ていねいに生きること (4)
自分の手で物をつくることの基本を、私たちは何から学ぶだろうか? 私が子供の頃は、小学校に「図工」という科目があって、そこで絵を描いたり粘土細工をしたことを覚えている。が、そういう手作業をするよりもずっと以前に、子供はみな「字を書く」ことを学んだはずだ。これは厳密には「物つくり」とは言えないかもしれないが、手を使って形あるものを描き出すという意味では、物つくりとそれほど変わらない。手本となる字を横に置いて、それとできるだけ似た形の線を自分のノートに描いていく。そういう練習を繰り返して、私たちは読み書きができるようになった。その際、字を書くのに使った鉛筆は、やがて芯がちびてくる。すると、鉛筆を削って芯を出す作業が必要となる。だからナイフを出して、鉛筆を削る……。
私と年齢が近い読者は皆、小学生の時にはこの「鉛筆削り」を当たり前にやったのではないか。小さなハンドルを手で回す「鉛筆削り機」というものが登場する前は、子供でもナイフを使ったはずだ。しかし、現代ではナイフで鉛筆を削れない子供がたくさんいるという。それどころか、親にも削れない人がいるというのは驚いた。1月25日付の『朝日新聞』には、こんな記事があった--
「“最近の子はナイフで鉛筆も削れない”と言われて数十年がたつ。今や大人でも使いこなせる人が少ないのが実情だ。先月、私立中学校・高校の教師にナイフを使ってもらう体験会が横浜市と東京で開かれた。安全な使い方を子どもたちにも伝えてもらうのが狙いだ。」
記事によると、この体験会はナイフメーカーと学習塾の共催で開かれたもので、14校から約20人の教師が参加したという。そこでは、「サクラ、ハンノキ、トチ、クロモジの木片を削って切れ味を比べ、ヒノキ材で箸を作った」という。私は、こういう催しはどんどんやるべきと思う。それも、大人の教師がやるだけでなく、小学生にもさせるのがいい。私の子供が通った小学校では、「肥後守」という日本伝統のナイフを子供たちに与えて鉛筆を削らせたり、果物の皮をむかせた。こういう手作業は、脳の発達に貢献するだけでなく、木の香をきき、木材の硬軟を知り、野菜や果物の手触りを肌で感じることにより、自然界の多様性や人間とのつながりの深さを実感する貴重な機会となるからだ。
同じ記事が伝えるデータでは、昨年の調査によると、ナイフで鉛筆を削れる子供の割合は、日本では20%にとどまるのに対し、スイスでは53%だという。また、子供にナイフの使い方を教えられない親の割合は、日本では31%だったのに対し、スイスではわずか3%だそうだ。恐らくその理由は、刃物を異常に危険視する考えがこの国に浸透しているからだろう。しかし、「危険である」ことを理由に、子供をそこから遠ざけるのが正しい教育だとすると、這うことしかできない段階の幼児には、立って歩かせてはいけないことになる。そんなバカなことはないだろう。転んで頭を打つ危険性がある中でも、あえて立ち上がり、歩行しようとする努力があって、子供は初めて立って歩けるようになるのだ。
「ていねいに生きる」とは、すでに与えられている自然の恵みに感謝し、それをムダにせずに十分味わうことだった。自然界には、危険はつきものである。その危険を経験することで、人間は学習する。少々痛い目にあっても、その経験によって、次回はそんな痛い目に遭わない方策を考えるのである。それは学習であり、新しい知恵の獲得だ。人間だけでなく、生物はみな、同様の学習によって自然界で生き延びる術を体得する。こう考えてみると、「少々痛い目にあう」ことも自然の恵みの一部だといえるのである。それをムダにせずに十分味わうということは、「転ばない」ことが重要なのではなく、「転んでも立ち上がり、再び転ばない知恵を身につける」ことが重要なのである。そうなった暁には、一度「転んだ」ということに、私たちは心から感謝できるのである。
実は私は、自転車通勤を始めてから、山道で2度転んだ。最初の転倒は、薄暮の中、ライトを点して帰宅する途中で、ハンドルに取り付けたライトが十分固定していなかったため、凸凹道で取り付けが緩み、光が私の顔にまともに当たった時だ。一瞬目が眩んで何も見えなくなったので、下り坂であったにもかかわらず、私は本能的にブレーキを力いっぱい握った。マウンテンバイクの制動装置は、自動車と同じ構造のディスクブレーキで、とても強力だ。私はアッという間に前方に1回転して地面に転がった。2回目の転倒は、やはり下り坂を走っていた時で、小さい釘を踏んだために前輪がパンクした。こんな時は、タイヤはいきなり破裂などしない。細い穴から空気が漏れ出るにしたがって、柔らかくなるのである。すると、ハンドル操作がきかなくなる。カーブでハンドルを切っているつもりでも、フラフラと前方に滑っていく。幸いスピードがあまり出ていなかったので、危険を感じた私は自分で転倒することを選んだ。崖から落ちるよりは、その方がいいに決まっているからだ。
私はこの2回の“痛い目”のおかげで、自転車での山道の走り方についてずいぶん学習したと思っている。下り坂ではブレーキをかけすぎるのは危険だと学び、タイヤがパンクした際の自転車の走り具合を、感覚として憶えた。また、どんな大きさで、どんな形状の釘が、タイヤをパンクさせるかも知った。そして、マウンテンバイクの太いタイヤは頑丈だからと過信して、砂利道をスピードを出して駆け降りるような運転は、それ以来やめたのである。
自転車は、人間が使う道具の1つである。その点ではナイフも同じだ。これらの道具を通して私たちは自然界と接触するのだが、道具に慣れていない時は、使い方を誤ってケガをするかもしれない。しかし、その失敗を通して、自然界のことをよりよく知るのである。成功しているときには分からない自然界の別の側面を学ぶことになる。私は、このことも自然界を「十分味わう」ことの1つであり、「ていねいに生きる」ことだと考える。
谷口 雅宣
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コメント
総裁先生
僕は、総裁先生より少しだけ若くて、皇太子様と同じ年齢ですが、子供の頃、筆箱に必ず入っていた、あの小さなナイフですよね。髭剃りのBladeみたいなものが1枚付いていて、赤や青色のプラスチックの持ち手が折りたたみ式になり、刃の部分が格納される鉛筆削りです。
僕は、少しヤンチャでしたから、肥後守をいつも愛用しており、当時も女の子の鉛筆を削ってあげたりして、カッコ付けていました。いつの間にか、丸型や角形で、鉛筆を中に入れてぐるぐる回すと削れるタイプに変わっていましたが、当時は、ナイフはとても大切な持ち物の一つでした。
まだ、結婚する前の事ですが、渋谷でデートした時に、東急ハンズで展示してしたBuck Ranger 112、と言うナイフを欲しそうに見ていたら、僕の誕生日に妻がプレゼントしてくれました。このナイフは、30年を経た今でも、fly fishing やキャンプに行く時は必ず持って行きます。魚は、基本的にはキャッチ&リリースですが、針を飲み込んだりした時など、放しても死んでしまうと判断した時は、そのナイフですぐに苦しまないようにしてあげます。
上の息子が小学生の頃ですが、誕生日にスイスアーミナイフ(Victorinoxの日本で言う十徳ナイフ) を送りましたが、妻が、まだ早いと言って少し心配しました。
いつものように、小さな怪我を恐れて冒険をしないような男なんて、つまらない人生を歩む、と言い切る僕に、男の子、男の子と力まないように、と反論する妻とで、白熱した攻防があったことを今でも思えています。
今思えば、妻は当時から生長の家の信徒だったので、男の子と女の子の役割の違い(正座の時の足の組み方や火と水とか…)をきちんと学んでいたのかと、羨ましく思いました。
生まれた時からとか、小学生の頃から練成会に参加していました、と言う方とお会いすると、伊達正宗ではないですが、自分が出遅れて来たような感じがして、何だかすごく損をしたような気がします。
僕も、もっと早く御教えに出会いたかったです。
とにかく、益々、ていねいな生きかたをしないといけませんね。
カナダ 大高
投稿: カナダ大高 | 2015年1月26日 (月) 13時09分
合掌 有難うございます。
「肥後守」 刻印されていたナイフを思い出しました。
<木の香り>を <きき> というのですね。日本語の美しさを感じました。
序章は何気無く読み進んで・・・導入部がショックを和らげてくれて。
直後、エッ! 総裁先生がこんな派手な転び方をされたのですか!?
以前、教化部長のお話の中に、総裁先生が自転車で転ばれた、とはありましたが、横に転ぶ位だと思っていました。又、信徒の方が心配のコメントを出された時も、イヤそれは無いだろう取越し苦労の部類、とかも思っていたので。
① 前方に1回転して地面に転がった。 よくどこにも大怪我をされることなく、講習会をこなされた、と。
② 自分で転倒することを選んだ。 砂利道をスピードを出してかけ降りるような運転はそれ以来やめたのである・・・ということは、それ迄かなり無茶な運転をされていたのですね。 崖から落ちる→山の坂道では直進すればそれしか無いですよね!
何故こんな事が、と思った処、過信による身の・生命の危険を察した宇宙守が “痛い目”の経験を通して、山中にはない信号に注意を点滅させて導かれ護られたのだと思い、「転ぶ」という内容も随分意味深いと感謝させて頂けました。 純子奥様もさぞかしびっくりされたのでは、と拝察申し上げます。
再拝 千葉教区 高野洋子
投稿: 高野洋子 | 2015年1月26日 (月) 18時06分
>・・・「少々痛い目にあう」ことも自然の恵みの一部だといえるのである。それをムダにせずに十分味わうということは、「転ばない」ことが重要なのではなく、「転んでも立ち上がり、再び転ばない知恵を身につける」ことが重要なのである。そうなった暁には、一度「転んだ」ということに、私たちは心から感謝できるのである。<
全く、同感です。
私は、“森の中のオフィス”への通勤手段として、専ら徒歩に頼っています。昨年の今頃、傾斜のきつい凍結した下り坂で激しく何回も転倒し、本当に「痛い目」にあいました。これらの経験を通して、転ばないように天候や、道路状況をより注意深く観察するようになり、凍結の程度に応じて、歩幅やスピードも自ずと調整するようになりました。また、三種類の滑り止め用チェーンスパイクを携帯して、必要に応じて履き替えています。お陰様で、今年の冬は、まだ一度も転ばないで、楽しく歩いています。きっと、ここの自然に寄り添った生き方、歩き方を学ばせて頂いたお陰だと思い、感謝しています。
いずれにしても、傾斜のある坂道が多いところです。くれぐれもご注意下さい。
雪島 達史 拝
投稿: 雪島 達史 | 2015年1月26日 (月) 21時51分
総裁先生
済みません、他の方のコメントを読んで、ナイフの方にフォーカスするのではなく、転ばれた総裁先生をご心配しないといけないのに、やはり、海外生活が長いと、日本にお住いの方のように気配りが出来なくなっているようです。
しかしながら、そう言った意味では、私は総裁先生をまったく心配しておりません。だって、総裁先生はこの地球を救うために来られた方ですし、私達信徒だけではなく、70億の人類に取っても無くてはならないお方なので、自転車で転んだぐらいでは、かすり傷一つ無いのが当たり前だと考えております。
私のような者でも、空手の試合で手や足を何度も骨折しても完全に治りましたし、若い頃、山岳ラリーに参加して、100キロくらいのスピードで木に激突した時も無傷でした。
最近も、6フィートの高さからコンクリートの地面に落ちて、肩と肘を複雑骨折して、ボルトを3本も入れ、20針も縫うような目にあっていますが、聖教を身に着けていたので、頭や顔は全く傷付けることはありませんでした。
それにしても、年齢と伴に体力が落ちるのは、残念ながら避けられない事実ですので、くれぐれも、お気をつけください。カナダ 大高
投稿: カナダ大高 | 2015年1月27日 (火) 14時22分
ナイフで鉛筆を削れる大人が少なくなったそうですが、僕が小学生になった頃には、既にナイフで鉛筆を削るという習慣はありませんでした。
ただ図工の時間に木工用ナイフを使うことがあり、ナイフの使い方をよく知らないので誤って指を大ケガした記憶があります。
また数年前、絵画教室に通っていときにデッサン用の鉛筆をナイフで削っていたのですが、鉛筆削り機に慣れていたのでたいへん苦労した覚えがあります。
なんでも便利さや安全性があればいいのではないのですね。
投稿: 岡本 隆詞 | 2015年1月28日 (水) 03時52分
大高さん、
激励くださり、ありがとうございます。
でも、私はウルトラマンやスーパーマンではありません。生身の人間です。だから、2度の転倒のいずれでも“かすりキズ”を負っています。私は、転倒してキズを負ったことがありがたい、と思っています。かすりキズ一つ負わなかった場合、自分は本当にウルトラマンだと思い上がってしまい、無謀な運転を続けていたことでしょう。そうなった場合、次の転倒はダメージが大きいはずです。“適当なケガ”があり、全治するまでに、あそこが痛い、ここが痛いと感じる中で、安全な運転方法を習得するのだと思います。
投稿: 谷口 | 2015年1月28日 (水) 10時59分