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2014年6月 8日 (日)

自由と不自由 (4)

 私は本シリーズの第2回で、「主観的自由は、私たちの心しだいで感じることができるのだから、それを享受しながら、希望をもって積極的に人生を歩むことができる」と書いた。今回は、その方法について書こう。つまり、このような積極的な人生の歩み方は、どうすれば実現するかという問題である。そのためにまず確認したいことは、「不自由の中から自由が生まれる」ということである。この話は、本シリーズの1~2回ですでに述べた。復習すると、自由とは単なる可能性ではなく、実際に何かをする自由である。しかし、「○○をする自由」を実現するためには、「○○以外のこと」はできないという不自由を同時に認めなければならない。そして「○○」と「○○以外のこと」とでは、量的には後者の方が圧倒的に多い。つまり、「○○をする」自由は、それ以外の数多くのことができないという圧倒的な不自由と同時にある。だから私は、先に「不自由の中から自由が生まれる」と書いたのである。これを簡単に言えば、コーヒーを飲んでいるときは、トマトジュースも牛乳もビールもウイスキーも同時には飲めないということだ。
 
 さて、そういう前提のもとに、次の文章を読んでほしい--
 
「人の世に生きていくということは、苦しいことも、うれしいこともいろいろあるものだ。その苦しいことに耐えなければ、何ごとも成し遂げられない。」
 
 この一文は今日、長岡市で行われた生長の家講習会の帰途、同市内にある「河井継之助記念館」に立ち寄ったとき、受付でもらったパンフレットに印刷されていた言葉だ。これを河井継之助自身が言ったかどうかは、明らかでない。が、その内容は至極もっともだと思う。読者もきっと同感だろう。そこで質問したい--この文は人生の不自由さを描いているのか、それとも自由さを表現しているのだろうか? この答えはたぶん、文章のどこに注目するかで変わってくる。「苦しいことに耐える」という部分に注目する人は、「面倒くさいなぁ~」と感じて不自由さを述べていると解釈するだろう。しかし、「何ごとも成し遂げ」という部分に注目すれば、「努力さえすれば何ごとも成し遂げられる」というメッセージを読み取ることができるので、人生は自由だと感じるだろう。読者はいずれの解釈を選ぶだろうか?
 
 私としては、後者の解釈をお勧めする。それが、主観的自由を自ら創り出す積極的な生き方につながるからだ。このことをもっと具体的に、私の最近の体験からお話ししよう。
 
 今日の新潟越南教区での講習会後に行われた幹部懇談会で、白鳩会の副会長さんの一人が私の健康を心配してくださった。というのは、北杜市に移住して以降、私が通勤のためにマウンテンバイクに乗っているということを、本欄やフェイスブックを通して知ったからだ。それを読まれ、ご自分が自転車で通勤されている経験から、「マウンテンバイクは体を鍛えている人にはよくても、そうでない場合は、上半身にも負担がかかるので大変です」と親切に助言して下さった。そして、電動アシスト付の“ママチャリ”を推薦してくださった。私は彼女のご好意に心から感謝したあと、「ご心配なく」と付け足した。が、この助言を今日ではなく、北杜市に移住したばかりの昨年10月ごろに聞いていたならば、私の決意は揺らいだかもしれない。なぜなら、その頃は本当に自転車通勤は「大変だぁ」と感じていたからである。
 
 私の自宅から“森の中のオフィス”までは3キロ強ある。平地の舗装道路を自転車で3キロ走ることは何の問題もないどころか、快適であるに違いない。しかし、自宅とオフィスの標高差は100メートルほどあり、オフィスの方が標高が高い。加えて、自宅から数百メートルの道は舗装のないラフロードだから、一度坂を下りてから再び坂を上る。だから、オフィスにいたる最後の上り坂は、かなり厳しいのである。昨年秋の段階では、私は最後の上り坂を完走できず、自転車から降り、車体を押して歩いた。しかし、これにめげずに自転車通勤を続けていると、歩く距離はしだいに短くなり、やがてノンストップ通勤が実現した。この時の喜びは、筆舌に尽くしがたい。60歳を過ぎたら肉体の能力は衰えるばかりかと思っていたが、決してそうでないことを発見し、「自分は本当に無限力か!」と一瞬思ったほどだ。もちろん、この考え方は実相と現象を混同していて間違っている。が、実感としては両者を混同しそうなほど、感激したのである。
 
Makibapark_052414  オフィスへのノンストップ・ヒルクライムが実現した後は、さらにそれより高地にある県立「まきば公園」を目指すようになった。標高差はさらに100メートルほどあるが、これはさほどの苦労や苦痛をともなわずに実現した。坂の傾斜が、オフィス前の坂道より緩やかだからだ。「まきば公園」(=写真)はその名の通り牧場を擁していて、ウシやヒツジ、ウマなどが放牧された見晴らしのよい広大な土地である。晴れた日に、苦しみもがいたすえにそこへ到達した時の達成感と爽快感は、味わったものでなければ分からない。だから私は、河井継之助記念館のパンフレットにあった「苦しいことに耐えなければ、何ごとも成し遂げられない」という言葉を、「苦しいことに耐えれば、何ごとも成し遂げられる」と読み替えて、密かに喜んでいるのである。 
 で、このことと「自由」の問題はどう関係するのか、と考えてほしい。私がまきば公園で感じる達成感と爽快感は、努力のすえ獲得した自由の感覚だと思う。これまで不可能だったことが、可能になったのだ。しかし、そのためには、通勤に自動車を使わないことはもちろん、自転車でも中途降車をせず、歩かずに、ただひたすらにサドルの上で苦しみもがくという「不自由」きわまりない困難を通過しなければならなかった。このようにして、自由は不自由から生まれるのである。この考えが理解できれば、私たちはいつ、どんな時でも、“自由への道”を歩んでいると言えるのである。それがたとい、人から強制された不自由であっても、「強制された」という考え方を変えてしまえば、不自由はそのまま自由になる。
 
 このことを谷口雅春先生は、『新版 生活の智慧365章』の中で次のように説いておられる--
 
「人間の自由は、彼が環境や境遇の奴隷でなくなったときにのみ得られるのである。環境がどうだから出来ないとか、こんな境遇ではとても思うようにならないとかいうのでは、環境や境遇の奴隷であって、自由の主体である“神の子”の自覚を得たものということができないのである。もっと神想観して絶対者との一体感を深めなさい。すべての環境・境遇は、その人が或る能力を発現さすための運動用具のようなものである。木馬や鉄棒や平均台や吊環などはいずれも、運動の選手がそ能力を発現さすために是非なくてはならない環境又は境遇であるのである。運動の選手はみずからそのような環境・境遇の条件をもとめて、それを克服し、自由に肉体の運動美を発揮するための用具とするのである。このとき運動選手は主人公であり、自由の主体である」。(p. 119)
 
 実に味わい深いご文章ではないだろか。
 
 谷口 雅宣
 

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コメント

合掌ありがとうございます
総裁先生、あれだけの高い標高の道をマウンテンバイクでのご通勤、すごいご快挙ですね。私は、このブログのご教示で大変勇気づけられました。私事ですが、持病を抱えており、主治医からと周囲からも、「無理するな」「しばらくお休みしなさい」「「身体が資本、職場での代わりは誰でもいるから」など、いつも言われておりまして、そうすると、言葉の力で本当に自分は身体が弱くて無理をしてはいけないんだ、仕事も辞めなくては…などと思ってしまうのです。
担当させていただいています、Yさんは先天性の全盲でありますが、彼女のところに数日前に訪問した際に、興味深いお話をしてくれました。「カエルの頭にタンコブができてる」と言うのです。何のことか意味がわからない私は どういうことか問いましたら、どこもかしこもアスファルトで固めてあるからカエルが
地中から外に出て来るときにアスファルトで頭をぶつけてタンコブだらけになってると言うのです。
このYさんは全盲なのでカエルを見たこともなければ、カエルがタンコブを作るなんて、視覚からの情報がない彼女にどうして想像出来るのか不思議に思い、「Yさん、どうやってカエルのタンコブがわかるの?」と質問しました。
彼女の答えは、「見えないからわかる」というものでした。
Yさんは「普通の人にはカエルもアスファルトもどういう風に見えてるかわからないけど、まったく見えない私は、ある意味で自由なんだよ」と言うのです。
Yさんはアスファルトはやめて、昔のような自然の道に戻すこと、そしてゲリラ豪雨や異常気象は地球が叫んでいるのだから、その叫び声こそ聞いて、なんとかしなくちゃいけないと言うのです。私は返す言葉が見つかりませんでした。
総裁先生の谷口雅春先生のご著書を引用されました、今回のご教示と、担当させていただいていますYさんの言葉で、不自由と思えることは実はそうでなかったり、自由は不自由と思えるなかにあったり、うまく言葉には表現できませんが、何だかとても考えさせられました。   再拝 島根県 岡田さおり

投稿: 岡田さおり | 2014年6月15日 (日) 11時50分

合掌、ありがとうございます。
自由と不自由(4)のご文章も又大変興味深く拝読させて頂きました。総裁先生が真理をそのまま実践し実相を現象に持ちきたす
生長の家の生き方を私達信徒に教えて頂いていることを常に感謝して、少しでも自分に出来ることを(特に環境保全に関しては)
実践しよう!と努めているところです。
人間の実相は完全円満なので、すでに完全円満なる自由を私達は
頂き済みであることを神様に感謝してひたすら三正行を修して
自由自在の境地を得られた喜びを多くの人達に伝えて行きたいと
思っていますが、総裁先生に具体的に理論的にきめ細やかなご指導頂けることをうれしく思います。有り難うございます。
                       感謝合掌

投稿: 大槻紀子 | 2014年6月16日 (月) 11時13分

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