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2014年8月

2014年8月14日 (木)

人間と樹木

 ブラジルからの帰途、ニューヨークに立ち寄ったとき、マンハッタン地区の中央部に拡がCentrlparkny るセントラル・パークを訪れ、自然と人造物との強いコントラストを味わった。多くの人がご存じのように、この地区の、特にセントラル・パークから南側には、「摩天楼」と呼ばれる超高層ビルが隙間なく林立している。セントラル・パークは南北に4キロ、東西に800メートルもあるから、中へ入ると都会の喧噪を忘れて、静かな“森の中”に入った気分になる。しかし、周囲のビルの高さは公園の樹木の何倍もあるので、深い森の背後から凸凹の建物群がそびえ立って見える。硬質の巨大な人造物が、緑の森を見下ろしているという雰囲気が、そこにはある。
 
 これと似た雰囲気は、東京では味わえない。ビルがそれほど高くて密集しておらず、公園がそれほど広くないからである。が、少しでも近い雰囲気を味わえる場所をあえて挙げれば、新宿の西口公園とか代々木公園、あるいは千代田区のホテル・ニューオータニの庭園のごく一部……などだろうか。そういう場所には、手前に緑が広がり、それらの樹木の合間から高いビルが点々と小さく見える場所がある。が、セントラル・パークでは、樹木の合間からではなく、深い森の上方から覆い被さるように、その緑をはるかに凌駕する量の人造物が聳え立って見える場所が数多くあるのである。そのような光景の中にいると、私は「人間の力は自然をはるかに超える」という誇らしげなメッセージを感じるのだった。
 
 山岳地帯が国土の大部分を占める日本では、上に挙げたごく少数の例外を除き、これとは逆のメッセージを受け取る。私は、生長の家講習会で全国の地方都市へ行くが、建物が立ち並ぶ都会であっても、その背景にはほとんどの場合、山々が横たわって見えるから、人造物は数多くあっても結局「自然の懐の中に抱かれている」という感覚があるのである。これに対してセントラル・パークの風景は、明確に「人間は自然を超えている」という感じがする。この場合の「人間」は、ほとんど「人類」と同義だ。なぜなら、公園の近辺には、ガラス張り構造のモダンな高層建築が多く建っているだけでなく、かなりの数の高層ビルが、ヨーロッパの歴史を思わせる旧い建築様式を留めているからだ。それらを見ていると、人類は近代以降、どんどん着実に発展し、自然の征服に成功した--という人間讃歌を聞くのである。
 
 もちろん、事実はそうではない。私たちがその中で生きる「自然」とは、一定の形をもった物理的環境ではない。それは、無数の微生物から昆虫、植物、鳥類から獣たち、そして海洋生物のすべてが、物理・化学的な環境の中で、その環境をも変化させながら、相互に干渉し、関係し合いつつ生活している場である。それは言わば、無数の変数をもった巨大な方程式のようなものだ。だから「人間」のもつ値が変化し、それが膨張していけば、その他の変数も相互に変化して、全体としての「自然」の姿や機能を変化させていく。昨今、世界的に顕著に現れている気候変動や、大気汚染、新種の死病の流行などは、このことをよく示している。自然を破壊すれば、破壊された自然は変化し、その変化に対応できない私たちを破壊するのである。だから自然は、人間が「征服」したり、「支配」する対象とはなりえないのである。大体、私たち人間の肉体そのものが自然の一部だから、それを征服するなどということは、あまり意味がない。
 
 自然の一部である私たち人間は、当然のことながら、自然に生かされ、自然を愛している。それは、どんな人も自分の母親を愛するのと似ている。「母なる自然」(mother nature)という言葉もあるくらいだ。特定の国の人や、特定の民族だけが自然を愛するのではない。そのことを今回、セントラル・パークでも強く感じた。
 
 この公園は、世界最大の経済都市・観光都市であるニューヨークの中心部にあるから、世界中から人々が訪れる。公園の外側は、高層ビル群の間を人と自動車、自転車が動き回り、地下には地下鉄が縦横に走る。街を早足で歩く人々のほとんどは、耳にイヤフォンを付けたり、スマートフォンを覗いている。歩行者が信号を無視して道路を横断することは、ニューヨークでは当たり前だ。しかし、公園に一歩入れば、そんな喧噪からすぐに解放されて、心が静まる。特に、公園内にあるいくつもの池の端には、落ちついた色のベンチが並んでいるから、そこで読書をしたり、昼食を摂ったり、昼寝をすることもできる。妻と私は、公園の南端にある小さい池の側にあるベンチで、ひと時を過ごした。そこは繁華街から一番近い公園の池だから、多くの人々が散歩に来て、池を背景にして記念写真を撮ったり、カモに餌をあげたりする。そういう人々が話す言葉は、英語でないことが多いのだ。中国語、アラビア語、フランス語ぐらいは判別できるが、私がこれまで聞いたことのない言葉もある。しかし、そこでの世界各地の人々の行動は共通している。皆、嬉々とした様子で自然の中で安らぎ、満足しているのである。
 
 「日本人は自然と一体の生活を愛する」という言葉を聞くことがある。日本家屋の構造が--障子や襖や土間や縁側が、人家と自然との境界を最小限にすることで、家に住む人間が自然の息吹を感じられるように工夫されている--などという種類の言説を聞くと、伝統的な日本家屋に住む人でなければ、自然を嫌っているかのような印象を受ける。しかし今回、ブラジルを訪れてサンパウロの街を歩き、そして、セントラル・パークで小一時間を過ごしてみると、そのような自然と親しみ、自然を愛する感情は、「日本人」などという民族的な概念とは無関係に、どの国の人々にもあるとの思いをさらに深くしたのである。
 
 それはかつてドイツを訪れた時も、ロンドン郊外のハムプステッド・ヒースを訪れた時にも感じたことだ。日本人が特に優れて「自然を愛する」のではない。人間は皆、自然を愛する。だが、愛する一方で、自然破壊を平然と行ってきたのである。私は、この矛盾した感情を正面からきちんと認め、その上で自然破壊をこれ以上進行させないように自己を律することが、文明人としての喫緊の課題だと思う。
 
Saopaulotrees2  サンパウロ市は、1千100万人の人口を抱える大都市だが、樹齢何十年と思われる立派な木がどこにでも生えているのを見て、私は感銘を覚えた。日本の都会では、都市計画と称して、樹木をいとも簡単に伐採してしまう。それも、何十年もかかって成長した美しい大木を、無神経に、情け容赦なく切り倒してしまうのだ。私は東京・原宿の住人だったころ、青山通りの両側にあった立派なマロニエの並木が、いつのまにか消えていることに気づき、深い怒りと悲しみを覚えたことがある。人間と樹木との間に育つ感情的な結びつきを、東京都の役人や政治家は一顧だもせず、恐らく電力や通信設備などのインフラ整備のためだろう、根こそぎに取り払ってしまう。それに比べサンパウロ市では、大人2人で抱えきれないような樹木がそこら中にある。中には、10人が腕を拡げても抱えられないようなゴムの木もあって、その堂々とした命溢れる姿に、妻も私も感嘆の声を発したものである。
 
Saopaulotrees  サンパウロ市の高級住宅地にも、樹木を維持するための建築規制があるらしく、太い木を切らずに、人間が造る壁や塀の側に穴を開けて木の生長を妨げない配慮をした住宅があった。私はそれらを見て、ブラジル人の自然尊重の精神を確認したのである。
 
 ブラジルの国旗は、緑の地に黄色い菱形を描き、その中央に紺色の天空を埋め込んだデザインだ。その意味を尋ねると、緑は森林を表し、黄色はパパイヤやマンゴーなどの木の実の色--つまり豊かさの表現だという。それらの内側に円形の天空が見えるというデザインは、私には意外だった。天空は普通、森林の周りを囲むか、上空にあると感じていたからだ。が、夜、森の中で寝転んで空を見上げると、確かにそんな風景が見えるだろう、と想像した。とにかく、ブラジル人の心の世界には、森林の存在が大前提としてあるのだと感じた。だから、サンパウロ市に巨木が多くあることは、不思議ではないのかもしれない。
 
 谷口 雅宣

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2014年8月 8日 (金)

なぜ肉食から遠ざかるべきか? (7)

 皆さん、宗教が発する最も基本的で、重要なメッセージとは何でしょうか? 私は生長の家のことだけを言っているのではありません? 世界の宗教に共通する基本的メッセージは何か、ということです。 
 
 皆さんは、そのことをすでにご存じです。新約聖書で、永遠の生命を得る方法を訊かれたとき、イエスは何と答えたでしょう? イエスは質問したユダヤ教の学者に「律法には何と書いてあるか?」と訊ね、律法学者は2つの答えを言いました:
 
 ①心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。(申命記、6:5)
 ②自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。(レビ記、19:18) 
 
 この2つの答えに対して、イエスは「あなたの答えは正しい」と言いました。つまり、ユダヤ教の教えとイエスの教えは、この部分は一致するということです。さらにイエスは、この2番目の教えを補足するために、有名な「よきサマリア人」(ルカ10:30-37)の譬話をされたのです。私たちの「隣り人」とはいったいどんな人か、という説明です。ご存じのように、サマリア人とは、当時のユダヤ人社会から差別され、蔑まれていた人たちです。が、強盗に遭って倒れていたユダヤ人を、同じユダヤ人は助けなかったのに対し、サマリア人は介抱して助けたうえ、宿まで世話してあげたのでした。 
 
 この譬話が発するメッセージは、「私たちは自分が属するグループの人を愛すべし」というのではありません。「自分が属さないグループの人間も愛せよ」ということです。イエスはまた、「あなたの敵を愛せよ」(マタイ 5:44、ルカ6:27)とさえ説かれました。愛とは、自他一体の感情です。肉眼で見れば「自」と「他」とは肉体が分離していて"別もの"のように見えても、それらは別ではなく本来一体であるという認識があり、そこから流れ出る感情――それが愛です。 
 
 仏教では古くから、同じことを「四無量心」と呼んで、人間が目標とすべき仏の心だと教えてきました。「慈悲喜捨」の4つの心です。「慈」の心は「抜苦」ともいい、他人の苦しみを自分の苦しみとして感じ、それを抜き去ってあげたいと願う心です。「悲」の心は「与楽」ともいい、他人に楽を与えたいと願う心です。「喜」の心は、他人の喜びを自分の喜びとして感じる心です。「捨」の心は、他人を自分の思い通りにしたいという執着を去る心です。これら四無量心はすべて、自分と他人との境界線を取り払うことで生まれる自他一体の認識であり、そこから流れ出る感情ですから、「対称性の論理」に根差しています。 
 
 イスラームにおいても、同じ考えが説かれ、実践されてきました。イスラーム信仰の中心とされる「五行」の中に、「喜捨(ザカート)」があることを思い出してください。喜捨を行うことは『コーラン』の中で繰り返し強調されている信者の義務です。かつて私たちの教修会のゲストとして講演してくれたカリード・アブ・エル・ファドル師によると、この喜捨の対象となるのは、自分たちのグループの人間ではないのです。『コーラン』によると、それは、貧者、孤児、困窮している親族、旅人、他国からの訪問者、戦争捕虜などです。さらに、イスラーム法学者の大半が、ムスリムと非ムスリムを区別せずに喜捨を行うべきと考えています。(『イスラームへの誤解を超えて』、pp.132-133) 
 
 このように、世界の主要な宗教の教えの基本には、自分と他人との境界を取り払い、自他一体の思いを抱くことを称揚し、その思いを実践する考えがあります。この考えは、さらに個人間の関係のみならず、あるグループと別のグループとの間にも及ぼされるべきだと説かれてきました。では、この「グループ」とは、人間社会の中だけのグループを指すのでしょうか? 私はそう思いません。人類の発展と繁栄だけを目的にしてきた私たちの経済活動は、今日、どんな結果を招いているかを思い出してください。それは地球温暖化であり、極端な気象現象の頻発であり、生物多様性の崩壊であり、動物虐待の食肉生産であり、食糧と資源の奪い合いの世界です。これがはたして「神の栄光」が現れている姿でしょうか? 断じてそうではありません。私たちはもう、神が人類だけを愛されているという間違った考えを捨て去らねばなりません。神が人類だけに、世界をほしいままに利用していいと許可されたなどと考えるご都合主義を放棄しなければなりません。 
 
 イエスは、聖書の譬話の中で、王になり変わってこう説いています―― 
 
「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、私にしたのである」。(マタイ 25:40) 
 
 ここにある「最も小さい者」とは何でしょう? 体の小さい人間のことですか? 私はそうは思いません。この言葉は「一見とるに足らない者」という意味だと解釈すべきです。もちろん人間も含まれますが、それ以外の動物や生物一般、さらに鉱物も含まれると解釈すると、この聖句の教えの現代的重要性が一気に明らかになります。人間にとって一見、とるに足らないように見える獣も、昆虫も、植物も、神にとっては「兄弟」と呼ぶにふさわしい愛すべき存在なのです。その愛すべき貴重な生物の一部を虐待したうえ、自分の欲望のままに殺して食べる行為を、長期にわたり大々的に展開することが、神の御心にかなうと皆さんは思いますか? そういう行為が「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして」神を愛することになるのでしょうか? 神とは、私たちの"外側"に、私たちと別にいると考えてはなりません。肉食が、私たちの心の神性・仏性の喜ぶ行為だと、皆さんは思いますか? 
 
 この点については、生長の家の教えは実に明確で、疑問の余地がありません。皆さんがよくご存じの「大調和の神示」には、こう説かれています―― 
 
「汝ら天地一切のものと和解せよ。…(中略)…天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ。その感謝の念の中(うち)にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。…(中略)…われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる。」 
 
 この神示にある「すべて」という言葉は、人類だけを指すものではありません。文字通り「天地すべてのもの」です。動物、植物、菌類、鉱物などすべての被造物と和解することによってのみ、神は姿を現され、私たちを祝福されるのです。別の言葉でいえば、自然界のすべてのものと和解することによってのみ、私たちの内部の神性・仏性が輝き出し、世界に平和が実現するということです。 
 
 この多様性に満ちた、豊かな自然を擁するブラジルで生長の家の教えを学ぶ皆さんには、偉大な使命があります。それは、肉食の悪習慣から抜け出せずに紛争や戦争の道へとひた走る人類に対して、"別の生き方"を示すことです。豊かな森林やセラードを切り倒して家畜用飼料だけを育てることが、神の御心ではないと伝えることです。人類だけの繁栄が平和に結びつくという誤った考えを正すことです。そのためのノウハウは、ブラジル国内はもちろん、世界各地にあり、私たちは相互協力と支援を惜しみません。 
 
 ここに集まられた生長の家の世界の指導者が今後ますます一致団結して進んでいくことで、神の栄光が地上に顕れる日が近づくと、私は固く信じるものです。ご清聴、どうもありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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2014年8月 7日 (木)

なぜ肉食から遠ざかるべきか? (6)

 さて、私はこの講話の冒頭で、今回の教修会では肉食に関して暗黒面だけを取り上げるのではなく、光明面についても学ぶと言いました。それなのに、皆さんの中には、私が少しも明るい話をしないと不満を感じている人がいるかもしれません。私はこれから、その不満を解消するつもりです。生長の家の教えによると、現象世界は、神が創造された世界の実相が顕現していく過程ですから、その過程を長い時間軸で、また広い視野で眺めてみると、必ず良くなっているし、そうでなければなりません。では、肉食をめぐる人間の考えはどうなっているのでしょう? それは、現代の一時期だけを見れば、確かに悪くなっているように見えます。世界各国の経済発展にともなって、食肉の消費量がどんどん増えているからです。しかし、私たちの視野をもっと拡大し、人類の歴史を通じて肉食に対する考え方がどう推移しているかを眺めてみると、そこには確実な進歩・向上が見られると私は考えます。 
 
 太古の時代――つまり、石器時代や農耕が始まってしばらくの時代には、肉食に対して異議を唱える人は皆無でなかったか、と私は想像します。なぜなら、動物は重要な栄養源であり、かつ人間にとって脅威でありました。人間が狩をしなければ、クマやオオカミやライオンなどの猛獣がシカやウシなどの獲物を奪うか、あるいは人間を襲って食べたことでしょう。やがて人間は野生動物から家畜をつくり出し、それを飼うことで自分たちの労働力を増し、栄養源を確保して生存を保障するようになりました。ここで生まれたのが、人間と動物との心のつながりです。人間は、労働力や栄養源や交通の手段としてだけでなく、愛したり、かわいがる対象として、自分たちとは異なる生物種と心の交流をすることになりました。 
 
 産業革命が起こると、エンジンやモーターが開発されて、労働力としての家畜の重要度は減りますが、その代わり、乗馬やポロ、競馬などのスポーツ、そしてサーカスなどでは人間のコンパニオンとして動物たちは不可欠な存在となり、また家の中のペットとして、人間との関係は深まります。もちろん、その間も、家畜を栄養源として扱う人間の習慣は続いていきます。やがて医学が発達すると、人間の身代わりとして動物が使われるようになります。いわゆる“実験動物”の登場です。“実験動物”の利用については現在、動物愛護団体から厳しい批判が向けられていますが、そもそも「人間の身代わりとして動物を使う」という考え方は、宗教の世界では永い伝統をもっていますが、科学の世界に持ち込まれたのは比較的近年になってです。そして、この研究方法が動物に対する人間の意識の大きな変化を用意した、と私は考えます。なぜなら、この動物利用の方法の背後には、「人間と動物は根本的には違わない」という大前提があるからです。実験動物が医学や薬学の研究に使われるということは、マウスやブタの体で確認されたことは、人間の体でも起こる可能性が大きいという信念があるからです。そこには、人間と他の動物との生物学的、生理学的同一性が前提となっています。私たちがすでに学んだ心理学的用語を使えば、人間と他の動物を別個の存在として見る「非対称性の論理」がくずれ、動物はみな肉体的に同質であるという「対称性の論理」が、現代人の科学的視点の中にも浸透しつつある、ということだと思います。 
 
 私はここで動物実験をどんどんやれと言っているのではありません。動物たちに不必要な苦しみを与えることはやめるべきです。しかし、この悪習慣には"光明面"もあると言いたいのです。動物実験の実情について人々が詳しく知るようになると、「そんな残虐な仕打ちをするな」という声が上がってきます。これは、私たちが“工場式畜産”に反対する根拠と同じものです。こういう声が上がってくるのは、イソップ物語以来の擬人化の心理だけでなく、人間と他の動物とはそれほど違わないという確信があるからです。そして、この確信が生まれる根拠の少なからぬ部分が、動物実験で得られた科学的知見から来ていると考えられます。もっと端的に言えば、現代の動物愛護運動の根拠の多くは、科学的知見にもとづいているということです。 
 
Usagreen  そして、このような動物愛護運動は近年、法律や制度の改革という形で確実なよい成果を生み出しています。例えば、アメリカでは米国動物愛護協会(Humane Society of the United States)が中心となって、家畜や家禽が狭い囲いの中で飼育されることに抗議し、畜産大手や食品メーカー、レストランチェーン、小売など個別の大手企業に働きかけてきただけでなく、州法による禁止にも取り組んでいます。その結果、フロリダ州(2002年)、アリゾナ州(2006年)、オレゴン州(2007年)、コロラド州(2008年)、カリフォルニア州(2008年)、メイン州(2009年)などで、すでに法律による規制が一部実現しているのです。特に、2008年11月に成立したカリフォルニア州の家畜虐待阻止法は、動物愛護に向けた最も包括的な内容で、繁殖用の母ブタ、食肉用の子ウシ、そして採卵用のニワトリが「自由に歩き回り、横になり、立ち上がり、四肢を完全に伸ばす」ことができるように定めています。 
 
 私はこのことは、人間の視野がかつてないほど拡大したことを示す画期的なことだと思います。地球上の生物の中で、ある生物種が他の生物種の福祉のために、自分たちの行動を変えろと訴えるなどということが、かつてあったでしょうか? 例えば、ヘビが集まって社会をつくっていたとします。そこでもし、自分たちのカエルに対する扱い方が残酷だからそれを改めよう、などという話が出たとしたら、皆さんはどう感じますか? それはもう奇妙な話ではないでしょうか? そんなヘビ社会は、ヘビとしての本質を失いかけている――そう思いませんか? しかし、人間社会では現にそれが起こっていると考えられるのです。私はこれは、人類がホモ・サピエンス・サピエンスという生物学的存在としての意識を脱して、一回り大きな存在として顕現しつつある兆しではないか、と密かに喜んでいるところです。つまり、「人間の神性」が表現されつつある重要な証拠だと考えるのです。 
 
 皆さん、このような神性表現の動きこそが、宗教が本来地上でなすべきことではありませんか? 私は先に、『大自然讃歌』から、次の言葉を引用しました―― 
 
「人間の真の目的は肉体の維持・発達に非ず、
 地上に神の栄光現すことなり。」 
 
 この引用箇所からさらに数ページ先を開けてください。そこに「汝らは神の子なり、仏子なり」と書いてあります。これが私たち生長の家の信仰の中心ですが、その「神の子」であり「仏子」である人間はどう生きるべきかが、これに続いてはっきりと説かれています―― 
 
「“生命の炎”自在に統御し、
自己の内なる神の目的に活用せよ。
しかして、内部理想の実現に邁進せよ。」 
 
 これが生長の家の信仰者の生き方です。ご存じの通り、生長の家は現在、世界平和の実現を目指して運動しています。現代の平和は、悪意をもったどこかの国家やテロリストの組織によって乱されるとの考え方もありますが、生長の家はそういう“悪い国”や“テロリスト”を神が創造されたとは考えません。神の創造の世界には、悪はないのです。ではなぜ、そういう悪が私たちの前に存在するように見えるかというと、人間の迷いが、誤った考え方が、人間の心の中に悪を仮につくるからです。その迷いとは、何でしょうか? それは、自分の“外側”の世界と“内側”の世界には断絶があると考えることです。自分は“内側”にいて、“外側”の世界から何かを取り込むことで幸福になると考えるのです。また、“外側”のものは善いものだけでなく、悪いものもあると考え、善いものを取り込み、悪いものを排除し、あわよくば破壊しようと考えるのです。これは、私たちが学んだ「非対称性の論理」の極端な表現の1つです。 
 
 「対称性の論理を学ぶ」という論文に詳しく書きましたが、現代社会は対称性の論理が弱まり、非対称性の論理が支配的になりつつあります。このことは、人類の半数以上が、自然豊かな田舎を離れて都会へ移住しつつあることと軌を一つにしています。都会は、非対称性の論理が支配する空間です。人類がそこへ多く住むことになれば、人類の考え方の中から「対称性の論理」が大きく後退するでしょう。いや、現にそういう現象が起こっているため、貧富の格差の拡大、社会不安、離婚や家庭崩壊、薬物の濫用、そしてテロリズムが起こっていると考えるべきでしょう。私は、人類の肉食の増加も、この望ましくない一連の動きの一部だと考えます。なぜなら、肉食はそれを行う人間の欲望満足のために、心をもった動物から奪い、貧しい国の人々から奪い、自然界から多様性と安定性を奪い、さらに資源を浪費するからです。その先に来るものは、気候変動の激化と国際紛争です。 
 
 谷口 雅宣

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2014年8月 6日 (水)

なぜ肉食から遠ざかるべきか? (5)

 ウシなどの家畜は、一般に自然豊かな田舎で育てられてきました。これに対して、それを屠殺して食肉として販売し、消費する場は、主として都会でした。私は、田舎の人々が肉食をしなかったと言っているのではありません。食肉が消費される量を考えると、人口が比較的少ない田舎よりも、人口が密集した都会の方が多かったという意味です。家畜を育てるためには、人々は当然、家畜と頻繁かつ濃密に接触し、そこから家畜への愛着が生まれます。家畜農家の人々と家畜との間には、「対称性の論理」が優位的に機能するのです。その反面、都会で家畜の肉を食べる人々は、生きた家畜に接触する機会はまったくないか、あったとしてもきわめて少ないでしょう。だいたい、都会で生まれ育った子供たちの中には、ミートボールやソーセージが生きた動物の肉から作ることを知らない人もいるのです。ましてや、屠殺場に引かれていくウシたちが、恐怖のために小便を漏らし、涙を流し、悲痛な叫びを上げることなど知らない人がほとんどでしょう。接触する機会がなければ、家畜に同情し、さらに感情移入する余地はほとんどありません。つまり、都会人と家畜との間には、「非対称性の論理」が優位的に機能するのです。
 
 そして、肉食をする人々の矛盾した心を説明するのが、「二重論理」というメカニズムです。この心理学的なメカニズムについては、今日、テキストにしている私の論文「対称性の論理を学ぶ」にやや詳しく書かれています。日本語のものは、機関誌『生長の家』の昨年8月号の11ページに、その説明があります。これはイグナシオ・マテ=ブランコというチリ生まれの精神分析医が最初に唱えたもので、私の文章の中で「彼」と呼んでいるのは、この人のことです。11ページの上の段の後ろから5行目から読みます-- 
 
Bilogic「 彼によると、人間は物事を見るときに、見る対象を大別して2つの“固まりに分けたうえで、その2つの“固まりの間の関係として捉えるというのです。この場合、2つの間の共通点を見るのが「対称性の論理」であり、それに対して両者の相違点に注目するのを「非対照性の論理」と呼びました。例えば私たちが、ある人と対面して話をするときに、この人と自分はどこが違うのかと相違点に注目すると同時に、共通点についても把握しているということです。そして、この2つの一見、矛盾したものの見方を、人間は心の中の「意識」と「無意識」で分担して行っている--言い方を変えれば、矛盾した2つの論理が同時並行的に行われている、と彼は考えました。そして、このことを「二重論理」と表現しました。」 

 私たちは、人間と家畜との関係についても、これと同じものの見方をしていると私は考えます。ウシは、私たちの覚めた意識の中では、人間とは明確に異なる動物です。しかし、無意識の中では、私たちは自分と同じ仲間だと感じているのです。私たちが工業製品を生産する際に用いる方法は、覚めた意識から生み出された「非対称性の論理」にもとづく方法です。それは、工業製品の製作コストを下げるための合理的な方法です。しかし、感情をもった生物を扱う方法ではありません。ところが今日の食肉生産には、この方法を用いた"工場式畜産"(factory farming)の方式が広範囲に採用されています。別の言い方をすれば、人間と家畜を全く別物と見なし、さらに言えば家畜をまるで食品製造のための物質の塊のように考えて、工業製品の原材料のように扱います。痛覚や感情をもった生き物を物質として扱うのです。 
 
 それははたして正しい方法なのでしょうか? この場合の「正しい」という意味は何でしょう? 私は『大自然讃歌』から引用して、すでにそのことを皆さんに説明しました。それを繰り返して言うと、「私たちの神性が表現できないような欲望の使い方は間違っている」のです。「人間の神性がくらまされるような方法」は間違っているのです。私たちは、感情をもち、愛情表現をし、知性さえ備えた家畜を、食欲を満たす目的だけで、残酷な方法で飼育したうえ、残虐に切り刻んで食肉にすることで、神性を表現できるのでしょうか? もちろん、そんなことは絶対にできません。それは明らかに人間の神性を否定し、くらますことです。そういう方法で、1分間に2万頭もの家畜が殺されているとしたら、その肉を買って食べることで、私たちは神性を表現できるのでしょうか? とんでもありません。それは自分の神性をくらますことです。 
 
 では、皆さんは、“工場式畜産”の方法がいけないのだから、広い農場でゆったりと草を食べながら育った家畜ならば、そして、不必要な苦しみを与えない方法で殺された家畜ならば、その肉を食べてもいいはずだ、と考えるでしょうか? 一部の人たちは、そう考えているようです。しかし、よく考えてみてください。アメリカ1国だけでも、地球上の人類の数より多い100億匹の家畜を1年間で消費するというのに、そんな数の家畜がゆったりと草を食べて育つような土地が、いったいどこにあるのでしょうか? そんな牧草地をつくるためには、世界中の森林を伐採しなければなりません。あるいは、人間が食べる小麦、トウモロコシ、サトウキビや大豆の畑をやめて、家畜たちに開放しなければなりません。それができるのであれば、そもそも食べるために家畜たちを飼育しない方がよほど合理的ではないでしょうか。 
 
 谷口 雅宣

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2014年8月 5日 (火)

なぜ肉食から遠ざかるべきか? (4)

 ジョーイ博士は、アメリカでも家畜の屠殺現場が隠されていることを、次のように書いています--
 
「 私たちの夕食の皿に載る食肉のほとんどを生産する産業組織は、基本的に隠されていて見えません。私たちはそれを見ないのです。なぜなら、それらは私たちのほとんどが敢えて行かないような遠方に位置しているからです。もしそこへ行ったとしても、中の様子を見ることが許されないからです。施設を出入りするトラックは、しばしば荷台を頑丈に覆われ、中に何が積まれているか表示されていないからです。『ファーストフードの国』(Fast Food Nation)の著者、エリック・スクローサー(Erik Schlosser)が言うように、それらのトラックには"前方に窓がなく、中で何が起こっているかが判別できる構造上の特徴は何もない"からです。私たちがそれを見ないのは、見てはいけないからです。暴力的なイデオロギーは皆そうであるように、一般大衆は、制度の犠牲者を直接目撃することから遮断されなければならないのです。なぜなら、目撃すれば、大衆はその制度自体に、あるいはその制度に荷担することに疑問を感じだすからです。この事実が、それを語っています:食肉産業はなぜこうまでして、自分たちの行動を隠さなければならないのでしょう。」(p.40)  
 
 ジョーイ博士によると、事実をゆがめるための最も有効な方法は、そんな事実はないと否定することです。私たち自身に大きな問題があっても、「いや問題はないんだ」と自分に言い聞かせれば、問題解決に悩む必要はなくなります。そして、ある事実を否定するために最も有効な方法は、その事実を見えなくすること、つまり隠すことです。この事実隠蔽が社会全体で大々的に行われているので、私たちは最初に取り上げたような、動物に対する矛盾に満ちた態度--つまり、イヌやネコは家族の一員のように愛するのに、ブタやウシは殺して食べたり、皮製品にすることができるのだといいます。ジョーイ博士は、肉食をする人間は悪魔か鬼だと言っているのではありません。屠殺や食肉生産の現場が徹底的に隠されていて、一般の人々には見えないので、「そこで行われていることは大きな問題ではないのだ」と考えるように仕向けられているのです。簡単に言えば、普通に肉食をする人は無知であり、だまされているのです。 
 
 その証拠に、私たちは心理的に普通の状態にあれば、ウシは「殺される」のではなく、「生かされる」ことに喜びを見出すはずです。これは、期せずして実際に起こった事実から証明できます。 
 
 私は2001年からブログを書き継いでいますが、この2001年当時には、イギリスを中心にして口蹄疫が発生して大きな問題になったことを記憶している方も多いのではないでしょうか。口蹄疫とは、何でしょうか? それは、主として哺乳動物の偶蹄類(ウシ、水牛、ブタ、ヒツジ、ヤギなど)に感染するウイルス性の急性熱性伝染病です。このウイルスは感染力がきわめて強く、土や干し草、人間の衣服などに付着して運ばれるので、車のタイヤや人間の靴についた土からも感染します。さらに、風によって運ばれることもあります。感染した動物は、口や蹄や乳房付近の皮膚や粘膜に水疱ができ、この水疱や乳汁、糞尿の中に大量のウイルスが排出され、肉や臓器などにも大量のウイルスが含まれます。
 
 口蹄疫に感染した動物は、食欲減退によって肉付きが悪くなり、乳の出も悪くなります。また、体内に大量のウイルスをもつため肉製品にはできません。症状が消えた後も、ウイルスは食道や咽喉頭部に長期間すみついてキャリアー化する恐れがあります。ということで、畜産品の原料として見る限り、感染した動物は死んだも同然ということになります。しかし、重要なことに、この病気のウイルスは人にはほとんど感染しないだけでなく、動物も死ぬことはないのです。特にヒツジの症状はさほど深刻ではありません。やがて動物は病気から回復していきます。しかし、畜産品の原料としては価値がなくなるだけでなく、強い感染力によって他の家畜の商品価値もなくしてしまうため、この病気が発生した場合、発生地域も含み周辺のすべての家畜を、感染していなくても殺してしまうことが、被害の拡大を防ぐ唯一の方法だと考えられてきました。
 そんなニュースが流れる中、私はブログに4月4日付で、「フェニックスの生還」と題して次のような記事を書きました--
 
Phoenixicow640_2 「 口蹄疫の伝播を防ぐために大量の家畜が殺されているイギリスの農家で、例外的に生き延びた子牛が救われることになった。今日付の『ヘラルド朝日』の伝えるところによると、最も深刻な被害の及んでいるイギリス本島南西部のデボンと、北西部のカンブリアでは、森林火災の延焼を防ぐために周辺部の林を伐採するのと似た考え方で、口蹄疫に感染した家畜が見つかった地域の周辺部では、未感染の家畜もすべて殺す方法が採られていた。そんな中で、デボン地方のメンバリーにあるクラーレンス農場の15匹の牛は、感染地域が近いという理由で殺されたが、4月23日になって、死後5日たった母牛の側で生きている子牛が見つかった。これが、4月13日に生まれた「フェニックス」という名前の子牛だった。
 
 殺処分担当の政府職員は、このことを聞いてフェニックスをもう一度処分したいと農場主に言ったが、この農場主はこれを拒んだ。メディアもこれを聞きつけ、フェニックスの写真が『Daily Telegraph』や『Times』紙に載ると、ブレア首相の事務所にはこの子牛を殺すなという抗議の電話が殺到したという。」(『小閑雑感 Part 1』収録、pp. 257-259)
 イギリスの口蹄疫は、この年の2月20日に最初の感染が確認され、4月25日までに全国で1,479例の感染が確認され、殺された家畜の数は実に200万頭を超えたといいます。 このような例を考えると、食肉産業に携わっている人々も、また普段から肉食をしている人々も、自分たちと心の交流ができる家畜を殺して食べるという行為に残虐性と倫理的な負い目を感じていることは明らかだと思います。特に、この時のように、屠殺や焼却処分の現場が隠されずに、マスメディアを通して人々が目撃することになると、私たちは肉食をすることの罪の深さを痛感するのだと思います。そう考えるのでなければ、一方で何百万頭ものウシを殺すことを容認しながら、他方でその殺戮から生き残った1頭の子牛を助けたいという声が、期せずして人々の間から湧き上がる理由を、私は説明できません。
 ではなぜ多くの人間は、この口蹄疫が沈静化したあとも肉食を続けているのでしょうか? 私はその理由の1つは、「習慣」の力の大きさだと考えます。人間は人生で何か不幸な出来事に遭遇しても、そこから学ぶ人もあれば学ばない人もあります。学ぶ人は、精神的、霊的な成長を果たし、不幸を克服して幸福へと近づきますが、そうでない人は、同じ種類の不幸に何度も直面することになるのです。世の中の趨勢を眺めてみると、残念ながら、前者よりも後者の人の数が多いのです。
 
 私はまた、この出来事の背後に、現代人の心の混乱を認めます。私たちは、自分が何をすべきかという判断に迷っているのです。私は昨年7月、生長の家の新しい国際本部である“森の中のオフィスで行われた国際教修会で、私の講話の録音筆記から作った「対称性の論理を学ぶ」という論文を参加者に配りました。これは今日、皆さんのお手元にあるはずです。その論文では、最近の心理学や脳科学の研究から明らかになった人間の心の2つの大きな傾向と、人間が住む2つの生活の場--自然と都会--との関係を対比しました。もっと具体的に言うと、人間の大脳は右脳と左脳とに大別されますが、それぞれの脳には役割分担があり、物事の間の共通点を認める「対称性の論理」は右脳が受け持ち、物事の間の相違点を認める「非対称性の論理」は左脳が受け持っているということです。この一覧表を見て、それを思い出してください:
 
Summarypor  この表にはまた、人間が昔から生活してきた「自然」の中では対称性の論理が優位的に働き、もう一つの生活の場である「都会」にあっては、非対称性の論理が支配的に作用するということが示されています。先ほど取り上げた、フェニックスという子牛をめぐるイギリスの人々の矛盾した反応は、この一覧表と大いに関係があると思います。もっと言えば、この表はまさに肉食をめぐる人間の矛盾した心の動きを説明するものだと考えます。
 
 谷口 雅宣

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2014年8月 4日 (月)

なぜ肉食から遠ざかるべきか? (3)

Lovedogseatpigs  私は最近、メラニー・ジョーイ(Melanie Joy, Ph.D.)という人が書いた『Why We Love Dogs, Eat Pigs, and Wear Cows』という本を読みました。この題は簡単な英語なので、多くの皆さんには意味が分かると思います。つまり、「私たちはなぜ犬を愛する一方で、ブタを食べ、ウシの皮をはいで服や靴を作るのか」という理由を探究した本です。著者は、アメリカのボストンにあるマサチューセッツ大学で心理学と社会学の教授をしています。また、彼女は国際ベジタリアン連合(IVU)の活動もしています。彼女が提示している問題を手短かに言うと、私たち人間はなぜ同じ動物であるイヌやネコは愛するのに、ブタやウシを殺してその肉を食べたり、皮製品にするのかということです。一部の動物を愛し、まるで家族の一員のように扱うのに、一部の動物には残酷な仕打ちをし、殺して食べるのです。この首尾一貫しない矛盾した態度はどこから来るのかという疑問を、心理学者の立場から探究したものです。
 
Usvschina_2  ジョーイ博士はアメリカ人ですから、この本の中では主としてアメリカのデータを使っていますが、それにしてもアメリカ一国だけでも大変な数の動物を殺し、食べていることが分かります。その数字を紹介する前に、ひと言申し上げておきますが、私はアメリカという国やアメリカ人を批判するためにこの数字を挙げるのではありません。手近に、入手できる詳しい数字がたまたまアメリカのものであったので、一例として紹介するのです。 ブタ肉の消費について言えば、中国はアメリカの約2倍の量を消費しています。しかし、中国の人口は、アメリカ(約3億人)の約4倍に当たる13億5千万人ですから、一人当たりの消費量はアメリカ人の約半分です。もっと具体的に申し上げましょう。平均的なアメリカ人は肉を年間106.5㎏消費します。これは大型のハンバーガーに換算すると470個分に相当します。つまり、毎日1個以上食べている計算になります。これに対して中国人は平均して肉を年間54.4㎏消費します。
 
Meatc_usbr  ジョーイ博士は、アメリカ農務省の統計を元にしてもっと細かい数字を挙げています。それによると、平均的アメリカ人が1年間で消費する肉の量は、ニワトリが39.4㎏、シチメンチョウが7.7㎏、ウシが30㎏、ブタが23.1㎏です。これに子ウシ肉とヒツジ肉を加えると、肉全体では101㎏という数字になります。ブラジル人の2011年のデータでは、ニワトリが47.9㎏、ブタが15.1㎏、ウシは28.3㎏で、肉全体では91.5㎏になるそうです。アメリカ人より若干少ないようです。
 アメリカの話にもどれば、「一人当たり年間101㎏」という量の肉をアメリカ人全体が食べるためには、年間で約100億匹の家畜と家禽が殺されることになります。これは大変な数ではないでしょうか? 計算すると、年間100億匹を殺すためには、1分間で19,011匹、1秒間では317匹が殺されるのです。ジョーイ博士は、さらに興味ある比較をしています。100億匹は、アメリカの人口の33倍であり、ニューヨーク市の人口の1,250倍、ロサンゼルスの人口の2,500倍だというのです。地球上の人類の数は70億人を超えたところですから、もちろん100億匹は人類の数より多いのです。
 
 では、私たちは毎日何人もの人と顔を合わせていても、動物たちが殺される姿を見たことがあるでしょうか? 鳥が窓ガラスに衝突したり、ネズミやイヌが交通事故で死んでいる姿は見たことがあるかもしれません。しかし、いったい何人の人が、家畜や家禽が食肉に加工されるために殺される様子を見たことがあるでしょうか? 殺される動物たちの悲鳴を聞いたことがあるでしょうか? 彼らが流す血の臭いをかいだことがあるでしょうか? どんな場所で殺されるかを聞いたことがあるでしょうか? もしこれらの経験がないのならば、それはなぜでしょうか?
 
 次の写真を見てください--
 
Sanen_640  これは日本で「サンエン」と呼ばれている彫刻です。三匹の猿が、それぞれ両手で目を覆い、耳を隠し、口を押さえています。その意味は、「自分にとって都合の悪いことや人の短所や、過ちは、見ない、聞かない、言わない」という一種の戒めです。社会に波風を立てないための渡世術として昔から言われてきたことです。しかし三猿の戒めは、社会の不足や間違いの是正を放棄することにつながります。三猿主義は、そこに解決すべき問題があると知りながら、そんなものはナイとして無視することです。これを実行するために便利なのは、問題そのものを社会の目から隠してしまうことです。もっとハッキリ言えば、私たちは家畜や家禽の屠殺の現場を社会から「見えないように」「聞こえないように」「口に出して言わないように」することによって、「犬を愛しながらも、ブタを食べ、ウシの皮をはぐ」社会を維持し続けてきた--これが、ジョーイ博士の説明であり、私もその通りだと考えます。
 
 日本での肉食については、吉柴講師が発表してくださいました。そこでも触れられていたように、日本では仏教の「不殺生」の教えの影響もあって、伝統的に肉食は多くなかったのです。しかし、一部で継続的に行われてきました。その際には、この三猿主義の考え方が極端な形で実践されました。それは、屠殺や皮革の加工に携わる人々を社会の一郭に集め、人々の目から隠してしまうことです。そういう人々の住む地域は「部落」と呼ばれ、一般人が出入りすることは禁止されなくとも、"危険なこと""汚らわしいこと"だと言われて差別されてきました。これらの人々は、鎌倉時代中期(13世紀半ば)から「えた」と呼ばれ、穢れが多いという意味の漢字が当てられました。江戸時代の身分制度では最下層の「賤民」として扱われ、「非人」とさえ呼ばれました。つまり、人間として扱われなかったのです。こうして、屠殺という行為とそれを行う人々を社会から隔離し、隠してしまうことで、日本では、動物への残虐行為と動物を食する行為は社会の責任でないこととされてきました。現代日本では、もはやそういう身分制度はなくなりましたが、屠殺に携わる人々への差別が、いまだに有形無形の形で行われていると言われます。
 
 現代のアメリカでは、この屠殺と食肉の生産過程はどうであるのかは、すでに過去の生長の家教修会で扱いました。今日、皆さんのお手元にある本では、勅使川原淑子・本部講師の発表にその様子が詳しく描かれています。そこには目を背けたくなるような描写がたくさん出てきますが、事実は事実として、私たちはこのことを知っておく必要があります。
 谷口 雅宣

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2014年8月 3日 (日)

なぜ肉食から遠ざかるべきか? (2)

Compbrus  ところで、この教修会にはアメリカ合衆国からも多くの人が来ているので、参考のために私が調べたアメリカの数字を並べてみます。2008年に『ベジタリアン・タイムズ』が行った調査によると、アメリカには730万人のベジタリアンがおり、その他の2,280万人が、菜食主体の食事を摂っているといいます。この数字を人口比で表すと、ベジタリアンは全人口の3.2%、菜食主体派は10%です。ここでいうベジタリアンとは、肉、魚、鶏を食べない人でいわゆるビーガンも含みます。ということは、アメリカのベジタリアンは、人口比ではブラジルの8%に劣りますが、菜食主体派をベジタリアンの“予備軍”と考えると、約1割という相当の割合のアメリカ人が、肉食の弊害に気づき、食生活の改善に努力していることが分かります。また、アメリカには『ベジタリアン・タイムズ』の数字以外にも、非営利組織「ベジタリアン・リソース・グループ」がまとめた2012年の数字があり、これによると、ベジタリアンの人口比は「4%」です。2008年の数字より増えているのです。つまり、アメリカでも、ベジタリアンの数は増えつつあると考えることができます。
 
 このように、ブラジルやアメリカの人々は食生活を菜食重視の方向に切り替えることによって世界平和に貢献することができますが、伝統的に多くの人々が菜食を当たり前に行っている台湾は、これまでに蓄積された数多くの種類の素食を世界に広めることによって、別の面から世界平和に貢献できるでしょう。私は、1995年に台湾を訪れた時、初めて素食というものを知りました。それがノーミートであるにもかかわらず、驚くほど種類があり、また美味しいことに感動しました。日本の伝統料理である和食にも、精進料理と呼ばれるものを初めとしたノーミートの料理は数多くありますが、台湾の素食は、それらとは違い、中国料理の伝統を継いだボリュームのあるものです。これらに加え、日本から南北アメリカに渡ったマクロビオテックと呼ばれるノーミート料理も、今では世界的に人気を呼びつつあります。それらが美味であるということは、「禁欲生活は無味乾燥だ」という一般常識を覆すものです。そうです、私たち生長の家は禁欲生活に切り替えようという運動をしているのではありません。
 
 このことは、今回の教修会のテキストである『大自然讃歌』の中に書かれている通りです。この讃歌の終わりに近いところに、人間に欲望が備わっていることの意義が説かれています。この本をお持ちの方は、該当箇所を開けてください。日本語版では40ページになります。
 欲望は
 肉体維持発展のための動力にして、
 生物共通の"炎"なり、
 "生命の炎"なり。
 これなくして生物
 地上にて生活すること能わず。
 これなくして
 人間も肉体の維持・発達為すこと能わず。
 
 ここには、人間が現象生活を送るためには欲望は必要だと書かれています。ですから、生長の家は禁欲主義ではないのです。しかし、欲望至上主義でもありません。そのことが、次に説かれています--
 
 されど汝ら、
 人間の真の目的は肉体の維持・発達に非ず、
 地上に神の栄光現すことなり。
 肉体は神性表現の道具に過ぎず、
 欲望もまた神性表現の目的にかなう限り、
 神の栄光支える"生命の炎"なり。
 
 ここに書いてあることは、欲望は肉体に奉仕するものだから、肉体を「神性表現」という正しい目的に使うならば、欲望も「神の栄光支える"生命の炎"」として評価されるということです。別の表現を使えば、本来、私たちに備わっている「神性」を地上に表現するために欲望を利用することは正しい、ということです。逆に言えば、私たちの「神性」が表現できないような欲望の使い方は間違っている、ということです。食欲も欲望の1つです。ということは、人間の神性がくらまされるような食欲の使い方--食材の選び方や食事の仕方--は、間違っているということです。ここに、私たちが肉食から遠ざかろうとしている信仰上の理由があります。
 
 肉食はまず、心をもった動物たちの生きる意思をふみにじり、過酷な奴隷生活を強いる残虐な行為です。また肉食は、地球資源の浪費であり、その結果、貧しい国の人々から食糧を奪うことになります。さらに肉食は、環境汚染や森林破壊、水不足を助長することにより、人類のみならず、すべての生物の生活に悪影響を及ぼします。そして肉食は、地球温暖化を加速させることで極端な気象現象を頻発させ、旱魃、洪水、海面上昇を激化し、大量の環境難民を生み出し、領土問題を深刻化させます。近年になって頻発している異常気象については、皆さんはもうよくご存じです。
 皆さん、地球環境や人類の生活がこのような方向に進むことは、「神の栄光が現れる」ことなのでしょうか? それとも、「神の栄光がくらまされる」ことなのでしょうか? 答えは、火を見るより明らかです。人類の肉食が増えることによって、神の栄光はくらまされるのです。それは即ち、人間の神性がくらまされることを意味します。難民が増え、社会不安が拡大し、暴力やテロリズムに訴える人の数が増えるからです。ですから、そういう方向に私たちの欲望を使うことは間違いなのです。
 
 では、私たちの食欲をどのような方向に使えばいいのでしょうか? これについても、『大自然讃歌』は答えを与えています。日本語の43ページへ飛びます。
 
 されば汝らよ、
 欲望の正しき制御を忘るべからず。
 欲望を
 神性表現の目的に従属させよ。
 欲望を自己の本心と錯覚すべからず。
 
 世界中で観察される統計的な事実として、こういうことがあります。人間は経済的に豊かになるにつれて、穀物や野菜食から肉食へと切り替える傾向がある。この事実は、昨日のウインクラーさんの発表の中でも取り上げられました。ブラジルでは、2001年からの10年間で、鶏肉を含む肉の消費量が1.5倍になっています。しかし、これは私たち人間の"本心"や"本質"を表しているのでしょうか? それとも、欲望の膨張を表しているのでしょうか? この疑問への正しい答えは、私は後者だと思います。もし人間が本質的に肉食を好む生物であるならば、経済が豊かになるに伴って、ブラジルやアメリカなどの自由な国々でベジタリアンの数が増えていることの説明ができません。特に、両国とも、経済的に余裕のある人々がベジタリアンに転換するケースが多く、また、そういう人々が多く住む地域でベジタリアンが増えているのです。しかし、その反面、中国などの発展途上国では、肉の消費が確実に増えています。これは「欲望を自己の本心と錯覚」しているからではないでしょうか。人間は一度そういう欲望満足の段階を通過した後に、自己の神性に目覚め、「これではいけない!」と菜食重視の方向へと食生活を転換するのではないでしょうか。
 谷口 雅宣

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2014年8月 2日 (土)

なぜ肉食から遠ざかるべきか?

 全世界からお集まりくださった生長の家の幹部・信徒の皆さん、どうもありがとうございます。このブラジルでの「世界平和のための国際教修会」へのご参加に心から歓迎し、感謝申し上げます。ありがとうございます。
 
 皆さんのお手元にある概要説明にも書かれていますが、今回の教修会で検討してきたことは、すでに8年前の2006年に一度取り上げた問題です。当時は、「肉食と世界平和を考える」というテーマで行われ、ブラジルでは1月に、日本では7月に行われました。ブラジルでの教修会には、16カ国から2,922人、日本の教修会には284人が参加しましたから、生長の家のトップクラスの幹部が合計で3,206人も集まって、「肉食をすることは世界平和のために有害である」ということを学んだわけです。その内容は2冊の本にまとめられていて、今回、それらの英語、ポ語、スペイン語、中国語への翻訳もできあがり、皆さんの前にあるはずです。では、それにもかかわらず、なぜ私たちは再び今回、同じテーマで教修会を開かねばならないのでしょうか?
 
Shokunikugraph  このグラフを見てください。ワールドウォッチ研究所の『地球環境データブック』の2012ー2013年版から引用してきたものです。グラフの横軸に年代を取り、縦軸に世界の食肉生産量を取ったもので、1961年から2010年までほぼ一直線に食肉の生産量は増え続けています。ということは、生産された肉を食べる量も増えていると考えねばなりません。つまり、このデータが示しているのは、私たちが肉食を減らす努力をしてきたにもかかわらず、世界の食肉生産量に、したがって消費量にも、何の影響も及ぼしていないということです。
 
 「それは他人の食生活に関することだから、仕方がない」と皆さんはお考えですか? 「他人に何を食べろとか、何は食べるななど命令できない」と皆さんは思いますか? 確かに、そういう言い方で他人を説得することは不適当かもしれません。しかし、こういう言い方はできるのではないでしょうか――「世界人口が70億を超え、さらに2050年代には96億にまで増大することがほぼ確実な中で、人間が肉食を続けていけば経済的に、政治的に、また保健衛生面で、さらには地球環境全体にとって、どんな結果が待ち受けているのでしょう?」と。私たちは、その説明を真剣にやってきたでしょうか? もしやってきたならば、その危険性を少しでも緩和するために、自分自身の食生活を変えてきたでしょうか? 肉食を減らし、野菜や果物へ切り替える食生活の転換を実際に行ってきたでしょうか? 
 
 私は、ここに集まられた皆さんが、そういう努力を全くされてこなかったと言っているのではありません。概要説明にも書いてあるように、私たちは世界のそれぞれの国や地域で、それぞれの事情に合わせて肉食を減らす取り組みをしてきたでしょう。が、その取り組みに「バラツキがあった」点を反省しているのです。つまり、肉食を減らす努力の仕方がまちまちであり、力を入れた国や地域がある一方で、そうでもない所もあったのです。そのようなバラツキがあった理由は、いくつもあると思います。が、その1つは、この問題には「緊急性がない」と判断したところがあったのではないでしょうか? また、私たちの食生活と世界平和に関係があると知っていても、その関係が大変複雑で、多岐にわたっているため、信徒の皆さんに説明するのが困難であったという側面もあるのではないでしょうか? また、そういう複雑な関係を十分理解できなかった人も、中にはいると思います。そこで今回、一部は復習になるかもしれませんが、この複雑な関係に焦点を当てて十分に理解していただき、それぞれの担当地域に帰ってからも、信徒の皆さんに自信をもって説明できるようになっていただきたいのです。なぜなら、これは重要であるだけでなく、今、現に世界で起こっている問題と密接に関係した緊急性のあることだからです。それが今回の教修会の1つの目的です。
 
 今回の教修会の目的は、ほかにもあります。それは、世界には問題ばかりが存在するのではなく、その問題の解決となる糸口も必ずあります。これを別の言葉で表現すれば、私たちの表現の舞台である現象世界には、暗黒面だけがあるのではなく、光明面も必ずあるということです。その光明面を今回は学びます。これを人類の肉食の問題に即して言えば、こうなります--世界の人口は増え続け、経済発展にともなって肉食は増え、地球環境は破壊され、戦争の危険が増しているという暗い動きだけでなく、世界には明るい動きも見えるのです。それは、①人々がしだいに肉食の深刻な弊害に気づきだし、肉食を減らすだけでなく、菜食主義に転換する人々も増えていること。また、②伝統的に肉食を避ける生活を続けてきた人々が地球上には大勢いて、それらの人々が大変おいしい菜食料理をすでに数多く開発し提供していること。さらには、③世界の宗教には、肉食を避ける教えと実践の伝統が今日まで営々と引き継がれてきているということです。
 
 肉食から菜食に切り替える人々が増えていることについては、昨日のマルリ・ウィンクラーさんの発表によって見事に証明されました。彼女と彼女が率いるブラジル・ベジタリアン協会の運動は、その動きを体現しているからです。私がウィンクラーさんの登場を特にうれしく思うのは、彼女がブラジル人であるからです。私は8年前、このサンパウロの地で行われた国際教修会で肉食の問題を取り上げたとき、肉料理で定評のあるこのブラジルで、肉食を減らすことを訴えるのに躊躇しました。そんなことを訴えると、「我々の個人的な食生活に、いちいち文句をつけるな」と反発を買うかもしれないと考えたからです。しかし、その年には、ウィンクラーさんがブラジル・ベジタリアン協会(SVB)を設立してすでに3年が過ぎていました。つまり、ブラジルにおいては、地球の反対側の日本から宗教家がやって来て、「肉食を減らそう」とお説教をする3年も前から、ブラジルの伝統的な食事である肉食が抱える様々な問題に気づいて、菜食への転換を強力に進めている団体が存在していたということです。それだけではありません。今日の概要説明にも書いてあるように、ブラジルでは2004年からベジタリアンが増え続け、現在は人口の8~9%、約1,500~1,600万人が動物を殺して食べる生き方を拒否し、自らの良心にしたがった生活をしているのです。
 
 私はここで、大声で「ビバ、ブラジル!」と叫びたい。「1,500万人」という数字は、日本で15000000_3 は東京都の総人口(1,326万人、平成26年1月)より多く、神奈川県と大阪府の人口を合わ せた数(約1,800万人)よりやや少ない数ですし、アメリカでは全米4位の人口を抱えるフロリダ州の人口(1,880万人)よりやや少なく、第5位のイリノイ州の人口(1,283万人)より多い数字です。これを国単位の人口と比べれば、オランダ一国の人口(1,659万人)にほぼ匹敵し、ギリシャ(1,116万人)よりも、ポルトガル(1,064万人)よりも多い数です。ブラジル国内だけでも、これだけの数の人々が毎日、動物の命を尊重するために自らの食生活を変える決意をし、それを実行し続けているということは、素晴らしいことではないでしょうか? 私は、今後のブラジル生長の家の運動に期待せずにはいられません。ブラジル・ベジタリアン協会の活動に加えて、ブラジルの生長の家の信徒の皆さんが本気になれば、サッカーの試合だけでなく、動物愛護と世界平和への貢献の競争においても、ブラジルは世界をリードすることができると思います。どうかよろしくお願いいたします。
 谷口 雅宣

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2014年8月 1日 (金)

ブラジルと日本で国際教修会

 本年度の「世界平和のための生長の家国際教修会」は7月26~27日の2日間、ブラジルのサンパウロ市のアニエンビ-国際会議場で行われ、開催国・ブラジルを中心にラテンアメリカ、北アメリカ、ヨーロッパ、台湾などから 合計で2,499人の生長の家の幹部、指導者が集まった。これに加え、今年は第2会場を日本の生長の家“森の中のオフィス”(山梨県北杜市)に設け、日本を含む東アジアの本部講師、本部講師補など208人がインターネットによる映像と音声を通じて参加した。教修会での第2会場設置は初めての試みだったが、ブラジルと日本の間の12時間の時差をうまく利用して、ブラジルでのプログラムの進行に合わせて、日本側のプログラムの時間配分を調整するなど、行事全体はスムーズに進行したようである。この大行事の準備、推進、進行に携わった世界中の多くの生長の家の幹部・信徒の方々に、心から感謝申し上げます。
 
 今年の国際教修会は「食事と世界平和を考える」をテーマとして行われ、「ブラジルの食事から世界平和を考える」「中華民国の“素食”」「世界の宗教から生まれた肉食忌避の理由」という3つのサブテーマに分かれて、生長の家の本部講師(補)と地方講師の5人が研究発表をしたほか、国際ベジタリアン連合の会長、ブラジルベジタリアン協会の代表であるマルリー・ウィンクラー氏を招聘して「ブラジルにおけるベジタリアン運動」について学んだ。また、谷口純子・生長の家白鳩会総裁が26日の午後、テーマに即して約30分の講話を行った。さらに、26日の夕食(日本会場では27日の夕食)には両会場でノーミート料理が提供された。これで参加者は、肉食をしなくても十分美味で、栄養価の高い食生活ができることを体験したことと思う。
 
 私は27日のプログラムの最後で、両会場からの事前の質問に答えると共に、まとめの講話を約1時間行った。その講話の内容を何回かに分けて、これから本欄に掲載することにする。ただし、実際に話されたこととまったく同一の内容ではないことをご理解いただきたい。
 
 谷口 雅宣

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