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2014年4月

2014年4月24日 (木)

谷口輝子先生の信仰と信念に学ぶ

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山の谷口家奥津城前で、近隣教区の幹部・信徒が参列して「谷口輝子聖姉二十六年祭」が行われた。直接の参列者は多くなかったが、御祭の様子がインターネットを介して各地に中継されたことにより、各地の教化部などで映像と音声により参列した人々も相当数あったようだ。私は、御祭の最後に概略、以下のような挨拶を述べた:
 
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 本日は、谷口輝子先生の二十六年祭にお集まりくださり、ありがとうございます。
 
 谷口輝子先生は今から26年前に93歳でご昇天されましたが、愛深き方であっただけでなく、正義を重んずる心が強く、正しくない愛については厳しい姿勢を貫かれた方でした。そのことは、白鳩会総裁でいらっしゃた頃に、『白鳩』誌に連載されていた「白鳩相談室」という欄で、信徒や読者から寄せられた相談に答えておられる文章を拝読すると、とてもよく分かるのであります。また、数多く残された輝子先生の随想の中にも一貫して流れている姿勢です。世の中には、「愛」というものを至上のものとして考え、愛があれば何をしてもいい、何でも赦すという傾向の人々が昔も今もいるのでありますが、そういう盲目的な愛や、愚かな愛については、時には厳しい態度で臨まれた方でした。
 
 今日は皆さんに、輝子先生が愛だけでなく、「信仰と信念の人」であったことをお伝えしたいのであります。
 
Teruko_memo  輝子先生が亡くなってもう四半世紀がたってしまったのですが、先生の遺品がまだ時々、総本山の公邸などから発見されることがあります。私がブログを書いていることは多くの方はご存じですが、そこでも一度、触れたことがあるのは、輝子先生がメモ帳をよく使われていて、それが発見されていることです。そこには、講話か原稿の下書きのようなものを、細かい字でビッシリと書き止められているものがあります。そういう文章を読むと、それがそのまま講話や随筆になるように、よくまとまっているものが多いのです。そのメモ帳の多くは、銀行が預金者にくれるもので、何の変哲もない普通の小さなメモ帳です。そのメモ帳に講話の下書きを書いて、実際の講話の前にはそれを読みながら、講話のリハーサルをされたのかもしれません。
 今日、ご紹介するメモ帳の文章は、先生が90歳のときに書かれたもののようです。なぜそう言えるかというと、このメモの最後に先生は「90年の私の生涯にさまざまなことがあったと思い出される」と書いてあるからです。輝子先生は、このメモの中で、昭和49年の2月号の『白鳩』誌のご自分の記事を読み返し、その感想を書かれています。
 
 最初の数行を読んでみます--
 
「私は時々古い白鳩誌や理誌を出して読むことがある。昭和49年の2月号をふと読んで見ると、“愛の神を信じて”との私の文章。久しぶりで見ると忘れていたことを思い出し、新鮮な感じになって読み進んだ。」
 --こう書いてあります。この“愛の神を信じて”という先生のご文章は、先生の随筆集『こころの安らぎ』という単行本に収録されていて、その内容をひとことで言えば、「愛の神を本当に信じ、神の御心に沿った生活をしていれば、大地震や焼夷弾に遭っても恐れることはない」ということです。単行本では10ページ分ある随筆ですが、このメモ帳に書いた講話の下書き(あるいは随筆)は、それを簡潔にまとめてあるので、ここにご紹介したいと思うのであります。
 
「 その前年の11月30日、本部で白鳩会。
“奥様、12月1日に東京は大地震となると云う人あり。この人は今までいろいろの予言をされたが、凡て外れたこと無かった人なので、聞いた人は皆信じて戦々兢々として夜も眠れないと心配しています。私の親戚や知人たちも心配して、私に電話をかけて来ます。奥様はどうお考えですか?”
“へえー、私はそんな話は今初耳です。12月1日と云ったら明日じゃありませんか。明日、大東京が大惨事に見舞われるなんてこと、私は判りません。しかし、神の愛を信じる人々は、常に神の愛に護られていると云う信念で動じることはない。それと同時に、現象生活を立派に処理して行くことを行じることです。いつ何時、地震が突如としてガタガタやって来ても落ちついて、コンロや火鉢を直ちに消して、火災が起らないように処置して、素早くその家の外へ逃れるように、落ちついて行動すること。”
 関東大震災の時、東京の主婦たちが、あわてないで火の始末を完全にして逃げたなら、東京の家が全部灰になるような大事に到らなくて、古家が幾つか倒れると云うだけで済んだのに、主婦たちが火の始末をすることに気がつかず、あわてて家から飛び出したから、大東京が灰になると云う大事に到ったのです。いざと云う時、心の落ちつきを失ったことが一大事でした。不幸を恐れるより、自分がその日その日をすき間なく、完全に行動するように心懸けること。その日、その日を、怠りなく生活していると、何がやって来ても落ちついて対処して、不幸を招くようなことはない。一大事に直面した時、先ず落ちつくこと。
 
 あの時、私の住んでいた家は6年前に建てた家だと云って居られたから、ひどい地震だっても倒れる弱い家ではなかったのに、近所の主婦が火の始末を忘れて逃げたために、近所からの火事が迫って来て類焼したのですが、当時の大東京の主婦たちがガタガタ家が揺れただけで、あわてて火の始末を忘れて逃げたので、大東京が焼野原になったばかりでなく、何万人という市民が焼死したのでした。その後十何年たって大東亜戦争になった時も、アメリカ空軍が空から焼夷弾を落とした時も、又しても大東京は焼野原になってしまいましたが、その時も市民が落ちついて対処したら、又しても大東京がほとんど焼野原になるほどのことは無かったと思います。
 
 私は戦争中、近所の主婦がほとんど闇買いをしていることを聞いていた。千葉県などの近県の農家へ米、芋、などを買い出しに行くことを知っていたが、日本国民全体が飢えているのに、自分だけが飢えないでいようとは思えなかった。夫も買い出しに行ってはならぬと云って、庭の少しの空地をもたがやしてサツマ芋、じゃが芋を作って下さった。月に一度か二度、少量のお米が配給になるばかりだったが、そのお米にもキャベツを刻んでまぜたり、大豆を混ぜたりして、純粋な御飯を食べたことはなかった。
 
 近所の主婦が“谷口さんとこは田舎の信者さんからお米を送って下さるでしょうから、毎日銀めしばかりで結構ですね”とねたましそうに云ったが、日本中の誌友も貧しかったから、お米を送って下さる人は無かった。たった一度、お米の産地の連合会から送って下さったことがあったが、運送屋の間違いで荷札が時の某大臣の家に配達された。私からの礼状が届かなかったので、連合会から着いたか、着かなかったかと訊ねて来て不着と返事を出したら、運送屋の手違いだと判明して、大臣宅から、食べ残りだと云って半分送って来られたことがあった。
 
 秋田県の農村青年の1人が村の代表として農林省に陳情のため上京して来られたが、三日分のお米を持って来たが、予想より早く解決がついたから一日分のお米が余ったから、先生に食べて貰って下さいとお山の玄関へやって来た。一握りのお米を受取って、私はその青年に頭を下げた。霞ヶ関の農林省から直ぐ上野駅へ行かないで、遠廻りして、お山へ、一握りのお米を運んで下さった愛念を、私はかたじけないことに思った。
 
 長い長い九十年の私の生涯に、さまざまなことがあったとしみじみと憶い出される一日である。」
 
 --このように書かれていまして、先生が信仰と信念の人であることが、よく分かるのであります。また、90歳にして、この記憶力と文章の構成力には感心せずにはいられないのであります。このメモ書きの中で、今日、皆さんに是非、記憶に留めておいていただきたいのは、次のところです--
 
「不幸を恐れるより、自分がその日その日をすき間なく、完全に行動するように心懸けること。その日、その日を、怠りなく生活していると、何がやって来ても落ちついて対処して、不幸を招くようなことはない。」
 輝子先生のこのような強い信念の背後には、もちろん“愛の神”への堅い信仰があるわけです。どうか皆さんも、三正行を怠らずに毎日をていねいに生き、“神の子”の人生を自ら生き、また人々に伝えていって下さい。それでは、これで輝子聖姉二十六年祭の挨拶といたします。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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2014年4月12日 (土)

旅先からの便り (7)

 お元気ですか? 今日は佐賀市に来ています。
 最近、自由意思とは何かということを考えます。
 例えば今日の昼食後、羽田空港の待合ラウンジで十数分を過ごすために、飲料のセルフサービスのコーナーへ行き、コーヒーカップと皿を手に取りました。これは、自分の自由意思でそうしたのだと、ハッキリ自覚していたのです。いつもとは違う行為だからです。
 
 通常は、空港での昼食では野菜が少ないことを考えて、トマトジュースを飲むことにしていました。ところが、今日はちょっと気分を変えようと思い、コーヒーを選んだつもりでした。
 ところが、それを見ていた妻が近づいて来て、
「あら、コーヒーなの?」
 と意外そうに言ったのです。
 その途端、私は自宅を出て小淵沢駅でコーヒーを買い、JR中央線の列車の中で仕事をしながら、チビチビとそのコーヒーを飲みながら新宿まで来たことを思い出しました。
 
 現代の多くの飲み物がそうであるように、コーヒーにも中毒性があります。それほど強いものではありませんが、そのカフェインの作用のおかげで、私は空港でもコーヒーに近づいたのかもしれない--そのとき私はそう思ったのでした。
 
 となると、 自由主義者を自認する私ですから、“コーヒー中毒”を思わせるような行動は自分にふさわしくないと考え、手に取ったばかりのコーヒーカップと皿とを元の場所に戻すことにしました。では、代りに何を飲もうかと思いながら顔を上げた私は、自分がすでにトマトジュースを取りにいくための行動を開始しているのに気づきました。
「これが自由な選択だろうか?」
 と、私は思いました。
 空港のラウンジには、コーヒーとトマトジュース以外にもいろいろな飲料がもちろんあるのです。しかし、その時の私には、紅茶も日本茶も、ビールもウイスキーも、頭の中の選択肢にはなかったのです。とすると、私がトマトジュースを選んだ行為も、前々からしていることの単なる繰り返し--つまり習慣による行動であって、自由意思にもとづく意識的な選択とは言えないのではないでしょうか? こんな疑問が湧き出てくるのでした。
 
 
 谷口 雅宣

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2014年4月 5日 (土)

旅先からの便り (6)

 今日は舞鶴市に来ています。
 
 これまで書いてきたことをまとめると、“バベルの塔”とは「人類が協力し合って造り上げる大きな構築物」という意味になりますから、人類の「文明」を象徴していると考えることができます。それは、自然界とは異なるものですが、自然界にある法則や資源・資材を利用して始めて可能になるので、自然界の存在を前提にしています。これまでの人類の文明は、自然界にある資源や資材の利用は「無制限」だとの暗黙の前提から造られてきました。ところが世界人口が70億人を超え、地球温暖化が進行する21世紀にいたっては、この前提は崩れつつあります。これからの時代は、自然の自己回復力を超えた資源・資材の利用は、人類自身の存在基盤を破壊することを意味するので、そのような自然の破壊的利用を「地球社会」として禁じる必要が生まれているのです。
 
 ところが残念ながら、現在の人類の間には、「地球社会」という考え方がまだ十分理解されていません。普通の現代人にとっては、自分が生活する「地域社会」や「地方」を超えて、「国家」や「国家連合」のところまでは意識を拡大できても、人間以外の生物や鉱物も含めた地球全体を、1個の有機的共同体として意識し、その共同体の利益を優先して自分の生活を律し、行動するという考え方は、ごく限られた少数派の人々の間にしか生まれていないのです。
 
 が、ここに1つの希望があります。それは、私たちの心の感性です。私がここで「感性」と呼ぶのは、私たちが自然界と触れ合うときに、どのように感じ、どのように思考するかという癖や傾向のことです。この中に、私はどんな人間であっても、自分の人間としての肉体を超え、社会や国家をも超えて、自然と共鳴し、共感するものがあると考えるのです。ごく月並みな表現を使えば、どんな人でも「自然が好き」であり「自然を愛する」ということです。しかし、この感情は、なまのままでは、かえって自然破壊につながるものでもあります。それは、山道の傍らに咲く花の美しさに感動し、それをたおり、あるいは根こそぎに引き抜いて、自分の家に持ち帰るというような略奪の行為につながります。自然界で美しいもの、おいしいもの、心地よいものを見つけると、それを自分の快楽の手段にしようとする心です。これも「自然が好き」であり「自然を愛する」ことに変わりはないのですが、この段階の感性では足りません。この段階では、自分と路傍の花とは離れた存在として感じられるため、花に美や可憐さを感じても、それを相手から奪って自分のものにしたいという欠乏感が先に立っています。
 
 私が希望をもつ感性とは、前回津市から出した便りに書いたような、石の地蔵さんに赤いエプロンを掛けてあげる心です。目の前にある対象が、自分の愛してやまないものであっても、それを力まかせに引き抜いて奪うのではなく、自分の“与える愛”の表現として、そのものの本来の生き方をそのまま認め、「大好きだよ」「そこにいてくれてありがとう」「そこでがんばれよ」「応援しているよ」という気持を込めて合掌し、しばらくそれを鑑賞したあとは、静かに立ち去っていく感性です。それは、親が子の元気な姿を見て喜び、安心し、やがて彼や彼女の幸福を願いながらその場を立ち去る気持と似ています。親には、子から何かを奪う必要はまったくありません。なぜなら、親は子が自分の一部であるとともに、自分より大きいものであることを知っているからです。親にとって、子は自分の延長であり、自分の夢です。それと同じように、人間が自然界を自分の延長として理解し、感じ、自分の夢がそこにあると感じるならば、自然破壊をする気持も必要性も消えてしまうに違いありません。
 
 私は、大阪の伊丹空港から舞鶴市に向かう自動車専用道路を走りながら、周囲の山々のあちこちを淡い桃色で彩る満開のサクラの花を見ながら、そんなことをつらつらと考えていたのでした。
 
 谷口 雅宣 

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