自由と不自由 (5)
前回の本欄で、私は「自由は不自由から生まれる」という考えが理解できれば、「私たちはいつ、どんな時でも、“自由への道”を歩んでいると言える」と書き、さらに「それがたとい、人から強制された不自由であっても、“強制された”という考え方を変えてしまえば、不自由はそのまま自由になる」と付け加えた。読者は納得されただろうか? やや疑問が残るので、さらに説明しよう。
前回の最後に引用した谷口雅春先生のご文章にもあったが、運動選手は自分の目標達成のために、苦痛をともなう過酷な環境に自らを置く。言い直せば、彼(彼女)は、目標達成の自由を実現するために、自らをわざわざ不自由の中に置くということだ。これは、運動選手の自由意思による選択だから、一般には、この選手は「かわいそう」だとか「助けてあげたい」などという同情を招くことはない。むしろ、その努力の真剣さに感心して、「偉いなぁ」「自分も見ならうべきだなぁ」などという尊敬の念を抱く人も多いだろう。今、仮にこの状況を「A」と名づけよう。現在行われているサッカーのワールドカップの試合などでは、この「状況A」が前提となっている。出場選手は皆、この試合のために何年もの間、禁欲的な生活に励み、一般人には耐えられないような厳しい(不自由な)訓練をへて、世界の大舞台に立っているのである--と我々は考えている。
ところが、その選手たちの一人が、実は自分の意思によらずに、所属する会社やコーチの意思によって無理矢理に練習させられていたとしたならば、どうだろう。これを今、「状況B」と呼ぼう。ここでは、自由と不自由の関係はたちまち逆転し、この選手は不自由きわまりない状況の中で生きてきた犠牲者として、人々の同情を招くことになる。この極端な違いは、なぜ起こるのだろう?
状況Aと状況Bの違いは、選手本人の“心の持ち方”だけである。選手が自分の意思で苦痛を伴う訓練を選択したのであれば、彼(彼女)は尊敬される自由人だ。ところが、そうでなく、他者もしくは外からの強制によって苦痛を伴う訓練を受けているのであれば、彼(彼女)は奴隷同然である。そして重要なのは、この極端な違いの原因となる「本人の意思の有無」は、外からは--つまり、他人からは分からないということだ。もちろん、彼(彼女)の言動を見て、心中を推定することは可能だ。が、人間は、自分の本心を隠すことが得意である。また、自分の本心というものは、本人にも分からないことが少なくない。特に、若い時代は、自分の“本心”で選んだはずのクラブ活動が、専攻学科が、恋人が、職業が……やがて“本心”でないことが判明したというケースが、誰にでもあるはずだ。
論理の展開がずいぶん難解になってきた、と読者はお考えか? この難問を解くためには、生長の家で説く「唯心所現」の教えを導入すればいい。つまり、「環境も運命も心の影である」ということだ。それを念頭に置いて、次の雅春先生のご文章を読んでみよう--
「“自由”を、何か自分を縛る物を破壊することだ、と考える人があるが、本当の自由は、そのような対立観念、相対的な物の考え方では得られるものではないのである。本当の自由は“絶対者”となることによってのみ得られる。自分が神の自己顕現であり、“絶対者”の自己実現であるとの悟りによってのみ得られるのである」。(『新版 生活の智慧365章』、p.117)
ここで先生は、自分が不自由な環境にあると考えて、その環境を打破して自由を得たいと願っている人に語っている--
「あなたが不自由だと考えているその環境とは、いったい誰がつくったものか?」
「あなたを縛っている不自由な環境は、あなた自身の“心の影”ではないのか?」
「そうであれば、不自由な環境は、“敵”として打破するような対立物ではなく、
あなたの心の作品だから、あなたの心次第で自由に変えられるはずではないか?」
では、どうやって変えるのか? これについても、雅春先生は明確な回答を与えてくださっている--
「それ故に本当の自由は、神想観によってのみ得られる。何故なら吾々は神想観によって自己が神の一体であり、絶対者と一体であり、環境とか外物とか見えるものも“他物”ではなく自己の心の顕現であると悟ることができるからである。それだから神想観は真に最高の尊き神人合一の行事であると共に、何人(なんぴと)も“本当の自由”を求むる限り修しなければならない修行であって、生ま易しいものではないのである」。(同書、pp.117-118)
谷口 雅宣
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コメント
総裁先生 合掌ありがとうございます。
これから 谷口雅春大聖師29年祭に行かせていただきます。日記にいくら感謝してもしきれません。ありがとうございます。ありがとうございます。と いっぱい書かせていただきました。ありがとうございます。
明るく たのしく、御教えを生きさせていただきます。ありがとうございます。
再合掌
投稿: 山本 順子 | 2014年6月17日 (火) 08時18分