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2014年10月28日 (火)

創造的人生を生きよう)

 秋晴れの今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家“森の中のオフィス”のイベントホールで、「谷口清超大聖師六年祭」が行われた。ちょうど同オフィスでは、全国の教区から教化部長などによる重要会議が行われると共に、今年初めての行事として「自然の恵みフェスタ 2014」という文化祭が進行中。青い空を背景に、八ヶ岳南麓の鮮やかな紅葉・黄葉が映える美しい日となった。同六年祭の最後に、私は概略、以下のような挨拶をした--
 
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 皆さん、本日は谷口清超大聖師六年祭にお集まりくださり、ありがとうございます。
 
 谷口清超先生はご生前、雅春大聖師に次いで多くの文章を書かれ、多くの著作を遺しておられますが、私たちの運動に大きく貢献されたことの一つに聖歌の作詞・作曲があるという話を、昨年の今日、皆さまにはお話ししたのであります。今日は、もう一つの芸術的な貢献である「写真」についてお話しいたします。ご存じのように、今年は、生長の家初めての試みとして「自然の恵みに感謝するフェスタ」という文化祭が開かれていますが、その一環として、先生が撮影された写真を展示する催しもあります。「旅のまにまに 谷口清超写真展」と銘打って、この年祭の終了後、ここイベントホールを第1会場として、さらにメディアセンターのアートスタジオを第2会場として開催されます。これは、谷口清超先生が講習会の旅先で撮影された全国各地の風景や、身近な花、自然の風景の写真展です。皆さまには是非、ご覧になっていただき、清超先生の自然を愛するお心をじっくりと味わってください。イベントホールでは24点、アートスタジオでは約30点の合計54点が鑑賞できます。
 
 展示作品のほとんどは、清超先生が生長の家講習会で各地へ行かれた際に撮影したもので、自然と人間の親しい関係を描いているものが多数あります。私も時々写真を撮りますが、先生ほど本格的ではありません。しかし、私の写真の趣味は、清超先生から譲り受けた部分も多くあると感じています。というのは、東京に住まわせていただいた頃--つまり、私がまだ成人する前、先生がご自分で製作された暗室を、私も使わせていただいていた時期があったからです。当時は、主としてモノクロ写真で、その現像と焼き付けの手ほどきも清超先生から教わりました。高校生の頃だったと思います。その後、大学に進むと、友人と一緒に車で撮影旅行に出かけたり、モデルを頼んでポートレートを撮ったりしました。新聞記者をやっていた時には、この時の経験がずいぶん役に立ちました。
 それでは、今回の展示作品のごく一部をご覧に入れながら、清超先生のお心に触れることにいたしましょう。
 
Shibazakura_s_2  この写真は、先生が講習会で北海道の北見へ行かれた際の作品で、1994(平成6)年に出版された『伸びゆく日々の言葉』という単行本の表紙カバーにも使われました。この写真を撮った時、先生は74歳くらいで、翌年から講習会の仕事をもう私に譲って、全国を回ることをやめようと決められていたようです。そのことがこの本の「はしがき」には、次のように書かれています--
 
「カヴァーの写真は、平成5年度の講習会に行ったとき、北見で撮ったものだ。今年の4月から私はもう講習会にも行かなくなるし、写真もこのところ撮らなくなっていたが、どういう訳かこの本のカヴァーに載ることになってから、またぼつぼつ撮り始めた。四の五判のカメラは売ってしまったから、せいぜい六四五判か35ミリ判であろう。今はもう74歳を半年すぎたから、重いものは持ち歩きにくいのだ。人は誰でもやがて年とって、この世を去るが、必ずまた何処かへ生まれてくる。その時にはきっと今の人生でやったことや、読んだことがとても役立つに違いない。善いことをしたら、善い報いがくるし、悪いことをすると悪果がおとずれるのである」。(平成6年3月1日)
Nendokokeshi_s  このように、先生は写真のことを書かれながら、教えを説かれています。先生は、「写真を撮る」という表現活動の中から、教えに関するメッセージも沢山得られてきたに違いなく、それを想像させるような文章も多く遺されています。次の写真は、『創造的人生のために』(平成9年刊)というご本の表紙カバーを飾ったものであります。そして、この本の表紙カバーの裏には、写真の説明が次のようにあります--
 
「カバー写真・著者撮影
 カバー写真の塑像・谷口雅宣氏の中学生時代の作品」
 
 この本が出版された平成9年は、西暦では1996年です。今から18年前ですから、私は40歳ぐらい。すでに中学を卒業してから28年ほどたっているわけです。この間、先生はご自宅にずっと私の昔の作品を保存しておいてくださった。私から見ればどうでもいいようなオソマツな作品ですが、そういう材料を使われていながら、実にほのぼのとした、まるで“親子関係”を彷彿させるような温かい雰囲気の写真に仕上げておられる。私はそう思うのです。いかがでしょうか。谷口清超先生は、このように「すでにあるもの」を大切にして、その中から新しい価値を、新しい美を創造されることに長けておられたと考えます。創造する--ものを作るということは、まったく新しいものを材料にして、従来とはまったく違うものを生み出すのではなく、古いものの中にもともとある良さを、新しい組み合わせによって引き出し、それを新しい美しさや価値にすることである--そんな哲学と生き方を私は、この写真から感じるのであります。
 
 そのことを示すように、この『創造的人生のために』の本の中には、次のような言葉が書かれています--
 
 
「即ち人間は、信ずるから救われるのではなく、もともと完全円満、不死不滅であるから、救われているのである。本来傷つかず、死せず、病まざる実在者、神性・仏性である。それがどの程度わかるかによって、この世やあの世に現われる“影”が変化する。それは丁度、写真をうまくとると美しい風景がうつるが、下手にとると美しくない写真がとれるようなものである。
 写真の上手下手に拘らず、実物の風景そのものは十分美しい。それと同じく、人間の実相は、すでに完全円満である。ただ美しい景色をみて、これを美しい写真に仕上げようと思うならば、上手に撮らなくてはならないように、この現実の人生を立派なものにしたければ、実相人間の完全円満をハッキリと認めることである。するとその姿が現実のこの世やあの世にあらわれてくる。
 しかし“認めた”といっても、すぐ完全には中々現れない。というのは、あなたの心の中に、まだ疑いや認識の甘さが残っているからである。“ためしにやってみよう”とか“まあ金のかかることではないから、認めようか”というような不明瞭さがあると、それだけのボケがあらわれ、現実世界も不透明になる。」(pp.65-66)
 
 ここには、深い真理が説かれていると思うのであります。
 それは、「実物の風景そのものは十分美しい」という言葉と、「実相人間の完全円満をハッキリ認める」というお言葉が併行して書かれている点です。私たち人間は、世界を見るのに、往々にして自分勝手な解釈を優先して、周囲の世界のそのものを見ることなく、自分の見たいもの、聞きたいこと、感じたいことだけを取り出して、心で世界を作り上げるということをします。清超先生はそのことを指して、「実相をハッキリ観よ」とおっしゃているのです。そして「実相を観る」ためには、写真のように「上手に撮らなくてはならない」と教えてくださっています。これは、どういう意味でしょうか?
 
 私たちは写真を撮るとき、目の前の世界のすべてを撮るわけにいきません。だから、カメラのファインダーの“四角い窓”の中に収まる大きさに世界の一部を切り取ることになります。その場合、四角い画面の中の構図をきちんと考えて、その構図に合致するように、必要なものを入れ、余分なものをできるだけ排除するという工夫が必要です。私は、そのことを先生は「上手に撮らなくてはならない」と言っているのだと思います。そうすることで、人間の目には、今迄そこにずーと存在していても見えなかったものが、より鮮明に見えるようになってくるのです。例えば、次の写真を見てください--
 
Treeshadow_s  これは、先生が愛知県に行かれた際のワンショットですが、画面の右上から左下方向に斜めに入ったビルの上端の線が鮮明です。これによって、写真の画面は左右に明確に分けられています。で、左側にはケヤキと思われる高い樹木の枝が写っていて、右側にはその“影”が写っている。樹木の実像とその影とが、画面の左右に明確に対比されている。皆さん、これをご覧になって何かピンときませんか? 実像と影です。そうです、生長の家の教えにある「実相」と「現象」の関係が思い出されます。私は、清超先生はこの写真でそのことを表現されたかったのだと思うのです。それを、写真の中から余計なものをできるだけ排除するという方法で、見事に実現されている。
 
 皆さん、光が当たる所には必ず影が差します。だから、私たちの周りの風景や環境の中に「実像と影」を探そうと思ったら、いたるところにそれはある。とすると、私たちは写真の構図など考えずに、めちゃくちゃに周囲を撮影しても、写真には「実像と影」は写ります。でも、そんなものを見ても、私たちは「美しい」と感じないし、何を撮ったか分からない写真になってしまう。四角い画面の中に、いろんなものが整理されずに雑然と写っている状態では、写真を構成するそれぞれの要素が皆、競い合って、ケンカしてしまう。しかし、この写真にあるように、余分な要素を極限まで削っていくと、実に力強い、明確なメッセージを伝える写真が完成し、それを私たちは「美しい」と感じるのです。これが、先生がおっしゃっている「上手に写真を撮る」ということだと思います。
 
 そして、この方法は人生を美しく生きることにもつながります。神の創造の実相が現れている所に注目し、余計な悪現象は心の中から排除して、世界を見直してみる。これは、日時計主義の生き方そのものです。そのことによって、私たちは美しい、善い人生を創造する。谷口清超先生は、そういう生き方をこの写真を通して、私たちに教えてくださっていると思います。
 
 それでは最後に、この本の「はしがき」から一部引用します。ここのご文章は、私たちが今、このオフィスで行っている「自然の恵みフェスタ」とも大いに関係していると思うからです--
 
「人は何かを作り出すことが好きだ。子供は泥をこねて、色んな動物をこしらえ、家や山を作って遊ぶ。大人になると本物の家を作り、橋を作り、車を作り、芝居や小説を作る人も出て来る。遂には人殺しの犯人をさがし出す名探偵ポワロが作られたりするのである。
 それを読んだり見たりするのは、自分が犯人になりたいからではなく、色々の筋書きを作ったり、想像したりして、楽しみたいからであろう。一般の人々は温かい家庭を作り、よい子供を育てたいと思う。これもまた人々の中に“創造する力”がみちあふれている証拠だ。その“力”を現わしたいと思うのである。そして現わし出す時、限りない喜びが湧き上がる。つまり、“創造的人生”を送ることによって、人々は大いに楽しむことが出来ると言えるであろう。」
 
 この「自然の恵みフェスタ」は、神の創造された自然界の恵みに感謝するのはもちろんですが、私たちの中にある神の創造のエネルギーをしっかりと認め、それを表現することも重要な目的です。昨日は、オフィスの食堂で、音楽祭が行われましたが、私たちが音楽を作り、それを演奏し、作り手も聞き手も楽しむことができるという事実も「自然の恵み」の一つです。また、今回、食品を含めたいろいろな「もの作り」の場も、作品を鑑賞する場も設けられています。フェスタに参加される際はぜひ、谷口清超先生が音楽や写真などの芸術表現を愛されたことを思い出し、正しく、美しい創造を行う喜びを味わい、その生き方を今後の人生に展開していってください。
 
 谷口清超大聖師の六年祭にあたり、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣
 

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コメント

合掌 有難うございます。

総裁先生の御言葉の中に、「創造するーー・・古いものの中にある良さを新しい組み合わせによって引き出し、それを新しい美しさや価値にすることである。」

私は、今迄は外から新しいものを吸収して自分を作り出すと考えていましたが、最近、自分の中にある多くの要素が見えて来て、これを活用し現代風にアレンジして行けば、現代にマッチした生き方が出来、創造的人生が送れるのではないかと、思い直し始めています。

かつては、清超先生の御文章はお優しくて慈愛に満ちているとだけしか感じなかった気がしますが、『創造的人生のために』を改めて読ませて頂いて、その中に深い意味があるのに気付きました。教化部長は時に、“総裁先生は決して新しい事をやっておられるのではないことが、清超先生の御著書を読めば理解出来るので読むように”とお話されますが、本当に分かりました。

日時計主義の生き方に心を振り向けさせる⇔既に実相世界におられるのに、方向の定まらぬ私達に羅針盤を示し、その方角に導くパイロットとしてのお役目。それが、総裁先生ご夫妻のFBやブログではないかと。

「私たちの中にある神の創造のエネルギー」「それを表現することも重要な目的」   これからは臆することなく、創造を行う喜びを味わい、神の実相世界を実証出来る生き方を今後の人生に展開していきます。

でも、「そんな哲学と生き方を私は、この写真から感じるのであります」って、常人には出来ない領域です。
       再拝 千葉教区 高野洋子

投稿: 高野洋子 | 2014年11月 1日 (土) 21時25分

合掌  素晴らし映像の中で谷口清超先生を御忍びいたしました。facebookにも投稿いたしましたが 「伸びゆく日々の言葉」「創造的人生のために」樹木の写真、数多くあります中でも印象的なものと感じております。日々聖歌もcdをかけて楽しみながら、台所にたたせていただいております。  10月28日も 信徒の皆様とお話も弾み善き事を語られる時間を与えられ有意義な時間となりました。      総裁・谷口雅宣先生ありがとうございます。  再拝  
           島根教区  足立冨代
                   

投稿: 足立冨代 | 2014年11月 1日 (土) 23時53分

雅宣先生のご挨拶…とても素敵でした!♪私は、聖歌隊にいますので、清超先生のお作りくださった聖歌にはいつも励まされています。そして、清超先生と恵美子先生のお写真の大ファンですので、今回のご挨拶は、私のためにおっしゃってくださったように、感動いたしました!!雅宣先生も純子先生も、お写真を発表してくださるので、いつも楽しみにしています♪清超先生の展示作品を拝見したいのですが、北杜市まで行かれないのが残念です!!普及誌か機関誌に詳しく掲載してくださると嬉しいです♪

投稿: 吉田衣佐子 | 2014年11月 5日 (水) 09時38分

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