谷口輝子先生の信仰と信念に学ぶ
今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山の谷口家奥津城前で、近隣教区の幹部・信徒が参列して「谷口輝子聖姉二十六年祭」が行われた。直接の参列者は多くなかったが、御祭の様子がインターネットを介して各地に中継されたことにより、各地の教化部などで映像と音声により参列した人々も相当数あったようだ。私は、御祭の最後に概略、以下のような挨拶を述べた:
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本日は、谷口輝子先生の二十六年祭にお集まりくださり、ありがとうございます。
谷口輝子先生は今から26年前に93歳でご昇天されましたが、愛深き方であっただけでなく、正義を重んずる心が強く、正しくない愛については厳しい姿勢を貫かれた方でした。そのことは、白鳩会総裁でいらっしゃた頃に、『白鳩』誌に連載されていた「白鳩相談室」という欄で、信徒や読者から寄せられた相談に答えておられる文章を拝読すると、とてもよく分かるのであります。また、数多く残された輝子先生の随想の中にも一貫して流れている姿勢です。世の中には、「愛」というものを至上のものとして考え、愛があれば何をしてもいい、何でも赦すという傾向の人々が昔も今もいるのでありますが、そういう盲目的な愛や、愚かな愛については、時には厳しい態度で臨まれた方でした。
今日は皆さんに、輝子先生が愛だけでなく、「信仰と信念の人」であったことをお伝えしたいのであります。

今日、ご紹介するメモ帳の文章は、先生が90歳のときに書かれたもののようです。なぜそう言えるかというと、このメモの最後に先生は「90年の私の生涯にさまざまなことがあったと思い出される」と書いてあるからです。輝子先生は、このメモの中で、昭和49年の2月号の『白鳩』誌のご自分の記事を読み返し、その感想を書かれています。
最初の数行を読んでみます--
「私は時々古い白鳩誌や理誌を出して読むことがある。昭和49年の2月号をふと読んで見ると、“愛の神を信じて”との私の文章。久しぶりで見ると忘れていたことを思い出し、新鮮な感じになって読み進んだ。」
--こう書いてあります。この“愛の神を信じて”という先生のご文章は、先生の随筆集『こころの安らぎ』という単行本に収録されていて、その内容をひとことで言えば、「愛の神を本当に信じ、神の御心に沿った生活をしていれば、大地震や焼夷弾に遭っても恐れることはない」ということです。単行本では10ページ分ある随筆ですが、このメモ帳に書いた講話の下書き(あるいは随筆)は、それを簡潔にまとめてあるので、ここにご紹介したいと思うのであります。
「 その前年の11月30日、本部で白鳩会。
“奥様、12月1日に東京は大地震となると云う人あり。この人は今までいろいろの予言をされたが、凡て外れたこと無かった人なので、聞いた人は皆信じて戦々兢々として夜も眠れないと心配しています。私の親戚や知人たちも心配して、私に電話をかけて来ます。奥様はどうお考えですか?”
“へえー、私はそんな話は今初耳です。12月1日と云ったら明日じゃありませんか。明日、大東京が大惨事に見舞われるなんてこと、私は判りません。しかし、神の愛を信じる人々は、常に神の愛に護られていると云う信念で動じることはない。それと同時に、現象生活を立派に処理して行くことを行じることです。いつ何時、地震が突如としてガタガタやって来ても落ちついて、コンロや火鉢を直ちに消して、火災が起らないように処置して、素早くその家の外へ逃れるように、落ちついて行動すること。”
関東大震災の時、東京の主婦たちが、あわてないで火の始末を完全にして逃げたなら、東京の家が全部灰になるような大事に到らなくて、古家が幾つか倒れると云うだけで済んだのに、主婦たちが火の始末をすることに気がつかず、あわてて家から飛び出したから、大東京が灰になると云う大事に到ったのです。いざと云う時、心の落ちつきを失ったことが一大事でした。不幸を恐れるより、自分がその日その日をすき間なく、完全に行動するように心懸けること。その日、その日を、怠りなく生活していると、何がやって来ても落ちついて対処して、不幸を招くようなことはない。一大事に直面した時、先ず落ちつくこと。
あの時、私の住んでいた家は6年前に建てた家だと云って居られたから、ひどい地震だっても倒れる弱い家ではなかったのに、近所の主婦が火の始末を忘れて逃げたために、近所からの火事が迫って来て類焼したのですが、当時の大東京の主婦たちがガタガタ家が揺れただけで、あわてて火の始末を忘れて逃げたので、大東京が焼野原になったばかりでなく、何万人という市民が焼死したのでした。その後十何年たって大東亜戦争になった時も、アメリカ空軍が空から焼夷弾を落とした時も、又しても大東京は焼野原になってしまいましたが、その時も市民が落ちついて対処したら、又しても大東京がほとんど焼野原になるほどのことは無かったと思います。
私は戦争中、近所の主婦がほとんど闇買いをしていることを聞いていた。千葉県などの近県の農家へ米、芋、などを買い出しに行くことを知っていたが、日本国民全体が飢えているのに、自分だけが飢えないでいようとは思えなかった。夫も買い出しに行ってはならぬと云って、庭の少しの空地をもたがやしてサツマ芋、じゃが芋を作って下さった。月に一度か二度、少量のお米が配給になるばかりだったが、そのお米にもキャベツを刻んでまぜたり、大豆を混ぜたりして、純粋な御飯を食べたことはなかった。
近所の主婦が“谷口さんとこは田舎の信者さんからお米を送って下さるでしょうから、毎日銀めしばかりで結構ですね”とねたましそうに云ったが、日本中の誌友も貧しかったから、お米を送って下さる人は無かった。たった一度、お米の産地の連合会から送って下さったことがあったが、運送屋の間違いで荷札が時の某大臣の家に配達された。私からの礼状が届かなかったので、連合会から着いたか、着かなかったかと訊ねて来て不着と返事を出したら、運送屋の手違いだと判明して、大臣宅から、食べ残りだと云って半分送って来られたことがあった。
秋田県の農村青年の1人が村の代表として農林省に陳情のため上京して来られたが、三日分のお米を持って来たが、予想より早く解決がついたから一日分のお米が余ったから、先生に食べて貰って下さいとお山の玄関へやって来た。一握りのお米を受取って、私はその青年に頭を下げた。霞ヶ関の農林省から直ぐ上野駅へ行かないで、遠廻りして、お山へ、一握りのお米を運んで下さった愛念を、私はかたじけないことに思った。
長い長い九十年の私の生涯に、さまざまなことがあったとしみじみと憶い出される一日である。」
--このように書かれていまして、先生が信仰と信念の人であることが、よく分かるのであります。また、90歳にして、この記憶力と文章の構成力には感心せずにはいられないのであります。このメモ書きの中で、今日、皆さんに是非、記憶に留めておいていただきたいのは、次のところです--
「不幸を恐れるより、自分がその日その日をすき間なく、完全に行動するように心懸けること。その日、その日を、怠りなく生活していると、何がやって来ても落ちついて対処して、不幸を招くようなことはない。」
輝子先生のこのような強い信念の背後には、もちろん“愛の神”への堅い信仰があるわけです。どうか皆さんも、三正行を怠らずに毎日をていねいに生き、“神の子”の人生を自ら生き、また人々に伝えていって下さい。それでは、これで輝子聖姉二十六年祭の挨拶といたします。ご清聴、ありがとうございました。
谷口 雅宣