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2014年7月

2014年7月12日 (土)

新しい視点

 都会生活の便利さを久しぶりに味わった。
 
 前日は台風8号が一過して日本各地にフェーン現象が起こり、甲府市は35℃を超えたと聞いて、東京の“熱波”のことを思い出しながら、小淵沢駅から新宿行きの「あずさ12号」に乗ったのだった。出発は10:40。それから12:40までの2時間の車内は、私の仕事場である。7月の終りに開催されるサンパウロでの生長の家国際教修会9のための講話原稿を書き継ぐのが、今日の仕事だった。
 
 パソコンを開いて仕事に集中していると、気がつけば新宿まで数分のところに来ていた。青い山影の代わりに、列車の窓近くまで迫るビル群が窓外に流れていた。朝の大泉町の気温は22℃で爽やかだったが、新宿はたぶん10℃も上だと覚悟して、列車からホームに降りる。体はムッとした熱気に包まれるが、ワイシャツの内側はまだ列車内の冷気を留めている。これが外気と同じ温度になるまでは「暑い」と感じないはずだ--と自分に言い聞かせる。
 
 しかし、人間の脳は目から入る情報に偏重して機能すると聞いているから、混雑したホームの上を改札口に向かいながら進む中、注目する人や物、風景にしだいに影響されていく--ビルの隙間に見える白い空、窓に反射する光、人々の白いシャツ、眉をひそめて暑がる顔、エスカレーター前の混雑、キャスター付きのカバンの横暴、前を斜めに横切る人、高いヒールの硬質な音、行く手を遮る大きな荷物……ホームから駅の内部に入ると、周囲の気温はやや下がる。自動改札口が近づく。切符を胸ポケットから取り出す。改札口を出ると、すぐ前に拡がる国道20号線へ向かう。ここで再び熱気と光に包まれる。青い空。ひしめくビル。自動車の列。そして、人、人、人……。
 
 炎天下に出て20~30歩進み、「やっぱり本当に暑いな」と感じだしたころ、迎えに来ているタクシーに乗ることができた。荷物を床に置き、座席に深く身を委ね、シートベルトを掛けてふと前を見る。エアコンの設定温度は24℃。ありがたいことに、「暑さ」はつかの体験だった。
 
 羽田空港までの車中、窓外の街並みをゆっくり眺める。「まるでお上りさんみたいだ」--と自分の姿を別人の目で見ているのに気づく。そして、大泉の緑の森との違いに目を奪われるのだ。何十年も住んでいた街だから、懐かしい気持はもちろんある。しかし、「こんなところにいたんだ……」と改めて思う。それは軽蔑の気持ではない。呆れているのでもない。一種の感嘆である。人間は、巨大なコンクリートの積木を並べたような環境でも、柔らかな樹林と青い山々に囲まれた広大な空間でも、平気で生きていける。その適応力に感嘆する気持だ。「平気で」というのは、無関心でという意味ではない。無自覚でという意味でもない。周囲に関心をもち、そこに何があるかを十分自覚しながら、都会と自然という2つの異なる環境にうまく適応するのである。が、もちろん、それぞれの環境の中での“心構え”は違っている。
 「心構え」という言葉は、「心にかけて待ち受けること」とか「心の用意。覚悟」(広辞苑)という意味だ。でも、ここでは「身構える」という言葉の意味を一部拝借したい。
 今私は、羽田から出雲に向かう航空機の中にいる。航空機が飛び立つときには、座席を起こし、シートベルトを締め、手荷物を前方の座席の下に押し込めて身構える。この言葉は、「敵に対して、迎えうつ姿勢を整えてかまえる」(同書)ことを意味するが、人間は心身が結ばれているから、体の姿勢は心の姿勢を準備する。身構えている時は、心が何かを警戒しているのである。航空機が離陸する際は、加速時に背中が座席の背に押しつけられ、やがて体が浮揚する感覚が来るのを、乗客は身構えて待つ。人間が自然から抜け出て、都会へ突入する際も、心が都会に適応するための“身構え”をするのである。そんなことは普段、自分で意識することはないのだろうが今回、私はそれを明確に意識した。心のどこかに、新しい視点をもち始めたのかもしれない。
 
 谷口 雅宣
 

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2014年7月 5日 (土)

憲法軽視で「法の支配」を言うなかれ (2)

 3日付の本欄の内容について、何人かの読者から質問をいただいた。本件は、複雑かつ重要な問題なので、前回の私の文章だけで納得する人は多くないのかもしれない。が、本欄のコメントは、本名での書き込みを原則としているので、読者の中にはご自分の立場を考えて質問を躊躇している人もいるだろう。ということで、本名での質問であることが確認された人の分について、稿を改めて本欄で回答することにした。ただし、ご本人の立場を考えて実名は表記せず、また本人が特定できないように、一部文章を改変してある。
 
 まずは、関東地方の男性幹部会員からの質問である--
「総裁先生、ありがとうございます。
様々な情報が交錯しているこの問題について、明確なご教示を頂きましたことに感謝致します。その上で、2点ほど質問があります」
【質問 1】
 1つめは、今回の「集団的自衛権」を巡る問題でFB上などで比較的若い生長の家の信徒誌友の中で“憲法第9条”を良しとする人が結構いるように見受けられたのですが、この点について、昨今の世界情勢を踏まえ、今一度生長の家としての見解を打ち出す必要があるのではないかと感じました。特に「改憲」ということに関しては、今上陛下が「現憲法を遵守する」と明言された経緯もあります。
 年頭のお言葉や新年一般参賀で、国民と世界の人々の安寧を願われた今上陛下の大御心に、総本山の特別請願が「鎮護国家」から「世界平和」へと変わった今の生長の家の運動はピッタリと寄り添っていると感じており、世界平和と環境問題の解決を目指す現在の運動こそ、真の愛国運動であると思っています。ただそのような中で先生がブログに書かれた、谷口雅春先生が否定された第9条を初めとする、現憲法の肉体民主主義を助長する様々な条文について、今後どう理解すればよいか正直悩んでおります。
【回答 1】
 この問題は結局、「現行の日本国憲法をどう評価するか?」という疑問に帰着すると思います。昔の生長の家の考え方は言わば“完全否定”ですが、私は、さまざまな紆余曲折があったものの戦後60年以上、日本国民によって維持され続けてきたという事実は大きいと思います。また、谷口雅春先生は、「明治憲法復元改正」のところまでは仰いましたが、どう改めるべきかは詳しく述べられませんでした。明治憲法には大きな問題がいくつもあって、その1つが天皇と直結した軍部の独走を許したという点ですから、これをどう改善し、その他の問題点(例えば、国民の権利を制限する諸規定)もどう理解し、どう改正するかについて、生長の家はほとんど何も語らず、また検討もしてきませんでした。にもかかわらず、60年以上きちんと機能し続け、その下に夥しい数の判例が積み上げられ、行政上の諸制度が整えられてきた現行憲法を「成立の手続きが間違っていたからすべて破棄せよ」というのは、法理論としては相当乱暴であり、かつ政治問題としても現実無視と言わねばなりません。ですから、今の時代、「明治憲法復元改正」論の政治的現実性は失われていると考えます。
 
 では、「自主憲法を制定せよ」という声が聞こえて来そうですが、私はそれをやるならやったらいいと考えます。ただし、その場合もきちんとした改正手続きを踏んで行うことが民主主義国家としては当然の義務です。それを省略して“解釈改憲”に走るというのは、もってのほかです。現行の日本国憲法は改正要件が比較的厳しい“硬性憲法”ですから、安倍首相などは「手続きをきちんと踏んで改正するのでは、いつ改正できるか分からない」と考えて、「また、解釈改憲で行こう!」と考えたのだと思いますが、これは自分の価値観を最善とし、数に奢った独裁政治家の感覚であり、看過することはできません。
【質問 2】
 2つめは、今回の「集団的自衛権」を巡る最大の問題は、先生が仰る通り、数を頼りに自民・公明が国民に問わずに閣議決定で押し切ったことですが、今後もこのような問題を是正するには、先生が以前にブログで書かれた「二大政党制を育てるために」のように、民主党が対抗勢力として抑止力を働かせること以外にないと考えます。しかし、政教分離や現在生長の家が政治活動をしていない状況から、かつて私がそうであったように、生長の家の信徒誌友の中でも自民党支持が根強く残り、民主党応援には至ってないように思えます。
 私個人の考えとしては先生がブログで「民主党を支持する」と書かれた以上、教区として応援しなくても、個々の支持政党として生長の家信徒誌友は民主党を応援すべきであると考え、私は現在民主党を応援していますが、それで宜しいのでしょうか?
【回答 2】
 それでいいと考えます。私は本欄の前身である「小閑雑感」欄でも2009年8月31日の「民主党政権の誕生を歓迎する」という文章で、二大政党制への期待を述べました。が、これを読めば、私が手放しで民主党を支持するのではないことが分かるでしょう。あれから、ずいぶん時間がたっています。その後、当時の鳩山首相は外交政策などで失敗を繰り返して交替し、民主党は政策をめぐる内部分裂も表面化して自ら墓穴を掘りました。私は、多くの国民と同様に民主党に幻滅しましたが、それでも「二大政党制を支持する」ことに変わりはありません。理由は、すでに前掲の「民主党政権の誕生を歓迎する」に書いた通りです。宗教運動が、政治家や政党に密着することは弊害が大きすぎます。今回の公明党の動向も、そのことを明確に示しています。宗教と政治が異なる大きな点の1つは、宗教は原理原則を尊重し、その実現を誠実に希求するのに対し、政治は原理原則をいかに調整して(曲げて)、社会の力関係をバランスさせるかを目的の1つとします。私たちがもし宗教の信仰者でありたいと願うならば、特定の政治家や政党を全面的に信頼したり、全面的に支援するなどという「all or nothing」の態度をとるべきではありません。宗教と政治は、社会における役割が基本的に違うと心得て、政治には是々非々の態度で臨むのが賢明です。生長の家は、かつて政治運動をして失敗した経験から、そのことを学んだはずなのです。
 
 ではなぜ、現在にいたっても私たちの仲間で自民党を支持する人がいるのかという問題ですが、その理由の1つは、生長の家の側から「自民党を支持するな」という明確な通達なり、発表がないからでしょう。しかし、私自身は機会あるごとに、自民党が進めてきた戦後の政策の、とりわけ経済発展を至上とする考えと政策、原子力発電をめぐる考え方の間違いを指摘してきました。それらの言説の一部は、『今こそ自然から学ぼう』(2002年)、『足元から平和を』(2005年)、『次世代への決断』(2012年)などの著書になっています。にもかかわらず、自民党支持の信徒が多いのであれば、それらの人々の信仰者としての見識を表しているのでしょう。あるいはまた、民主党の政治家に支持するに値いする人物が少ないということでもあるでしょう。その「支持」の問題ですが、民主主義制度では「経済的対価を求めて支持する」というのが圧倒的な潮流です。しかし、宗教運動は、経済を超えた価値の実現とか、神意の顕現とか、大調和の実現などという目標を掲げて進みます。その目標達成のためには、「対価を求めず」に寄付や寄進をすることに喜びを感じる人も多いのです。しかし、そういうレベルに達していない人も、宗教運動に参加することは多々あることでしょうし、私たちはそれらの人々を排除するのではなく、教導することで目標達成に近づくのが正しい運動姿勢だと思います。
 
 谷口 雅宣

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2014年7月 3日 (木)

憲法軽視で「法の支配」を言うなかれ

 安倍晋三首相は7月1日の閣議で、戦後の歴代内閣が、現憲法下では禁止されていると解釈してきた集団的自衛権の行使を、一定の条件では認められるという解釈の変更をした。これによって今後、法整備が進めば、日本への直接攻撃がなくても、他国への攻撃によって自衛隊が武力を行使する道が開けることとなる。当然のことながら、自衛隊が武力行使をすれば、行使された相手は日本を攻撃する法的理由をもつこととなる。だから、他国の始めた戦争に日本が参加する可能性が従来よりも高くなる。安倍首相はこのことを「抑止力が強まる」と表現しているが、同じことを別の表現で言っているだけだ。ある種の国は、武力を使うための足枷が多くある国に対しては、チョッカイを出しやすいが、すぐにでも武力を使う用意のある国には、チョッカイを出しにくいということだ。日本は自衛隊発足後60年の今日まで前者の国だったが、これからは後者の方向へ動き出すことになる。
 
 「生長の家としてはどう考えるか?」と質問されそうだが、答えはそう簡単でない。理由は、この問題には、①生長の家の運動における歴史的経緯、②政治レベルの解釈、③宗教としての解釈、など複雑な要素がからんでいるからだ。歴史的には、谷口雅春先生の時代には、「大日本帝国憲法復元改正論」を明確に唱えていた。これをごく簡単に言えば、「現憲法は占領下に強制的に押しつけられたものだから、本来無効であり、日本の首相は速やかに無効を宣言して旧憲法を復元し、その改正によって自主憲法を制定すべし」というものだ。軍隊をどうするかという点では、「現憲法第9条は自衛権も否定しているから破棄すべきものだ」と考えられていた。ところが歴代の日本の(自民党の)首相は、「憲法第9条は自衛権を否定していない」という解釈を打ち立て、それを維持してきたので、雅春先生とは意見が異なっていた。雅春先生が現憲法に反対された理由は、第9条に問題があると考えられたからだけではない。前文を含んだ日本国憲法の精神そのものが、日本の伝統を否定し、肉体民主主義を謳歌するものだと考えられたからである。この問題に関する当時の先生のご著書の題名を見るだけで、先生の現憲法否定のお考えが伝わってくるだろう--『占領憲法下の日本』(1969年)、『続 占領憲法下の日本』(1970年)、『占領憲法下の政治批判』(1971年)、『諸悪の因 現憲法』(1972年)。生長の家が政治運動を熱心にしたのは、こういう「現体制批判」の考えからだった。
 
 そういう過去の歴史的立場から見れば、今回の安倍首相の行動は、拡大解釈によって憲法第9条を実質的に骨抜きにしようとの意図が明らかだから、自衛隊の機能拡大を除いては、戦後日本の民主主義体制そのものを維持する「現体制温存」を選択したのである。「現体制を形骸化し、実質的に無視してしまえば、それでいい」と考える人がいるかもしれないが、私はそう思わない。無視するものがヤクザの規則や、町内会の取り決めであれば、さほどの弊害はないかもしれないが、国家の基本を定める憲法の、しかも万が一の時の国の防衛をどうするかという重要な決断を「定められた通りにしない」という前例を作るのである。それを、一国の首相が国民の面前で堂々と実行するのが“日本を取りもどす”方法だというのである。法学部出身の私としては、こんな乱暴な法律無視がまかり通るなら、法治国家としての日本の将来は大変暗いと考える。
 
 次に、政治レベルの問題を語ろう。ただし、これは多岐にわたることなので、この場ではごく一部--国際政治に関することだけを取り上げる。それは、「解釈変更がなぜ今か?」という問題とも関連する。私は、安倍首相の今回の動きは、個人的信念にもよるだろうが、アメリカの外交政策と密接に関係していると感じる。読者もご存じのように、9・11後のアメリカは、アフガニスタンやイラクへの派兵で疲弊し、中東とヨーロッパから軍隊を引き揚げつつ、アジアに軸足を移す決断をした。従来のアメリカは、世界で2つの地域戦争を戦えるような軍事力を維持することを国の方針としていたが、それではあまりにもコストがかかることを知り、最近、地域戦争の実行力は1つにしぼり、あとは兵器の近代化と、ハイテク装備の軍隊を迅速に展開する方法を採用するなど基本的な戦略転換をした。また、9・11の経験から、今後の自国への脅威は、国家としての敵よりもテロ組織になると判断しているようだ。そんな中で、アジアへ軸足を移す理由は何か。それは、きっと北朝鮮と中国があるからだ。特に、北朝鮮は、現に核兵器を開発してアメリカ西海岸を狙うと明確に脅している。中国は、アメリカに次ぐ経済大国であり、かつ核保有国であり、近年は貿易や資本関係でアメリカ経済と密接につながっている。
 
 ところが、日本周辺の東アジアを眺めてみると、日韓、日中の関係が思わしくない。日韓両国は、アメリカにとって同盟国である。双方の関係が良好であれば、北朝鮮と中国に対する“緩衝地帯”として効果的だ。しかし、そうでない現在、朝鮮半島有事の際には問題が起こり得る。また、日中関係は“最悪”といっていい状態だ。特に危険なのは、尖閣諸島をめぐって、両国が武力をもって対峙するようになっている点だ。アメリカは日米安保条約によって日本防衛の義務を負っているから、「尖閣諸島も防衛義務の範囲内である」と宣言して、中国の冒険主義を抑えている状態だが、これだけで危険が去るとは思えない。日米、日中、米中の間で何かの誤解や計算違いがあると、本当に武力紛争が起こりかねない状態なのだ。そこで、アメリカとしては、日韓の関係を改善させて対北朝鮮の“重石”とし、日中間の武力衝突を防ぐために、日中融和を進める一方で、日米間の外交と軍事関係の一体化を図りたいのだろう。「一体化」という表現は何か無害に聞こえるが、別の言葉を使えば、日本を(中国に対して)アメリカ側に引きつけておく一方、経済、軍事面で従来のアメリカの役割の一部を「肩代わり」してもらいたいのだろう。
 
 安倍首相は、いわゆる自民党の“保守派”だから、現行憲法を改正し、自衛隊を軍隊として増強することが“日本を取りもどす”ことだと夢見ているに違いない。しかし現在は、政権の一部を公明党が担っているから、公明党の反対を押し切ってそれをすることは不可能である。ということで今回、同党とのギリギリの交渉の結果、いろいろの条件付きではあるが、憲法を改正しないままで集団的自衛権の行使容認を取り付けた。これにより、公明党は“平和政党”としてのイメージを大きく損なうことになったが、政権の一画に留まることになったのである。原理原則で譲ってしまえば、「自民党の補完役」と言われても仕方がないだろう。
 
 それで私がきわめて残念に思うのは、これだけ重大な政策変更をするに際して、安倍政権は国民の意思を問うことをしなかった点である。もっと具体的に言えば、すでに書いたように、一内閣の解釈変更によって、憲法という国家の最高法規に明記された事項を軽視する選択を行ったことである。それでいて、7月1日の閣議決定には、次のような文章を入れている--
 
「我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、政府としての責務を果たすためには、まず、十分な体制をもって力強い外交を推進することにより、安定しかつ見通しがつきやすい国際環境を創出し、脅威の出現を未然に防ぐとともに、国際法にのっとって行動し、法の支配を重視することにより、紛争の平和的な解決を図らなければならない。」
 
 自国の基本法である憲法の規定を軽視しておきながら、国際法にのっとって行動することが、どうして法の支配を重視することになるのか? この重大な矛盾とゴマカシは、きっと将来に禍根を残すことになるだろう。力に任せたこういう強引なやり方を、2日の『朝日新聞』は「解釈改憲」という言葉で批判しているが、私もそれが実態だと思う。
 
 谷口 雅宣

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