« 2014年2月 | トップページ | 2014年4月 »

2014年3月

2014年3月29日 (土)

旅先からの便り (5)

 こんにちは……。今日は三重県津市です。前回の大阪からの便りでは、プーチン氏のクリミア併合の動きに触れ、「バベルの塔は今再び崩壊の危機に直面している」と書きました。これは、名古屋から書いた便りの中で、「科学技術」という世界共通語を獲得した人類が、神に近づき、“神の国”を建設できるようになったことを意味するのか?--という疑問に対する答えになるでしょう。つまり、人間相互の信頼が欠けるならば、科学技術がどんなに発達しても、世界は破壊に向かうということです。
 
 当たり前と言えば当たり前の結論なのですが、ではなぜ信頼が失われるのか、あるいはそもそも信頼関係がなぜ作れないのか、という疑問に答えるのは、そう簡単ではありません。ケースバイケースで相互の事情が大きく異なることもあるからです。しかし、信頼関係の基本は自と他との一体感です。別の言葉を使えば、「自他は利益を共有する」との認識です。自分の利益は相手の利益でもあり、相手の利益は自分の利益でもあるという認識です。これが、プーチン氏の場合、アメリカや西ヨーロッパの国々に対して欠けていたということ、また逆に、西側の政治家にはプーチン氏の思想や心情が伝わっていなかったということでしょう。
 
3jizosan  ところで今日は、宿舎の近くの観音寺という所へ行きましたが、そのお寺の本堂の左脇の薄暗くなった空間に、小さな祭壇がありました。そこに三体の小さな石仏があって、それぞれが赤いエプロンに身を包まれていました。「石仏を刻む」という行為は多分、自分の中の善性を石の中に表すことだと思います。主観的な行為だと言っていいでしょう。しかし、いったん表現されると、石仏は客観性を獲得してすべての人々に一定範囲のメッセージを発することになります。文学や絵画も同じことをするのでしょうが、石仏が特殊なのは、それが「仏」を模している点です。
 
 仏を強引に定義すれば、一種の「理想的人間像」です。それを石の上に刻んだ石仏は、どんなメッセージを発するのでしょうか? この質問に対する答えは、石仏が「赤いエプロン」を掛けられるという事実の中にあると思います。
 
 「赤いエプロン」は普通、お地蔵さんが掛けるものです。そして、お地蔵さんはよく子供の霊を導く菩薩様と言われ、さらに転じて子供の霊そのものと見なされます。だから、エプロンを掛けられたり、帽子を被されたりするのです。つまり、亡くなった子供の代償として、愛を与える対象にされるのです。「赤」は愛の象徴です。だから、石仏に赤いエプロンを掛けるという行為は、自分の内部にある理想的人間像(仏)をそこへ投影して、それを子供のように暖かい愛に包んで大切にしたい……そんな心が表現されているのだと思います。
 
 長々と書いてしまいましたが、これは自他一体の感情が表現されたよい例だと思ったからです。この場合、「自」とは自分の心であり、「他」とは石仏です。赤いエプロンによって、石仏を自分の愛の心で包むことで一体感が生まれるのです。
 
 それでは、また………。
 谷口 雅宣 

| | コメント (0)

2014年3月22日 (土)

旅先からの便り (4)

 こんばんは……。今日は大阪に来ています。
 
 前回は、科学・技術を手に入れた人類は、こ新しい“共通語”を使って、神に近づく努力をし、実際に神に近づいている--つまり、素晴らしい“神の国”の建設に向かっているのかどうか--という疑問のところで終わっていました。
 
 実は、私はこのお便りを書く前まで、ロイター通信の英語サイトにあるプーチン大統領の議会演説の記録を読んでいました。この議会演説とは、彼が、クリミア自治共和国をロシア連邦に編入した際の、その理由を述べた今年3月18日の“大演説”です。それを読みながら感じていたのは、日本が属する“西側”のメディアが伝えているこの事件の状況と、彼が述べていることの大きな違いでした。
 
 日本はこの地域から遠く離れていて、利害関係はほとんどないので、日本のメディアは地域の事情に詳しくなく、ほとんどが欧米の--それもアメリカの論調に基づいた報道しかしていません。私はそれだけを読んでいたため、プーチン氏の心情(たといそれが一種の政治的ポーズであっても)を知ることはできなかったのですが、この演説にはそれがよく描かれていました。
 
 それで、何が分かったかというと、私たち人類は、科学技術という共通語を獲得したといえども、それは国際理解にほとんど役立っていないということです。詳しい説明は省略しますが、プーチン氏の言い分は、冷戦後の東欧の処理に不合理もしくは不平等があり、それについてこれまでガマンしてきたが、ついにロシア自体の国益を損なう事態に発展したため、やむを得ず自国の利益を護った--というのです。私は、それが大東亜戦争に入る前の、日本の政治家の演説とトーンが似ていることに驚きました。“バベルの塔”は今、再び崩壊の危機に直面しているのです。
 谷口 雅宣 

| | コメント (1)

2014年3月15日 (土)

旅先からの便り (3)

 こんにちは。今日は名古屋市に来ています。神戸市に引き続いて大都市での仕事です。
 
 聖書にある「バベルの塔」の話のところまで、書いたのでしたね。この話は、人間が町と高い塔を造り、“天に届かせよう”としているのを見て、神が人間の使う言葉を乱して、それを防いだ(妨害した?)という内容の物語でした。「言葉を乱す」とは、言葉を通じなくする--つまり、単一ではなく多くの言語を人間に使わせるということです。その理由を、『創世記』の作者は「天に届かせる」--つまり、「神に近づかせないため」だと考えたのでしょう。
 
 前回お便りした時は、「人間は何かを造ることに情熱を燃やす」と書きました。『創世記』の作者は、そのことを「高い塔」という言葉で表現したのだと思います。「高い塔」は、その文字通りの意味のものでなくても、「人工島」でも「飛行場」でも「リニアモーターカー」でもいいのです。なぜなら、それらはすべて「神に近づく手段」だと解釈できるからです。この場合、「神」とは「全知全能の存在」というような意味です。現在は不可能であることを、知識と技術の獲得によってしだいに可能にしていくという営みは、どんなに僅かなステップであっても全知全能に近づくことですから、「神に近づく」という表現が許されると思います。そう解釈すると、知識や技術の獲得はすべて“バベルの塔”に象徴させることができるでしょう。
 
 では、“バベルの塔”以降の人類は、どうなったでしょうか? 言葉を乱されたために、もう同じようなことはコリゴリだ、と諦めてしまったでしょうか? あなたもよくご存じのように、決してそんなことはありませんでした。先ほど人工島や飛行場、リニアモーターカーの話を出したように、人類は言語が別々に分かれたとしても、「科学」や「技術」という新しい“共通語”を開発して、やはり「神に近づく」夢に向かって着々と“塔”を建設し始め、現在もそれを続けているのです。ということは、私たち人類は、『創世記』の神より一枚上手だったということでしょうか? 神の造った障害をも克服する力を獲得した私たちは、もう“神の子”として“神の国”を建設することができるということなのでしょうか?
 
 これらの問いへの答えは、次回に考えることにいたしましょう。それでは、お元気で……。
 
 谷口 雅宣 

| | コメント (0)

2014年3月11日 (火)

「神・自然・人間の大調和祈念祭」が行われる

 今日は晴天下、午前10時から約1時間にわたり、山梨県・北杜市にある生長の家“森の中のオフィス”で、「神・自然・人間の大調和祈念祭」が行われた。直接の参列者は、オフィスに勤める国際本部の役職員だけだったが、御祭の様子がインターネットを通じて全世界に放映されたことで、神想観や讃歌の読誦などが、ネットで参加した世界中の信徒によって同時に行われるという画期的な行事となった。私はこの御祭で「四無量心を行じる神想観」を先導し、最後に概略以下のようなスピーチを行った。
--------------------------------------------------
 皆さん、本日は「神・自然・人間の大調和祈念祭」にお集まりくださり、ありがとうございます。
 このお祭は、その名前の通りに「神・自然・人間」の三者が大調和することを祈るためのものでありまして、3年前に起こった東日本大震災をきっかけにして、またこの“森の中のオフィス”建設の目的に合致する新たな行事として実施が決まったものです。今回は最初のお祭です。東日本大震災で直接的な被害があったのは日本国内ですから、この御祭は日本だけで行ってもいいという考え方もできるのですが、ご存じの通り、「神・自然・人間」の三者が大調和していない状態は、残念ながら日本だけでなく、全世界でずっと続いている現象であります。私たちには、この三者の不調和が大震災の被害を大きくしたという認識があるだけでなく、21世紀最大の人類の課題である地球温暖化問題の起源も、三者の不調和が原因であると考えているため、世界中でこの祈念祭を執り行う必要があると考えました。
 
 では、「神・自然・人間」の三者の不調和とは何でしょうか? それは、現代文明のあり方そのものの中にあります。現代社会には、人間至上主義の考え方が隅々まで行き渡っています。そういう不調和が永年続いてきたために起こっているのが、「地球温暖化」とか「気候変動」と呼ばれているものです。ご存じのように、この問題の原因は、生物多様性や地球環境に有害な影響を与えることを知りながら、人類が自分たちの快楽増進のために温室効果ガスを排出し続けていることです。また、原子力発電という技術も、生物全体に有害であり、かつ核兵器の拡散の危険があると知りながら、人間が短期的な快楽を追求して採用している技術である。これらは、「神・自然・人間」の不調和を示す典型的な例であります。そういう悪いトレンドは、まるで麻薬のように、やめたくてもやめられない一大潮流となっているように感じられるのです。これは、仏教的に言えば「悪業」であります。日本人だけでなく人類全体がその潮流の中にあるため、日本以外の国に住む生長の家の信徒の方々にもこの祈念祭に参加してもらう目的で、今日の御祭はインターネットで中継されています。
 
 私たちは、この祈念祭を通して、人間至上主義を克服し、神への不信仰と自然破壊の流れを止め、さらには逆転して、自然の働きをもっと回復していかねばなりません。自然を賞め、自然を養い、自然界の営みから神の御心を学び、それを私たちの実際生活に反映させていかなければなりません。悪業の結果を消すためには、善業をどんどん積むことが大切です。そういう意味で、唯一絶対・善一元の神への信仰をさらに深め、かつその神からいただいている自然界を尊重し、破壊せずにあらゆる生物と共存していく生き方へと転換しなければなりません。そういう信仰とライフスタイルを全世界に推し進めていくためのお祭の1つが、この「神・自然・人間の大調和祈念祭」なのであります。
 
 さて、今年の冬は、日本列島は何回も大雪に見舞われました。特にこの山梨県では、2回の大雪が降り、その2回目が2月14日のバレンタインデーと重なり、これが観測史上初の1メートルを超える積雪となりました。この2回の大雪は、数日前に予報として出されてはいましたが、これほどのものになるとは専門家も予測しなかったため、被害は甚大となりました。幸いにも、私たちは役職員が一致団結して雪かきなどを集中して行った結果、犠牲者は出ませんでしたが、そういう組織力をもたず、集落から隔離された地域では、人々が孤立したり犠牲者が出たのであります。このように前例のない厳しい気象の変化は、世界各地で起こっています。
 
 今年の冬は、日本だけでなくアメリカにも大変な寒波が襲来し、「テキサス州がミネソタ州のようだ」と現地から報道されていました。テキサス州はアメリカ南部の州で、そこのダラスという町は北緯33度ぐらいで、日本では鹿児島県の南にある大隅半島の先端に該当します。これに対してミネソタ州はアメリカとカナダが接する北方の内陸部の州で、そこの街ミネアポリスは北緯45度です。これは、日本では北海道の稚内の少し南ぐらいの位置です。ですから、九州の南端が北海道稚内市と同じくらい寒くなったということです。これは大変な変化と言わねばなりません。ヨーロッパでは昨年末から大雨が続いていて、深刻な洪水被害が生じています。イギリスでは12月から断続的に降り続いた雨のため、テームズ川が氾濫し、首都・ロンドンが脅威にさらされました。2月14日の『ニューヨークタイムズ』の報道では、この冬の降水量は過去248年間で最大となるそうで、これまでに約5千戸の家屋が損傷しているといいます。また、この大雨を予測できなかった環境省が批判にさらされたり、ある国会議員は、こんな災害が来た原因は、デービッド・カメロン首相が同性間の結婚を合法化したためで、神の怒りをかったのだと発言して問題になったといいます。このように、一部の人々は“神罰”を持ち出さねばならぬほど、今回の異常気象は説明が難しいということが分かります。
 
 このような異常気象による被害というものは、今後どんどん増えていくことが予想されます。国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)の第2作業部会の報告書の原案について『読売新聞』が2月28日に報じていました。それによると、最悪のケースの場合、今世紀末までに年間148兆円の損失が毎年出るというのです。その記事を読みます--
 
「地球温暖化が暮らしや生態系に与える影響を評価する国連の『気候変動に関する政府間パネル』第2作業部会の、最新報告書の原案が明らかになった。温暖化の影響で世界全体の穀物生産量は今後10年ごとに最大2%ずつ減少。経済損失の総額は、海面上昇による土地の消失や観光への影響を含めて最大に見積もった場合、今世紀末までに年間148兆円と予測している。損失額は日本政府の来年度一般会計予算案(95兆円)を上回る。」
 日本の一般会計予算を大きく上回る損害が毎年出る--というのが最悪のシナリオなのです。このことの意味は、大変重いと思います。それを理解していただくために、この報告書案の“最悪のケース”ではなく、それより少ない被害で、ちょうど日本の一般会計予算にきっちり収まる被害額だったと考えてみましょう。そうすると、日本政府が経済刺激策として公共事業や企業への補助を増やすなどの対策をしたり、法人税を下げて賃金の値上げを求めたりしていますが、そういう従来の方法では、経済成長など達成されないということになるのであります。なぜなら、一般会計予算の全額が、気候変動による災害救援や、人命救助、道路を初めとしたインフラの再構築などで出ていってしまうからです。また、2011年の日本の輸出と輸入を加えた貿易額は「167兆円」だということを考えてください。アベノミクスみたいな方法では、景気浮揚は達成されないのです。もっと劇的にCO2の排出量を減らさないかぎり、世界経済はよくならず、世界経済がよくならなければ、まだ輸出に頼っている日本の経済もよくならない。そういうことが言えると思うのです。
 
 私は、このIPCCの報告書原案の中で、最も気になっているのは、世界の穀物生産量が「今後10年ごとに最大2%ずつ減る」という予測です。これは何を意味しているかというと、世界はいずれ食糧難になるということです。IPCCの報告書案には、そういう明確な表現はないかもしれませんが、環境問題に詳しい地球政策研究所のレスター・ブラウン氏は、もう何年も前からそのことを予測し、警鐘を鳴らしてきました。日本のマスメディアではあまり報道されませんが、世界の穀物在庫は危険なレベルにまで減少してきています。つまり、コメや小麦、トウモロコシなどの主食とされる穀物は、前の年に収穫されたものが倉庫に保管されていますが、その量がほどんどなくなっているということです。すると、地球上のどこかで一度大きな不作が起こると、その地域の穀物在庫はもちろんのこと、救援物資として他の国や地域から供給する穀物もないということになり、大量の餓死者が出る可能性が増大します。それを防ぐためには、穀物の収穫量を増やし、在庫を安全なレベルまで積み増さなければなりませんが、そのための農地は実質的にはもう地上には存在しないのです。となると、森林伐採がさらに進みます。
 
 私たちは、地球温暖化による気候変動が深刻化するのは、今の私たちの時代ではなく、もっと先の子供や孫の時代だと教えられてきましたが、このような穀物在庫の減少を考えてみると、そういう異常気象による直接的な被害--海面上昇による国土の消滅、大洪水や大干魃など--はまだ先の話であったとしても、それより前に、世界の穀物在庫が払底したところに不作が続くことで、食糧危機が来る可能性が大きいのです。
 
 私たちが東京の「原宿」というファッションのメッカのような都会の中心を離れて、この大泉の“森の中”へ本部を移転したことの1つの理由は、都会で生活しているかぎり、自然界とはどんなものであるかを感じることができないからです。“自然とともに伸びる”ための運動をしていながら、自然を感じられないのでは私たちの目標は到底達成できません。ですからこちらへ越してきました。そして、自然の真ん中で初めての冬を迎えて、どうだったでしょうか? 自然界は、ここでは圧倒的な存在感をもって私たちに次々と様々なことを要求します。私たちは互いに助け合って雪かきをし、悪路を歩き、薪割りや間伐をし、必要な物や労働力を互いに与え合って、初めてこの厳しい冬を乗り切ったのではないでしょうか? 私はこれが、人間社会の本来の姿だと思います。ところが都会で生活していると、何でも自分1人の力でできるような錯覚に陥りやすい。また、自然がなくても人間は生きられると錯覚しやすいのです。それは、自然の障害をできるだけ排除して、個人の力で簡単に何でもできるような便利な仕組みが都会では整っているからです。しかし、その代わり、人と人との関係は冷たく、浅く、功利的です。自然を排除することによって、人間は個人として分解し、冷たく、功利的になっていくのです。
 
 3年前、東日本大震災を経験した私たちは、自然界は人間社会に敵意をもっていると感じたのではないでしょうか? しかし、事実は逆なのです。自然界は、昔から変わらぬ姿でここにある。その自然を、自分の環境からできるだけ排除する生き方を続け、人間本位のきわめて便利な社会を作り上げてきたのは、私たちです。自然が我々に敵意をもっているのではなく、我々が自然に敵意をもってそれを排除してきたのです。そして、その結果として人間同士の絆が薄れ、過剰な個人主義、利己主義が育ってきた--つまり、自然に敵意を抱けば、人間同士が敵意を抱くような社会ができ上がるのです。また、自然を尊重することは、人間がお互いを尊重することにつながるのです。大地震が来て、都会の様々の便利な仕組みが破壊されたことで、私たちは人間が本来もつ他者への思いやりとか、助け合いの気持を発揮せざるを得なくなった。そういう意味でも、3年前の大地震は、私たちの本性を引き出す役割を果たしてくれたのだと思います。
 
 先ほど、白鳩会総裁が朗読された「自然と人間の大調和を観ずる祈り」からもう一度引用します--
 
「大地震は“神の怒り”にあらず、“観世音菩薩の教え”である。我々がいかに自然の与え合いの構図から恩恵を得てきたかが、それを失うことで実感させられる。我々がいかに人工の構築物を、田畑を、港を、道路を、送電線を、インターネットを築き上げでも、自然界の精妙かつ膨大な仕組みとエネルギーを軽視し、蹂躙する愚を犯せば、文明生活は一瞬にして崩壊することを教えている。我々の本性である観世音菩薩は、“人間よもっと謙虚であれ”“自然の一部であることを自覚せよ”“自然と一体の自己を回復せよ”と教えているのである。」
 生長の家の“森の中のオフィス”での仕事や私たちの生活は、原始時代にもどることではありません。しかし、原始の昔から人間が心の底に抱いてきた自然との一体感を呼び覚ますとともに、人間同士の与え合いと支え合いの生き方を、さらには人類と他の生物とが助け合う生き方を現代において実現するのでなければなりません。道具はハイテク化しているかもしれませんが、それを使う人間は、むしろ“ローテク”とも言える助け合いの心を発揮するのです。そのような価値観と生き方の基礎には、「人間・神の子」の信仰が必要です。また、「実相においては自然と人間は大調和している」という信仰が欠かせません。どうか皆さん、この素晴らしい信仰をさらに深め、多くの人々に伝え、役職員ともども協力し、また全世界の信仰の仲間とも交流しながら、私たちに与えられた重要な使命を明るく、生き甲斐をもって遂行していこうではありませんか。これから来るであろう食糧難の世界にあっては、この与え合い生き方が人類の福音となるに違いありません。ご清聴、ありがとうございました。
 
 
 

| | コメント (5)

2014年3月 8日 (土)

旅先からの便り (2)

 お元気ですか?
 今日は神戸市に来ています。3月6日には新宿からお便りしましたが、その続きを書きます。
 
 「現代の都市は、人類の文明の頂点である」という所まで書きました。そのことに「感じ入った」と付け加えましたが、それは「感心した」とか「感動した」という意味ではないのです。現代の都市は、東京も神戸も本当に便利で暮らしやすい場所ですが、それでは何故にそれらの都市の住人は幸福な顔をしていないのでしょうか? 今日、神戸へ来る途中で名古屋駅で新幹線に乗り替えたのですが、その名古屋駅のホームからは、駅前広場の人々の様子がよく見えました。すると、そこにはスカイブルーの法被を着た幸福実現党の人たちが列を作って街頭宣伝活動をしているのでした。私は、その政党の名前に冠された「幸福実現」という言葉を想い浮かべ、ハタと気がつきました。つまり、少なくとも彼らにとっては、幸福とはすでにあるものではなく、これから困難な政治活動を続けた結果、ようやく「実現」することができる将来の目標なのです。
 
 私は彼らを愚かだと言っているのではありません。恐らく都会生活者のほとんどは、彼らと同じように「幸福」とは今後、努力して手に入れなければならない“夢”とほとんど同義語だと感じているのではないでしょうか?
 
 でも私は告白しますが、新宿の地下街を歩いていて、自分が東京で使っていた銀行のATMが並んだコーナーをそこに見つけ、「うれしい」と感じました。私が住む北杜市大泉町には、その銀行のATMは存在せず、山梨県庁がある甲府市へ行ってもお目にかかれないものだからです。こういう気持を「幸福感」と呼ぶのは間違いでしょうか?
 
 また今日はここ神戸市へ来て、この新宿での幸福感に似た感情を抱きました。
 

Fr_portpiahotel

 私は今、神戸港に近いポートピアという人工島に建つ高層ホテルの24階にいます。ここは北杜市大泉町とは対照的に100%の人工物です。島自体が、山を崩した土を使って海を埋め立てて造った土地であり、そこに人間が頭で考えた町を造り上げ、樹木をどこからか運んで来て公園を造り、ビルを林立させたものです。神戸の街の中心とは橋と道路とモノレールで結ばれたこの人工島には、数年前、さらに沖合を埋め立てて神戸空港が造られました。私は24階のホテルの窓からこれらの人工構築物の一群を眺めながら、「ああ、人間とはこのように何かを造ることに情熱を燃やす生き物なのだ!」と感嘆するとともに、聖書にある「バベルの塔」の話を思い出したのでした。
 
 でも、この続きはまたにします。
 
 谷口 雅宣 

| | コメント (0)

2014年3月 6日 (木)

旅先からの便り

 お元気ですか? 今日は私用で東京まで出てきました。
 雪に覆われた大泉とは別世界で、人々が群れをなして一定行動にいそしんでいるように見えます。皆、個人としては自由意思によって行動していると信じているのでしょうが、都会人全体が一定の行動をとっているので--いや、もしかしたら都会という存在自体が単一の目的のために造られているからか、個人の“自由行動”の総和が一定の行動を生むというパラドックスが生じているに違いありません。
 こんな言い方が難しいならば、簡単な事実を思い出してください。それは、都会にある「ラッシュアワー」です。都会とその周辺の町に住む何百万という数の人々は皆、自由を求めて田舎を逃れ、都会に出て、そして各自が“自由に”生活しているつもりでしょう。が、事実は、ほとんどの人々が一定の時刻までに出社し、一定の時刻までに帰宅しなければならないので、息をひそめ、口を真一文字に結び、感情を抑えに抑えて、窮屈で不快な満員電車の中に、あるいは渋滞した幹線道路の上に、好きでもないのに自分の身を預けるのです。それを1週間に5日も連続して行わなければならないというのが、今日の“自由な都会人”の実態なのです。
 
 でも、実に多くの人々が--最近の国連の統計では、世界人口の半分以上の人々が--都市生活をしているという事実を考えると、そんな犠牲を払ってでも、都会には得るべきものがあるということでしょう。では、その「得るべきもの」とはいったい何でしょうか? それが「自由」でないことは、確かなことです。理由はすでに書きました。でも、「自由」というイメージと無関係ではないでしょう。私が考えるに、それはたぶん「自由であるという夢」なのです。実際は自由でなくても、自分は自由に生きているという感覚がほしいために、人々は都会を目指すのです。
 
 さて、ひるがえって自然のことを考えてみると、自然界が不自由であることは言うまでもありません。私が言う意味は、自然の中では、何でも気まま好き勝手にできるものではない、ということです。これに対して都会は、人間が「自由」の感覚に憧れて造った空間ですから、人間の選択や行動にとって“邪魔”と思われる要素がどんどん排除されていきました。それらの要素とは、例えば、地面の凸凹に初まり、高い木々、鬱蒼とした茂み、毒虫や害獣を含む昆虫や小動物……などです。
 
 そんな“邪魔者”に囲まれた自然の中から東京へと移動し今日、新宿の地下街を歩いていた私は、何と歩きやすく、また都会とは何と便利にできていることか--と感心しました。
 
 おかしいですね。私はつい半年前には都会の住人で、しかも数年ではなく、60年以上もそこに住んでいて、同じ地下街を何度も歩いたことがあるくせに、その時は都会の便利さは“当たり前”のこととして感心する対象には決してならなかったのです。それよりはむしろ、あそこのコンビニには何が置いてないとか、あそこの階段からは銀行に行けないとか、あそこのニューススタンドにはあの新聞が置いてないとか、そんな「ないない」の不便さを勘定していたような気がします。
 ところが八ヶ岳山麓に移住し、1メートルもの積雪の中に閉ざされた生活を経験し、人間ばかりでなく、シカもノウサギも鳥たちも移動や食事の自由を奪われる様子を目の前にして、そういう世界が「自然である」という認識にいたってみると、現代人の住む都市という空間が、人類が永い歴史を通じて造り上げてきた一種の“文明の頂点”であるという単純な事実に、改めて感じ入ってしまうのです。
 
 谷口 雅宣 

| | コメント (0)

2014年3月 1日 (土)

真理宣布に自信をもって邁進しよう

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山で立教85年を寿ぐ「生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」が挙行された。会場となった出龍宮顕斎殿には、日本各教区の幹部・信徒を初め、ブラジル、アメリカ、中華民国からも代表者が出席し、約910人が参列した。また、式典の様子はインターネットを通じて全世界にライブ中継された。
 
 この式典で私は、概略以下のような挨拶をした。
--------------------------------ーーーーーーーーーーーーーーーー
 皆さん、本日は立教85年の生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典に大勢お集まりくださり、まことに有難うございます。 
 
 この立教記念日の式典は、去年までは東京・原宿の生長の家本部会館で行われていましたが、今年からこの総本山の地で行うことになりました。その理由の第一は、ご存じのとおり、本部会館が山梨県北杜市に移転したことです。では、北杜市の国際本部である“森の中のオフィス”で式典をすればいいとの話もありましたが、これまたご存じのように、あそこは標高1300メートルの高地にあって、今の季節はまだ冬であり、気温は氷点下になる厳しさです。そこへ高齢者を含めた大勢の幹部や信徒代表の方々に集まっていただくのは、申し訳ないし、健康上のリスクもあるというので、比較的温暖な地にあるこの総本山で行うことになりました。そこで今、この地で皆さんと共に立教85年を祝っているわけであります。この選択が正しかったことが、開催地を初めて変更した今年から、さっそく明らかになりました。つい数日前までは、山梨県地方は大変な豪雪の影響で、雪に埋まったままの家屋が多く、交通事情もまだ正常化していなかったからです。現在ではだいぶ雪は減りましたが、オフィス周辺ではまだ50センチほどの積雪が残っています。
 
 さて、式典のプログラムにも若干変更されています。谷口雅春先生が書かれた「『生長の家』出現の精神とその事業」というご文章の奉読が、先ほどありました。これは東京での式典の時にはなかったものですが、この3月1日という日は、『生長の家』誌創刊号の発行を記念した日でありますので、その創刊号に掲載されたこの記念すべきご文章を、再びこの場で私たちの心の中に呼び覚まし、立教の精神を確認するために加わりました。その奉読を白鳩会総裁がされたということも、新しい変化です。これまでの生長の家の式典では、多くの場合、女性が表に出る機会が少なかったけれども、国際運動を遂行していく観点からは、そのままではいけないという配慮があります。このほかにも、今日のプログラムには、生長の家の組織運動の褒賞が新たに加わっています。これまでこの組織の褒賞は、5月の全国幹部研鑽会と全国大会の場で行われてきたのですが、ご存じのように、今年から運動年度を暦年に合わすことをしているので、12月締めの運動成果を5月に表彰するのでは間延びしてしまうので、3月のこの日に変更したわけです。
 
 このように、私たちの運動の仕方は変化しつつありますが、これは「教え」が変化しているのではないということを、私はずっと以前からいろいろな所で申し上げているところです。物事には、容れ物と中身があるのと同じように、宗教の教えにも形式と内容があります。それは、コメを食べるにもいろいろの方法があるのと同じです。日本ではそのままご飯として茶碗に入れて食べる。それも白飯で食べる時もあれば、玄米で食べたり、お茶漬けにしたり、おかゆにしたりします。また、寿司で食べたり、丼にしたり、お握りにしたりします。どれもコメを食べていることに変わりありません。ただ、食事をする時の状況に合わせて外観や容器を変えるのです。容器や形式は違っても、提供されるものは同じです。海外ではこれがさらに変化して、ドリアやピラフにしたり。パエリヤに使われたりします。
 、
 宗教の外面的違いに左右されてはいけません。これは、私たち人間に「肉体」と「心」があるのと同じで、肉体的違いで人間を差別してはいけないのと同じです。このことは実に明白な事実なのですが、なぜかよく理解できずに、私たちの運動を批判する人がいるのは残念なことです。
 
 さて本日は、谷口雅春先生が創始されたこの教えが、85年たっても、少しも古くなっていないという証拠を、1つの例を挙げて申し上げたいのであります。これは形式のことではなく、内容のことです。表現の形式は古くなっているかもしれないけれども、その元となる教え、すなわち真理は、21世紀の現代でも益々必要とされているという例です。
 
 今日はここに『生長の家』誌の創刊号をもってきました。先ほどは、この中から「『生長の家』出現の精神とその事業」というご文章を読んでいただいたわけですが、私はそのご文章の次のページにあるものを紹介いたします。ここで雅春先生は、「では生長の家が諸君のために何をなそうとするかを次に列挙して見る」と書かれたのに続いて、10カ条の「生長の家の目的」を掲載されています。そのうちの5番目と6番目の文章を拝読いたします--
 
「5.月極め誌友拾名以上ある地方には、わが幸福生活法の宣伝研究親睦共済機関として『生長の家』支部を設置し、支部長は心の法則の実証としてメタフィジカル・ヒーリングを修得し、広く隣人の病苦を祓済することが出来る。
 6.メタフィジカル・ヒーリングは十名以上支部に集まりて会合する場合を期し、遠隔的に感応指導することが出来る。希望者は会合場所を示すと共に会合時間に就き本部へ予め照会せられたい。本部よりは坐法その他の形式詳細につき別に通知を発する。十名以上と指定したるは人体磁気の関係上遠隔指導に成功しやすいからである。」
 
 ここに書いてある「メタフィジカル・ヒーリング」とは何でしょうか? これは、ここにお集まりの皆さんはほとんどすべてが既にご存じの言葉だと思います。なぜなら、この言葉は『生命の實相』の第一巻の冒頭に何回も出てくるからです。例えば、「総説『七つの光明宣言』の解説」には、こうあります-- 
 
「生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。メタ(meta)とは“超越”するという意味でありましてフィジカル(physical)とは“物質的”という意味であります。そしてヒーリング(healing)という言葉は癒やすこと治すことを意味しております。つまりメタフィジカル・ヒーリングと申しますのは、物資的方法によらずに実相円満の自覚によって、大生命のお力をよび起こしてわれわれの不幸を癒していただく方法であります」。(p.3) 
 
 さらにこの第一巻にある「『生命の實相』頭注版に序して」というご文章には、こうあります--
 
「自己の真物(ほんもの)が病むことなき自性円満なるものであることを本当に自覚するとき、老病死の恐怖は消え、病悩苦がその自覚の影響により現実に消え去るのである。(中略)これは物資的手段を用いず超物質的方法による治癒であるから、本書において、私はメタフィジカル・ヒーリング(metaphysical healing)と仮に称したのである。訳せば“超物質的治癒”とでも訳さねばならないが、“治癒”という語(ことば)は、おおむね病気の解消のみに使われる文字であって、“自性円満の自己の実相”を自覚したとき、自然にあらわれる心の解放状態によって人生百般の苦悩が解消する事実については、“治癒”という日本語で表現するには適当ではないから、仮にわたしは“メタフィジカル・ヒーリング”というニューソートやメンタル・サイエンスなどで使う原語をそのまま使っておいたのである。」(pp.4-5) 
 
 つまり、「人間は神の子である」という実相の自覚が深まることで、人生が好転していくことを指して「メタフィジカル・ヒーリング」と生長の家では言い、その語を敢えて日本語に訳せば「神癒」になるということです。そして、この神癒が起こるための大切な方法の一つが「神想観」です。しかし、この『生長の家』創刊号の中には「神想観」という言葉は出て来ません。なぜでしょう? それは、この神癒のための重要な観法には、まだ名前がついていなかったのです。この「神想観」という語が出てくるのは、創刊号から数えて4カ月後の『生長の家』誌第一集第五号です。また、それからさらに4カ月たった第一集第九号に、現在「招神歌」と呼ばれている和歌四首が「神想観実修歌四首」として発表されています。
 
Time020314s  ですから、ここで言えることは、「神想観」という瞑想法が考案され、発表されたのは生長の家の運動が開始された昭和5年であり、今から84年前であるということです。なぜ私が今日、このことを強調するかといいますと、それは最近出たアメリカの時事週刊誌『タイム』が今、アメリカで脚光を浴びている瞑想法の特集記事を掲載しているからです。それは「mindful meditation」と言います。ここにそれを持ってきました。表紙には「THE MINDFUL REVOLUTION」と書いてありますが、副題があって、そこには「The science of finding focus in a stressed-out, multitasking culture」というものです。 
 
 現在の技術社会では、インターネットなどのIT技術の発達とスマホの普及で、電車に乗っても、バスに乗っても、街を歩いていても、レストランに入っても、人々は自分のケータイやスマホを覗き込んで“ながら族”をやっています。これは世界的な現象で、「マルチタスク」などと呼ばれているライフスタイルであり一種の“文化”です。マルチタスクとは、いろいろなことを同時並行的にやるという意味です。これは何かすごく便利で、素晴らしいことのように聞こえますが、いろいろな弊害があることが分かっています。その一つが、一つのことに集中できないことです。もう一つは、精神的ストレスがかかりすぎることです。『タイム』誌の副題にある「The science of finding focus in a stressed-out, multitasking culture」という言葉は、このことに触れていて、「ストレスに潰されそうな同時並行的仕事処理の文化の中で、物事に集中するための科学」というほどの意味です。それが瞑想をすることだというわけです。簡単に言えば、現代社会では、瞑想することに科学的意味があるということです。
 
 私は2008年に上梓させていただいた『太陽はいつも輝いている--私の日時計主義実験録』という本の中に、アメリカ東部の病院で瞑想を教えているジョン・カバト=ジンという人のことを書きました。今から6年前のことです。当時は、そういう医学と瞑想との関係が珍しいとされていたのですが、この『タイム』誌の記事では、同じカバト=ジン博士の瞑想法が、今では時代の先端を行くIT企業を含めた多くのアメリカ企業で取り入れられ、効果を上げていることが書かれています。この瞑想法は 「注意喚起にもとづくストレス減少法」(Mindfulness Based Stress Reduction, MBSR)と呼ばれ、開発されたのは実は35年も前の1979年だといいます。これを教えるインストラクタ-は、今ではアメリカのほとんどの州と世界30カ国以上に拡がり、その数は千人近くになるそうです。この瞑想法を実践しているのは、シリコンバレーの企業家たち、経済誌『フォーチュン』が決めるトップ企業500社の経営者たち、米国防総省のお偉方などだといいます。
 
 子供の教育面でも、この瞑想法は盛んに活用されています。なぜなら、今のアメリカのティーンエイジャーは、1カ月平均で3千通、つまり1日平均100通のメールと付き合う日常を送っているからです。そういう注意散漫な生活の中では、いろいろな問題が起こるわけです。サンフランシスコ湾沿いにある Mindful School では、2010年からネットを通じた注意集中のトレーニングコースを学校の先生に提供していて、生徒が授業に集中できるように、ストレスとうまく付き合えるように教えているそうです。このコースに参加した教師の人数は、国内の48州、海外では42カ国に及び、関係した生徒数は30万人を超えるといいます。
 
 こういう話を聞くと、私たちが愛する神想観はどうであるか、と考えさせられます。カバト=ジン博士が開発した瞑想法よりも、さらに50年も前に、谷口雅春先生はこの瞑想法を開発され、私たちはそれを実践してきたのです。皆さん、本当に実践していますか? 「今日は忙しい」といって省略していませんか? 人々に勧めていますか? 子供に伝えていますか? マンネリズムに陥っていませんか?……
 
 カバト=ジン博士の瞑想法は、自分の呼吸に意識を集中させるものです。雑念が出てきたら、それに気づき、もとの呼吸に意識を合わせる瞑想にもどる--基本的には、それだけです。その背後に、神や信仰や哲学はありません。しかし、それだけも大きな効果があることが実証されているのです。これと比べれば、生長の家の神想観は、日時計主義の生活と密接に関係しています。実相世界をしっかり観ずることは、現実生活において光明面をしっかりと観、その喜びを表現することと切り離すことはできません。単なる意識集中のテクニックではなく、信仰と哲学と生活法が一体となったものです。このうち神想観と日時計主義の2つが、『生長の家』誌の創刊号で提唱されているのです。
 
 変化がめまぐるしい現代社会ですが、真理の力は変わりません。しかし、真理が有効に伝わり、人々の生活に活かされるためには、その表現を社会の変化に合わせて変えることが必要な場合もあるのです。皆さん、この素晴らしい教えの宣布と実践に、もっと自信をもって邁進していこうではありませんか。立教記念の佳き日に当たり、所感を述べさせていただきました。ご清聴ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (9)

« 2014年2月 | トップページ | 2014年4月 »