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2014年3月 6日 (木)

旅先からの便り

 お元気ですか? 今日は私用で東京まで出てきました。
 雪に覆われた大泉とは別世界で、人々が群れをなして一定行動にいそしんでいるように見えます。皆、個人としては自由意思によって行動していると信じているのでしょうが、都会人全体が一定の行動をとっているので--いや、もしかしたら都会という存在自体が単一の目的のために造られているからか、個人の“自由行動”の総和が一定の行動を生むというパラドックスが生じているに違いありません。
 こんな言い方が難しいならば、簡単な事実を思い出してください。それは、都会にある「ラッシュアワー」です。都会とその周辺の町に住む何百万という数の人々は皆、自由を求めて田舎を逃れ、都会に出て、そして各自が“自由に”生活しているつもりでしょう。が、事実は、ほとんどの人々が一定の時刻までに出社し、一定の時刻までに帰宅しなければならないので、息をひそめ、口を真一文字に結び、感情を抑えに抑えて、窮屈で不快な満員電車の中に、あるいは渋滞した幹線道路の上に、好きでもないのに自分の身を預けるのです。それを1週間に5日も連続して行わなければならないというのが、今日の“自由な都会人”の実態なのです。
 
 でも、実に多くの人々が--最近の国連の統計では、世界人口の半分以上の人々が--都市生活をしているという事実を考えると、そんな犠牲を払ってでも、都会には得るべきものがあるということでしょう。では、その「得るべきもの」とはいったい何でしょうか? それが「自由」でないことは、確かなことです。理由はすでに書きました。でも、「自由」というイメージと無関係ではないでしょう。私が考えるに、それはたぶん「自由であるという夢」なのです。実際は自由でなくても、自分は自由に生きているという感覚がほしいために、人々は都会を目指すのです。
 
 さて、ひるがえって自然のことを考えてみると、自然界が不自由であることは言うまでもありません。私が言う意味は、自然の中では、何でも気まま好き勝手にできるものではない、ということです。これに対して都会は、人間が「自由」の感覚に憧れて造った空間ですから、人間の選択や行動にとって“邪魔”と思われる要素がどんどん排除されていきました。それらの要素とは、例えば、地面の凸凹に初まり、高い木々、鬱蒼とした茂み、毒虫や害獣を含む昆虫や小動物……などです。
 
 そんな“邪魔者”に囲まれた自然の中から東京へと移動し今日、新宿の地下街を歩いていた私は、何と歩きやすく、また都会とは何と便利にできていることか--と感心しました。
 
 おかしいですね。私はつい半年前には都会の住人で、しかも数年ではなく、60年以上もそこに住んでいて、同じ地下街を何度も歩いたことがあるくせに、その時は都会の便利さは“当たり前”のこととして感心する対象には決してならなかったのです。それよりはむしろ、あそこのコンビニには何が置いてないとか、あそこの階段からは銀行に行けないとか、あそこのニューススタンドにはあの新聞が置いてないとか、そんな「ないない」の不便さを勘定していたような気がします。
 ところが八ヶ岳山麓に移住し、1メートルもの積雪の中に閉ざされた生活を経験し、人間ばかりでなく、シカもノウサギも鳥たちも移動や食事の自由を奪われる様子を目の前にして、そういう世界が「自然である」という認識にいたってみると、現代人の住む都市という空間が、人類が永い歴史を通じて造り上げてきた一種の“文明の頂点”であるという単純な事実に、改めて感じ入ってしまうのです。
 
 谷口 雅宣 

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