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2014年12月13日 (土)

「いのちの樹林」について (2)

 前回の本欄で同じテーマで書いたとき、私は生長の家の「いのちの樹林」のコンセプトの中の次の2点について「宗教的にもとても重要」だと表現した--
 
 ①その土地本来の植生であること。
 ②“自然の恵み”を生物多様性として味わえること。(果実、鳥類、昆虫など)
 
 また、「庭園や公園は“都市”や“都会”の考え方の延長線上にある人間本位の、人間中心主義的な発想から造られるのに対し、霊的緑地=いのちの樹林は、自然本位の、自然中心主義的な発想から生まれている」とも書いた。これらについて、少し説明しよう。
 
 自然と人間との関係を宗教的にどう捉えるかは、ユダヤ=キリスト教の伝統の中では「神→人間→自然」という上下関係を前提とすることが、ごく最近まで支配的だった。これは、聖書の『創世記』第1章28節などにある記述を根拠に引き出された世界観・自然観で、『コーラン』もこの聖書の記述を前提にしているから、イスラームの教えでも、大体この考え方を踏襲してきたと思われる。しかし、『創世記』の世界観は、1種類しかないわけではない。このことは、強調してもしすぎることはないと思う。『創世記』にある天地創造の物語が、第1章と第2章とでかなり異なるという事実を思い出していただけば、多くの読者にはこの点を納得いただけるはずだ。生長の家創始者・谷口雅春先生は、早くからそれに気づかれ、『生命の實相』を初めとした多くの著書の中で、『創世記』第1章の物語は、神による真の創造になる“第1創造(真創造)の世界”を反映しているのに対し、第2章の物語は、人間の迷いによって現れている“第2創造(偽創造)の世界”を描いているとの卓越した聖書解釈を打ち出された。
 
 今日の聖書学者の中でこれと同じ見解をもつ人を、私は知らない。が、『創世記』第1章と第2章は別の“作者”、もしくは別の系統の言い伝えを受けて書かれたと考えるのが、聖書学者たちの間のほぼ定説になっている。その証拠の1つは、旧約聖書の原語であるヘブライ語を見ると、前者は「神」を「Elohim」と記述し、後者では「神」は「Yahweh」となっているほか、両者の「神観」は違い、したがって世界観も大きく異なるなど、多くの食い違いが見られるからだ。日本語の聖書でこの点を簡単に確認したい読者は、第1章の神は単に「神」としか書かれていないが、第2章では神は「主なる神」と表現されていることに注目してほしい。宗教学者のカレン・アームストロング氏は、この神観の違いのことを次のように表現している。ここに「J」とあるのは、今の文脈では第2章の物語を指し、「E」とは同じく第1章の物語のことだ--
 
「例えば、JとEの双方の中には、非常に異なる神観が表現されている。Jには、後の聖書解釈者たちが恥ずかしく思うほど擬人的なイメージが用いられている。Yahweh はエデンの園を中東の王のように散策し、ノアの箱船の戸を閉めたり、怒ったり、考えを変えたりする。しかし、Eに描かれているElohimはもっと超越的な神で、めったに声も出さず、その代わりメッセンジャーとして天使を送るのを好むのである。」(拙訳、The Bible:The Biography, p.16)
 
 古代の伝承で神の呼称が異なるということは、もともと2つの異なる神であった可能性が高い。『創世記』を編纂する際に、それらを1つに合体してしまったことで、同書には矛盾した2つの天地創造の物語が残ったと考えるのが合理的であろう。そして実際に、『創世記』第1章と第2章の描いている天地創造の様子は、ほとんど最初から最後まで相互に矛盾しているのである。
 
 この天地創造の物語について「いのちの樹林」との関係で私たちが注目すべき点は、第2章に描かれている“楽園”の様子である。いわゆる“エデンの園”と呼ばれるこの庭園は、『創世記』第1章には登場せず、第2章以降に描かれる。では、神は第1章において自然界を創造されなかったかと言えば決してそうではなく、すべての生物を創造され、最後に人間を創造されたのち、それらすべての被造物を眺められて「はなはだ良い」と称賛され、満足された様子が描かれている。とすれば、神は“楽園”などというものを改めて創る必要などなかったとも解釈できる。さらに言えば、神が「はなはだ良い」と認められた第1章の世界は、もともと“楽園”だったという解釈も成り立つだろう。これに比べ、第2章の記述はこうなっている--
 
「主なる神は東のかた、エデンに1つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。」(第2章8~9節)
 
 地球上のある場所に「1つの園」を設けるならば、その園の外側にも自然界は存在していると考えるべきだろう。それを前提とすれば、その「1つの園」の中に「見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ」たということは、園の外側に拡がる自然界にはえている木は、必ずしも「見て美しく、食べるに良い」ばかりではない、とも解釈できる。そうでなければ、そもそも「1つの園」を設ける必要はないからだ。それでは、それらの「見て美しく、食べるに良いすべての木」は、いったい誰のために創造されたのだろう? これは、神は御自身のためにそれらの木をはえさせたと考えることもできる。が、この記述のあとで、神は人に対して「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい」と命じられるのだから、人間にとって「見て美しく、食べるに良い」という意味だと解釈できる。いや、そう解釈しないと、有名な“禁断の木の実”を食べるシーンとの呼応が難しくなり、不自然である。そのシーンは次のように描写されている--
 
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」 
 
 『創世記』第2章に描かれた“神”(Yahweh)は、第1章の超越的な神(Elohim)に比べてきわめて擬人的である(人間と似ている)ということを思い起こせば、ここで「見て美しく、食べるに良い」という性質が、人間にとってか神にとってかを厳密に判断する必要はないのかもしれない。なぜなら、ここでは「神=人」と考えていいからだ。で、そう考えると、重要な結論が引き出されるのである。それは、谷口雅春先生の『創世記』解釈を取り入れた時である。
 
 第1章には、人間の迷いが関与しない実相世界の創造が描かれているのだから、そこに登場する神は超越的であり、すべての生物を「はなはだ良い」状態で創造された。だから当然、“楽園”を造る必要もなかった。しかし、第2章には、神の被造物の中には、「見て美しく、食べるに良い」ものばかりがあるのではなく、「見て醜く、食べると有害な」ものも多く存在することが暗示されている。つまり、神がわざわざ“楽園”を人のために造られたという考え方の背後には、“楽園”ではない場所も神が造られたという前提がある。雅春先生は、このような第2章の記述の背後にある世界観自体が、ニセモノだと断定されたのである。言い直すと、自然界には善もあり悪もあって不完全だから、それとは別に完全な“楽園”を造る必要があるという考え方は、人間の“迷い”の産物だと考えられたのである。そして、次のように説かれている--
 
「神がその被造物のすべてのものを認めて“はなはだ善し”と言い給うた以上、“実相の世界”すなわち“実在の世界”にあるいっさい万物は永久に“はなはだ善し”すなわちきわめて円満完全なものであるほかはないのであります。この円満完全さ、この“はなはだ善さ”は神が保証したまうところでありますから、神以外の誰がなんと名づけようと、いかに工夫しようと、これを不完全にしたり、悪にかえたりすることはできないので、われわれは安心して“真実世界には悪も不幸も病気もない”と常に信じて可なりであります。しかし神が真に創り給うた実在の世界に属しないところの偽創造の現実世界は、物質にて万物が造られたという“迷いの念”がその創造者でありますから、われわれの言葉によって、万物は、その言葉のとおりに成る(名ある)ことになるのであります。善き名をつければ、善くなり、悪しき名をつければ悪しくなる。」(『生命の實相』第11巻万教帰一篇上、p.66)
 
 もし生長の家が「いのちの樹林」なるものを造り、「見て美しく、食べるに良い」という理由で、そこに土地本来の植生とは異なる樹種を植え育てたならば、それは『創世記』第2章の偽創造の考え方と、どれだけ違うと言えるだろうか? また、生物多様性を重んじず、農薬や化学肥料によって少数の特定の草木ばかりを育て、“雑草”や“害虫”“害鳥”“害獣”などを排除しようと考えたならば、それは神が「はなはだ良い」と認められた真創造の世界を否定することにならないか?--このように考えてみると、先に掲げた「いのちの樹林」のコンセプト中の2点が、宗教的にもとても重要であることがわかるだろう。
 
 谷口 雅宣 
 
【参考文献】
○ Karen Armstrong, The Bible: The Biography (London:Atlantic Books, 2007)

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コメント

合掌ありがとうございます。

「いのちの樹林」について、興味深く拝読させて頂きました。
「その土地本来の植生であること」と、言う御表現から、自分の古い記憶に少し蘇った感覚がありました。
私は環境省に勤務しておった頃、自然公園と都市公園の違い、自然環境の定義と言うものに自分自身の確固たる意見を持てないでおりました。自然、と言う言葉の持つ意味の深さを、自分がどれだけ正しく理解出来ているのかが分からなかったのです。
未だに、学者や専門家のご意見と、自分の考えにどの程度相違があるのかも分かりません。
ただ、生長の家を知った以上、宗教的な自然観と言うものもしっかりと理解したいと思っておった次第です。

ところで、総裁先生は、外来種についてはどのようにお考えになりますか。
私は、自然保護業務の一環として、日光の戦場ヶ原でオオハンゴンソウと言う植物の除去作業を行ったり、多くの湖において、ブルーギルやブラックバスと言う魚を捕獲して捨てる事業に補助金を与えたり、実際に自分自身も作業に参加もしました。
もちろん、役所としては、ニッポニアニッポンと言う学名を持つ、まさに日本国の象徴のようなコウノトリを繁殖させる事業を初め、自然を保護する仕事は本当に多種多様でした。

最近、日本ウナギが指定されたようですが、まさに、片手にレッドブックを持って動植物を保護しながら、空いた方の手で外来種の抹殺もしていたのです。
オオハンゴンソウと言うキク科の植物は、明治の中期頃に観賞用として輸入されました。
外来種である魚類も、飼育されていたものが放されたりして増えた様子です。
しかし、これら外来種に卵を食べられてしまい、数が減ってしまったモロコも、もともと琵琶湖の固有種でしたが、近年では福井県の三方五湖をはじめ、山中湖、諏訪湖、奥多摩湖にも移植されています。国内か外国からかは別として、やはり人の手で移動しています。

長くならないように端折りますが、当時の私は、抜いてもぬいても生えてくる植物や、捕獲してもほかくしても生きている魚たちに、そこまでここで生き続けたいなら好きにしたら良いよ、100年、200年後には君らも日本古来とは書かれないけれど、日本に長く生息すると書かれる日が来るからと、声には出さないまでも同情と言うか、その生命力に白旗を上げたと言うか、同じ生き物なのに、人間の見勝手さから住むところを間違えたばかりに、親の仇みたいに扱われる姿に何かに感じるものがありました。
自然保護官は、日本の自然を保護するのが仕事でしたから、日本以外の国から来た生き物は殺しても良いのか、この辺りが当時まだ若かった自分の何となく靄の掛かった部分だったような気がします。

しかし、絶対的に言えることは、これらの動物も植物もほとんど人の手を介して移動して来たと言う事実です。
ミドリ亀も、飼うのに飽きて、川や湖に放したのは他ならぬ人間です。その後のことは誰もが知っていることです。
ブナやハリモミの純林なども、スギなどに比べるとほとんど木材としての価値が無いと言います。
私が、いつも最後にたどり着くところは、自然の美しさも人間側からの視線であって、寒さで凍ったナイアガラの滝も、人間に美しいと褒めて欲しくて凍ったわけでもないし、オオハンゴンソウもブルーギルも、もともと住んでいた種を絶滅させたくて、そこで暮らし始めたのでは無いけれども、今の時代に生きている人間の感覚では、そこに居てはいけない生き物だと言うことです。
全ては人間の都合によるものですが、本来、自然は、人間のそんな感情で何とかなるような小さな存在では無いと感じます。
20数年前、新宿御苑の中の寮に住んでいたことがありますが、当時、ニホンリスを時々見かけましたが、しかし、定着に失敗したようで最近はあまり見かけないようです。
(私の家の裏庭なら、リスもアライグマも、時々はスカンクも当たり前に見ますが…)
動物も植物も生き残るために、自分をその環境に順応させるわけですが、人間の意思で無理やりそこで暮らさせようとしても暮らせないようです。
以前は、あまり深く考えなかったこのようなことも、大自然讃歌を拝読していたら感覚として理解出来るようになりました。自然の成せる技、法則と言うものですね。

今回、総裁先生の御文章に触れさせて頂き、役所勤めの時には出来なかった、自然と人間の共存を考える生活を、この生長の家の御教えを元に出来たら素晴らしいと改めて感じました。

今後も、総裁先生のご指導の下、宗教家としての視線で自然を感じる生活を心がける所存です。
再拝

投稿: カナダ大高 | 2014年12月15日 (月) 16時52分

大高さん、

 外来種の生物は、特定の地域の良好な環境にとって“有害”である、というのが環境問題の常識になっているはずです。私も、その考えに賛成です。しかし、このようにグローバリゼーションが進行してしまうと、外来種の生物が世界各地に伝播することはほぼ不可避であり、現実にそうなっています。北アメリカにも、日本や中国からカミキリムシが入り込み、大きな被害を与えていると聞きます。ブラックバスやブルーギルは、その反対方向の例です。しかし、だからと言って、外来種をすべて駆逐することは実際上不可能でしょう。
 私としては、外来種を駆逐するのではなく、在来種を育て、維持することに力を入れる方向で、何とかならないか、などと考えてます。この方面では、貴方のほうが専門でしょうから、お考えを聞かせてください。

投稿: 谷口 | 2014年12月15日 (月) 17時42分

総裁先生、私はスペシャリストでは無いので、残念ながらそこまでの専門的な知識は御座いません。生物多様性条約の第8条h項に「各々の締約国は、生態系、生息地、若しくは種を脅かす外来種の導入を阻止し、又はそのような外来種を制御し、若しくは撲滅すること」と明記されておりますから、生物多様性を脅かす外来種問題の解決は、その国に住む人間の責務になっている、と言う認識は持っております。「Invasive Alien Species」と、英語で表記するとAlienと言う単語が何とも怖い響きを放ちますが、自分はやはり地球上に生きる同じ命であると感じます。この手で帰化植物を取り除いている時には、そのような感情はありませんでしたが、生長の家の信徒となった後、そんな風に感じるようになった気がします。外来種の定義は、他の地域から人為的に持ち込まれた生物のこと、とある通り、人間の手によって、人間の欲望の為に外来種となった、と言う部分にフォーカスしている自分が少し不思議な気がします。今度は、そんな気持ちで、もう一度生命の実相を拝読させて頂こうと思います。総裁先生にご回答頂けてとても嬉しく思いました。ありがとうございました。再拝

投稿: カナダ大高 | 2014年12月16日 (火) 15時56分

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