結び合うこと (3)


拙著『宗教はなぜ都会を離れるか?』(2014年、生長の家刊)の第4章で、私は「ムスビ」ということについて書いた。それは当初、『生長の家』誌2014年1月号に掲載されたもので、さらに遡れば、それ以前に本欄に書いた「自然界のムスビの働き」という文章(2013年11月19日、11月21日)がもとになっている。「ムスビ」とは、日本語に「縁結び」という言い方があるように、「結ぶこと」「くくり」のことを言い、「結び目」を意味することもある。また「おむすび」は、握り飯のことである。『広辞苑』によると、この語は奈良時代には「産霊」と書いて、もともとは「ムスヒ」と発音したらしい。「産」が「ムス」であり、「霊」が「ヒ」である。ものを産生する霊力のことを、そう言ったのである。
では、ものを生み出すことが「結ぶ」こととどう関係するのか? ここからは、私の解釈である。古来の「陰陽」の考え方を導入し、陰と陽が合わさることで何かが新たに誕生すると考えることは、それほど不自然ではない。それが「縁結び」という考え方によく表れている。「陰」である女性と「陽」である男性が、もともとは見知らぬ同士で無関係であっても、ある時、ある場所で知り合い、互いに惹かれることで恋人となり、やがて夫婦となる。すると、子が産まれる。この子は、男親とも女親とも似てはいるが、別の生命をもった一人の個人であり“新しい価値”である。このように、二つのものが合一して新たな価値が生まれることが「ムスビ」である。
谷口雅春先生の御文章にも、同じことが書いてある--
「“むすび”というのは、“結婚”の“結”に当たる字ですが、皆さんが(…中略…)羽織の紐でも寝巻の紐でも、左と右を結び合わす。そうすると、前の結ばない時よりも美しい複雑な形が現われてくるでしょう。これは“新価値の創造”である。それで左と右、陽と陰とが完全に結び合うと、このように“新しい価値”が其処から生まれてくるのであります。愛は自他一体のはたらき、陰と現われ、陽と現われているけれども“本来一つ”であるから、互いに結ばれて一つになることです。“愛”というのは“自他一体”の実相の再認識であります。こういうふうに、宇宙の本源なるところの本来一つの神様が、二つに分かれ、陽と陰とに分かれたのがそれが再び一つに結ばれて“新価値”を生み出す働きをするのが、“高御産巣日神”“神産巣日神”である。」(『古事記と現代の預言』、p. 32、原文は旧漢字)
私は、これらのことを簡単にまとめ、「分かれたように見えているものが一つに結び合わされること」がムスビであり、これによって豊かな世界が実現する--と前掲書に書いたのだった。(同書、p. 299)
ここでのポイントは、「分かれたように見えている」という言葉である。前掲書の第2章で「対称性の論理」について書いたとき、私は、チリ生まれの精神分析家、イグナシオ・マテ=ブランコによる人間心理の優れた洞察を、次のように紹介した--
「人間は物事を見るときに、見る対象を大別して2つの“固まり”に分けたうえで、その2つの“固まり”の間の関係として捉えるというのです。」(p. 190)
これは、陰陽説の考え方を、客観的な言語によってより一般化したといっていい。陰陽説とは、「陰と陽に大別される相対する2つの気(潜在的活力)が和合・循環することによって、万物は生成・変化・消滅する」という考え方だ。これは、「世界の存在のすべてには陰と陽の側面がある」と言い換えてもいい。しかし、「陰と陽の側面がある」という表現を使うと、どんな側面が「陰」であり、また「陽」であるかを、万物についていちいち説明しなければならない。これは、気の遠くなるような話だ。そんなことをせずに、「陰」とも「陽」とも言わずに、もっと一般化した表現で、「見る対象を大別して2つの“固まり”に分けたうえで、その2つの“固まり”の間の関係として捉える」と言えば、より客観的、かつ汎用性をもった言い方になる。こういう表現だと、「善と悪」「人間と自然」「西洋と東洋」「赤と黒」「甘い辛い」などの対語、ないしは対照語を使うときにも適用できるので、有用性が増すと思う。
ここで、「分かれたように見えているもの」という表現にもどって考えてほしい。これは、「分かれたもの」とは意味が違う。「分かれたもの」とは「無関係なもの」である。「分かれたように見えているもの」とは、本来は一つであっても、今は一時的な事情や条件によって「別物に見えている」という意味だ。ある部屋に2人の人間がいて、別々の服装をし、別々の方向を向き、別の仕事をしていれば、その2人は互いに無関係のように見える。しかし、実際はこの2人は夫婦や兄弟であることはあり得る。また、同じ目的をもって集まった2人--例えば、その部屋を造作している大工と電気技師--である場合もある。ここで、この2人を遠くから見ている人を想定し、それを仮に「Aさん」と呼ぶことにする。するとAさんの目からは、2人の関係性が隠されている場合、2人は「分かれたように見えている」である。
こんな状況があるとすると、ムスビとは「分かれたように見えているものが一つに結び合わされること」であるから、部屋の中のこれら2人が立ち上がり、互いに向き合って握手をしたり、あるいは肩を叩き合ったりすれば、ムスビが成立し、豊かな世界が実現する--ということになる。何だそんなことか、と読者はがっかりするかもしれない。が、もう少し説明を聞いてほしい。これは「そんなことか」と嘆息するほど、つまらない話ではないと思う。
重要なのは、上に書いた「隠された関係性」である。こういう関係性は、それを見ている人間(Aさん)が後から思いついたもので、大工と電気技師は当初から無関係だと考える人が、世の中にはいる。別の言い方をすれば、大工も電気技師も、家の建築主の依頼によって部屋に入り、それぞれは建築主の注文にしたがって作業をしているだけで、両者間には“新しい価値”など生まれてはいないと考えるのである。私は、そう思わない。誰でも、自分の家や部屋を造ったり、改造や改装をした経験がある人なら、大工と左官、電気技師、インテリアデザイナーなどの職人が互いに綿密な打ち合わせと連携をしなければ、まともな部屋はできないことはご存じだろう。もちろん、施主は存在しなければならない。しかし、職人間のムスビがなければ、「新しい部屋」という新価値は生まれないのである。
部屋の造作は、やや複雑な例だった。もっと簡単な例は、先に挙げた「お結び」である。白飯と梅干だけの握り飯のことだ。これを、「分かれたように見えているものが一つに結び合わされる」という定義にしたがって考えると、白飯と梅干はもともと「一つ」であるが、それが握り飯を作るときに分離して、人間の手によって再び結び合わされる--というような不自然な解釈が生まれるかもしれない。しかし、この解釈は「隠された関係性」を考慮していないところに問題がある。
「白飯」と「梅干」の2つは、ともに人間が自然界に働きかけて作ったものであり、山中や森に普通に転がっているものではない。ではなぜ、そういう人手をかけたもの2つが選ばれ、握り飯として1つに結び合わされたかというと、その背後には、「簡単に作れ、かつ持ち運ぶことができ、かつ栄養価のある食品を作りたい」という人間の意思が存在しているからだ。これが、お結びの場合の「隠された関係性」である。
「ムスビ」という考え方は、この「隠された関係性」が存在することを前提にしている。このように考えていくと、「人間は物事を見るときに、見る対象を大別して2つの“固まり”に分けたうえで、その2つの“固まり”の間の関係として捉える」というマテ=ブランコの洞察は、さらに味わい深いものと感じられる。私が言いたいのは、「隠された関係性」というのは、それを見る人間の心の中にあるもの(主観的存在)なのか、それともその人の心から離れたところに初めから存在するもの(客観的存在)なのか、という問題である。マテ=ブランコは前者の解釈をしており、「ムスビ」の考えは後者にもとづく。どちらが本当かの判断は、なかなか難しい。
谷口 雅宣