自由と不自由 (3)
本シリーズの前回で、私が「客観的自由を有する人間は現実には存在しない」と書いたので、それを読んで人生を悲観してしまう人がいるといけないので、少し補足しよう。人間の心は、いわゆる自己意識でとらえられる「自己」の範囲をはるかに超える広がりをもつ。「自分とはかくかくしかじかのものだ」と意識している自分は、実は自分の心のごく一部分にすぎない。心理学ではそのことを「現在意識」と「潜在意識」という語で説明する。前者が“小さな自分”であり、後者が広がりをもつ“大きな自分”である。こういう理解を前提にして、これまで引用してきた『大辞林』の「自由」の定義を眺めてみると、きわめて不十分な内容であることが分かる--
「他から影響・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること。また、そのさま。自ら統御する自律性、内なる必然から決し行う自発性などがその内容で、これに関して当の個体の能力・権利・責任などが問題となる。」
この定義で「自らの意志」とか「本性」といっているものは、私たち個人の「現在意識」に限定して言っているのか、それとも「潜在意識」をも含むものだろうか? また、「自律性」とか「内なる必然」とか「自発性」といっているものは、どちらの意識のことか、あるいは双方を含むのだろうか? 答えは、不明である。だが、一般的に考えると、『大辞林』の自由の定義は、現在意識に限定された「意志」「本性」「自律性」「自発性」を問題にしていると思われる。その理由は、そう考えないと、常識的な「自由」の考え方とこの定義とは矛盾してしまうからだ。
具体例を挙げよう。世の中には「マインドコントロール」という言葉がある。暗示や洗脳などの手段によって、ある人が別の人を心理的に支配してしまうことだ。「宗教はマインドコントロールだ」と言う人がいるが、私はそれは極論だと思う。確かに、そういう極端な現象が宗教を信仰する人々の間に見聞されることがあるが、それは1つの“症状”であり、しかも間違った信仰をもった場合の症状だ。咳が出ることは風邪の1つの症状である。だが、それを指して「風邪は咳である」というのは正しくない。風邪にかかった人は、免疫系が活性化して体温が上がったり、寒気がしたり、頭痛がしたり、倦怠感を覚えたり、咳が出たりする。この場合の咳は、風邪のウイルスを体外に排出する働きの1つであるが、咳はそのほかにも、喉にひっかかった異物を排除するためにも出る。また、コショウやトウガラシをかけすぎた料理を食べても出る。また、風邪をひいても咳が出ないこともある。それと同様に、宗教を信じる人はすべて他人の言いなりになるのではない。むしろ、正しい宗教は、信仰者に自覚と勇気を与え、その人の人生における選択肢を拡げることも珍しくない。言い換えると、信仰者の自由を拡大するのである。
が、間違ったタイプの信仰をもつと、いわゆる“マインドコントロール”が起こることは事実である。例えば、ある人が、「世界はまもなく大規模かつ深刻な混乱と破壊の時を迎え、破滅へ向かう」と唱える宗教があって、その教義を信じる人がいたとする。この人は、世界の終末を迎える準備をしなければならないと考え、銀行預金を引き出して現金を手提げ金庫に集約し、アパートを解約して教団の指示した“安全な場所”に家族を集め、これ以上罪を重ねないために禁欲生活を実践し、他の人々を一人でも多く救済するために伝道実践に励んでいたとする。『大辞林』の「自由」の定義によると、この人は自由なのだろうか、それとも不自由なのだろうか? 彼は「自らの意志」や「本性」に従って「自発的」に行動しているのか、それとも「他から影響・拘束・支配などを受け」ているから不自由なのだろうか?
これらの質問に答えることは、比較的簡単だ。なぜなら、質問の前に、私はこの人のことを「マインドコントロールされている」と言ってしまっているからだ。他人に心を支配されている人は、自由でないに決まっていると人は考えるのである。しかし、その「他人」が特定の宗教の教祖ではなく、政党の党首や、尊敬する経営者や、世論や常識や、親や先生、あるいは恋人であった場合はどうだろう。しかも、「支配されている」とは書かないで、「信頼している」と書いたらどうだろう? そんなケース--つまり、自分の信頼する人の意見に従って人生の重要な選択をすること--は、普通の人にいくらでもあることではないだろうか? そのことを、私たちはなぜ「マインドコントロール」とは呼ばずに「自由な選択」だと考えるのか? この質問に答えることは、それほど簡単でないだろう。
人が特定の宗教に入る、あるいは政党に所属したり、政治的見解をもったり、趣味をもったり、特定の人物を尊敬したり、愛したりする。普通の考えでは、これらは自由意思にもとづく自律的な選択である。が、潜在意識の研究が進むにつれて、また、個人の心理が、周囲の人々や社会からどれほど影響されるかが分かるにつれて、「自由な選択」という考え方の根拠が危うくなってきている。生長の家で常に「三正行」を実践し、“神の御心”に照準を合わせて自らの日常生活を律することをお勧めする意味は、こういうところにもある。世の中の“風潮”とか“トレンド”とか“世論”などを盲信してはならない。それらは、強大な権力や資力や発言力をもった人物、企業、組織の利益誘導行為の結果かもしれないのだ。
谷口 雅宣
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