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2015年3月

2015年3月25日 (水)

結び合うこと (3)

「ムスビ」のゲームで使う牌は、28枚である。これは、7種類の生物をペアにした時の可能な組み合わせすべてで、計算式で表すと(7×7-21=28)となる。「-21」とするのは、「人」と「花」の組み合わせには(人,花)(花,人)の2種が考えられるが、両者は同じものと見なせるからだ。ゲームでは、これらのうち2~4人のプレイヤーに手札として6枚を配り、残りは場に山札として伏せて置く。そして、プレイヤーは時計回りに、自分の手札から、場に置かれた牌の絵柄と“ムスビ合う”絵柄の牌を探して、場に並べていく。該当する絵柄を描いた牌を持ってない場合は、山札から1枚引いて手札とする。こうして順々に牌を場に置いていき、自分の手札がなくなれば上がりである。
 
Musubigrid  これだけ書くと簡単そうだが、問題は「ムスビ合う絵柄とは、何と何か?」を憶えることだ。それをここに一覧表としてまとめてみた。この表に書かれたことは、専門の生物学者から見れば異論があるかもしれない。しかし、これはあくまでもゲームだから、「直観的で憶えやすい」という点を優先した。生物種の数は気が遠くなるほど多く、それぞれの生態を一般人が詳しく知ることはできず、ましてや憶えられない。その点は御了承願いたい。
 
 表の上方から簡単に説明する--まず「人」と他の生物とのムスビ合いだが、これは「すべてと結び合うことができる」と考えた。簡単に言えば、人間はここにある7種の生物のどれもを鑑賞し、また食用にしているからだ。「虫」とは昆虫のことだが、これが「花」を好きであり、「魚」や「亀」「鳥」のエサになることは、ご存じの通りだ。「菌」とはキノコのことである。「茸」は俗字だというので、あえて使わなかった。「花」との関係では「鳥」が蜜を吸いに来るのはよく知られているが、キノコとは関係ないように感じる。が、ここでは「樹木にも花が咲く」ことを思い出してほしい。キノコは「木の子」だから当然、樹木と結び合っている。「魚」は「鳥」に食べられるし、「亀」も小魚を食う。「亀」と「鳥」とは無関係のように感じられるが、カミツキガメは水鳥のヒナを捕食し、小亀(幼体)は猛禽類の餌食になる。
 
 同種の生物は互いに結び合わないのかというと、もちろん結び合う。が、このゲームは、ドミノ・ゲームの原理を“逆用”するところにポイントがあるから、ルールとして「同種の結びつき」を禁じ、「他種との結びつき」だけを可とすることにした。
 次に、ゲームのやり方を説明しよう--
 
 まず、すべての牌を伏せて、麻雀牌と同様にかきまぜる。これを山札とし、各プレイヤーは決められた枚数(今回は6枚)を山から取って手札とする。手札は他のプレイヤーから見えないように立てて置く。ジャンケンで最初に牌を置くプレイヤーを決め、時計回りに場に置かれた牌の、置かれた側に自分の牌をつなげていく。出す牌は、普通つなげる牌と同じMusubi_1463 向きに置くが、テーブルに余裕がなければ、90°向きを変えて置いてもいい。また、(花,花)のようなダブル牌(“ゾロ目”の牌)を置くときは、並んだ列に直交するように置く。ダブル牌にシングル牌(ゾロ目でない牌)をつなぐときには、ダブル牌の側面につなげる。
 
 プレイヤーの手札がなくなるか、誰も牌を出せなくなったら、ゲームは終了する。私が、秘書室の3人とプレーしたときの最終図を、ここに掲げる。
 
 谷口 雅宣

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2015年3月23日 (月)

結び合うこと (2)

 前回の本欄では、「ムスビ」という考え方の背後にある「隠された関係性」について書いた。これは哲学的考察のテーマになる命題ではあるが、今はこれ以上深く追求しない。なぜなら今回、表題のテーマを選んだ目的は、もっと気軽で、楽しいものだからだ。実は、私は今、ゲームを作ろうと考えている。何年か前にも、postingjoy上で有志を募ってゲームを作ろうとしたが、うまくいかなかった。だから、今回は成功させたいと願っている。ゲームを作る目的は、「ムスビ」という考え方を広く社会に浸透させたいからだ。今日の社会には、イジメを初め、孤立、離反、分離、遊離、対立、隔絶……などの「ムスビ」とは逆方向の現象が広がっているように見える。そんな時、世界の本当の姿はそんなものではないというメッセージを、気むずかしい顔で発するのではなく、気軽に、楽しく、笑いながら拡大していく方法はないものかと思案していたとき、「ゲームを作る」という発想が浮かんだのである。
 読者は、「ドミノ」というゲームをご存じだろうか? サイコロの目のような数が1組2枚で刻まれている長方形の牌が、ドミノ牌だ。それを数多く長々と床の上に立てて並べ、倒して遊ぶのが「ドミノ倒し」である。これは昔、私が少年の頃に、テレビでやっていて面白かったのを憶えている。自宅でもマネをしてやったかもしれない。実は、ドミノ牌を使ったゲームは「ドミノ倒し」だけではなく、麻雀や、トランプにも似た、もっと頭を使う種類のものがいくつもある。私は、そのドミノ・ゲームの原則を見て、「これはゲームに使える!」と思ったのである。ただし、その原則をありのまま使うのではなく、逆立ちさせて使う。そうすれば、「ムスビ」の考えをゲームに表現できると思ったのだ。
Domino00  ドミノ・ゲームの原則は、牌に刻まれたサイコロの目の、同じ数同士をつなげていく。その例をここに掲げるが、この図の左側には、サイコロの目の「1」と「4」がつながった牌--以下(1, 4)と表記する--と、サイコロ目の「4」と「3」がつながった牌--以下(4, 3)と表記--がある。その場合、2つの牌に共通した数「4」があるので、この2牌は連結することができる。連結した様子を、図の右側に描いた。連結の仕方は、右に90°回転しているが、これは0°でもよく、-90°でもいい。状況によって変化する。この角度は重要ではなく、ポイントは「共通した数があれば、牌と牌をつなげていける」という考え方である。これは、言い換えれば「同類がつながる」という考え方であり、とても分かりやすい。しかし、「ムスビ」の考え方はむしろ逆である。
 男女間のムスビは「補足の原理」で成り立つと言われることもあり、生物学的な側面でも、男女は異質なものの結合であることは明らかだ。もちろん「夫婦は似た者同士」という言葉もあるから、まったく異質な2人は結ばれないだろう。が逆に、まったく同質の2人が結ばれることは決してない。そもそもそんな2人は、結ばれる意味があまりないからだ。この観点を生物間のムスビに拡大して考えると、昆虫と植物、木とキノコ、果樹と鳥、人間と大腸菌……など、自然界には異質のもの同士の結合が当たり前に存在する。そして、そういう結合の網によって、全体的に安定した生態系が形成されているのである。だから、ドミノ・ゲームの原則を逆転して、「違うもの同士の結合」をルールにすれば、自然の事象を材料にしてムスビの考え方を理解し、楽しむゲームが作れるかもしれない。
 私はこう考えて、ドミノ・ゲームでは「ダブル・シックス」と呼ばれる28枚1組の牌を考えてみた。ドミノの場合、この28枚の牌は、0~6の数で可能な目の組合せすべてである。それを、私の「ムスビ」のゲームでは、数ではなく、7種の生物の組み合わせに置き換えた。それらは、「人」「虫」「花」「魚」「亀」「菌」「鳥」の7種である。
 谷口 雅宣

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2015年3月21日 (土)

結び合うこと

 拙著『宗教はなぜ都会を離れるか?』(2014年、生長の家刊)の第4章で、私は「ムスビ」ということについて書いた。それは当初、『生長の家』誌2014年1月号に掲載されたもので、さらに遡れば、それ以前に本欄に書いた「自然界のムスビの働き」という文章(2013年11月19日11月21日)がもとになっている。「ムスビ」とは、日本語に「縁結び」という言い方があるように、「結ぶこと」「くくり」のことを言い、「結び目」を意味することもある。また「おむすび」は、握り飯のことである。『広辞苑』によると、この語は奈良時代には「産霊」と書いて、もともとは「ムスヒ」と発音したらしい。「産」が「ムス」であり、「霊」が「ヒ」である。ものを産生する霊力のことを、そう言ったのである。

 では、ものを生み出すことが「結ぶ」こととどう関係するのか? ここからは、私の解釈である。古来の「陰陽」の考え方を導入し、陰と陽が合わさることで何かが新たに誕生すると考えることは、それほど不自然ではない。それが「縁結び」という考え方によく表れている。「陰」である女性と「陽」である男性が、もともとは見知らぬ同士で無関係であっても、ある時、ある場所で知り合い、互いに惹かれることで恋人となり、やがて夫婦となる。すると、子が産まれる。この子は、男親とも女親とも似てはいるが、別の生命をもった一人の個人であり“新しい価値”である。このように、二つのものが合一して新たな価値が生まれることが「ムスビ」である。

 谷口雅春先生の御文章にも、同じことが書いてある--

「“むすび”というのは、“結婚”の“結”に当たる字ですが、皆さんが(…中略…)羽織の紐でも寝巻の紐でも、左と右を結び合わす。そうすると、前の結ばない時よりも美しい複雑な形が現われてくるでしょう。これは“新価値の創造”である。それで左と右、陽と陰とが完全に結び合うと、このように“新しい価値”が其処から生まれてくるのであります。愛は自他一体のはたらき、陰と現われ、陽と現われているけれども“本来一つ”であるから、互いに結ばれて一つになることです。“愛”というのは“自他一体”の実相の再認識であります。こういうふうに、宇宙の本源なるところの本来一つの神様が、二つに分かれ、陽と陰とに分かれたのがそれが再び一つに結ばれて“新価値”を生み出す働きをするのが、“高御産巣日神”“神産巣日神”である。」(『古事記と現代の預言』、p. 32、原文は旧漢字)

 私は、これらのことを簡単にまとめ、「分かれたように見えているものが一つに結び合わされること」がムスビであり、これによって豊かな世界が実現する--と前掲書に書いたのだった。(同書、p. 299)

 ここでのポイントは、「分かれたように見えている」という言葉である。前掲書の第2章で「対称性の論理」について書いたとき、私は、チリ生まれの精神分析家、イグナシオ・マテ=ブランコによる人間心理の優れた洞察を、次のように紹介した--

「人間は物事を見るときに、見る対象を大別して2つの“固まり”に分けたうえで、その2つの“固まり”の間の関係として捉えるというのです。」(p. 190)

 これは、陰陽説の考え方を、客観的な言語によってより一般化したといっていい。陰陽説とは、「陰と陽に大別される相対する2つの気(潜在的活力)が和合・循環することによって、万物は生成・変化・消滅する」という考え方だ。これは、「世界の存在のすべてには陰と陽の側面がある」と言い換えてもいい。しかし、「陰と陽の側面がある」という表現を使うと、どんな側面が「陰」であり、また「陽」であるかを、万物についていちいち説明しなければならない。これは、気の遠くなるような話だ。そんなことをせずに、「陰」とも「陽」とも言わずに、もっと一般化した表現で、「見る対象を大別して2つの“固まり”に分けたうえで、その2つの“固まり”の間の関係として捉える」と言えば、より客観的、かつ汎用性をもった言い方になる。こういう表現だと、「善と悪」「人間と自然」「西洋と東洋」「赤と黒」「甘い辛い」などの対語、ないしは対照語を使うときにも適用できるので、有用性が増すと思う。

 ここで、「分かれたように見えているもの」という表現にもどって考えてほしい。これは、「分かれたもの」とは意味が違う。「分かれたもの」とは「無関係なもの」である。「分かれたように見えているもの」とは、本来は一つであっても、今は一時的な事情や条件によって「別物に見えている」という意味だ。ある部屋に2人の人間がいて、別々の服装をし、別々の方向を向き、別の仕事をしていれば、その2人は互いに無関係のように見える。しかし、実際はこの2人は夫婦や兄弟であることはあり得る。また、同じ目的をもって集まった2人--例えば、その部屋を造作している大工と電気技師--である場合もある。ここで、この2人を遠くから見ている人を想定し、それを仮に「Aさん」と呼ぶことにする。するとAさんの目からは、2人の関係性が隠されている場合、2人は「分かれたように見えている」である。

 こんな状況があるとすると、ムスビとは「分かれたように見えているものが一つに結び合わされること」であるから、部屋の中のこれら2人が立ち上がり、互いに向き合って握手をしたり、あるいは肩を叩き合ったりすれば、ムスビが成立し、豊かな世界が実現する--ということになる。何だそんなことか、と読者はがっかりするかもしれない。が、もう少し説明を聞いてほしい。これは「そんなことか」と嘆息するほど、つまらない話ではないと思う。

 重要なのは、上に書いた「隠された関係性」である。こういう関係性は、それを見ている人間(Aさん)が後から思いついたもので、大工と電気技師は当初から無関係だと考える人が、世の中にはいる。別の言い方をすれば、大工も電気技師も、家の建築主の依頼によって部屋に入り、それぞれは建築主の注文にしたがって作業をしているだけで、両者間には“新しい価値”など生まれてはいないと考えるのである。私は、そう思わない。誰でも、自分の家や部屋を造ったり、改造や改装をした経験がある人なら、大工と左官、電気技師、インテリアデザイナーなどの職人が互いに綿密な打ち合わせと連携をしなければ、まともな部屋はできないことはご存じだろう。もちろん、施主は存在しなければならない。しかし、職人間のムスビがなければ、「新しい部屋」という新価値は生まれないのである。

 部屋の造作は、やや複雑な例だった。もっと簡単な例は、先に挙げた「お結び」である。白飯と梅干だけの握り飯のことだ。これを、「分かれたように見えているものが一つに結び合わされる」という定義にしたがって考えると、白飯と梅干はもともと「一つ」であるが、それが握り飯を作るときに分離して、人間の手によって再び結び合わされる--というような不自然な解釈が生まれるかもしれない。しかし、この解釈は「隠された関係性」を考慮していないところに問題がある。

「白飯」と「梅干」の2つは、ともに人間が自然界に働きかけて作ったものであり、山中や森に普通に転がっているものではない。ではなぜ、そういう人手をかけたもの2つが選ばれ、握り飯として1つに結び合わされたかというと、その背後には、「簡単に作れ、かつ持ち運ぶことができ、かつ栄養価のある食品を作りたい」という人間の意思が存在しているからだ。これが、お結びの場合の「隠された関係性」である。

 「ムスビ」という考え方は、この「隠された関係性」が存在することを前提にしている。このように考えていくと、「人間は物事を見るときに、見る対象を大別して2つの“固まり”に分けたうえで、その2つの“固まり”の間の関係として捉える」というマテ=ブランコの洞察は、さらに味わい深いものと感じられる。私が言いたいのは、「隠された関係性」というのは、それを見る人間の心の中にあるもの(主観的存在)なのか、それともその人の心から離れたところに初めから存在するもの(客観的存在)なのか、という問題である。マテ=ブランコは前者の解釈をしており、「ムスビ」の考えは後者にもとづく。どちらが本当かの判断は、なかなか難しい。

 谷口 雅宣

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2015年3月11日 (水)

「大調和の教え」を現代に生きる

 今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家“森の中のオフィス”のイベントホールにおいて「神・自然・人間の大調和祈念祭」が行われた。会場に集まったのは、同オフィスの職員と関係者など少数だったが、御祭はインターネットを通じて同時放映されたほか、ポルトガル語、英語など数カ国語の翻訳も加えられて、それぞれの国の都合に合わせて放映された。
 
 私は、同御祭で「四無量心を行ずる神想観」(新バージョン)の先導をしたほか、最後に概略、以下のような挨拶の言葉を述べた--
 
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 皆さん、本日は「神・自然・人間の大調和祈念祭」にお集まりくださり、誠にありがとうございます。この御祭は、昨年のこの日に第1回目が挙行されたという意味では、まだ新しい御祭と言えます。この間の3月1日には、第86回目の立教記念のお祭が長崎の生長の家総本山で行われましたが、それと比べると新しさが分かると思います。この御祭の目的は、その名の通りに「神・自然・人間」の三者が大調和することを祈るためのものでありまして、4年前のこの日に起こった東日本大震災と東京電力の福島第一原発の事故をきっかけにして、またこの生長の家の“森の中のオフィス”建設の目的にも合致する新たな行事として、実施が決まったものです。
 
 ご存じの通り、生長の家という宗教運動は、谷口雅春先生が昭和6年9月27日に啓示を受けられた「大調和の神示」を中心的教義として展開してきました。それは、「汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である」という言葉にあるように、真実に存在するものは、すべて神の創造によるのだから、そして、神以外に創造主は存在しないのだから、すべてのものは本来調和している、という大真理を説いています。ですから、「神・自然・人間の大調和祈念祭」もこの教えに基づいているわけで、そういう意味では、必ずしも“新しい行事”とは言えないのであります。
 
 生長の家では、すでに大調和している実相を信じていますが、多くの人々は、世界には善いものがあることはあっても、悪いものも善いものと同じくらいか、それよりも沢山あるという「善悪二元論」を採用して生きています。そして、自分の生活や仕事を中心に考えて、それらに対して都合のいいものに“善”というレッテルを貼り、都合の悪いものに“悪”というレッテルを貼って生きています。この考えは、人間関係や社会生活一般に採用されているだけでなく、人間と他の生物との関係、人間と自然界との関係にも使われてきました。つまり、三重の、三段階に及ぶ通念として世界を蔽っているのです。そこで今日のように、自然界と人間の生活が大きく衝突するような事態にいたっているのであります。人類は、自然界を“道具”や“手段”に見立てて、そこから欲しいものはどんどん奪い、いらないものはどんどん廃棄し、邪魔なものはどんどん破壊するという生き方を拡大してきました。この流れを止めなけば、私たち人類の将来はないと言えます。
 
 人間関係における利己主義、社会関係での自分中心主義、そして自然界で生きる上での人間中心主義--これらは皆、自分という人間は「一個の肉体」であると見る誤った考えに端を発し、そこから延長したものです。この考えが「唯物論」と言われるものです。世界のほとんどの宗教は、この唯物論に反対し、人間は単なる「一個の肉体」ではなく、それを超えた大きな力--神とか仏とか大自然とか大生命など--とつながった霊的存在だと教えてきました。
 
 このような考えがもっと多くの人々と共有されなければ、今日の自然破壊や地球温暖化、気候変動などの諸問題は解決に向かわないし、人間社会内部の問題も深刻化する以外にないのであります。私たちは、そういう視点に立って、この「神・自然・人間の大調和祈念祭」を新たに設け、全世界の生長の家の幹部・信徒と共に三者の大調和を祈るとともに、私たちの実際生活の中で、神に感謝するだけでなく、自然界の万物に感謝し、その感謝の気持の現れとして生物の命を尊重し、人間同士の幸福も実現しようとしているのであります。そのことをぜひ心に留めおくことをお願い申し上げます。
 
 もっと簡単に言えば、現在の世界の状況にあっては、谷口雅春先生にくだされた「大調和の神示」の教えを、より具体的に、またもっと大々的に実践しなければならないということです。私たちはそのことを4年前、東日本大震災と原発事故に直面した際、改めて強く感じ、自然を破壊して恥じることのない私たちの生活を深く反省し、御教え通りの「天地一切のものと和解する」生活に近づける努力を始めました。そして、そういう生活を多くの人々に伝え、ひろめることを決意したのであります。
 
Joyo_megasolar  この“森の中のオフィス”では、地球温暖化の最大の原因である二酸化炭素の大気中への放出をしない、いわゆる“炭素ゼロ”の業務と生活とがほぼ実現しています。しかし、本部職員数百人が二酸化炭素を出さなくなるだけでは、地球規模の問題解決には全く足りないことは、ご承知の通りです。そこで、全国におられる生長の家の信徒の方々にも、また、全世界の同信の仲間にも同じ目的で手軽に参加できるような仕組みを作ろうとして、昨年から「自然エネルギー拡大運動」というのが始まっています。現在これは、京都府城陽市に建設した大規模の太陽光発電施設を利用する方法を採用しています。この施設は、発電容量266Wの太陽光パネルを約6,400枚敷きつめたもので、最大で1704.5kW/hの電力を作り出します。ちょうど、この3月の初めに稼働しはじめました。この施設建設のために寄付してくださった全国の多くの信徒の皆さんに、この場を借りて心から御礼申し上げます。ありがとうございます。
 
Famarapr2015_tc  今、この太陽光発電という技術は、世界から大きな期待を寄せられています。アメリカの有力な外交専門誌に『フォーリン・アフェアーズ』というのがあります。この雑誌は、どちらかというと共和党寄りの保守的な政策--つまり、新エネルギーよりは、石油や原子力などの従来型エネルギーを重視する傾向が強いのですが、その最新号(March/April 2015)には、「太陽光発電の未来は明るい」という内容の論文が掲載されています。それを読むと、私たちが向かっている方向が合理的であり、地球社会の未来に貢献するという意味で正しいということがよく分かります。また、今の日本政府は、原発の再稼働を目指す一方で、太陽光発電への補助を減らす方向に動いていますが、こういう政策が間違いであることも分かります。この論文から、具体的な数値を少し紹介しましょう--
 
「今日、太陽光発電は地球全体のエネルギー源のうちの1%に満たないけれども、その拡大速度は他のどの種類のエネルギーよりも急速で、過去6年間は年50%の成長率を示している。具体的には、2000年に0.3ギガワットに過ぎなかった太陽光による世界の発電容量は、2014年には45ギガワットに達した。(14年で15倍です。)この量は、アメリカの740万世帯のエネルギー需要をまかなうことができる。国際エネルギー機関(IEA)の予測によると、今後もし最良の条件がそろえば、太陽光発電は2050年までに、世界全体で石油や原子力を含めたどのエネルギーよりも多い27%のシェアを獲得する可能性があるという。このような好成長が続いている理由は、①政府の優遇政策、②(中国での)生産の産業化、③技術革新、④資金調達の改善の4つである」。
 
 『フォーリン・アフェアーズ』は、太陽光による発電の技術に加えて、発電した電力をためておく蓄電技術についての論文も掲載していて、この分野の技術革新も目覚ましく、自動車メーカーが電気自動車を発売したことで生産コストの削減も実現し、さらなる進歩が予測されるとしています。そして、蓄電池が普及することによって、太陽光を含む自然エネルギーによる発電の不安定さが補われるため、送電線などの電力インフラが整備されてない途上国や島などが、低コストで電化される可能性が大幅に広がるとしています。
 
 そして、同誌の編集者は、解説記事の中でこう書いています--「これらを考え合わせると、掲載論文は明確なメッセージを伝えている。それは、化石燃料による発電が始まって以来、電気エネルギーは初めて、生産、貯蔵、移送、使用のすべての面において根本的に新しい方法で扱われようとしているということだ」。
 
 生長の家が目指している、「神・自然・人間の大調和」とは、人間の知恵と独創力の産物である科学技術を否定するものではありません。科学技術は、人間の道具ですから、その使い方を間違えば悲惨な結果を生み出します。核兵器の開発や原子力発電所の事故が、そのことを教えてくれます。しかし、それを正しく使えば人類のみならず、他の生物や地球環境にも貢献する道は必ずあると考えます。その信念のとおりに、私たちは“森の中のオフィス”には最新の科学技術の成果である高性能の太陽光発電装置、バイオマス発電、大規模な蓄電設備を導入して、“炭素ゼロ”を達成しました。
 
 しかし、科学技術の発達だけでは、人類と地球社会の発展は期待できません。なぜなら、科学技術は戦争やテロリズムの手段としても使うことができるからです。ここに、私たち宗教を信ずる人間の重大な使命があると考えます。発展し続ける科学技術を人類と地球社会の繁栄に役立たせるためには、「神・自然・人間の大調和」を信じ、それを目指す人々の数がもっともっと増え、社会を正しい方向へ動かす力とならねばなりません。どうか皆さん、その目的を強く自覚し、私たちの信仰運動をさらに熱意と喜びをもって推進してください。大調和の世界実現のために、心を一つにして進んでまいりましょう。
 
 これをもって、本日の御祭に当たる所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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2015年3月 1日 (日)

「生命を礼拝する」とは?

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山で「立教86年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」が開催され、ブラジル、アメリカ、台湾からの海外信徒代表者を初め、国内各教区から約800人の幹部・信徒が集まって、生長の家立教の精神を振り返り、今後の運動の進展を誓い合った。この式典は、昨年に続いてインターネットを利用して世界に中継されただけでなく、時差を利用した音声の外国語訳が試みられた。私は式典の中で概略、以下のような内容の挨拶を行った--
 
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 皆さん、本日は立教記念日おめでとうございます。この日は、生長の家の86回目の誕生日であります。人間の場合、「85歳」や「86歳」は“老人”かもしれませんが、団体や宗教運動の場合は、何千年も前に誕生したものもありますので、大変「若い」運動であり、まだ「草創期」と言っても間違いではないかもしれません。だから、今日のように、春の息吹を感じる日には、私たちも「さあ、これから運動は伸びるぞ!」という意気込みを感じるのではないでしょうか。
 
 86年前にこの運動を始められた谷口雅春先生と輝子先生も、きっとそんなお気持で昭和5年の春を迎えられたに違いないのであります。私はこの立教記念日には、毎年のように、昭和5年3月1日発行の『生長の家』誌創刊号をもってきて、その中に表れた立教の精神に学び、またその精神を現代にどう生かしていくべきかを皆さんに提案してきたのでありますが、今日もそれをしたいと考えます。 
 
 ここに『生長の家』誌創刊号がありますが、この雑誌の裏表紙には「生長の家の宣言」という6カ条の宣言文が掲げられています。これは、現在は『生命の實相』などの中で「七つの光明宣言」として書かれ、私たちの運動の目標とされているものの原型であります。当初は6カ条だったものが、後に7カ条になったということです。私は2年前のこの日には、この宣言文から「創化力」という言葉を引用して、その意味について述べましたが、今日は、この第1条にある「生命を礼拝する」ということについてお話したいのであります。 
 
 第1条には、こうあります-- 
 
「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」 
 
 これが、創刊号に掲載された第1条で、後に発行された『生命の實相』では、この最初の所に「宗派を超越し」という文言が挿入されています。つまり、こうなっています-- 
 
「吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」 
 
 生長の家は「万教帰一」でありますから、「宗派を超越する」ということは皆さんも大いに賛成されているだろうし、現在の世界情勢を見ると、まさにこの考え方が必要であることは疑う余地はありません。しかし、ではもう一つの「生命を礼拝する」とは、どんなことを言うのでしょうか?  
 
 昨今、日本のメディアで騒がれているのは、中学1年の男の子が、川崎市の多摩川の河川敷で酷い方法で殺されたという事件についてです。これは明らかに、「生命を礼拝」していない行為です。被害者の少年は13歳ですから、これからまだまだ成長し、いろいろな経験を積みながら人生を謳歌し、また社会にも貢献していける可能性をもった中学生の意志を蹂躙し、命を奪う行為は、明らかに「生命を礼拝しない」行為です。そのような行為が野放しになることは、許されないことです。では、人殺しさえしなければ、動植物を殺すのであれば「生命を礼拝」していると言えるのでしょうか? 私はそうは思いません。ここにある「生命」という言葉は、人間の命のことだけを指すのではないからです。もし、人間が生きるためだからといって、多くの生物種が絶滅し、あるいはウシやブタなどの家畜たちが、劣悪な環境で苦しみながら育てられ、そして大量に殺戮されていくならば、それは生命を蹂躙しているのですから、生長の家の信仰者は、そんな行為に加担するような生き方をしてはいけません。 
 
 今、私たちの運動が生物多様性を尊重し、肉食を減らそうとしている重要な理由の1つが、ここにあります。つまり、私たちの運動は、『生長の家』誌創刊号のこの宣言の第1条の精神に忠実に従い、それを世界的に展開していこうとしているのです。 
 
 ところで、生長の家の国際本部が東京・原宿から山梨県の八ヶ岳南麓に引っ越してから1年半がたちました。東京生まれ、東京育ちの私は、その間、これまでの人生で体験したことがないほど、自然との濃密な関係の中で生きることができて、この生活を選んだことを「本当に良かった」と感じています。これは皆さん、決して負け惜しみなんかじゃありません。もちろん、都会と比べて田舎は不便です。特に、私が住んでいる地域は、田んぼも、畑もありませんから、田舎というよりは「山の中」「森の中」です。畑に野菜や果物を植えれば、すぐにシカが来て食べてしまいます。雪が降れば、車の出入りもままならない所です。世の中の流行や、食べ歩きや、映画やゲームなどの娯楽からはずいぶん遠くなりました。でも、その代りに得た自然界との濃密な関係は、都会の生活では決してわからない重要な事実を教えてくれます。それは、「人間は自然の一部だ」ということです。だから、本当の意味で人間の命を大切にするためには、その基盤である自然を大切にしなければならないということです。 
 
 このことは、理論的には、私自身がこれまで繰り返して訴えてきたことですが、それはどちらかというと、頭による理解でした。ところが、“森の中”での生活を実際に経験して、私は「人間は自然の一部だ」と全身で感じることができるようになりました。具体的に説明しましょう-- 
 
Kamoshika  私は今、自宅からオフィスまでを徒歩で通っています。雪が降るまでは自転車通勤が可能でしたが、標高1200~1300メートルの土地に雪が降ると、道路が凍結します。ですから、徒歩に替えました。徒歩だと、オフィスまではほとんど上り坂ですから、雪の中を行くと約1時間かかり、帰りは下り坂が多いので40分ぐらいです。この往復の道で、ときどき野生動物に出会います。シカ、キツネ、タヌキ、キジなどですが、クマには会いたくないので、季節になると鈴を付けます。ついこの間(正確には2月24日の夕方ですが)、特別天然記念物に指定されている動物に出会いました。ニホンカモシカです。普通のシカは、人間と出会うとすぐに逃げてしまいますが、このカモシカはじっと立ち止まって私の方を見ています。そろそろと近づいていって写真を撮りましたが、5~6メートルの距離まで近づくと逃げていきました。その間、私とカモシカは見つめ合います。お互いの意図を探り、距離を測るのです。そういう直接の触れ合いの中で、私は「人間は自然の一部だ」と感じ、喜んでいる自分を発見するのです。 
 
 この話を、帰宅してから妻に話すと、彼女も「動物と出会うのは楽しい」と言います。人間は、野生の動物と出会うことに喜びを感じるということは、彼女もずっと感じていたことでした。その時、私は、ピューリッァー賞を受賞したアメリカの生物学者、エドワード・ウィルソン(Edward O. Wilson)の言葉を思い出しました。それは彼の本のタイトルにもなった「バイオフィリア」(biophilia)という言葉です。「バイオ」(bio)は生物、「フィリア」(philia)は愛するということです。彼の考えによると、人間にはその心の奥深いところに、自分の同類である人類はもちろん、人間以外の生物を愛する感情があるというのです。彼の言葉を引用しましょう-- 
 
「どんな生物であれ、生命なき物質のあらゆるバラエティをすべて合わせたよりも遥かに興味深いものだ。生命のない物質は、どれだけ組成の似た生体組織の代謝に役立つか、あるいは有用な生体物質へと変化させられるかによって、その主な価値が決まると言っても過言ではない。健全な精神をもった人間なら、生きている木よりも、そこから落ちた枯葉の山を好んだりはしないだろう。」 
 
「(…中略…)なかでも、ある種の生物は、精神の発達に特別な影響を与えるために、より多くのものをもたらしてくれる。他の生物と結びつきたいという欲求は、ある程度まで生得的であり、“生物愛好”(バイオフィリア)とでも呼ぶべきのだと私は考えている。この仮説の根拠は、科学的な意味で言えばそう確固たるものではない。(…中略…)だが、生物を好む傾向は、日常生活において明瞭なかたちで、しかも広く見られるものであり、真剣な考察を向けるに値する。それは、幼年期から、予測可能な幻想や個人的反応のなかに姿を現わし、やがて大部分もしくはすべての社会で繰り返し見られるパターン、人類学の文献のなかにしばしば見られる一貫性へと収斂されていく。」(pp. 138-139) 
 
 ウィルソン博士は、この本の別の所ではこう書いています-- 
 
「私がこの本で論じてきたのは、われわれ人間が人間たる所以は、かなりの部分まで、われわれと他の生物との特殊な結びつきにあるということだった。生物は、そこから人間の精神が生じ、また永遠に根を置きつづける基盤(マトリックス)であり、われわれが本能的に探し求めている自由や試練を提供してくれるものだ。ひとりひとりの人間がナチュラリストに近づけば近づくほど、かつての自由な世界の興奮を取り戻すことができる。これは、詩や神話を喚起する魔法の再現の公式だと言ってもいい。」(pp. 228-229) 
 
 この人の文章は、短い中に多くの意味を含んでいるので、少しわかりにくいのですが、結局、こういうことを言っているのだと思います--「人間には、本来的に他の生物と結びつきたいという欲求があるが、その感情の基盤は、われわれ人間が他の生物と“近い”という事実にある。人間の精神は、そういう他の生物との特殊な結びつきを基盤とし、そこから生まれているのだから、われわれが自然に近づけば近づくほど、人間本来の自由と喜びを得る機会を広げることができる」。 
 
 この考えをもう少し、宗教的に、生長の家で使われる言葉によって表現すれば、こういうことになるでしょう--「人間は“神の子”として、神が創造された他の生物すべてと本来、一体の関係にあるから、他の生物と結びつきたいという感情が湧き上がる。他の生物との“自他一体”の感情があるということが、私たち人間が人間である所以である」。このように言い換えてみると、ウイルソン博士が言っていることは、『生長の家』誌創刊号の「生長の家の宣言」の第一条と、ほとんど同じ意味になるのであります。それは、「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」ということです。 
 
 ですから、生命を礼拝するということは、人間はもちろん他の生物との“自他一体”の感情を尊重して生きるということです。それは肉食を避け、自然環境を破壊せず、他の生物との接触の場を多くもつということでもあります。こういう生き方にもっとも相応しい場所は、都会ではなく自然の中です。生長の家が今、国際本部を大都会から“森の中”へ移して運動を展開している理由が、ここにあります。皆さまも、人間本来の生き甲斐や幸福は他の生物との関係の中にある、つまり自然の中にあるということを忘れずに、都会に住む人も、田舎に住む人も、人間の命だけでなく、他の生物の生命も礼拝し、尊重する生き方を実践していただきたい。それが私たち人間の幸福の源泉であり、世界平和への道でもあるのです。 
 
 立教86年の記念日に当たり、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣 
【参考文献】
○E.O.ウィルソン著/狩野秀之訳『バイオフィリア:人間と生物の絆』(ちくま学芸文庫、2008年)

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