« 2015年3月 | トップページ | 2015年5月 »

2015年4月

2015年4月24日 (金)

「生長の家の食事」は天地一切のものに感謝する

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山の谷口家奥津城前で、近隣教区の幹部・信徒など約140人が参列して「谷口輝子聖姉二十七年祭」が行われた。御祭の様子はインターネットで中継され、映像と音声が各地の教化部・道場などへ配信された。私は、御祭の最後に概略、以下のような挨拶を述べた:
 
--------------------------
 本日は、谷口輝子先生の二十七年祭にお集まりくださり、ありがとうございます。
 
 私は昨年のこの日には、谷口輝子先生が「信仰と信念の人」であったという話をしたのでありますが、今日は、輝子先生は食べ物の好き嫌いをさせない人だったという話をしたいのであります。私が「食べ物」のことを取り上げる理由は、昨今の人々の食生活が大変乱れていて、そのことが健康上の問題だけでなく、食品価格の高騰、ひいては環境破壊、気候変動、政情不安とも関係しているからです。この春の日本は、雨が多く、気温が低い日が続いているため、農作物の生育が悪いということが最近のニュースで報じられていましたが、魚の漁獲もかんばしくないという話も聞きます。 
 
 そんな中で、世界人口の8人に1人が飢えているのです。にもかかわらず、10億人の人々は太り過ぎていて、世界では糖尿病や心臓病が蔓延しているのです。飢餓と肥満が同時に発生している理由は、食糧供給システムが少数の大きな多国籍企業に独占、もしくは寡占されいて、これらの企業は公共の福祉に貢献するよりは、市場のシェア拡大と利潤の追求を目指す傾向があるからです。これらの企業は、もともと工業製品を生産する方式だった規格品の大量生産という方法で食品の単価を下げ、豊富な供給量によってスーパーなどの小売り店舗の棚を占有し、潤沢な資金でマスメディアに自社食品のコマーシャルを流します。また、加工食品の場合、食感や味、香りは化学物質を使った技術によって上手に調整します。 
 
 一方、消費者である私たちは、食感や味がよくて、しかも安い食品で、大企業が提供していて、市場に大量に出回っているものならば、間違ったものではないだろうと考え、そういう食品をどんどん買って食べる傾向がある。特に、食事というものを、栄養補給の手段にすぎないと考え、そのためには効率的かつ味が濃ければよいと考える人は、そういう傾向が強いのです。めんどくさいことは避け、省力化は善だと考えると、食材を吟味して買って自分で料理するのではなく、調理済みの加工食品を買って、簡単に食事をすませる方が時間の節約になり、合理的だなどと考えるのであります。 
 
 しかし、生長の家では、食事を単なる栄養補給の手段だとは考えません。谷口雅春先生に最初にくだった「生長の家の食事」という神示には、「食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である」と、はっきりと書かれています。そして、「他の人々を怒ったり憎んだりせず、赦す」ための供物として戴きなさいと教えています。食事のときになぜ、他人を赦さねばならないか、その理由については、こう書いてあります-- 
 
「若し吾等が心を閉じて他を赦さなければ、大生命の癒す力もまた閉ざされて吾等に流れ入ることは出来ないのである。」 
 
「癒す力」というのは、医学的にいえば免疫系の働きです。これによって私たちは食物の中の異物や有害な物質を排除したり、無害化します。そういう働きが健全に機能するためには、私たちは他者と調和することが必要だと、この神示は説いているのです。「自己の内なる神」というのは、そういう実相世界の調和を実現した“神の子”のことです。それに対して供物を献ずるのですから、他者に対して怒りや憎しみの心をもっていては、栄養補給をするつもりでも、免疫系がうまく働かないため、栄養は栄養として吸収されないということになります。 
 
 この場合の「他者」というのは、もちろん人間関係も含まれますが、それを超えた国家や民族同士の関係、ひいては地球上のすべての生物との関係も含まれます。なぜなら、「自己に宿る神」というのは、自分の肉体の中に小さく縮こまっている神ではなく、天地の創造主の神のことだからです。その神さまが創造されたすべてのものと調和の関係にあって初めて、「自己に宿る神に供え物を献ずる」という態度が生まれると考えねばなりません。もっと簡単に言えば、天地一切のものとの調和の中で、与えられたものを感謝して食することが「生長の家の食事」なのです。自分の肉体の維持や嗜好の満足のためならば、他を犠牲にしてでも好きなものをどんどん食べるという態度は、間違いであることがわかります。これが、私たちが肉食を避け、食べ物の好き嫌いをしないことをお薦めする、宗教的な理由です。 
 
 輝子先生の随筆集に『愛は到るところに』(昭和60年刊、1985年)というご著書があります。今から30年前の本であります。その最後にある随筆は「食べものの好き嫌い」と題されています。その一部を紹介いたします。昔、神戸に在んでおられたころのエピソードを描いた部分です-- 
「当時は住吉村の梅ノ木という処に住んでいた。或る日の夕食時だった。会社から帰ったばかりの夫と、親子三人は食卓についていた。 
 
 三人の前の小鉢の中に、茄子とじゃがいもの他に人参もあった。四歳の娘恵美子は、それらの煮物の中から人参だけを撮み出して、脇の小皿に入れた。私は訊いた。
“どうしたの”
“人参きらいよっ”
 すると夫は私に命じられた。
“母さん、人参を沢山上げなさい”
“はいっ”
 私は鍋のある台所へ行って、娘の小鉢の他の野菜を減らして、人参を前より多く入れて来て娘の前に出した。
“人参は、恵美子の躰のために大変よいものだよ”
 父親の厳とした言葉を聞いて、四歳の娘は口をゆがめて、しぶしぶ顔をして食べ出した。嫌いだと言ったら、倍加して食べさせられることを知った幼い娘は、それ以後、食べものを嫌いだと言わなくなった。
 年が加わるにつれて、娘は親の愛を、親の誠意を解ってくれるようになったと見えて、自分が成人して、自分の子供が何人も生まれると、自分もまた両親のように夫と協力して、子供たちに、食べものの好き嫌いを言わさないように育てて行った。」(pp.254-255) 
 
 ここにある娘の「自分の子供」のうちの一人が、私です。このおかげで、私は食べ物の好き嫌いがほとんどないのです。もちろん、ニンジンは好物の一つで、生でボリボリ食べるのも好きです。ところが、現在の子供たちとその親たちは、ニンジンに限らず、好き嫌いをする人が多いようです。それはきっと、自分の肉体維持や嗜好満足が食事の目的だと考えているからでしょう。「好き嫌い」をすることを、まるで“個性の発露”のように考えているようです。これが却って、栄養バランスを崩し、健康を害し、肥満や成人病を現す結果になっている。だから昔、日本がまだ経済的に貧しい時代に、「食事の好き嫌いをせず、感謝していただきなさい」と教えてきたことが、今日の“飽食の時代”には、地球全体を包む新たな意味をもった重要なアドバイスになっていると言えるのであります。 
 最近、私の家の近くのレストランでこういうことがありました。 
 
 そこは、いわゆる「バイキング」とか「ビュッフェ」と呼ばれるセルフサービス方式の店で、イタリアやフランス風の多種の料理が並んでいるのを、自分で自由に好きなだけ取って食べることができる所でした。そこへ妻と二人で行って夕食をとったのでありますが、ちょうど春休みで、子連れの若い夫婦が多く来ていました。自分で取って食べる方式ですから、席を立って料理を取りに行く時には、他のテーブルの人たちが何をどう食べているのかが、よく見えるのであります。で、私たちのすぐ側には、二人の子と一緒に食べていた若い夫婦がいたので、ふと見たら、皿いっぱいに1種類のものだけが載っていたので驚きました。それはフレンチフライ(ポテト・フライ)なのです。男の子とその父親の持って来た大皿の上には、それしか載っていなかった。では、別の皿に他の料理を持ってくるのかと思ったら。どうもそんな様子ではなく、フレンチフライだけを食べているのです。 
 
 こういう食生活が普通になっているのだとしたら、それはきわめて憂うべきことだと感じたのであります。 
 
 生長の家の信徒の皆さんは、自分個人や家族周辺のことだけでなく、世界全体のこと、地球生命全体のことを考え、すでに与えられているものに感謝しながら、個人生活を律し、食べるもの、買うものを正しく選択し、またそういう生き方を子供や孫の世代の人々に伝えていっていただきたいと念願するしだいです。これをもって、本日の輝子聖姉二十七年祭のご挨拶といたします。ご清聴、ありがとうございました。 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2015年4月13日 (月)

物質的繁栄をさらに求めて

 本欄の「ていねいに生きること」と題したシリーズの3回目で、私はクラフト製作の価値について少し書いた。その際、「消費生活が爛熟期を迎えた現代にあって、手作り品や工芸品がかえって見直され」ていることに触れたが、本当はもっと突っ込んだ表現をしたかった。それは、昨今の一般的な工場生産方式と製品販売戦略がエネルギーと資源の浪費を招き、自然破壊、廃棄物の増加、海水の酸化、地球温暖化などの元凶になってきたという事実についてである。これは、かなり以前から識者が口を酸っぱくして言い続けてきたことだが、それを改める政策が国の政治に取り入れられたことはない。もちろん、有害化学物質をむやみに自然界に放出しないという意味での公害対策は進んだ。しかし、この「有害化学物質」の中には温暖化の主要原因であるCO2は含まれていないし、原子炉が出し続ける強力な放射線も含まれていない。国はもっぱら経済団体の意向を心配しながら、「経済成長」とか「需要拡大」とか「国民所得の拡大」という言葉を使い、それがまるで国家の“理想目標”であるかのように扱ってきた。
 
 しかし、よく考えてみてほしい。これら3つの“理想目標”を追求する結果として、「エネルギーと資源の浪費」「自然破壊」「廃棄物増大」「地球温暖化」が起こるのである。ということは、これらは決して“理想目標”などではないのである。だから、今日の地球規模の生態学的問題を解決するため--いや、少なくともその緩和のためには、早々に3つの目標を掲げることをやめなければならないのだ。言い換えれば、経済発展至上主義はもはや“地に落ちている”のを通り越して、地球全体にとって“有害である”ことをはっきり認めねばならない。 
 
 この経済発展至上主義が長く続いたおかげで今、世界的に起こっているのが貧富の格差の拡大である。読者は、「世界の富裕層の上位1%が、世界資産の40%を占有している」ことをご存じだろうか。これは、国連大学世界開発経済研究所(UNU-WIDER)が2008年に行った研究によって明らかになったことだ。研究対象となった数字は、2000年の時点のものだ。同じデータを違った切り口で表現すると、「上位5%」の富裕層の場合は世界資産の「71%」を占有しており、「上位10%」ならば実に「85%」に達する。2000年からすでに10年以上が経過しているが、格差が縮小したというデータはないから、世界の貧富の差はさらに拡大していると考えるべきだろう。 
 
 世界の富の分配に、このような圧倒的な遍在(不平等)があるという事実をよく考えてみよう。これは第二次大戦後、人類が加速度的に進めてきた「地下資源を地上に掘り出して使う」という資源とエネルギーの利用法が、この富を生み出してきたということだ。富の偏在は経済力の偏在であり、技術力の偏在であり、さらには政治への影響力の偏在である。だから、科学の発達によって、地下資源の利用が自然界や地球環境にどんなに有害であるかがわかってからも、地球温暖化の抑制に力を入れようとする動きは遅々として進まないのである。世界の動向に圧倒的な影響力をもつ人々は、これまで積み上げてきた富や技術、政治的利益を犠牲にしてまで、“地球にやさしい社会”などつくりたくないのだろう。 
 
 こんな書き方をすると、「日時計主義はどこへ行った!」と多くの読者から怒られるかもしれない。だから、上の文章には条件をつけよう。それは、「人間が自己利益の増進を最大の目的として生きると考えた場合」という条件だ。もちろん私は、それが人間の本質だと考えてはいない。「人間は神の子である」という教えは、そんな考えを否定している。だが、現象的には「人間は自分が信じたとおりのものになる」のだから、「物質的繁栄が人間の幸福だ」という考えが、社会の上層部の人々--つまり、世界の80%の富を占有している実力者たち--の間に浸透するにつれて、地球社会は後もどりができない混乱の中に沈潜していく可能性を否定してはいけないのである。「人類光明化」と「国際平和」を希求する私たちの運動が、もっと強力に展開され、停滞してはいけない理由がここにある。 
 
 第18回統一地方選挙の前半戦の結果が出た。投票率が各地で最低を記録するなか、10の道県知事選ですべて現職が当選し、“与野党対決”と言われた北海道、大分知事選でも与党系が勝ち、41の道府県議選でも大阪を除き、自民党が第一党になった。つまり、国民の意思は「現状路線を継続しろ」ということだろう。大規模で後戻りできない地球規模の環境劣化が進むなかで、日本国民の大半は「それでも経済発展を望む」との意思表示をしたことになる。ただし、41道府県のうちほとんどで投票率が過去最低となり、50%に届かない府県が3分の2を超えた。この現象の背後にある国民の心を、悲しむべきなのか、それとも期待すべきなのか……。 
 
谷口 雅宣

| | コメント (5)

« 2015年3月 | トップページ | 2015年5月 »