「いのちの樹林」について (2)
前回の本欄で同じテーマで書いたとき、私は生長の家の「いのちの樹林」のコンセプトの中の次の2点について「宗教的にもとても重要」だと表現した--
①その土地本来の植生であること。
②“自然の恵み”を生物多様性として味わえること。(果実、鳥類、昆虫など)
また、「庭園や公園は“都市”や“都会”の考え方の延長線上にある人間本位の、人間中心主義的な発想から造られるのに対し、霊的緑地=いのちの樹林は、自然本位の、自然中心主義的な発想から生まれている」とも書いた。これらについて、少し説明しよう。
自然と人間との関係を宗教的にどう捉えるかは、ユダヤ=キリスト教の伝統の中では「神→人間→自然」という上下関係を前提とすることが、ごく最近まで支配的だった。これは、聖書の『創世記』第1章28節などにある記述を根拠に引き出された世界観・自然観で、『コーラン』もこの聖書の記述を前提にしているから、イスラームの教えでも、大体この考え方を踏襲してきたと思われる。しかし、『創世記』の世界観は、1種類しかないわけではない。このことは、強調してもしすぎることはないと思う。『創世記』にある天地創造の物語が、第1章と第2章とでかなり異なるという事実を思い出していただけば、多くの読者にはこの点を納得いただけるはずだ。生長の家創始者・谷口雅春先生は、早くからそれに気づかれ、『生命の實相』を初めとした多くの著書の中で、『創世記』第1章の物語は、神による真の創造になる“第1創造(真創造)の世界”を反映しているのに対し、第2章の物語は、人間の迷いによって現れている“第2創造(偽創造)の世界”を描いているとの卓越した聖書解釈を打ち出された。
今日の聖書学者の中でこれと同じ見解をもつ人を、私は知らない。が、『創世記』第1章と第2章は別の“作者”、もしくは別の系統の言い伝えを受けて書かれたと考えるのが、聖書学者たちの間のほぼ定説になっている。その証拠の1つは、旧約聖書の原語であるヘブライ語を見ると、前者は「神」を「Elohim」と記述し、後者では「神」は「Yahweh」となっているほか、両者の「神観」は違い、したがって世界観も大きく異なるなど、多くの食い違いが見られるからだ。日本語の聖書でこの点を簡単に確認したい読者は、第1章の神は単に「神」としか書かれていないが、第2章では神は「主なる神」と表現されていることに注目してほしい。宗教学者のカレン・アームストロング氏は、この神観の違いのことを次のように表現している。ここに「J」とあるのは、今の文脈では第2章の物語を指し、「E」とは同じく第1章の物語のことだ--
「例えば、JとEの双方の中には、非常に異なる神観が表現されている。Jには、後の聖書解釈者たちが恥ずかしく思うほど擬人的なイメージが用いられている。Yahweh はエデンの園を中東の王のように散策し、ノアの箱船の戸を閉めたり、怒ったり、考えを変えたりする。しかし、Eに描かれているElohimはもっと超越的な神で、めったに声も出さず、その代わりメッセンジャーとして天使を送るのを好むのである。」(拙訳、The Bible:The Biography, p.16)
古代の伝承で神の呼称が異なるということは、もともと2つの異なる神であった可能性が高い。『創世記』を編纂する際に、それらを1つに合体してしまったことで、同書には矛盾した2つの天地創造の物語が残ったと考えるのが合理的であろう。そして実際に、『創世記』第1章と第2章の描いている天地創造の様子は、ほとんど最初から最後まで相互に矛盾しているのである。
この天地創造の物語について「いのちの樹林」との関係で私たちが注目すべき点は、第2章に描かれている“楽園”の様子である。いわゆる“エデンの園”と呼ばれるこの庭園は、『創世記』第1章には登場せず、第2章以降に描かれる。では、神は第1章において自然界を創造されなかったかと言えば決してそうではなく、すべての生物を創造され、最後に人間を創造されたのち、それらすべての被造物を眺められて「はなはだ良い」と称賛され、満足された様子が描かれている。とすれば、神は“楽園”などというものを改めて創る必要などなかったとも解釈できる。さらに言えば、神が「はなはだ良い」と認められた第1章の世界は、もともと“楽園”だったという解釈も成り立つだろう。これに比べ、第2章の記述はこうなっている--
「主なる神は東のかた、エデンに1つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。」(第2章8~9節)
地球上のある場所に「1つの園」を設けるならば、その園の外側にも自然界は存在していると考えるべきだろう。それを前提とすれば、その「1つの園」の中に「見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ」たということは、園の外側に拡がる自然界にはえている木は、必ずしも「見て美しく、食べるに良い」ばかりではない、とも解釈できる。そうでなければ、そもそも「1つの園」を設ける必要はないからだ。それでは、それらの「見て美しく、食べるに良いすべての木」は、いったい誰のために創造されたのだろう? これは、神は御自身のためにそれらの木をはえさせたと考えることもできる。が、この記述のあとで、神は人に対して「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい」と命じられるのだから、人間にとって「見て美しく、食べるに良い」という意味だと解釈できる。いや、そう解釈しないと、有名な“禁断の木の実”を食べるシーンとの呼応が難しくなり、不自然である。そのシーンは次のように描写されている--
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
『創世記』第2章に描かれた“神”(Yahweh)は、第1章の超越的な神(Elohim)に比べてきわめて擬人的である(人間と似ている)ということを思い起こせば、ここで「見て美しく、食べるに良い」という性質が、人間にとってか神にとってかを厳密に判断する必要はないのかもしれない。なぜなら、ここでは「神=人」と考えていいからだ。で、そう考えると、重要な結論が引き出されるのである。それは、谷口雅春先生の『創世記』解釈を取り入れた時である。
第1章には、人間の迷いが関与しない実相世界の創造が描かれているのだから、そこに登場する神は超越的であり、すべての生物を「はなはだ良い」状態で創造された。だから当然、“楽園”を造る必要もなかった。しかし、第2章には、神の被造物の中には、「見て美しく、食べるに良い」ものばかりがあるのではなく、「見て醜く、食べると有害な」ものも多く存在することが暗示されている。つまり、神がわざわざ“楽園”を人のために造られたという考え方の背後には、“楽園”ではない場所も神が造られたという前提がある。雅春先生は、このような第2章の記述の背後にある世界観自体が、ニセモノだと断定されたのである。言い直すと、自然界には善もあり悪もあって不完全だから、それとは別に完全な“楽園”を造る必要があるという考え方は、人間の“迷い”の産物だと考えられたのである。そして、次のように説かれている--
「神がその被造物のすべてのものを認めて“はなはだ善し”と言い給うた以上、“実相の世界”すなわち“実在の世界”にあるいっさい万物は永久に“はなはだ善し”すなわちきわめて円満完全なものであるほかはないのであります。この円満完全さ、この“はなはだ善さ”は神が保証したまうところでありますから、神以外の誰がなんと名づけようと、いかに工夫しようと、これを不完全にしたり、悪にかえたりすることはできないので、われわれは安心して“真実世界には悪も不幸も病気もない”と常に信じて可なりであります。しかし神が真に創り給うた実在の世界に属しないところの偽創造の現実世界は、物質にて万物が造られたという“迷いの念”がその創造者でありますから、われわれの言葉によって、万物は、その言葉のとおりに成る(名ある)ことになるのであります。善き名をつければ、善くなり、悪しき名をつければ悪しくなる。」(『生命の實相』第11巻万教帰一篇上、p.66)
もし生長の家が「いのちの樹林」なるものを造り、「見て美しく、食べるに良い」という理由で、そこに土地本来の植生とは異なる樹種を植え育てたならば、それは『創世記』第2章の偽創造の考え方と、どれだけ違うと言えるだろうか? また、生物多様性を重んじず、農薬や化学肥料によって少数の特定の草木ばかりを育て、“雑草”や“害虫”“害鳥”“害獣”などを排除しようと考えたならば、それは神が「はなはだ良い」と認められた真創造の世界を否定することにならないか?--このように考えてみると、先に掲げた「いのちの樹林」のコンセプト中の2点が、宗教的にもとても重要であることがわかるだろう。
谷口 雅宣
【参考文献】
○ Karen Armstrong, The Bible: The Biography (London:Atlantic Books, 2007)