人間という別の生き物になったというイメージです。

「木や石などの地上の資源を、家や道具にしたり、木の葉などを肥料にするのは良いとして、農薬などを使うはNGだよね」と、会話をしながら、「でも、今日もバスでここまで来たけど、バスも電気を使うしね、(バンクーバー市内は、トロリーバスかナチュラルガスで動く低公害型のバスが走っています)人間が生活すると必ず自然には喜ばれないよね」みたいなことを相手がいうので、「自分はリサイクル運動を進めるボランティア組織を作ったので、そこで得た資金でナショナルトラスト活動を考えているけど、まだ、何の活動も初めていないんだよ」と話したら、「とにかく、みんなが早く気が付かないと取り返しがつかないから、頑張ってよね」みたいなことを言われました。

流石に石器時代には戻れませんが、人間はどこまで便利になりたいのでしょうか。人間が文明を進化させて生きている動物であれば、ここまでにしておこうというGoalは決められないと思いますが、自然との共存を考えないで便利さだけを追求する文明では、そう遠くない未来に必ず破滅するいうGoalは見えている、と感じるのは私だけでしょうか。

そんなことを思いながら、立ち話をしていたので、夕食のカレーを作る時間が無くなってしまって、メニューを変更したのですが、夕食の時にその話題で家族で話をしました。
「自然の一部としての人間、というスタンスで自然の素材から物作りをしたらどうか」、という意見がセカンダリーの息子から出ましたが、エレメンタリーの下の息子は、学校でもそのようなことを先生が話題として出して、クラスで話し合うことが多い、といいましたが、その話は長くなるので、この辺で……。

合掌 バンクーバー 大高

投稿: カナダ大高 | 2015年4月17日 (金) 02時06分

合掌ありがとうございます。
テレビをほとんど見ない私ですが、新聞位は目を通さないといけないと思い、夜になって新聞を開きましたら、興味深い記事が載っていました。地球温暖化に警鐘を鳴らす元国際線機長の岡留恒健(おかどめこうけん)氏80歳の紹介でした。
ー1960年代、離陸すると都市は薄茶色の空気に包まれていたが、その後都市の上空だけだった汚れは次第に広がり、南国の森林の減少も目につくようになった。エベレスト登頂など、世界の山々を登り、雪や氷河が減っていくのを目の当たりにして、「80年代に人類の大量消費は地球の扶養能力を超えたのではないか」と感じている。地球温暖化問題について半世紀以上、専門書等で調べ考えてきたことの集大成として、「既に地球は崩壊期に入っている」という危機感に突き動かされるように、昨年『人類の選択のとき』という本も書き上げた。「豊かな国が発展途上国に負荷をかけて利益を上げる。その構造が格差を広げ、環境汚染を生む」と考え、「貧困の差が諸悪の根源にある。何とかお金の流れを変える必要がある」と訴えている。古希を過ぎて横浜市から北杜市に移住し、地元のグループや議員らに危機感を共有してもらおうと、語りかけている。「地球を痛めつけてきた世代の1人として、祈りを込めてメッセージを送り続けたい」ー (4月16日 毎日新聞) 実際に地球の環境汚染をご自分の目で見て、調べ上げての結論が総裁先生のブログと丁度重なり、コメントしました。「祈りをこめて」というところに私たち信仰者と同じ気持ちであることを感じました。この日本に住んでいて、誰1人として地球を痛めつけてこなかった人はいないのではないかと思った時、今自分がやらなければならないことが見えてきますし、本当に今、人類の選択のときであると思います。
柳光貴代美拝

投稿: 柳光貴代美 | 2015年4月17日 (金) 03時18分

 投票行動について、「現状路線を継続しろ」とは全く思いません。しかし、いわゆる”振り子現象”と、その結果である”ねじれ国会”には懲りました。適当な受け皿があれば良いですが、民主党にも懲りました。共産党が伸びているのを見ても、民主党に失望した人々が如何に多いかを、感じます。
 ところで、仕事柄、太陽光発電関連のニュースに興味があります。
 昨年、相次いで、事業者のメガソーラー設置が突然出来なくなり、問題になりました。確か、北海道と東北、九州電力管内だったと思います。
 ここで気が付くのですが、何故人口の少ない地方ばかりなのでしょう。
 それはたぶん、電気の買い取り価格が全国一律で、地価は田舎の方が安いせいでは?メガソーラー設置事業者にとっては地方に設置した方がメリットが大きいので、そうなったのではないでしょうか。
 さらに、大消費地から離れた地方だと、変電設備や送電網も規模が小さいので、余計に早くパンクしたように思います。
 プランのミスです。優秀な官僚が気付かないとは考えにくいので、何故そうなったのかは不思議ですが。

 さてここで本題に戻ります。
 太陽光の電力買い取り費用に充てるため、”賦課金”が、全ての消費者に課せられています。(我が家では毎月数百円程度。)
 つまり、カメラをグッと引いてみると、今のように 投資⇒回収 目的の事業者に有利な買い取り価格を提供しているということは、一般の消費者から集めたお金を、資本家にどんどん転嫁している、という構図になります。それって妥当な制度なんでしょうか。それこそ本文中の、「富の分配の不平等。」にあたるように思います。
 家庭用や、環境配慮の事業者を補助するのとは、別問題だと思います。

 電子決済が普及し、”マネー”は「紙切れ」から「単なるモニター上の数字」になりました。ますますお金がお金を呼ぶ世界。金融資本主義も、機能不全を起こして限界に差しかかっている気がします。

 なにぶんいずれの分野も素人なので「思う」や「気がする」ばかりで申し訳ないのですが、一応理屈にはなっているかと。

投稿: 片山 一洋 | 2015年4月18日 (土) 23時39分

 4月18日のコメントで、メガソーラーという言葉を使いましたが、これは間違いだったので、訂正させて下さい。
 東北電力が新規の電力買い取契約の中止を発表したのは、50kw以上の太陽光発電が対象で、九州・北海道については10kw以上が対象、他の地方でも同じような話が出ているようです。
 メガソーラーとは、文字通り1000kw以上の設備のことを言い、全国でもそうやたらには無い大規模なものを指すそうです。
 太陽光発電と買い取り制度の利害と将来、環境への寄与について、きちんと人に説明できるようにと、調べれば調べるほど、無知を痛感します。自分の見解が持てるには程遠い気持ちなってしまいました。

投稿: 片山 一洋 | 2015年4月24日 (金) 00時30分

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