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2014年6月

2014年6月24日 (火)

昆虫を食べる

 6月22日に長野県で行われた生長の家講習会の午後の講話で、私は「昆虫を食べる」という試みについて少し触れた。私が住む山梨県北杜市は長野県に接しているから、買い物などで長野県へ行くことも少なくない。そんな機会を利用して、長野産のイナゴを買って食べてみたことがある。「ゲテモノ趣味」とか「何を物好きな!」と言われるかもしれないが、私のこの試みは単なる物好きが理由ではない。先日の講習会での講話を聴いてくださった読者には、その理由を理解していただけただろう。が、この日に講習会に来られなかった人も多いので、この場を借りて説明したい。
 
Chirps3k  私が講習会で話題にしたのは、実は私自身のことではない。それは今、アメリカで開発されている“昆虫クラッカー”(=写真)のことだった。5月24日付のイギリスの科学誌『New Scientist』がそれを取り上げて、「Big bug harvest:Taste test at America's first insect farm」という特集記事を載せていたのを紹介した。訳せば、「昆虫の大収穫--アメリカ初の昆虫農場で味を試す」とでもなるだろうか。昆虫を人間の食料とすることを考えているのは、ボストンにあるシックス・フーズ(Six Foods)という会社で、「チャープス」(虫の鳴き声の擬音)という名前でコオロギ・チップを売り出そうとしている。そう、イナゴではなくコオロギを使うのである。記事にはクラッカーの写真が添えられていて、メキシコ料理店で出てくる「ナチョス」によく似た三角形のクラッカーが写っているが、色はチョコレート色だ。
 
 彼らはどうしてそんなことを考えるか……読者の多くは、「飼料効率」の話をすでにご存じだろう。これまで私は講習会などで何回もその話をしてきたし、『足元から平和を』(2005年刊)という本にも書いたし、今年の全国幹部研鑽会でも取り上げられたからだ。簡単に言うと、穀物が動物の肉になる効率のことだ。現代の食肉生産では、家畜や家禽を育てるのに穀物飼料を多用する。また、魚類の養殖にも穀物飼料が使われる。理由は、早く肉を得るためである。ところが、与えた穀物が肉になる効率は動物の種類によって大きく違う。ウシの体重を1キロ増やすのに必要な穀物は7キロ、ブタの体重を1キロ増やすのに要する穀物は4キロ、ニワトリの場合は2キロ、養殖魚は1.8キロ……などと言われている。これらの数字は厳密なものではなく、本によって必ずしも一定ではない。私が挙げた数字はその中でも“保守的”な見積りで、「ウシは10キロ」などという人もいる。が、とにかく、人が穀物をそのまま食べるのに比べ、穀物を動物に食わせてその肉を食する方法は、地球資源の大きなムダ遣いであるということを知っていただきたい。
 
 これに対し、動物性蛋白質は人間の生存にとって必須だから、動物の肉を食べないわけにはいかない--という見解がよく聞かれる。また、子供をもつ親の中には、成長期の人間の体を健康に保ち、勉強や運動に秀でる子とするためには動物の肉が必要だ--と考える人も多い。つまり、「環境を取るか自分を取るか……」というジレンマがあるというのである。これを解決しようという方策の1つが、「昆虫を食べる」という選択肢なのだ。昆虫は獣(けもの)ではないが、立派な動物である。しかも、体内には動物性蛋白質だけでなく、カルシウムもビタミンも豊富に含む。さらに言えることは、昆虫は、種の数では生物界では最大である。ということは、その中には人間の好みに合った味や食感をしているものもあるかもしれない……ということだ。そうして研究を進めた結果、コオロギに白羽の矢が立ったというわけだろう。
 
 しかし、そもそもなぜ昆虫か? と思う人には、飼料効率がすこぶるいいと答えればいいだろう。また、水を効率よく吸収して成長するのも昆虫の特徴だ。それに比べ、ウシやブタは生育過程で相当な量の水がいるし、殺した後の処理にも大量の水を使う。シックス・フーズ社のサイトによると、コオロギの飼料効率はウシの12分の1、温室効果ガスの排出量はウシの100分の1、1ポンドの肉を作るのに必要な水の量はウシの2000分の1だという。この“昆虫クラッカー”は、コオロギだけから作るのではなく、豆と米をベースにし、コオロギの粉末を混ぜるらしい。普通のポテトチップに比べて、脂肪は半分、蛋白質は3倍、そしてグルテンなしと表記されている。
 
 「虫を食べるなんてキモチワルイ」という感想は、もちろんよく分かる。私だってイナゴを食べるのには最初、勇気がいった。が、人間は馴れてしまえば、かなりの種類のもの、またかなりグロテスクのものでも喜んで食べる、というのも事実である。前掲の『New Scientist』の記事は、アメリカの文化・伝統では考えられなかった刺身や寿司が、今や大人気になっているのだから、“昆虫食”もその可能性がないわけではないと、半ば期待を込めて書いている。ちなみに、エビやカニ、シャコなどは、昆虫と同じ「節足動物」に属する。多くの読者は、彼らを「キモチワルイ」とは思わないに違いない。しかし、よく眺めてみると結構、グロテスクである。でも、エビなどは、私たちは大量に養殖してでもほしいと思う。 
 
 私は本欄で、読者に“昆虫食”を勧めるつもりはない。が、ぜひ知っていただきたいのは、世の中には、今後の地球の環境悪化と人類の食糧問題について、これほど真面目に、また創造的に考えている人がいるということだ。「肉食を減らす」などという初歩的なことに躊躇している場合ではない。
 なお、興味ある人は、以下の宣伝ビデオをご覧あれ!
 
 谷口 雅宣

At Six Foods, we believe six legs are better than four, and we are introducing our first insect-based food - Chirps Chips! (本社の名前「シックス・フーズ」は、6本足は4本足より優れていると信じているのでつけました。 私たちが開発した初めての昆虫ベースの食品です。)

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2014年6月17日 (火)

万教帰一は“内なる神”への信仰から

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山の谷口家奥津城前で「谷口雅春大聖師二十九年祭」が執り行われ、地元の長崎県や福岡県から約230人の幹部・信徒が参集し、谷口雅春先生のご教恩に心から感謝申し上げると共に、ご生前の先生のご業績を讃え、人類光明化と国際平和信仰運動の一層の推進を誓った。私は御祭の最後に概略、以下のような言葉を述べた:
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 皆さん、本日は谷口雅春大聖師二十九年祭に大勢ご参列いただき、誠にありがとうございます。
 
 今日のこの日が雅春大聖師の「二十九年祭」であるということは、雅春先生は29年前に、私たちが生きているこの世界を離れて、高き霊界へと昇られたということです。約30年前のことです。「人生60年」と言っていた時代もありましたから、その半分である30年も前の時代というのは、私たちにとってずいぶん昔のように感じられます。しかし、「人類の歴史」という観点から見ると、30年は一瞬であります。時代は変化しているようであっても、人間の心はさほど変わっていないという側面が確かにあります。
 
 昨年のこの日には、私は、雅春先生が60歳に近づいてから、フランス語の勉強を始められた形跡があるという話をしました。先生は若い頃から英語に堪能で、37歳の立教当時には外資系の会社で翻訳の仕事をされていたことは、皆さんの多くはすでにご存じと思います。その立教から19年もたった時、英語に加えてフランス語も学ぼうとされたということは、先生がいかに海外の、特にヨーロッパ系の文化や伝統に興味をもたれ、親しみを感じておられたかを示します。ときどき雅春先生のことを、日本文化一辺倒の国粋主義者のごとく言う人がいますが、先生はそれほど単純で、狭量な人間ではありませんでした。東西双方の文化の共通点をよくご存じであり、その双方を愛された方でした。今日はそのことを皆さんにも思い出していただきたいと思い、ここに先生の古い御著書を持参しました。
 
 この本は、昭和24年に日本教文社から出版された『メンタル・サイエンスの神癒理論』という本です。昭和24年とは、私が生まれる2年前です。昨年の年祭のときにもお話ししましたが、この時期は、日本が戦争に敗れ、まだ占領軍による統治が行われているときで、生長の家の国際運動の“草創期”といっていい時期です。生長の家が、キリスト教の流れをくむアメリカの「ニューソート」という宗教運動と関係をもち、双方の牧師や講師が互いの国を訪問し合い、講演会を行ったりしました。また、雅春先生や清超先生が、ニューソートの人々の著書を多く翻訳された時期でもあります。ちなみにこの本は、雅春先生と清超先生の共著であるという点でも、珍しい本です。
 
 この『メンタル・サイエンスの神癒理論』には、メンタル・サイエンスの創始者であるハーヴィー・ハードマン博士の神癒に関する理論が詳しく紹介されています。また、この本は仏教とキリスト教の教えの共通点も説いていて、万教帰一の真理も展開しています。その内容は、21世紀の今日、私たちが読んでも少しも古くなっていないどころか、時代を超えた不変の真理を説くものとして、新鮮さを感じるほどです。そこで今日は、この本のごく一部ではありますが、今日的なな重要性をもつところを取り上げ、紹介したいと考えるのです。
 
 私は先に、「大自然讃歌」という自由詩を書き、それが今、生長の家講習会のテキストにもなっていますが、この中に、人間の「内部理想」のことが出てきます。人間は欲望だけで動くのではなく、心の内奥には神が宿っていて、その声を大切にし、その声の命令にしたがって生活することを勧めています。この内部理想のことを、ニューソートの教えでは「内なる神」とか「内部の神」と表現していますが、それについて触れたご文章を引用します。少し長いですが、この文章には、生長の家とメンタルサイエンスの神観が同じであると明記されているだけでなく、ハードマン博士と雅春先生の交流の一端も出てきて、興味あります--
 
「吾々の外に、宇宙に充ち満ちています神は、呼べば応える式には人格的ではない。それは絶対的な法則として、不変であり、何等の容赦もない。火の燃ゆる中に身を投ずれば如何なる人をも焼き殺すところの神である。しかし吾が“内に宿り給う”ところの神は、吾らが過って火に身を投ぜんとするときに、火に投ぜしめざるように、“内から導き”または、“内から囁く”ところの摂理の神である。或いはやがて転覆するはずの汽車に、却って乗りおくれしむるところの神である。何となくそこへ行きたくなかったので、おくれて行って助かったなどという経験は、神を信ずる者にはよくあることである。これは“内から囁く神”の賜である--ハードマン博士は、この内なる神の声に耳を傾け、内なる神に喚びかけ求むる新しきキリスト教をつくったのです。 
 
 これまでの普通のキリスト教では三種の神を立てています。天の父と、聖霊と、神の子イエスが即ちそれです。中には聖母マリヤを礼拝する宗派もあります。しかしこれらの教派は、どちらかと云うと、神を、聖霊を、イエスを、聖母マリヤを、自分と対立的に置いて、それを外的存在として、礼拝し、祈るのです。キリスト教に限らず、仏教でも、即身成仏の真言宗または見性成仏の禅宗等聖道門以外の宗教は概ね外に神または仏をおいて拝むのです。“これが即ち、既成宗教の大なる幻覚だ”と、ハードマン博士は云っています。“吾々は、“見えざる協力者”なる内なる神を知る前に、先ずかかる幻覚から脱する必要があるのである。吾々が内なる神に背を向け、外に神を求めている限りに於いて、魂の内部に住んでいるところの神を強く否定することになるのである。そして確固不動の法則は働きて、吾々自身が内在の神を否定すれば、神もまた吾々を否定し給うのである。何故なら、個(individual)の魂の内部にこそ、いと高き者の聖所があり、見えざる神の聖壇とその神殿があるのである。」(pp. 13-14)
 
 このように「内なる神」を強調するところは、生長の家ととても似ています。さらに続く文章では、この「内なる神」に対しては、どんな名前をつけようと、それは別の神のことを意味しないという考え方が出てきます。これは実に革新的で、万教帰一の教えと同じであると言えるのであります--
 
「まことにハードマン博士が到達したところの“内部の神”の自覚こそ、仏教の自性清浄心の自覚であり、生長の家が再発見したる“内部の神の奇蹟”の流れいづる源泉であるのであります。ハードマン博士が私の『生命の實相』の英訳をお読みになって、同一真理を洋の東西に於いて発見せりとて、私の誕生日に讃頌の詩を送って来られたのも所以(ゆえ)あるかなと云い得るのであります。博士はまた云われています。“貴下が親しく、外に神がましまして吾等の求めをきき給うと云う大なる幻覚から一転して、貴下の内に神やどりて、その神が現実的人格であり、個性化せる霊的実在であると云う考えを採用せられたりとせよ。又イエスが“内部の神”に対して名を与えたる如くそれに名称を与えよ。必ずしもイエスが与えた通りの名称“吾に宿る父”と云う名でなければならないと云うことはないのである。力と生命と智慧とを有する視えざる内部の協力者と云う意味で貴下の心にピッタリするどんな名称を与えてもよいのである」。(p.14) 
 
 そして、このあとに次のように続きます--
 
「だから吾々はこれに対して、阿弥陀仏と呼び、或いは不動明王と称し、或いは観音菩薩と称し、住吉大神と称しても差し支えはないのです。神は本来“無名”であって、その神名は吾々が、象徴的に名づけるに過ぎないのであるからです。だからハードマン博士のメンタル・サイエンスは万教帰一的であって、決して排他宗教的ではない。先ずその神の内容をみとめよ。しかしてその神が“内部の視えざる協力者”として自己の内部に宿ることを認めよ、名称は“実相”と呼ぼうが、何と呼ぼうが差支えないと云う点は全く生長の家と同じなのであります。」(p.15) 
 
 ハードマン博士はアメリカ人でありますが、その後に出たイギリス人の神学者にジョン・ヒックという人がいますが、この人もキリスト教から出発して、世界の主要な宗教を詳しく研究し、それぞれの宗教の究極の礼拝の対象は同一であることを発見しました。そして『神は多くの名をもつ』(God Has Many Names)という著書などを書いています。このように欧米の文化の中から「万教帰一」の考え方にたどりついた人は少なくない。そういう点を前面に出して、戦後まもなく生長の家の国際運動は始まったということを、皆さんはぜひ覚えておいてください。谷口雅春先生は、そういう広い視点から先頭に立って運動を進められた方ですから、グローバル化が進む21世紀の社会で、日本優先、日本優越のナショナリズムなどに惑わされずに、世界的視野で人類光明化運動を進めていきたいと考えるのです。 
 
 谷口雅春先生の二十九年祭にあたって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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2014年6月15日 (日)

自由と不自由 (5)

 前回の本欄で、私は「自由は不自由から生まれる」という考えが理解できれば、「私たちはいつ、どんな時でも、“自由への道”を歩んでいると言える」と書き、さらに「それがたとい、人から強制された不自由であっても、“強制された”という考え方を変えてしまえば、不自由はそのまま自由になる」と付け加えた。読者は納得されただろうか? やや疑問が残るので、さらに説明しよう。
 
 前回の最後に引用した谷口雅春先生のご文章にもあったが、運動選手は自分の目標達成のために、苦痛をともなう過酷な環境に自らを置く。言い直せば、彼(彼女)は、目標達成の自由を実現するために、自らをわざわざ不自由の中に置くということだ。これは、運動選手の自由意思による選択だから、一般には、この選手は「かわいそう」だとか「助けてあげたい」などという同情を招くことはない。むしろ、その努力の真剣さに感心して、「偉いなぁ」「自分も見ならうべきだなぁ」などという尊敬の念を抱く人も多いだろう。今、仮にこの状況を「A」と名づけよう。現在行われているサッカーのワールドカップの試合などでは、この「状況A」が前提となっている。出場選手は皆、この試合のために何年もの間、禁欲的な生活に励み、一般人には耐えられないような厳しい(不自由な)訓練をへて、世界の大舞台に立っているのである--と我々は考えている。
 
 ところが、その選手たちの一人が、実は自分の意思によらずに、所属する会社やコーチの意思によって無理矢理に練習させられていたとしたならば、どうだろう。これを今、「状況B」と呼ぼう。ここでは、自由と不自由の関係はたちまち逆転し、この選手は不自由きわまりない状況の中で生きてきた犠牲者として、人々の同情を招くことになる。この極端な違いは、なぜ起こるのだろう?
 
 状況Aと状況Bの違いは、選手本人の“心の持ち方”だけである。選手が自分の意思で苦痛を伴う訓練を選択したのであれば、彼(彼女)は尊敬される自由人だ。ところが、そうでなく、他者もしくは外からの強制によって苦痛を伴う訓練を受けているのであれば、彼(彼女)は奴隷同然である。そして重要なのは、この極端な違いの原因となる「本人の意思の有無」は、外からは--つまり、他人からは分からないということだ。もちろん、彼(彼女)の言動を見て、心中を推定することは可能だ。が、人間は、自分の本心を隠すことが得意である。また、自分の本心というものは、本人にも分からないことが少なくない。特に、若い時代は、自分の“本心”で選んだはずのクラブ活動が、専攻学科が、恋人が、職業が……やがて“本心”でないことが判明したというケースが、誰にでもあるはずだ。
 
 論理の展開がずいぶん難解になってきた、と読者はお考えか? この難問を解くためには、生長の家で説く「唯心所現」の教えを導入すればいい。つまり、「環境も運命も心の影である」ということだ。それを念頭に置いて、次の雅春先生のご文章を読んでみよう--
 
「“自由”を、何か自分を縛る物を破壊することだ、と考える人があるが、本当の自由は、そのような対立観念、相対的な物の考え方では得られるものではないのである。本当の自由は“絶対者”となることによってのみ得られる。自分が神の自己顕現であり、“絶対者”の自己実現であるとの悟りによってのみ得られるのである」。(『新版 生活の智慧365章』、p.117)
 
 ここで先生は、自分が不自由な環境にあると考えて、その環境を打破して自由を得たいと願っている人に語っている--
「あなたが不自由だと考えているその環境とは、いったい誰がつくったものか?」
「あなたを縛っている不自由な環境は、あなた自身の“心の影”ではないのか?」
「そうであれば、不自由な環境は、“敵”として打破するような対立物ではなく、
 あなたの心の作品だから、あなたの心次第で自由に変えられるはずではないか?」
 
 では、どうやって変えるのか? これについても、雅春先生は明確な回答を与えてくださっている--
 
「それ故に本当の自由は、神想観によってのみ得られる。何故なら吾々は神想観によって自己が神の一体であり、絶対者と一体であり、環境とか外物とか見えるものも“他物”ではなく自己の心の顕現であると悟ることができるからである。それだから神想観は真に最高の尊き神人合一の行事であると共に、何人(なんぴと)も“本当の自由”を求むる限り修しなければならない修行であって、生ま易しいものではないのである」。(同書、pp.117-118)
 谷口 雅宣

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2014年6月 8日 (日)

自由と不自由 (4)

 私は本シリーズの第2回で、「主観的自由は、私たちの心しだいで感じることができるのだから、それを享受しながら、希望をもって積極的に人生を歩むことができる」と書いた。今回は、その方法について書こう。つまり、このような積極的な人生の歩み方は、どうすれば実現するかという問題である。そのためにまず確認したいことは、「不自由の中から自由が生まれる」ということである。この話は、本シリーズの1~2回ですでに述べた。復習すると、自由とは単なる可能性ではなく、実際に何かをする自由である。しかし、「○○をする自由」を実現するためには、「○○以外のこと」はできないという不自由を同時に認めなければならない。そして「○○」と「○○以外のこと」とでは、量的には後者の方が圧倒的に多い。つまり、「○○をする」自由は、それ以外の数多くのことができないという圧倒的な不自由と同時にある。だから私は、先に「不自由の中から自由が生まれる」と書いたのである。これを簡単に言えば、コーヒーを飲んでいるときは、トマトジュースも牛乳もビールもウイスキーも同時には飲めないということだ。
 
 さて、そういう前提のもとに、次の文章を読んでほしい--
 
「人の世に生きていくということは、苦しいことも、うれしいこともいろいろあるものだ。その苦しいことに耐えなければ、何ごとも成し遂げられない。」
 
 この一文は今日、長岡市で行われた生長の家講習会の帰途、同市内にある「河井継之助記念館」に立ち寄ったとき、受付でもらったパンフレットに印刷されていた言葉だ。これを河井継之助自身が言ったかどうかは、明らかでない。が、その内容は至極もっともだと思う。読者もきっと同感だろう。そこで質問したい--この文は人生の不自由さを描いているのか、それとも自由さを表現しているのだろうか? この答えはたぶん、文章のどこに注目するかで変わってくる。「苦しいことに耐える」という部分に注目する人は、「面倒くさいなぁ~」と感じて不自由さを述べていると解釈するだろう。しかし、「何ごとも成し遂げ」という部分に注目すれば、「努力さえすれば何ごとも成し遂げられる」というメッセージを読み取ることができるので、人生は自由だと感じるだろう。読者はいずれの解釈を選ぶだろうか?
 
 私としては、後者の解釈をお勧めする。それが、主観的自由を自ら創り出す積極的な生き方につながるからだ。このことをもっと具体的に、私の最近の体験からお話ししよう。
 
 今日の新潟越南教区での講習会後に行われた幹部懇談会で、白鳩会の副会長さんの一人が私の健康を心配してくださった。というのは、北杜市に移住して以降、私が通勤のためにマウンテンバイクに乗っているということを、本欄やフェイスブックを通して知ったからだ。それを読まれ、ご自分が自転車で通勤されている経験から、「マウンテンバイクは体を鍛えている人にはよくても、そうでない場合は、上半身にも負担がかかるので大変です」と親切に助言して下さった。そして、電動アシスト付の“ママチャリ”を推薦してくださった。私は彼女のご好意に心から感謝したあと、「ご心配なく」と付け足した。が、この助言を今日ではなく、北杜市に移住したばかりの昨年10月ごろに聞いていたならば、私の決意は揺らいだかもしれない。なぜなら、その頃は本当に自転車通勤は「大変だぁ」と感じていたからである。
 
 私の自宅から“森の中のオフィス”までは3キロ強ある。平地の舗装道路を自転車で3キロ走ることは何の問題もないどころか、快適であるに違いない。しかし、自宅とオフィスの標高差は100メートルほどあり、オフィスの方が標高が高い。加えて、自宅から数百メートルの道は舗装のないラフロードだから、一度坂を下りてから再び坂を上る。だから、オフィスにいたる最後の上り坂は、かなり厳しいのである。昨年秋の段階では、私は最後の上り坂を完走できず、自転車から降り、車体を押して歩いた。しかし、これにめげずに自転車通勤を続けていると、歩く距離はしだいに短くなり、やがてノンストップ通勤が実現した。この時の喜びは、筆舌に尽くしがたい。60歳を過ぎたら肉体の能力は衰えるばかりかと思っていたが、決してそうでないことを発見し、「自分は本当に無限力か!」と一瞬思ったほどだ。もちろん、この考え方は実相と現象を混同していて間違っている。が、実感としては両者を混同しそうなほど、感激したのである。
 
Makibapark_052414  オフィスへのノンストップ・ヒルクライムが実現した後は、さらにそれより高地にある県立「まきば公園」を目指すようになった。標高差はさらに100メートルほどあるが、これはさほどの苦労や苦痛をともなわずに実現した。坂の傾斜が、オフィス前の坂道より緩やかだからだ。「まきば公園」(=写真)はその名の通り牧場を擁していて、ウシやヒツジ、ウマなどが放牧された見晴らしのよい広大な土地である。晴れた日に、苦しみもがいたすえにそこへ到達した時の達成感と爽快感は、味わったものでなければ分からない。だから私は、河井継之助記念館のパンフレットにあった「苦しいことに耐えなければ、何ごとも成し遂げられない」という言葉を、「苦しいことに耐えれば、何ごとも成し遂げられる」と読み替えて、密かに喜んでいるのである。 
 で、このことと「自由」の問題はどう関係するのか、と考えてほしい。私がまきば公園で感じる達成感と爽快感は、努力のすえ獲得した自由の感覚だと思う。これまで不可能だったことが、可能になったのだ。しかし、そのためには、通勤に自動車を使わないことはもちろん、自転車でも中途降車をせず、歩かずに、ただひたすらにサドルの上で苦しみもがくという「不自由」きわまりない困難を通過しなければならなかった。このようにして、自由は不自由から生まれるのである。この考えが理解できれば、私たちはいつ、どんな時でも、“自由への道”を歩んでいると言えるのである。それがたとい、人から強制された不自由であっても、「強制された」という考え方を変えてしまえば、不自由はそのまま自由になる。
 
 このことを谷口雅春先生は、『新版 生活の智慧365章』の中で次のように説いておられる--
 
「人間の自由は、彼が環境や境遇の奴隷でなくなったときにのみ得られるのである。環境がどうだから出来ないとか、こんな境遇ではとても思うようにならないとかいうのでは、環境や境遇の奴隷であって、自由の主体である“神の子”の自覚を得たものということができないのである。もっと神想観して絶対者との一体感を深めなさい。すべての環境・境遇は、その人が或る能力を発現さすための運動用具のようなものである。木馬や鉄棒や平均台や吊環などはいずれも、運動の選手がそ能力を発現さすために是非なくてはならない環境又は境遇であるのである。運動の選手はみずからそのような環境・境遇の条件をもとめて、それを克服し、自由に肉体の運動美を発揮するための用具とするのである。このとき運動選手は主人公であり、自由の主体である」。(p. 119)
 
 実に味わい深いご文章ではないだろか。
 
 谷口 雅宣
 

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