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2015年2月

2015年2月 2日 (月)

原宿“いのちの樹林”が完成

Hrajukugrove_01  今日は快晴の空のもと午前11時から、東京・渋谷区の「生長の家 原宿“いのちの樹林”」の光明の塔で同樹林完成の御祭が挙行され、生長の家国際本部の役職員を初め、東京第一教区の幹部・信徒など百数十人が参加した。御祭では招神歌、「大調和の神示」の奉読に続いて、第4基目の七重塔の除幕が行われ、その後、生長の家白鳩会の谷口純子総裁が「自然と人間の大調和を観ずる祈り」を奉読、さらに「大自然讃歌」の一斉読誦へと続いた。私は、御祭の最後に概略、以下のようなあいさつの言葉を述べた--
 
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 皆さん、本日は「原宿“いのちの樹林”」の完成を祝う御祭にお集まりいただき、誠にありがとうございます。
 
 この樹林は、昨年12月10日に完成した「赤坂“いのちの樹林”」に次いで誕生した霊的緑地であります。今日、集まってくださった皆さんの多くは、その時の完成の御祭にも参加してくださっていますが、そこでお話ししたのは、この生長の家の“いのちの樹林”は、これまで都市に造られてきた「庭園」や「公園」と呼ばれる緑地とは異なる、2つの大きな特徴があるということでした。その1つは、その土地本来の植生であるということ、2つめは、生物多様性の実現を目指す、ということでした。 
 
Hrajukugrove_02  伝統的な日本庭園の中には、この2つを実現しているものはあるのですが、世界中の庭園や公園ではそうでないものが、ほとんどであろうと思います。そういう庭園や公園は、土地本来の植生を考えるよりは、人間にとって珍しいもの、花や葉が美しいもの、食べておいしい実のなるもの、よい香りのするものなどを集める--つまり、人間本位の考え方にもとづいているということを指摘しました。このような人間中心の考え方は、都市を造る際の考え方と同じですから、短期的には自然を大切にしているように見えても、長期的にはそれと反対の結果を引き起こしかねないのであります。また、人間の都合を優先した緑地は、生物多様性の面でも本来の自然より劣るものです。 
 
 そこで生長の家は、先ほど申し上げた2つの特徴をもった緑地--つまり、その土地本来の植生をもち、生物多様性の拡大を目指す緑地を実現することで、“本来の自然”を都会の真ん中に生み出すことを考えました。それがなぜ宗教活動であるのかという点を、今日はご説明したいのであります。 
 
 このことはすでに、昨年12月半ばの私のブログにも書きましたが、この機会に改めて申し上げます。生長の家の運動の目的は、神が創造されたままの完全なる世界の実相を、この地上に表現することであります。私たちは、神が創造された世界が完全であるということを、信仰の中心にしています。創始者の谷口雅春先生は、これを聖書の『創世記』にある天地創造の物語の解釈を通して、明確に述べられています。つまり、『創世記』第1章には、神が6日間で天地を創造された後、その天地の全体をご覧になって「はなはだよい」とおっしゃったと記述されていますが、それが真理であるということです。 
 
Hrajukugrove_03  これに対して『創世記』の第2章では、それとは別の天地創造物語が記述され、そこでは神に創造された人間が、神の命令に背いて、ヘビの誘惑に負けて“禁断の木の実”を食べるという有名な話が出てきます。『創世記』第1章と第2章の記述の矛盾は、世界の聖書学者の間からもつとに指摘されていて、その理由は、「作者が異なるから」というのが通説になっています。しかし、谷口雅春先生は、もう一歩先へ進み、その矛盾は、実相世界と現象世界の違いを表現したものだという卓越した議論を『生命の實相』などの中で展開されていることは、皆さんもよくご存じの通りです。 
 
 この基本的な解釈を念頭において『創世記』を読み解いていくと、“エデンの園”の話は同書の第1章にはなくて、第2章から出てくるという重要な事実に突き当ります。また、第1章では、神は天地創造後--つまり自然界全体を創造された後に「はなはだよい」と称讃されているのですから、それに加えて“楽園”のような「1つの園」を、はなはだよい世界とは別に、あるいはその一角にわざわざ創造する必要があったとする第2章の記述は、大いに矛盾することがわかります。では、“エデンの楽園”を造った目的や動機とは何でしょうか? そこにきっと“人間の迷い”が反映しているはずです。そんな問題意識をもって『創世記』第2章を読むと、次のような一節に突き当ります-- 
 
「また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた」(9節) 
 
 さらに第3章6節には、“禁断の木の実”をイブが食べるシーンが描かれていますが、そこにはこうあります-- 
 
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」 
 
 ここには、イブが神の言いつけを破った理由が描かれているのです。その理由とは、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」というように、「自分にとって好ましい」という考えを優先し、神の言いつけを破ったということではないでしょうか。逆に言えば、神が創造された天地には、「食べるに悪く、目には醜く、賢くなるには好ましくない」ような木もあるという認識です。もっと端的に言えば、神の創造世界には悪もあるという認識が、これらの言葉の裏にはある。ここから、神の創造世界があるにもかかわらず、そこの一角をわざわざ区切って「1つの園」を設けなければ“楽園”とはならないという考えが生まれるのです。 
 
 この考え方を現代風に言い直せば、自然界そのものには人間を害するものも沢山あるのだから、人間にとって「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」植物や動物だけをそばに置いて育てれば“楽園”が実現する--ということです。これは今日の、大方の人間の自然に対する考え方ではないでしょうか? そして、これまでの多くの庭園や公園は、まさにこの考え方にもとづいて造られてきたと言えます。しかし、私たち生長の家は、神の創造世界には悪はない、どこもかしこも「はなはだ良い」世界だという信仰を中心にしていますから、従来型の人間の都合に合わせた庭園や公園をよしとすることは、“迷い”をよしとすることであり、もっと言えば信仰に相反することになるのです。 
 
 そんなわけで、土地本来の植生を生かし、生物多様性を重んじた緑地を私たちは造りました。樹木などの植物はまだ植えつけたばかりですから、今後しっかりと根を張って育つかどうかはまだわかりません。その点、東京第一教区の信徒の皆さんにも協力いただいて、この樹林を大きく育成していきたいと念願するしだいです。そうして、大都会に生きる多くの人々に、本来の自然が生み出す自然と人間の深いつながりのメッセージを伝え、自然尊重の機運を盛り上げていきたいと考えます。皆さん、どうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
 谷口 雅宣

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