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2014年5月

2014年5月30日 (金)

“自然エネルギー拡大運動”が始まる

 こんな表題を使うと「今ごろ何を?」と疑問に思う読者が多いかもしれない。生長の家はもう何年も前から、全国の教化部や道場にソーラーパネルを設置して自然エネルギーの利用を促進し、信徒の皆さんが同様の措置を講じるのを支援しようと、補助金の交付もしてきたからだ。また、長崎県西海市の生長の家総本山で行われる団体参拝練成会の際は、参加者が移動時に排出する温室効果ガスを自主的に相殺する措置も、当たり前のように行われてきた。その結果、日本全体でかなりのCO2削減効果が生まれている。が、今回の決定は、それではまだ不十分だとの認識にもとづく。
 
 ご存じのように、世界全体の温室効果ガスの排出量は減少するどころか、確実に増加してきている。このことについては、今年の春の全国幹部研鑽会でも述べたように、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPPC)が危機感をもって発表した通りだ。また、世界各地で異常気象や洪水被害などがかつてない規模やパターンで起こりつつある。このことにともない、世界の穀物生産量が頭打ちになっているため、食糧価格は高値で推移している。だから、世界人口の大半を占める貧しい人々の生活は圧迫され、エジプト、タイ、ブラジルを初め世界各地で市民の抗議活動が続いている。私たちはそれらの事態を家庭で、職場で、また旅行者として、間接的に見聞したり、あるいは稀には直接体験しながら、「どうしたらいいのか?」「個人では何もできない」などと感じてないだろうか? 
 
 生長の家では、私たちが使うエネルギーの総量を減らすとともに、エネルギーの種類を地球に有害なものから、地球と生物全般にもっと調和的なものへと転換することによって、これらの悪循環を止めるか、少なくとも被害の程度を抑えることができると考えている。「地球に有害なエネルギー」とは、もちろん化石燃料や原子力のことである。また、「地球と生物全般に調和的なエネルギー」とは、再生可能で循環型の自然エネルギーである。この転換を“地下資源”から“地上資源”への転換と呼ぶこともある。生長の家が国際本部を東京から北杜市に移転したのも、そのためであることは本欄等で繰り返し述べてきた。
 
 昨秋、その移転は完了したから、国際本部の職員は今、限りなく“炭素ゼロ”に近い生活をしていると言っていいだろう。が、全国の信徒の皆さんには、そういう生活への選択肢は、現状ではあまりないのではないか? もちろん、すでにいろいろな方法で「人から奪わない」で生きる生活を工夫している人々はいるだろう。ある人は、太陽光発電パネルを自宅の屋根に上げ、電気自動車や電動式自転車をそれに組み合わせ、また家庭菜園や自転車通勤、ウォーキングなどを行うことで、できる範囲で“炭素ゼロ”に近づこうとしている人も大勢いるに違いない。が、その一方で、温暖化による異常気象が進行し、その被害が誰の目にも明らかになってきている中で、「もっと何かできないか?」と考えている人々に、より分かりやすく、利用しやすい手段を提供しようと考え、この運動は考案された。
 
 前置きがずいぶん長くなってしまったが、簡単に言うと、この運動は、生長の家で独自のメガソーラー(大規模太陽光発電施設)を建設することだ。それを“自然エネルギー拡大運動”と呼ぶのは、メガソーラーができた後も、太陽光以外でも、有効で有望なエネルギーが利用できるならば、その分野にも運動を拡大する余地を残している。メガソーラーの建設のためには、京都府城陽市久世奥山の標高230mの丘の上に、約3万6千㎡の土地をすでに取得した。ここは、生長の家宇治別格本山のすぐ近くだ。今後、全国の有志の信徒の皆さんから募金していただくことで、この土地に太陽光発電パネルが敷きつめられていくことになる。募金額も「1口1万円」と比較的少額であるから、自宅の屋根にパネルを上げたり、電気自動車を購入することに躊躇していた人にも利用していただけるのではないかと思う。募金への寄付は、生長の家の組織単位でも受け付けるから、組織の大きさによって、一人の寄付額をさらに下げることもできる。そして、寄付者の氏名(組織の場合は組織名)は、発電パネルの近くの銘板に記載されることになっている。
 
 募金期間は、第一期が今年の7月1日から12月31日まで。6月中に数回にわたって説明会が開催されるので、詳しい説明はその際、国際本部の環境共生部からあると思う。読者の皆さんには、ぜひ募金に参加していただきたい。
 
 谷口 雅宣

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2014年5月26日 (月)

自由と不自由 (3)

 本シリーズの前回で、私が「客観的自由を有する人間は現実には存在しない」と書いたので、それを読んで人生を悲観してしまう人がいるといけないので、少し補足しよう。人間の心は、いわゆる自己意識でとらえられる「自己」の範囲をはるかに超える広がりをもつ。「自分とはかくかくしかじかのものだ」と意識している自分は、実は自分の心のごく一部分にすぎない。心理学ではそのことを「現在意識」と「潜在意識」という語で説明する。前者が“小さな自分”であり、後者が広がりをもつ“大きな自分”である。こういう理解を前提にして、これまで引用してきた『大辞林』の「自由」の定義を眺めてみると、きわめて不十分な内容であることが分かる--
 
「他から影響・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること。また、そのさま。自ら統御する自律性、内なる必然から決し行う自発性などがその内容で、これに関して当の個体の能力・権利・責任などが問題となる。」
 
 この定義で「自らの意志」とか「本性」といっているものは、私たち個人の「現在意識」に限定して言っているのか、それとも「潜在意識」をも含むものだろうか? また、「自律性」とか「内なる必然」とか「自発性」といっているものは、どちらの意識のことか、あるいは双方を含むのだろうか? 答えは、不明である。だが、一般的に考えると、『大辞林』の自由の定義は、現在意識に限定された「意志」「本性」「自律性」「自発性」を問題にしていると思われる。その理由は、そう考えないと、常識的な「自由」の考え方とこの定義とは矛盾してしまうからだ。
 
 具体例を挙げよう。世の中には「マインドコントロール」という言葉がある。暗示や洗脳などの手段によって、ある人が別の人を心理的に支配してしまうことだ。「宗教はマインドコントロールだ」と言う人がいるが、私はそれは極論だと思う。確かに、そういう極端な現象が宗教を信仰する人々の間に見聞されることがあるが、それは1つの“症状”であり、しかも間違った信仰をもった場合の症状だ。咳が出ることは風邪の1つの症状である。だが、それを指して「風邪は咳である」というのは正しくない。風邪にかかった人は、免疫系が活性化して体温が上がったり、寒気がしたり、頭痛がしたり、倦怠感を覚えたり、咳が出たりする。この場合の咳は、風邪のウイルスを体外に排出する働きの1つであるが、咳はそのほかにも、喉にひっかかった異物を排除するためにも出る。また、コショウやトウガラシをかけすぎた料理を食べても出る。また、風邪をひいても咳が出ないこともある。それと同様に、宗教を信じる人はすべて他人の言いなりになるのではない。むしろ、正しい宗教は、信仰者に自覚と勇気を与え、その人の人生における選択肢を拡げることも珍しくない。言い換えると、信仰者の自由を拡大するのである。
 
 が、間違ったタイプの信仰をもつと、いわゆる“マインドコントロール”が起こることは事実である。例えば、ある人が、「世界はまもなく大規模かつ深刻な混乱と破壊の時を迎え、破滅へ向かう」と唱える宗教があって、その教義を信じる人がいたとする。この人は、世界の終末を迎える準備をしなければならないと考え、銀行預金を引き出して現金を手提げ金庫に集約し、アパートを解約して教団の指示した“安全な場所”に家族を集め、これ以上罪を重ねないために禁欲生活を実践し、他の人々を一人でも多く救済するために伝道実践に励んでいたとする。『大辞林』の「自由」の定義によると、この人は自由なのだろうか、それとも不自由なのだろうか? 彼は「自らの意志」や「本性」に従って「自発的」に行動しているのか、それとも「他から影響・拘束・支配などを受け」ているから不自由なのだろうか?
 
 これらの質問に答えることは、比較的簡単だ。なぜなら、質問の前に、私はこの人のことを「マインドコントロールされている」と言ってしまっているからだ。他人に心を支配されている人は、自由でないに決まっていると人は考えるのである。しかし、その「他人」が特定の宗教の教祖ではなく、政党の党首や、尊敬する経営者や、世論や常識や、親や先生、あるいは恋人であった場合はどうだろう。しかも、「支配されている」とは書かないで、「信頼している」と書いたらどうだろう? そんなケース--つまり、自分の信頼する人の意見に従って人生の重要な選択をすること--は、普通の人にいくらでもあることではないだろうか? そのことを、私たちはなぜ「マインドコントロール」とは呼ばずに「自由な選択」だと考えるのか? この質問に答えることは、それほど簡単でないだろう。
 
 人が特定の宗教に入る、あるいは政党に所属したり、政治的見解をもったり、趣味をもったり、特定の人物を尊敬したり、愛したりする。普通の考えでは、これらは自由意思にもとづく自律的な選択である。が、潜在意識の研究が進むにつれて、また、個人の心理が、周囲の人々や社会からどれほど影響されるかが分かるにつれて、「自由な選択」という考え方の根拠が危うくなってきている。生長の家で常に「三正行」を実践し、“神の御心”に照準を合わせて自らの日常生活を律することをお勧めする意味は、こういうところにもある。世の中の“風潮”とか“トレンド”とか“世論”などを盲信してはならない。それらは、強大な権力や資力や発言力をもった人物、企業、組織の利益誘導行為の結果かもしれないのだ。
 
 谷口 雅宣
 

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2014年5月19日 (月)

地域通貨「ニコ」について

 山梨県北杜市の生長の家の“森の中のオフィス”では、このほど「地域通貨」なるものをNicoes 導入することになった。これは地域的に限定して、普通のお金に換算しにくい価値を相互に交換する仕組みのことで、それらの価値をきちんと認めることにより、職員やその家族間の助け合いと交流とを強化し拡大していく目的もある。地域通貨の名称は「ニコ(Nico) 」といい、ニコニコ顔の太陽がデザインされた木製のコイン(=写真)を使う。
 
 私たちは人から親切をしてもらった時、うれしくなってニッコリ笑う。その笑顔を見て、親切した側も喜びを感じる。ここでは、「どうもありがとう」「どういたしまして」という双方の気持が「笑顔」を介して交流する。笑顔には、このように人と人を結ぶ働きがある。そんな笑顔の価値は、金銭には代えがたい。 この笑顔がもつ“ムスビ”の役割を心に留め、それを別の人にも伝えかつ実践し、さらに社会に拡大していくことは、日時計主義の実践でもある。そういう活動の一助として、まず“森の中のオフィス”の関係者の間でこの地域通貨を使おうということになった。
 
「通貨」というと何か固いイメージがあり、また、人の好意を金銭に換算するようなニュアンスが感じられるかもしれない。しかし、今回の「ニコ」の目的はそうではない。人の愛念や感謝などの無形の価値を、目に見える有形物(木製のコイン )に一時的に置き換え、それを別の人との交流の場でも使うことで、愛念や感謝を拡大していこうというのである。
 
 愛念や感謝は、もちろんそんな小道具を使わなくても広げることはできるかもしれない。だが、人間は無形のものを忘れやすい。人の名前でも、ソラで憶えるのは簡単でない。社会で名刺交換をしたり、年賀状をやりとりするのも、この人間の記憶力の悪さを補う意味もある。私たちは、名刺や年賀状が来た人の方を、そうでない人よりも記憶に留めるだろう。名刺や年賀状の場合、その人が自分とどういう関係だったかを思い出すのは、いわゆる「肩書き」を通してである。どこの会社の、どこの学校の、どこの団体の、どんな立場の人だったか……そういう肩書きは言わば“左脳的”な社会関係である。これに対して、その人との心情的--右脳的な--つながりについては、肩書きは必ずしも思い出させてくれない。
 
 そんなとき、自分のポケットや引出しにニコニコ顔の太陽を象ったコインが入っていたら、「あっ、そうだ」と思い出しやすくはないだろうか 。「あの時、あの人にあんなことをしてあげたら、あんなに喜んでもらい、お礼にもらったコインがこれだ」。そう思い出せば、人と人とのそんなムスビの時をまた持ちたいという願いが生まれるだろう。こうして愛念と感謝の輪が拡がっていけばいい--このような意図のもとに、今回の地域通貨「ニコ」が生まれた。私はそう理解している。
 
 では、この「ニコ」は、いったいどんな時に使われるのだろう?
 
 これは当面、職員やその家族間の「サービス」に対して使うことになっている。その理由の1つは、都会の生活に比べ、オフィスのある“森の中”の生活は、いろいろな意味で“不便”だからだ。私たちはもちろん、その“不便さ”を承知のうえで“森の中”へ来た。だが、不便さを解決するのに、都会とは別の方法をとりたいと思う。都会では、下水を掘り、電線を張り、アンテナを設置し、コンビニを建て、夜間営業をし、ATMを増やすことで、不便解消を図っている。が、このインフラの維持のためにエネルギーと資源を大量に使い、ムダを生み出している。また、これらのコスト回収のために、すべてのサービスを金銭に換算して、利用者から取る仕組みになっている。これにより、物事をするのに都会は確かに“便利”になった。が、その代償として、サービスにはすべて値段がつき、権利と義務の関係に変わってしまったから、サービスを受けても感謝がなく、金によって愛を要求する傾向も生まれている。そして、人間同士の愛念と感謝の交換の場は、著しく少なくなってしまった。私たちは、愛念と感謝を基本とした当たり前の人間交流の場を、この「ニコ」を通じて拡げていきたいと思う。
 
 というわけで、「ニコ」が使われるであろうサービスの例を、以下に挙げてみよう--
 
 車での送り迎え(幼稚園、学校、病院など)
 車のタイヤ・チェーンの着脱
 車のタイヤ交換
 自転車のパンク修理
 薪割り、薪運び
 留守中の鉢植えの水やり
 雪かき
 草取り
 野菜作り
 自転車や工具の貸し借り
 写真撮影の指導
 絵の描き方指導
 ドライフラワーの作り方
 外国語会話
 ソバ打ち指導
 魚のおろし方指導
 インターネットの使い方
 ………
 
 このほかにもいろいろなことが考えられるから、実際に何が起こるか楽しみである。
 
 地域通貨の利用は、様々な地域や団体ですでに行われている。が、生長の家の地域通貨には、経済的な目的だけでは不十分であり、やはり宗教や信仰的な要素が加味されていなければならない。このため、「ニコ」の施行に当たって、私たちは「ニコを奉納する」という考え方を採用した。ニコニコ顔のコインは、数多く愛のサービスを提供した人の手もとに多く集まってくる。だから、その人には、集まった「ニコ」を使って多くのサービスを受ける機会が生まれるはずだ。が、人間というものは、愛の行為に必ずしも対価を求めない。人に愛を与える行為そのものによって満足する場合も多いだろう。そんな人には、神前にニコを奉納するという選択肢があってもいいし、その方がむしろ生き甲斐を感じる人もいると思うのである。
 
「ニコ」はもちろん、どんどん使うことにも意味がある。それは、仏教で托鉢が重視されているのと同じ理由だ。人に対して慈悲の心を起こさせ、それを実践させることは、その人の仏性を開顕する一助となるからだ。このように考えれば、どこか冷たい響きを感じさせる「地域通貨」というものも、使い方によっては、暖かい愛情表現と神性開発の道具とすることは可能と思うのである。
 
 谷口 雅宣
 

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2014年5月12日 (月)

自由と不自由 (2)

 自由とは、目前の自分の可能性のことを指すと考えるのでは不十分である。生まれたばかりの赤ん坊は“無限の可能性”をもっていると考えることができるが、その子は実際にはほとんど何もできない。目もよく見えず、言葉も使えず、歩くこともできない彼は、ただ母親の助けを待って泣くことしかできない。そんな赤ん坊を「自由な人間」と考えることはできない。だから自由とは、「何かをする」と決めた彼が、そのことを実際にできるのでなければならない。

  また、「何かをする」ということは、「それ以外のことをしない」という選択でもある。このことはすでに5月4日のブログに書いたとおりである。喫茶店でコーヒーを注文すれば、それは、トマトジュースはそこでは飲まないという選択でもある。ただ、前回書かなかったのは、「何かをする」と決めてから、その何かが実際に成就する(実現する)までの間のタイムラグについてだった。

「コーヒーをください」

 と注文してから、実際にコーヒーが飲める状態になるまでの間、注文者は自由だろうか? 

 普通の喫茶店であれば、注文から品物の提供まで5分から10分ですむだろう。ところが、これが30分や40分になると、注文者はきっと待ちくたびれて不自由を感じるに違いない。では、この時、注文者は本当に不自由なのだろうか? もし本当に不自由であると考える場合、コーヒーが15分で出てきたなら、あるいは20分かかったならどうだろうか? 人間の自由とは、そんな10分や20分の違いで実現したり、奪われたりする頼りないものだろうか? 私はそう思わない。

 しかし、私たちが心で感じる自由の感覚--ここでは「主観的自由」と呼ぼう--は、選択から希望の実現までのタイムラグや過程をどう評価するかに大きく左右されるのである。注文して数分でコーヒーが出てくれば自由を感じ、20分では不自由を感じる。というわけで、注文者の目の前でコーヒーを入れてくれるスターバックスやドトールの店が好感をもって受け入れられる。しかし、この主観的な要素を排除してしまえば、注文の品がなかなか目の前に現れない店であっても、注文者は自由に振る舞っていると考えることができる。

 が、本当にそうだろうか? 前回の本欄で引用した「自由」の定義をここで再び確認しよう--

「他から影響・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること。また、そのさま。自ら統御する自律性、内なる必然から決し行う自発性などがその内容で、これに関して当の個体の能力・権利・責任などが問題となる。」

 この定義による自由を、仮に「客観的自由」と呼ぶとする。私が思うに、このような客観的自由を有する人間は現実には存在しない。すべての個人は、程度の差こそあれ、自分以外の多くの人々の考えや意見に影響され、時には支配されている。また、自らを100%自律的に統御して生きている人などおらず、「内なる必然」というものも単一ではない。後者のことを言い直すと、私たちの中から生まれる欲求や希望は、複数ある場合がほとんどであり、それらは互いに矛盾していることもある。このことは、人間の心に現在意識と潜在意識があることを思い起こせば、容易に理解できるだろう。この人間の“2つの心”の矛盾や相克については、昔から心理学者が雄弁に語っているのである。

 では、私たちは「自由」を追求することをやめ、不自由に甘んじて、人生を諦めて生きていくべきだろうか? 私はここで、そんなことを言おうとしているのではない。客観的自由は、恐らく現象世界には存在しない。しかし、主観的自由は、私たちの心しだいで感じることができるのだから、それを享受しながら、希望をもって積極的に人生を歩むことができる--と述べたいのだ。

 谷口 雅宣

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2014年5月 4日 (日)

自由と不自由

 JALグループの機内誌『スカイワード』の4月号で、書道家の武田双雲氏が、インタビューに答えてこんなことを言っておられたーー
 
「自由と束縛(制限)って、相反しているようだけど、どちらかが欠けても成り立たない。光と影のようなもので、束縛が自由を生んでいると思うんです。僕の場合、束縛が強いほど自由を感じますね」
 
 さすが芸術家だけあって、この パラドックスをよく心得ておられる、と私は思った。自由というのは、何もしない状態を言うのではなく、何かをする自由のことである。この「する」の意味は、肉体を使った外的動作に留まらず、心の中で何かをすることも含まれる。例えば、文章を考えることも、話を聞くことも、あるいは本を読むことも、 「何かをする」ことに変わりなく、それらはすべて自由が束縛されることによって、初めて可能になるのだ。
 
 こんな表現が難解ならば、こう考えてはどうだろう--私たちは頭の中で文章を考えている時には、人の話をきちんと聞けず、人の話を聞きながらでは読書はできない。だから、文章を書いている時には人の話を聞く自由は束縛されていて、人の話を聞いているときは、読書の自由は奪われている。学校で野球部の一員になろうと思えば、テニス部には恐らく入れてもらえない。ハイテク企業のA社に就職すれば、ライバル企業のB社の仕事は自由にできない。このようにして、「何かをする」という自由は、必ず「それ以外のものはできない」という束縛を必ず伴うのである。
 
 この事実に気がつけば、武田双雲氏の逆説をさらに逆手にとって、次のように言うことができるかもしれないーー私たちは、不自由だと感じている時にこそ自由のただ中にいるのである!
 
 しかし、それならなぜその自由を実感できないのだろう?  理由はたぶん、私たちの気持が、その自由の方向に向いていないからだ。別の言葉でいえば、自分が「こうしたい」と思う既定の方向に固着しているからだ。さらには恐らく、その方向にたどりつくまでの道筋さえ自分で勝手に決めてしまい、「この道でなければならない」と断定しているからだろう。こういう固定的で融通のきかないこだわりを「執着心」と呼ぶこともある。が、ここに問題が一つある。それは、何ごとかを達成するためには努力をしなければならないが、その努力は執着心なくしては不可能だと思われることだ。では、一定の方向に目標を定め、その目標に到達しようと努力しながら到達しえずにいる人たちは、自由なのだろうか、それとも不自由なのだろうか?
 
 この答えは、武田双雲氏の逆説をさらに逆手に取った文章の中で、すでに述べている。自ら定めた目標に向かって努力しつつも、なかなか目標達成にいたらずに「ああ、物事は自由にならない!」と嘆息している人、その当人が、実は自由のただ中にいるのである。
 このように、「自由」という言葉の意味は簡単そうでいて、なかなか難しい。
 試しに三省堂の『大辞林』(1988年)を引いてみると、こうある--
 
「他から影響・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること。また、そのさま。自ら統御する自律性、内なる必然から決し行う自発性などがその内容で、これに関して当の個体の能力・権利・責任などが問題となる。」
 
 この定義によると、ある個人が自由であるかどうかを判断する大きな条件は、「自らの意志や本性に従っている」かどうか、また「内なる必然から決し」ているかどうかである。が、私が羽田空港の待合室でいったんコーヒーを飲もうと思ったが、妻の言葉を聞いてそれをやめ、トマトジュースに替えた例を見てもわかるように、ある個人が、自分以外の誰にも影響を受けずに何かを決めるようなことは、現実にはあまりないだろう。では、我々はやはり不自由な存在なのだろうか?
 
 谷口 雅宣

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