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2014年8月14日 (木)

人間と樹木

 ブラジルからの帰途、ニューヨークに立ち寄ったとき、マンハッタン地区の中央部に拡がCentrlparkny るセントラル・パークを訪れ、自然と人造物との強いコントラストを味わった。多くの人がご存じのように、この地区の、特にセントラル・パークから南側には、「摩天楼」と呼ばれる超高層ビルが隙間なく林立している。セントラル・パークは南北に4キロ、東西に800メートルもあるから、中へ入ると都会の喧噪を忘れて、静かな“森の中”に入った気分になる。しかし、周囲のビルの高さは公園の樹木の何倍もあるので、深い森の背後から凸凹の建物群がそびえ立って見える。硬質の巨大な人造物が、緑の森を見下ろしているという雰囲気が、そこにはある。
 
 これと似た雰囲気は、東京では味わえない。ビルがそれほど高くて密集しておらず、公園がそれほど広くないからである。が、少しでも近い雰囲気を味わえる場所をあえて挙げれば、新宿の西口公園とか代々木公園、あるいは千代田区のホテル・ニューオータニの庭園のごく一部……などだろうか。そういう場所には、手前に緑が広がり、それらの樹木の合間から高いビルが点々と小さく見える場所がある。が、セントラル・パークでは、樹木の合間からではなく、深い森の上方から覆い被さるように、その緑をはるかに凌駕する量の人造物が聳え立って見える場所が数多くあるのである。そのような光景の中にいると、私は「人間の力は自然をはるかに超える」という誇らしげなメッセージを感じるのだった。
 
 山岳地帯が国土の大部分を占める日本では、上に挙げたごく少数の例外を除き、これとは逆のメッセージを受け取る。私は、生長の家講習会で全国の地方都市へ行くが、建物が立ち並ぶ都会であっても、その背景にはほとんどの場合、山々が横たわって見えるから、人造物は数多くあっても結局「自然の懐の中に抱かれている」という感覚があるのである。これに対してセントラル・パークの風景は、明確に「人間は自然を超えている」という感じがする。この場合の「人間」は、ほとんど「人類」と同義だ。なぜなら、公園の近辺には、ガラス張り構造のモダンな高層建築が多く建っているだけでなく、かなりの数の高層ビルが、ヨーロッパの歴史を思わせる旧い建築様式を留めているからだ。それらを見ていると、人類は近代以降、どんどん着実に発展し、自然の征服に成功した--という人間讃歌を聞くのである。
 
 もちろん、事実はそうではない。私たちがその中で生きる「自然」とは、一定の形をもった物理的環境ではない。それは、無数の微生物から昆虫、植物、鳥類から獣たち、そして海洋生物のすべてが、物理・化学的な環境の中で、その環境をも変化させながら、相互に干渉し、関係し合いつつ生活している場である。それは言わば、無数の変数をもった巨大な方程式のようなものだ。だから「人間」のもつ値が変化し、それが膨張していけば、その他の変数も相互に変化して、全体としての「自然」の姿や機能を変化させていく。昨今、世界的に顕著に現れている気候変動や、大気汚染、新種の死病の流行などは、このことをよく示している。自然を破壊すれば、破壊された自然は変化し、その変化に対応できない私たちを破壊するのである。だから自然は、人間が「征服」したり、「支配」する対象とはなりえないのである。大体、私たち人間の肉体そのものが自然の一部だから、それを征服するなどということは、あまり意味がない。
 
 自然の一部である私たち人間は、当然のことながら、自然に生かされ、自然を愛している。それは、どんな人も自分の母親を愛するのと似ている。「母なる自然」(mother nature)という言葉もあるくらいだ。特定の国の人や、特定の民族だけが自然を愛するのではない。そのことを今回、セントラル・パークでも強く感じた。
 
 この公園は、世界最大の経済都市・観光都市であるニューヨークの中心部にあるから、世界中から人々が訪れる。公園の外側は、高層ビル群の間を人と自動車、自転車が動き回り、地下には地下鉄が縦横に走る。街を早足で歩く人々のほとんどは、耳にイヤフォンを付けたり、スマートフォンを覗いている。歩行者が信号を無視して道路を横断することは、ニューヨークでは当たり前だ。しかし、公園に一歩入れば、そんな喧噪からすぐに解放されて、心が静まる。特に、公園内にあるいくつもの池の端には、落ちついた色のベンチが並んでいるから、そこで読書をしたり、昼食を摂ったり、昼寝をすることもできる。妻と私は、公園の南端にある小さい池の側にあるベンチで、ひと時を過ごした。そこは繁華街から一番近い公園の池だから、多くの人々が散歩に来て、池を背景にして記念写真を撮ったり、カモに餌をあげたりする。そういう人々が話す言葉は、英語でないことが多いのだ。中国語、アラビア語、フランス語ぐらいは判別できるが、私がこれまで聞いたことのない言葉もある。しかし、そこでの世界各地の人々の行動は共通している。皆、嬉々とした様子で自然の中で安らぎ、満足しているのである。
 
 「日本人は自然と一体の生活を愛する」という言葉を聞くことがある。日本家屋の構造が--障子や襖や土間や縁側が、人家と自然との境界を最小限にすることで、家に住む人間が自然の息吹を感じられるように工夫されている--などという種類の言説を聞くと、伝統的な日本家屋に住む人でなければ、自然を嫌っているかのような印象を受ける。しかし今回、ブラジルを訪れてサンパウロの街を歩き、そして、セントラル・パークで小一時間を過ごしてみると、そのような自然と親しみ、自然を愛する感情は、「日本人」などという民族的な概念とは無関係に、どの国の人々にもあるとの思いをさらに深くしたのである。
 
 それはかつてドイツを訪れた時も、ロンドン郊外のハムプステッド・ヒースを訪れた時にも感じたことだ。日本人が特に優れて「自然を愛する」のではない。人間は皆、自然を愛する。だが、愛する一方で、自然破壊を平然と行ってきたのである。私は、この矛盾した感情を正面からきちんと認め、その上で自然破壊をこれ以上進行させないように自己を律することが、文明人としての喫緊の課題だと思う。
 
Saopaulotrees2  サンパウロ市は、1千100万人の人口を抱える大都市だが、樹齢何十年と思われる立派な木がどこにでも生えているのを見て、私は感銘を覚えた。日本の都会では、都市計画と称して、樹木をいとも簡単に伐採してしまう。それも、何十年もかかって成長した美しい大木を、無神経に、情け容赦なく切り倒してしまうのだ。私は東京・原宿の住人だったころ、青山通りの両側にあった立派なマロニエの並木が、いつのまにか消えていることに気づき、深い怒りと悲しみを覚えたことがある。人間と樹木との間に育つ感情的な結びつきを、東京都の役人や政治家は一顧だもせず、恐らく電力や通信設備などのインフラ整備のためだろう、根こそぎに取り払ってしまう。それに比べサンパウロ市では、大人2人で抱えきれないような樹木がそこら中にある。中には、10人が腕を拡げても抱えられないようなゴムの木もあって、その堂々とした命溢れる姿に、妻も私も感嘆の声を発したものである。
 
Saopaulotrees  サンパウロ市の高級住宅地にも、樹木を維持するための建築規制があるらしく、太い木を切らずに、人間が造る壁や塀の側に穴を開けて木の生長を妨げない配慮をした住宅があった。私はそれらを見て、ブラジル人の自然尊重の精神を確認したのである。
 
 ブラジルの国旗は、緑の地に黄色い菱形を描き、その中央に紺色の天空を埋め込んだデザインだ。その意味を尋ねると、緑は森林を表し、黄色はパパイヤやマンゴーなどの木の実の色--つまり豊かさの表現だという。それらの内側に円形の天空が見えるというデザインは、私には意外だった。天空は普通、森林の周りを囲むか、上空にあると感じていたからだ。が、夜、森の中で寝転んで空を見上げると、確かにそんな風景が見えるだろう、と想像した。とにかく、ブラジル人の心の世界には、森林の存在が大前提としてあるのだと感じた。だから、サンパウロ市に巨木が多くあることは、不思議ではないのかもしれない。
 
 谷口 雅宣

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コメント

合掌ありがとうございます。
総裁先生のご文章を拝読いたしまして私も同じように感じています。

総裁先生はこのご文章では主に都市の中の樹木に触れられておりましたが、私は近年 日本において地方の山間部の森林、渓谷などが道路工事等によって次々と削られたり、改変されたりしていることを憂いています。
山間部の道路を車で走ったり、地図を眺めたりしますと、毎年のように高速道路や国道、県道のバイパス、農道、林道の新規工事、延伸が日本各地で進められています。
概して、蛇行した旧道の脇に長大なトンネルや橋を建設して直線的な幅の広い新道が建設されています。
中でも最も大規模と思われるものは、南アルプスを貫通するリニア中央新幹線のトンネル計画です。
この工事により、これまで人間による大規模な改変を受けてこなかった南アルプスが無傷で済むとは思えません。

道路や鉄道工事は一地点としては小面積でも、長い距離に渡って、広い面積の森林を伐採し、大量の土砂を出し、地下水の流れを変え、けもの道を寸断するなどその影響は大であると考えます。

さらには完成したトンネルや橋も数百年、数千年と保たずに老朽化し、今後 維持管理ができるのかも分かりません。また新たなバイパス工事等が行なわれれば自然の“食い散らかし”です。

これからの人口減少社会の中で、豊かな植物相を持ち、コンサベーションインターナショナルにより世界的にも貴重な「ホットスポット」に指定されているという日本列島において、残り少ない自然(森林生態系)を破壊する意義があるのか疑問です。
東京~名古屋・大阪間の移動時間をこれ以上短縮するよりも、豊かな自然環境を保全することの方がはるかに大切だと思います。

間伐されずに放置された人工林やナラ枯れ、シカの食害等とともに、日本の森林について危惧しています。
以上、ご承知の事を長々と失礼しました。
 愛知県 山口 尚則

投稿: 山口 尚則 | 2014年8月17日 (日) 21時07分

山口さん、
日本の道路建設の制度は抜本的な見直しが必要と思います。
リニア新幹線も問題が多いです。しかし、今の自民党政権下では改革はとても難しいでしょう。

投稿: 谷口 | 2014年8月17日 (日) 21時53分

合掌 ありがとうございます。

ブラジルという言葉を、今日、意外な方面で聞きました。それは長年、着物や帯の絵柄を書いたり(作家)、反物を織る人達に注文する方で、その方が、誰も言わず、公表もしないので、日本人は知らないかもしれないけれど、絹の国産は、微々たるもので、養蚕はブラジルでやっており、厳しい検査に合格した繭だけが日本に輸入され、そこから生糸にして(この職人の手は美しいと)、織られて、絹織物になる、と。又、蚕程、苛酷な運命に置かれるものはない。7割は幼虫の時、発育状態が悪い(品質が劣る為)と捨てられる。日本の養蚕が盛んだった時代はそれらを育てて、真綿にして利用した、自分も可哀そうなのでそんな蚕を育てた子供の頃があった、と。若い頃、広い屋根裏で蚕を飼っているのを見たことのある私は、絹織物は、日本、と思っていたので、驚きの事実でした。どの世界でもですが、日頃は見せない、その道の達人の、奥は深い、と思いました。

                   再拝

投稿: 高野洋子 | 2014年8月22日 (金) 20時29分

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