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2014年5月 4日 (日)

自由と不自由

 JALグループの機内誌『スカイワード』の4月号で、書道家の武田双雲氏が、インタビューに答えてこんなことを言っておられたーー
 
「自由と束縛(制限)って、相反しているようだけど、どちらかが欠けても成り立たない。光と影のようなもので、束縛が自由を生んでいると思うんです。僕の場合、束縛が強いほど自由を感じますね」
 
 さすが芸術家だけあって、この パラドックスをよく心得ておられる、と私は思った。自由というのは、何もしない状態を言うのではなく、何かをする自由のことである。この「する」の意味は、肉体を使った外的動作に留まらず、心の中で何かをすることも含まれる。例えば、文章を考えることも、話を聞くことも、あるいは本を読むことも、 「何かをする」ことに変わりなく、それらはすべて自由が束縛されることによって、初めて可能になるのだ。
 
 こんな表現が難解ならば、こう考えてはどうだろう--私たちは頭の中で文章を考えている時には、人の話をきちんと聞けず、人の話を聞きながらでは読書はできない。だから、文章を書いている時には人の話を聞く自由は束縛されていて、人の話を聞いているときは、読書の自由は奪われている。学校で野球部の一員になろうと思えば、テニス部には恐らく入れてもらえない。ハイテク企業のA社に就職すれば、ライバル企業のB社の仕事は自由にできない。このようにして、「何かをする」という自由は、必ず「それ以外のものはできない」という束縛を必ず伴うのである。
 
 この事実に気がつけば、武田双雲氏の逆説をさらに逆手にとって、次のように言うことができるかもしれないーー私たちは、不自由だと感じている時にこそ自由のただ中にいるのである!
 
 しかし、それならなぜその自由を実感できないのだろう?  理由はたぶん、私たちの気持が、その自由の方向に向いていないからだ。別の言葉でいえば、自分が「こうしたい」と思う既定の方向に固着しているからだ。さらには恐らく、その方向にたどりつくまでの道筋さえ自分で勝手に決めてしまい、「この道でなければならない」と断定しているからだろう。こういう固定的で融通のきかないこだわりを「執着心」と呼ぶこともある。が、ここに問題が一つある。それは、何ごとかを達成するためには努力をしなければならないが、その努力は執着心なくしては不可能だと思われることだ。では、一定の方向に目標を定め、その目標に到達しようと努力しながら到達しえずにいる人たちは、自由なのだろうか、それとも不自由なのだろうか?
 
 この答えは、武田双雲氏の逆説をさらに逆手に取った文章の中で、すでに述べている。自ら定めた目標に向かって努力しつつも、なかなか目標達成にいたらずに「ああ、物事は自由にならない!」と嘆息している人、その当人が、実は自由のただ中にいるのである。
 このように、「自由」という言葉の意味は簡単そうでいて、なかなか難しい。
 試しに三省堂の『大辞林』(1988年)を引いてみると、こうある--
 
「他から影響・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること。また、そのさま。自ら統御する自律性、内なる必然から決し行う自発性などがその内容で、これに関して当の個体の能力・権利・責任などが問題となる。」
 
 この定義によると、ある個人が自由であるかどうかを判断する大きな条件は、「自らの意志や本性に従っている」かどうか、また「内なる必然から決し」ているかどうかである。が、私が羽田空港の待合室でいったんコーヒーを飲もうと思ったが、妻の言葉を聞いてそれをやめ、トマトジュースに替えた例を見てもわかるように、ある個人が、自分以外の誰にも影響を受けずに何かを決めるようなことは、現実にはあまりないだろう。では、我々はやはり不自由な存在なのだろうか?
 
 谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣先生

ご指導ありがたく感謝申し上げます。

たまたま最近、書店で、書家の武田双雲氏の『ポジティブ教科書』という本が目にとまり、買いました。

まだ、途中ですが、『世の中、何事も、ポジティブに考えれば、うまくいくのだ』と…。

性格が、単純なので、そうやって生きてみようと思います。
ありがとうございます。m(_ _)m

投稿: 原 恵美子 | 2014年5月25日 (日) 18時02分

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