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2014年5月12日 (月)

自由と不自由 (2)

 自由とは、目前の自分の可能性のことを指すと考えるのでは不十分である。生まれたばかりの赤ん坊は“無限の可能性”をもっていると考えることができるが、その子は実際にはほとんど何もできない。目もよく見えず、言葉も使えず、歩くこともできない彼は、ただ母親の助けを待って泣くことしかできない。そんな赤ん坊を「自由な人間」と考えることはできない。だから自由とは、「何かをする」と決めた彼が、そのことを実際にできるのでなければならない。

  また、「何かをする」ということは、「それ以外のことをしない」という選択でもある。このことはすでに5月4日のブログに書いたとおりである。喫茶店でコーヒーを注文すれば、それは、トマトジュースはそこでは飲まないという選択でもある。ただ、前回書かなかったのは、「何かをする」と決めてから、その何かが実際に成就する(実現する)までの間のタイムラグについてだった。

「コーヒーをください」

 と注文してから、実際にコーヒーが飲める状態になるまでの間、注文者は自由だろうか? 

 普通の喫茶店であれば、注文から品物の提供まで5分から10分ですむだろう。ところが、これが30分や40分になると、注文者はきっと待ちくたびれて不自由を感じるに違いない。では、この時、注文者は本当に不自由なのだろうか? もし本当に不自由であると考える場合、コーヒーが15分で出てきたなら、あるいは20分かかったならどうだろうか? 人間の自由とは、そんな10分や20分の違いで実現したり、奪われたりする頼りないものだろうか? 私はそう思わない。

 しかし、私たちが心で感じる自由の感覚--ここでは「主観的自由」と呼ぼう--は、選択から希望の実現までのタイムラグや過程をどう評価するかに大きく左右されるのである。注文して数分でコーヒーが出てくれば自由を感じ、20分では不自由を感じる。というわけで、注文者の目の前でコーヒーを入れてくれるスターバックスやドトールの店が好感をもって受け入れられる。しかし、この主観的な要素を排除してしまえば、注文の品がなかなか目の前に現れない店であっても、注文者は自由に振る舞っていると考えることができる。

 が、本当にそうだろうか? 前回の本欄で引用した「自由」の定義をここで再び確認しよう--

「他から影響・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていること。また、そのさま。自ら統御する自律性、内なる必然から決し行う自発性などがその内容で、これに関して当の個体の能力・権利・責任などが問題となる。」

 この定義による自由を、仮に「客観的自由」と呼ぶとする。私が思うに、このような客観的自由を有する人間は現実には存在しない。すべての個人は、程度の差こそあれ、自分以外の多くの人々の考えや意見に影響され、時には支配されている。また、自らを100%自律的に統御して生きている人などおらず、「内なる必然」というものも単一ではない。後者のことを言い直すと、私たちの中から生まれる欲求や希望は、複数ある場合がほとんどであり、それらは互いに矛盾していることもある。このことは、人間の心に現在意識と潜在意識があることを思い起こせば、容易に理解できるだろう。この人間の“2つの心”の矛盾や相克については、昔から心理学者が雄弁に語っているのである。

 では、私たちは「自由」を追求することをやめ、不自由に甘んじて、人生を諦めて生きていくべきだろうか? 私はここで、そんなことを言おうとしているのではない。客観的自由は、恐らく現象世界には存在しない。しかし、主観的自由は、私たちの心しだいで感じることができるのだから、それを享受しながら、希望をもって積極的に人生を歩むことができる--と述べたいのだ。

 谷口 雅宣

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コメント

総裁先生,ありがとうございます。
久しぶりの更新記事,じっくり読ませていただきました。
『選択から希望の実現までのタイムラグや過程をどう評価するかに大きく左右されるのである。』
という一節から,「主観的自由」の意味が理解できたかと思います。簡単な英語で言うと,
「It's up to you.」
「The way to recognize is to be.」
との訳でよいのでしょうか?

投稿: 佐々木 勇治 | 2014年5月20日 (火) 20時05分

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