ていねいに生きること (5)
ところで、「ていねいに生きること」を目指して始めた自転車通勤だが、降雪と路面の凍結が頻繁に起こる八ヶ岳南麓では、冬季はほとんど不可能である。SNI自転車部に所属する北陸地方のある教化部長は、積雪のある路面を自転車で行くという果敢な挑戦をされたようだが、オフィス近くの道路は凍結した斜面が多く、危険なので私はやめている。その代わり、できるだけ車を使わず、徒歩で通い始めた。すると同じ通勤路が、自転車の場合と徒歩ではだいぶ印象が違うことに気がついた。そして、自転車よりも徒歩の方が、自然との密着度は相当強いと感じる。機械の助けを借りるのと、借りないで“裸一貫”ならぬ“肉体一貫”で自然に触れるのとでは、感じる世界がかなり違うのである。どう違うかを述べてみよう。
オフィスへ歩いて行くときには、私は自宅を午前9時すぎに出る。路面の雪の量にもよるが、徒歩だとオフィスへは50分から1時間かかる。オフィスへ着くと、体は汗だくだ。オフィスへ続くほぼ一直線の県道は、登り坂のきつさはあるが、路面の雪はたいてい掻いてあるから、安全である。危険なのは、その広い道に出るまでの、曲がりくねった細い山道で、ここは凍結した下り坂が続く。それでも、降雪後まもないときは、柔らかい新雪が滑り止めの働きをするからまだいい。いちばん危ないのは、前日が暖かで、路面の雪が溶け出したところで夜となり、溶けた水が夜間に再び凍結した後の朝である。路面はまさにスケートリンクのようにカチカチに固まる。そんな山道を、荷物を背負い、両手にストックを持って私は出かける。
銀世界が広がる周囲の景色はまことに美しいのだが、私はそれを眺めて歩く余裕がまだあまりない。すぐに滑って転倒する危険がある。だから、足元の雪の状態とその色や形状を観察しながら、路面の凍っていない箇所を選んでソロリソロリと足を運ぶのである。こんな時、人間が2本足であることのデメリットを切実に感じる。足元の雪には、よく足跡がついている。その形から、シカだったり、イヌだったり、ネコだったり、別の人間だったりが、自分と同じ場所を歩いていることが分かる。そんな時、彼らへの親近感を強く覚える。なぜなら、彼らも滑らないように氷の上を避け、柔らかい雪の上を選んで歩いていることがよく分かるからだ。「獣道」という言葉があるが、凍結した山道では、獣も人も同じ経路を歩くから、自分は同じ動物だと強く感じる。が、四ツ足の彼らは滑っても転ばないが、2本足の自分は滑れば転倒してしまう。
これを防ぐのが2本のストックだ。このおかげで人間は四ツ足の彼らと対等になる。--凍った路面にストックを突きながら歩いていると、本当にそう感じるのだ。自転車に乗っている時は、こんなことを決して考えない。動物の足跡の中に、滑った痕跡がある場合がある。そこは「要注意」の印だ。車が通った後には轍が残るが、そのスノータイヤに刻まれた溝の後がまだ鋭角状にハッキリ残っている場合と、一部溶けて角が丸くなっている場合を素早く見分ける必要もある。前者は安全、後者は危険の印である。新雪の中を行く場合は「まだいい」と書いたが、これは比較的安全という意味である。あくまでも「比較」の問題で、凍結した坂道の上に新雪が積もっている場合は、氷の表面よりも滑りやすいことがある。こんなときは、ふかふかの雪を被った路面を見て安心せずに、前日、その坂道のどこが凍結していたかを思い出して、その場所を避けて歩くことにしている。
こんな具合で氷点下の山道を小一時間歩くことは、全身の神経と筋肉を活性化させ、体を内部から熱くしてくれる。空は青く、山は白く、木々は黒く、足元の雪道は謎と挑戦に満ちている。道中、鳥の姿を見、声を聴き、口笛を吹いてそれに応え、足跡から動物たちの行動を想像する。人の足跡は、靴の種類や性別も教えてくれる。自分が全身で体験する世界は、下手な推理小説よりよほど面白いと感じる。
谷口 雅宣