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2015年1月

2015年1月31日 (土)

ていねいに生きること (5)

Mt_stocks  ところで、「ていねいに生きること」を目指して始めた自転車通勤だが、降雪と路面の凍結が頻繁に起こる八ヶ岳南麓では、冬季はほとんど不可能である。SNI自転車部に所属する北陸地方のある教化部長は、積雪のある路面を自転車で行くという果敢な挑戦をされたようだが、オフィス近くの道路は凍結した斜面が多く、危険なので私はやめている。その代わり、できるだけ車を使わず、徒歩で通い始めた。すると同じ通勤路が、自転車の場合と徒歩ではだいぶ印象が違うことに気がついた。そして、自転車よりも徒歩の方が、自然との密着度は相当強いと感じる。機械の助けを借りるのと、借りないで“裸一貫”ならぬ“肉体一貫”で自然に触れるのとでは、感じる世界がかなり違うのである。どう違うかを述べてみよう。 

 オフィスへ歩いて行くときには、私は自宅を午前9時すぎに出る。路面の雪の量にもよるが、徒歩だとオフィスへは50分から1時間かかる。オフィスへ着くと、体は汗だくだ。オフィスへ続くほぼ一直線の県道は、登り坂のきつさはあるが、路面の雪はたいてい掻いてあるから、安全である。危険なのは、その広い道に出るまでの、曲がりくねった細い山道で、ここは凍結した下り坂が続く。それでも、降雪後まもないときは、柔らかい新雪が滑り止めの働きをするからまだいい。いちばん危ないのは、前日が暖かで、路面の雪が溶け出したところで夜となり、溶けた水が夜間に再び凍結した後の朝である。路面はまさにスケートリンクのようにカチカチに固まる。そんな山道を、荷物を背負い、両手にストックを持って私は出かける。 

Snowyroad  銀世界が広がる周囲の景色はまことに美しいのだが、私はそれを眺めて歩く余裕がまだあまりない。すぐに滑って転倒する危険がある。だから、足元の雪の状態とその色や形状を観察しながら、路面の凍っていない箇所を選んでソロリソロリと足を運ぶのである。こんな時、人間が2本足であることのデメリットを切実に感じる。足元の雪には、よく足跡がついている。その形から、シカだったり、イヌだったり、ネコだったり、別の人間だったりが、自分と同じ場所を歩いていることが分かる。そんな時、彼らへの親近感を強く覚える。なぜなら、彼らも滑らないように氷の上を避け、柔らかい雪の上を選んで歩いていることがよく分かるからだ。「獣道」という言葉があるが、凍結した山道では、獣も人も同じ経路を歩くから、自分は同じ動物だと強く感じる。が、四ツ足の彼らは滑っても転ばないが、2本足の自分は滑れば転倒してしまう。 

Snowyroad2  これを防ぐのが2本のストックだ。このおかげで人間は四ツ足の彼らと対等になる。--凍った路面にストックを突きながら歩いていると、本当にそう感じるのだ。自転車に乗っている時は、こんなことを決して考えない。動物の足跡の中に、滑った痕跡がある場合がある。そこは「要注意」の印だ。車が通った後には轍が残るが、そのスノータイヤに刻まれた溝の後がまだ鋭角状にハッキリ残っている場合と、一部溶けて角が丸くなっている場合を素早く見分ける必要もある。前者は安全、後者は危険の印である。新雪の中を行く場合は「まだいい」と書いたが、これは比較的安全という意味である。あくまでも「比較」の問題で、凍結した坂道の上に新雪が積もっている場合は、氷の表面よりも滑りやすいことがある。こんなときは、ふかふかの雪を被った路面を見て安心せずに、前日、その坂道のどこが凍結していたかを思い出して、その場所を避けて歩くことにしている。   

 こんな具合で氷点下の山道を小一時間歩くことは、全身の神経と筋肉を活性化させ、体を内部から熱くしてくれる。空は青く、山は白く、木々は黒く、足元の雪道は謎と挑戦に満ちている。道中、鳥の姿を見、声を聴き、口笛を吹いてそれに応え、足跡から動物たちの行動を想像する。人の足跡は、靴の種類や性別も教えてくれる。自分が全身で体験する世界は、下手な推理小説よりよほど面白いと感じる。   

 谷口 雅宣

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2015年1月24日 (土)

ていねいに生きること (4)

 自分の手で物をつくることの基本を、私たちは何から学ぶだろうか? 私が子供の頃は、小学校に「図工」という科目があって、そこで絵を描いたり粘土細工をしたことを覚えている。が、そういう手作業をするよりもずっと以前に、子供はみな「字を書く」ことを学んだはずだ。これは厳密には「物つくり」とは言えないかもしれないが、手を使って形あるものを描き出すという意味では、物つくりとそれほど変わらない。手本となる字を横に置いて、それとできるだけ似た形の線を自分のノートに描いていく。そういう練習を繰り返して、私たちは読み書きができるようになった。その際、字を書くのに使った鉛筆は、やがて芯がちびてくる。すると、鉛筆を削って芯を出す作業が必要となる。だからナイフを出して、鉛筆を削る……。 
 
 私と年齢が近い読者は皆、小学生の時にはこの「鉛筆削り」を当たり前にやったのではないか。小さなハンドルを手で回す「鉛筆削り機」というものが登場する前は、子供でもナイフを使ったはずだ。しかし、現代ではナイフで鉛筆を削れない子供がたくさんいるという。それどころか、親にも削れない人がいるというのは驚いた。1月25日付の『朝日新聞』には、こんな記事があった-- 
 
「“最近の子はナイフで鉛筆も削れない”と言われて数十年がたつ。今や大人でも使いこなせる人が少ないのが実情だ。先月、私立中学校・高校の教師にナイフを使ってもらう体験会が横浜市と東京で開かれた。安全な使い方を子どもたちにも伝えてもらうのが狙いだ。」
 
 記事によると、この体験会はナイフメーカーと学習塾の共催で開かれたもので、14校から約20人の教師が参加したという。そこでは、「サクラ、ハンノキ、トチ、クロモジの木片を削って切れ味を比べ、ヒノキ材で箸を作った」という。私は、こういう催しはどんどんやるべきと思う。それも、大人の教師がやるだけでなく、小学生にもさせるのがいい。私の子供が通った小学校では、「肥後守」という日本伝統のナイフを子供たちに与えて鉛筆を削らせたり、果物の皮をむかせた。こういう手作業は、脳の発達に貢献するだけでなく、木の香をきき、木材の硬軟を知り、野菜や果物の手触りを肌で感じることにより、自然界の多様性や人間とのつながりの深さを実感する貴重な機会となるからだ。 
 
 同じ記事が伝えるデータでは、昨年の調査によると、ナイフで鉛筆を削れる子供の割合は、日本では20%にとどまるのに対し、スイスでは53%だという。また、子供にナイフの使い方を教えられない親の割合は、日本では31%だったのに対し、スイスではわずか3%だそうだ。恐らくその理由は、刃物を異常に危険視する考えがこの国に浸透しているからだろう。しかし、「危険である」ことを理由に、子供をそこから遠ざけるのが正しい教育だとすると、這うことしかできない段階の幼児には、立って歩かせてはいけないことになる。そんなバカなことはないだろう。転んで頭を打つ危険性がある中でも、あえて立ち上がり、歩行しようとする努力があって、子供は初めて立って歩けるようになるのだ。 
 
 「ていねいに生きる」とは、すでに与えられている自然の恵みに感謝し、それをムダにせずに十分味わうことだった。自然界には、危険はつきものである。その危険を経験することで、人間は学習する。少々痛い目にあっても、その経験によって、次回はそんな痛い目に遭わない方策を考えるのである。それは学習であり、新しい知恵の獲得だ。人間だけでなく、生物はみな、同様の学習によって自然界で生き延びる術を体得する。こう考えてみると、「少々痛い目にあう」ことも自然の恵みの一部だといえるのである。それをムダにせずに十分味わうということは、「転ばない」ことが重要なのではなく、「転んでも立ち上がり、再び転ばない知恵を身につける」ことが重要なのである。そうなった暁には、一度「転んだ」ということに、私たちは心から感謝できるのである。 
 
 実は私は、自転車通勤を始めてから、山道で2度転んだ。最初の転倒は、薄暮の中、ライトを点して帰宅する途中で、ハンドルに取り付けたライトが十分固定していなかったため、凸凹道で取り付けが緩み、光が私の顔にまともに当たった時だ。一瞬目が眩んで何も見えなくなったので、下り坂であったにもかかわらず、私は本能的にブレーキを力いっぱい握った。マウンテンバイクの制動装置は、自動車と同じ構造のディスクブレーキで、とても強力だ。私はアッという間に前方に1回転して地面に転がった。2回目の転倒は、やはり下り坂を走っていた時で、小さい釘を踏んだために前輪がパンクした。こんな時は、タイヤはいきなり破裂などしない。細い穴から空気が漏れ出るにしたがって、柔らかくなるのである。すると、ハンドル操作がきかなくなる。カーブでハンドルを切っているつもりでも、フラフラと前方に滑っていく。幸いスピードがあまり出ていなかったので、危険を感じた私は自分で転倒することを選んだ。崖から落ちるよりは、その方がいいに決まっているからだ。 
 
 私はこの2回の“痛い目”のおかげで、自転車での山道の走り方についてずいぶん学習したと思っている。下り坂ではブレーキをかけすぎるのは危険だと学び、タイヤがパンクした際の自転車の走り具合を、感覚として憶えた。また、どんな大きさで、どんな形状の釘が、タイヤをパンクさせるかも知った。そして、マウンテンバイクの太いタイヤは頑丈だからと過信して、砂利道をスピードを出して駆け降りるような運転は、それ以来やめたのである。 
 
 自転車は、人間が使う道具の1つである。その点ではナイフも同じだ。これらの道具を通して私たちは自然界と接触するのだが、道具に慣れていない時は、使い方を誤ってケガをするかもしれない。しかし、その失敗を通して、自然界のことをよりよく知るのである。成功しているときには分からない自然界の別の側面を学ぶことになる。私は、このことも自然界を「十分味わう」ことの1つであり、「ていねいに生きる」ことだと考える。 
 
 谷口 雅宣

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2015年1月22日 (木)

ていねいに生きること (3)

 前回のブログを書いてから随分日がたってしまったが、同じ題で書き継ぐことにする。というのも、「ていねいに生きる」ことは、時間の経過をあまり気にしないこととどうやら共通しているからだ。しかし、それは、短時間でできることをダラダラと引き延ばして処理しようという意味ではない。時間のかかる作業でも面倒くさがらずにコツコツと行なっていると、当然のことながら、他の仕事に費やす時間が短くなり、ブログを書く余裕も減るということだ。で、私がこの間、ルーチンワークの他に何をしていたかというと、クラフトの製作である。
 
 私が勤める北杜市の“森の中のオフィス”では、この2月から書籍などを売る売店が開業する。名づけて「本とクラフト こもれび」である。本部が東京・原宿にあった頃も、新館の玄関を入ったロビーの脇に書籍売場があって、職員を含めた多くの人が利用してくださっていた。その例にならい、オフィスの開所から1年以上たった今回、遅まきながら売店がオープンする。ただし、東京時代とは違う品も扱うことになった。それがクラフトだ。しかも、職員の手になる作品である。本欄の読者は、昨年秋にオフィスで行われた「自然の恵みフェスタ 2014」でも、有志職員の手作り品が販売されたことを憶えていられるだろう。 その試みの評判が案外よかったので、オフィスの売店で常時何かを提供できないかという話になったのである。
 
 クラフトとは「手仕事による製作」であり、「手工業、工芸」である。この定義からして、製作には手がかかる。今回のブログの題との関係で言えば、一つ一つをていねいに仕上げなければならない。これに対して工業製品は、製作過程を機械化して手作業をできるだけ省くことで、人件費の削減と大量生産による効率化を行い、低価格での製品提供を実現している。両者の生産方式には一長一短があるが、地球温暖化と資源やエネルギー不足が危惧されている現代にあっては、手工業による生産方式のメリットは無視できない。製作過程で資源やエネルギーのムダが少なく、デザインの画一化や大量在庫が発生しにくく、したがって大量廃棄の必要もないからだ。手工業品は一つ一つがユニークであり、それぞれの良さをもっている。“没個性”の現代文明に対する明確なアンチテーゼでもある。
 
 クラフトの良さは、それだけではない。考古学ファンは十分ご存じのことだが、人類は2本足での歩行を達成した太古の昔から、空いた両手を使って生活の道具を作り、利用することで喜びを感じ、文化を創造してきた。「製造」という言葉の英語に当たる「マニュファクチャ」(manufacture)の接頭語の「マニュ(manu-)」の意味は、「手」である。手を使って何かを創造し、製作することは、人類の文明・文化の基層をなしてきたと言えるだろう。
 
Brainmapyamamoto96  脳科学の分野でも、「手」がもつ重要性は前から指摘されてきたことだ。ロジャー・ペンローズという先駆的脳科学者が作成した人間の大脳表面の“地図”がある。これは、大脳表面の神経を弱電気で刺激しながら、脳のどこを押せば体のどこが感じるかという実験を繰り返しながら完成した労作である。その詳しい説明は省略するが、この図を見て一目瞭然なことは、大脳表面に貼りついたように描かれた人体図では、顔と手とが異常に大きいということである。その理由は、人体のこの2カ所には、体の他の部位に比べて、それだけ多数の神経細胞が関係しているということだ。言い直すと、顔を動かす筋肉と顔から得る感覚--つまり表情、そして手を動かす筋肉と手から得る感覚--つまり、手の働きとは、人間の生存にとってきわめて重要な役割を果たしてきたということである。だから、私たち人間は、顔を使った表現とともに、手を使った表現がうまくいくと喜びを感じるのである。
 
 このような事実は人類の遺伝子に刻み込まれた“本性”の一つだから、文明が発達して大量生産による工業生産方式が世界の趨勢となり、生活必需品は自作などせずに商店で買うのが普通になっても、簡単に変わるものではない。消費生活が爛熟期を迎えた現代にあって、手作り品や工芸品がかえって見直され、DIY店が繁盛している理由はここにあるのだろう。
 
 私がいう「ていねいに生きる」ということは、すでに与えられている自然の恵みに感謝し、それをムダにせずに十分味わう生き方である。この「自然の恵み」の中には 、人間内部の本性も含まれる。手仕事によって生き甲斐を感じ、クラフトの良さを他の人々と共有することに喜びを感じるのが私たちの「自然の」感情ならば、その活動を盛り上げていくことは大いに評価されるべきである。また、そういう生き方が省エネ・省資源につながり、廃棄物を減らし、個性を伸ばす力をもっているのであれば、私たちの「自然と共に伸びる運動」の重要な一翼を担うことになるのではないか、と私は考える。
 
 谷口 雅宣

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2015年1月 5日 (月)

ていねいに生きること (2)

 私が、この文章のもととなった講演をしたのは2011年の5月初めで、東日本大震災の数カ月後である。まだ、“森の中”には引っ越しておらず、したがって、自然界からのフィードバックを実際に多く体験していたわけではない。しかしその後、“森の中”での生活が始まり、実際に多くの“めんどくさい”体験を重ね、自然からのフィードバックを沢山受け取ってきた。そして今日、この文章を読み直すと、ここに書いたこと--それは当時は一種の“理論的予測”に近かったものだが、それが自分の実際の体験によって「正しい」と証明されたと感じるのである。
 
 私がここで言う「実際の体験」とは、例えば薪割りであり、畑仕事であり、雪かきであり、自転車通勤であり、クラフト製作である。そのほかにも数え切れないほど多くの細々としたことがあるが、それらの自然との交流のほとんどは、都会生活では“ムダ”なもの、“非効率”なこととして否定的に評価されてきたものだろう。薪割りみたいに手間のかかることはしないで、都市ガスや電気を引いて、あるいは灯油を使って暖房をする。そうすれば、スイッチ1つで部屋はすぐに暖かになる。野菜や果物は畑仕事をして収穫するのではなく、スーパーやデパートにあるものを買う。通勤には、危険で体力を使う自転車など使わずに、自動車や公共交通機関を利用する。家で必要な什器や備品は、自分で工夫して作るのは面倒だから、店で買う。それも安いものを。そして、不要になったら捨てる。食事もできるだけ手間を省いて、惣菜を買うか、弁当を買うか、出前をとる--こういう都会生活での“省力化”と消費は、「文明の進歩」とか「経済発展」と呼ばれて肯定的に評価されてきたのである。
 
 しかし、このようなライフスタイルと経済活動が原因となって、エネルギーと資源は浪費され、廃棄物は大気や海洋を汚染し、生物多様性は失われ、故郷は荒廃し、地球温暖化による気候変動が起こっている。これはマクロのレベルの問題だが、個人生活に関わるミクロのレベルでも、この“進歩”のおかげで“シワ寄せ”が起こっている。自然との接触を失った都会の“消費者”たちは、電話やスマホやインターネットを使いこなすことはできても、ノコギリを引けず、クワも使えず、火も起こせず、植物を育てられず、体力も保てずに、アレルギーや神経症に悩まされることになった。
 
 標準的な(古い)経済理論によると、これらの経済の合理化・効率化と社会のスペシャリゼーションによって、人類全体の生産と消費のレベルは拡大し、幸福が増進するということになっている。しかし、本当にそうだろうか? 人類は、経済発展によって何を得たのだろう? 自由時間を得られたのなら、それを本当に有効利用しているのだろうか? テレビの娯楽番組を見たり、ネットでムダ話をしたり、流行やトレンドを追ってショッピングをしたり、アイドルを追ったり、ゲームに興じたり、スポーツ観戦をすることが、本当に“余暇の有効利用”なのだろうか? 選択肢が多いということが、人類の幸福増進につながっているのだろうか?
 
 このような疑問を抱いた人のうち、従来型の経済発展の行く先に見切りをつけ、その中心地・都会から離れて、“ウサギ追いし”故郷にもどり、あるいは豊かな自然が残る新たな土地に移住し、自然との接触の中で、もっと生き甲斐のある生活を送ろうと決意した人々の数は、着実にふえている。生長の家のオフィス移転も、人類社会のこの大きな動きの一環であると考えたとき、宗教としての使命は自ずから明らかとなってくる、と私は思うである
 
 谷口 雅宣

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2015年1月 2日 (金)

ていねいに生きること

 新年、おめでとうございます。2015年、平成27年の新たな年を迎えたこと、神様と皆様にありがたく感謝申し上げます。皆様におかれては昨年と変わらず、本ブログをよろしくご愛顧ください。
 
Nyd2015_01  この正月、皆様には如何お過ごしだろうか? すでに妻がブログに書いているが、私たちは年末、家の内外を整えたあと、元旦には標高1,500m付近にある山梨県立まきば公園まで出かけ、氷点下11度の冷気の中で初日の出を拝み、家に帰るとお節料理をいただき、また雪の中、近くの神社に初詣へ行くなど、静かな時を過ごした。また、この時期にしては比較的穏やかな晴天の下、恒例の伊勢神宮参拝もできた。
 
 さて、少し前のことにもどるが、昨年の11月から12月にかけて、私は「ていねいに生きる」ということを考えていた。私の脳裏にこのテーマが訪れる機会は、以前からたびたびあったのだが、東京在住のころには、それほど切迫していなかったように思う。それは言わば“理論的”には必要な生き方だと考えていたものの、実践の方は、便利かつ多忙な都会生活に流されて、遅れ気味になっていた感がする。ところが、北杜市大泉町の住人となって1年余、新しい経験への対応と驚きがひとまず一巡して、この地での生活についてある程度先の予想ができるようになってきた昨今、置いてきた“都会生活”と、今後の“田舎生活”との違いを端的に表現する言葉は何かと探したとき、この言葉に再び行き当たったのである。
 
 『広辞苑』によると、「ていねい」の意味は「注意深く心がゆきとどくこと」であり、また「てあつく礼儀正しいこと」だ。私が言いたい意味は、このうちの前者である。後者は、「丁寧語」という時などに用いられ、自分以外の相手に対し、いわゆる敬語や尊敬語を使ったり、礼法を行うときの礼儀正しさを意味する。これに対して前者は、「誠意をもって」という意味に近い。それは、相手に対してのみならず、自分に対する心の態度も含めている点で、後者よりも幅があり、深みもあると思う。後者の場合は、「虚礼」とか「慇懃無礼」という言葉があるように、外見上礼儀正しく見えても、心がゆきとどかない行為も含まれるから、問題がまったくないわけではない。
 
 私がここで言う「ていねいに生きる」ということは、日時計主義の生き方に通じる。拙著『日時計主義とは何か?』(2007年)を読まれた読者は、そこにある「感覚優先の視点」を重視する生き方だと理解していただきたい。また、『太陽はいつも輝いている』(2008年)を読んだ方は、ジョン・カバト=ジン博士が推し進める「心いっぱいに物事を感じる生き方」のことだと了解し、『次世代への決断』(2012年)の読者は、「“めんどくさい”が世界を救う」という反語的な表現を思い出してほしい。この最後の表現の意味を、私は同書でこう説明している--
 
「つまり、物事をしっかりと見て大切にする。(周囲からの)一つ一つのフィードバックをしっかりと受け止める。自然と近い生き方の中では、これが要求されます。めんどくさいことの中に喜びを見出して、自然界から沢山のフィードバックを受けることで、自然との関係を楽しむ。そういう生き方は、これまで見てきたようにエネルギーの消費を減らし、しかも幸福を増進する生き方につながっていく」。(pp. 369-370)
 
 谷口 雅宣

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2015年1月 1日 (木)

「結び合う」生き方を進めよう

(以下の文章は、1月1日付でネット上で公開された私のビデオメッセージの内容と同じです。) 
 
 全世界の生長の家信徒の皆さん、新年おめでとうございます。
 
 標高1,300メートルの地にあるここ生長の家国際本部“森の中のオフィス”で、2015年の新年を迎えることができたことを神様と皆様に心から感謝申し上げます。ありがとうございます。 
 
 生長の家が国際本部を大都市・東京からこの地に移してから1年と3カ月がたちました。とても稔りのある15カ月間だったと感じます。この地の自然は決して美しいだけではなく、厳しい側面もありますが、私たちは都会では得られない様々な体験を得ながら、自然とともに伸びる“新しい生き方”を開発しつつあり、そのことに心を躍らせています。 
 
 昨年2月には、山梨県は観測史上最高となる大雪に遭遇しましたが、役職員は一致団結して寮やオフィス敷地の雪かきを行い、道路に積もった1メートルを超える雪を取り払って交通を再開させるなどして、オフィスの機能を維持しただけでなく、職員寮のある三つの町の近隣の除雪にも積極的に参加して、地域の人々に喜ばれました。 
 
 儀式行事の面でも、新しい展開が始まっています。東日本大震災のあった3月11日は、オフィスにおいて初めて「神・自然・人間の大調和祈念祭」が執り行われました。また、オフィス落慶から1周年の7月7日には、第2回目の「万教包容の御祭」が行われ、2基目の七重塔が設置されたのに加え、12月10日には、東京にあった末一稲荷神社がメディアセンターに移転した後の赤坂の跡地に、「赤坂“いのちの樹林”」が完成し、そこに3基目の七重塔が建立されました。この樹林は信仰の場であると同時に、二酸化炭素吸収の場でもあります。 
 
 これに加えて重要なのは、昨年秋の大祭で、生長の家総本山の龍宮住吉本宮に天之御中主大神、高御産巣日神、神産巣日神の“造化の三神”が勧請され祀られたことでした。これによって私たちの今後の運動が、唯一絶対神を中心として、自然界の特徴である“ムスビの働き”を維持発展させ、社会にもそれを弘めていくとの明確な方向が示されたことになります。 
 
 地球温暖化を抑制する取り組みでも、私たちは大きく前進しています。オフィスの発電設備では、年間58万4,007七kWhの電力がつくられ、オフィスでの使用電力を差し引いた約26万kWh分は、電力会社を通じて一般の需要に供されました。これによる二酸化炭素排出の削減効果は、マイナス6万750kgとなり、“炭素ゼロ”を超えて“炭素マイナス”を実現しています。 
 
 新たなCO2削減のプロジェクトも進行しています。それは、信徒の皆さんから浄財を募って京都府城陽市の丘の上にメガソーラー発電所を建設する計画で、発電パネル6,400枚を並べた大規模発電所の稼働が本年4月から予定されています。出力は約1,700kWで、年間の発電量約183万4,000kWh、二酸化炭素削減効果は1年で約960トンが見込まれます。
 
 また、ご存じのように、私たちは「他から奪う」生き方である肉食を減らすなど、食生活の改善を世界的に進めています。その一環として、オフィスの近くに約500坪の畑を借りて、ジャガイモやミニトマトなどの野菜を無農薬有機農法で育て始めました。さらに、世界の飢餓問題を実感し、よく考えるために、オフィスでの昼食を毎月1回、ご飯一杯と味噌汁だけとする「一汁一飯の日」を設け、それを実行しています。この取り組みは今後、日本を始め世界の幹部・信徒の間に拡がっていくでしょう。 
 
 世界の生長の家信徒の皆さん、人間はみな神の子であり、地球上のすべての生物も神の生命の表現であるとの信仰をさらに多くの人々に伝えるとともに、その信仰を実生活にどんどん反映させていきましょう。それは人と人とが結び合い、人と社会とが結び合い、国と国とが結び合い、人間と生物が結び合う生き方です。 
 
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
 谷口 雅宣 

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