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2014年8月 7日 (木)

なぜ肉食から遠ざかるべきか? (6)

 さて、私はこの講話の冒頭で、今回の教修会では肉食に関して暗黒面だけを取り上げるのではなく、光明面についても学ぶと言いました。それなのに、皆さんの中には、私が少しも明るい話をしないと不満を感じている人がいるかもしれません。私はこれから、その不満を解消するつもりです。生長の家の教えによると、現象世界は、神が創造された世界の実相が顕現していく過程ですから、その過程を長い時間軸で、また広い視野で眺めてみると、必ず良くなっているし、そうでなければなりません。では、肉食をめぐる人間の考えはどうなっているのでしょう? それは、現代の一時期だけを見れば、確かに悪くなっているように見えます。世界各国の経済発展にともなって、食肉の消費量がどんどん増えているからです。しかし、私たちの視野をもっと拡大し、人類の歴史を通じて肉食に対する考え方がどう推移しているかを眺めてみると、そこには確実な進歩・向上が見られると私は考えます。 
 
 太古の時代――つまり、石器時代や農耕が始まってしばらくの時代には、肉食に対して異議を唱える人は皆無でなかったか、と私は想像します。なぜなら、動物は重要な栄養源であり、かつ人間にとって脅威でありました。人間が狩をしなければ、クマやオオカミやライオンなどの猛獣がシカやウシなどの獲物を奪うか、あるいは人間を襲って食べたことでしょう。やがて人間は野生動物から家畜をつくり出し、それを飼うことで自分たちの労働力を増し、栄養源を確保して生存を保障するようになりました。ここで生まれたのが、人間と動物との心のつながりです。人間は、労働力や栄養源や交通の手段としてだけでなく、愛したり、かわいがる対象として、自分たちとは異なる生物種と心の交流をすることになりました。 
 
 産業革命が起こると、エンジンやモーターが開発されて、労働力としての家畜の重要度は減りますが、その代わり、乗馬やポロ、競馬などのスポーツ、そしてサーカスなどでは人間のコンパニオンとして動物たちは不可欠な存在となり、また家の中のペットとして、人間との関係は深まります。もちろん、その間も、家畜を栄養源として扱う人間の習慣は続いていきます。やがて医学が発達すると、人間の身代わりとして動物が使われるようになります。いわゆる“実験動物”の登場です。“実験動物”の利用については現在、動物愛護団体から厳しい批判が向けられていますが、そもそも「人間の身代わりとして動物を使う」という考え方は、宗教の世界では永い伝統をもっていますが、科学の世界に持ち込まれたのは比較的近年になってです。そして、この研究方法が動物に対する人間の意識の大きな変化を用意した、と私は考えます。なぜなら、この動物利用の方法の背後には、「人間と動物は根本的には違わない」という大前提があるからです。実験動物が医学や薬学の研究に使われるということは、マウスやブタの体で確認されたことは、人間の体でも起こる可能性が大きいという信念があるからです。そこには、人間と他の動物との生物学的、生理学的同一性が前提となっています。私たちがすでに学んだ心理学的用語を使えば、人間と他の動物を別個の存在として見る「非対称性の論理」がくずれ、動物はみな肉体的に同質であるという「対称性の論理」が、現代人の科学的視点の中にも浸透しつつある、ということだと思います。 
 
 私はここで動物実験をどんどんやれと言っているのではありません。動物たちに不必要な苦しみを与えることはやめるべきです。しかし、この悪習慣には"光明面"もあると言いたいのです。動物実験の実情について人々が詳しく知るようになると、「そんな残虐な仕打ちをするな」という声が上がってきます。これは、私たちが“工場式畜産”に反対する根拠と同じものです。こういう声が上がってくるのは、イソップ物語以来の擬人化の心理だけでなく、人間と他の動物とはそれほど違わないという確信があるからです。そして、この確信が生まれる根拠の少なからぬ部分が、動物実験で得られた科学的知見から来ていると考えられます。もっと端的に言えば、現代の動物愛護運動の根拠の多くは、科学的知見にもとづいているということです。 
 
Usagreen  そして、このような動物愛護運動は近年、法律や制度の改革という形で確実なよい成果を生み出しています。例えば、アメリカでは米国動物愛護協会(Humane Society of the United States)が中心となって、家畜や家禽が狭い囲いの中で飼育されることに抗議し、畜産大手や食品メーカー、レストランチェーン、小売など個別の大手企業に働きかけてきただけでなく、州法による禁止にも取り組んでいます。その結果、フロリダ州(2002年)、アリゾナ州(2006年)、オレゴン州(2007年)、コロラド州(2008年)、カリフォルニア州(2008年)、メイン州(2009年)などで、すでに法律による規制が一部実現しているのです。特に、2008年11月に成立したカリフォルニア州の家畜虐待阻止法は、動物愛護に向けた最も包括的な内容で、繁殖用の母ブタ、食肉用の子ウシ、そして採卵用のニワトリが「自由に歩き回り、横になり、立ち上がり、四肢を完全に伸ばす」ことができるように定めています。 
 
 私はこのことは、人間の視野がかつてないほど拡大したことを示す画期的なことだと思います。地球上の生物の中で、ある生物種が他の生物種の福祉のために、自分たちの行動を変えろと訴えるなどということが、かつてあったでしょうか? 例えば、ヘビが集まって社会をつくっていたとします。そこでもし、自分たちのカエルに対する扱い方が残酷だからそれを改めよう、などという話が出たとしたら、皆さんはどう感じますか? それはもう奇妙な話ではないでしょうか? そんなヘビ社会は、ヘビとしての本質を失いかけている――そう思いませんか? しかし、人間社会では現にそれが起こっていると考えられるのです。私はこれは、人類がホモ・サピエンス・サピエンスという生物学的存在としての意識を脱して、一回り大きな存在として顕現しつつある兆しではないか、と密かに喜んでいるところです。つまり、「人間の神性」が表現されつつある重要な証拠だと考えるのです。 
 
 皆さん、このような神性表現の動きこそが、宗教が本来地上でなすべきことではありませんか? 私は先に、『大自然讃歌』から、次の言葉を引用しました―― 
 
「人間の真の目的は肉体の維持・発達に非ず、
 地上に神の栄光現すことなり。」 
 
 この引用箇所からさらに数ページ先を開けてください。そこに「汝らは神の子なり、仏子なり」と書いてあります。これが私たち生長の家の信仰の中心ですが、その「神の子」であり「仏子」である人間はどう生きるべきかが、これに続いてはっきりと説かれています―― 
 
「“生命の炎”自在に統御し、
自己の内なる神の目的に活用せよ。
しかして、内部理想の実現に邁進せよ。」 
 
 これが生長の家の信仰者の生き方です。ご存じの通り、生長の家は現在、世界平和の実現を目指して運動しています。現代の平和は、悪意をもったどこかの国家やテロリストの組織によって乱されるとの考え方もありますが、生長の家はそういう“悪い国”や“テロリスト”を神が創造されたとは考えません。神の創造の世界には、悪はないのです。ではなぜ、そういう悪が私たちの前に存在するように見えるかというと、人間の迷いが、誤った考え方が、人間の心の中に悪を仮につくるからです。その迷いとは、何でしょうか? それは、自分の“外側”の世界と“内側”の世界には断絶があると考えることです。自分は“内側”にいて、“外側”の世界から何かを取り込むことで幸福になると考えるのです。また、“外側”のものは善いものだけでなく、悪いものもあると考え、善いものを取り込み、悪いものを排除し、あわよくば破壊しようと考えるのです。これは、私たちが学んだ「非対称性の論理」の極端な表現の1つです。 
 
 「対称性の論理を学ぶ」という論文に詳しく書きましたが、現代社会は対称性の論理が弱まり、非対称性の論理が支配的になりつつあります。このことは、人類の半数以上が、自然豊かな田舎を離れて都会へ移住しつつあることと軌を一つにしています。都会は、非対称性の論理が支配する空間です。人類がそこへ多く住むことになれば、人類の考え方の中から「対称性の論理」が大きく後退するでしょう。いや、現にそういう現象が起こっているため、貧富の格差の拡大、社会不安、離婚や家庭崩壊、薬物の濫用、そしてテロリズムが起こっていると考えるべきでしょう。私は、人類の肉食の増加も、この望ましくない一連の動きの一部だと考えます。なぜなら、肉食はそれを行う人間の欲望満足のために、心をもった動物から奪い、貧しい国の人々から奪い、自然界から多様性と安定性を奪い、さらに資源を浪費するからです。その先に来るものは、気候変動の激化と国際紛争です。 
 
 谷口 雅宣

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