旅先からの便り (7)
お元気ですか? 今日は佐賀市に来ています。
最近、自由意思とは何かということを考えます。
例えば今日の昼食後、羽田空港の待合ラウンジで十数分を過ごすために、飲料のセルフサービスのコーナーへ行き、コーヒーカップと皿を手に取りました。これは、自分の自由意思でそうしたのだと、ハッキリ自覚していたのです。いつもとは違う行為だからです。
通常は、空港での昼食では野菜が少ないことを考えて、トマトジュースを飲むことにしていました。ところが、今日はちょっと気分を変えようと思い、コーヒーを選んだつもりでした。
ところが、それを見ていた妻が近づいて来て、
「あら、コーヒーなの?」
と意外そうに言ったのです。
その途端、私は自宅を出て小淵沢駅でコーヒーを買い、JR中央線の列車の中で仕事をしながら、チビチビとそのコーヒーを飲みながら新宿まで来たことを思い出しました。
現代の多くの飲み物がそうであるように、コーヒーにも中毒性があります。それほど強いものではありませんが、そのカフェインの作用のおかげで、私は空港でもコーヒーに近づいたのかもしれない--そのとき私はそう思ったのでした。
となると、 自由主義者を自認する私ですから、“コーヒー中毒”を思わせるような行動は自分にふさわしくないと考え、手に取ったばかりのコーヒーカップと皿とを元の場所に戻すことにしました。では、代りに何を飲もうかと思いながら顔を上げた私は、自分がすでにトマトジュースを取りにいくための行動を開始しているのに気づきました。
「これが自由な選択だろうか?」
と、私は思いました。
空港のラウンジには、コーヒーとトマトジュース以外にもいろいろな飲料がもちろんあるのです。しかし、その時の私には、紅茶も日本茶も、ビールもウイスキーも、頭の中の選択肢にはなかったのです。とすると、私がトマトジュースを選んだ行為も、前々からしていることの単なる繰り返し--つまり習慣による行動であって、自由意思にもとづく意識的な選択とは言えないのではないでしょうか? こんな疑問が湧き出てくるのでした。
谷口 雅宣
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