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2014年3月15日 (土)

旅先からの便り (3)

 こんにちは。今日は名古屋市に来ています。神戸市に引き続いて大都市での仕事です。
 
 聖書にある「バベルの塔」の話のところまで、書いたのでしたね。この話は、人間が町と高い塔を造り、“天に届かせよう”としているのを見て、神が人間の使う言葉を乱して、それを防いだ(妨害した?)という内容の物語でした。「言葉を乱す」とは、言葉を通じなくする--つまり、単一ではなく多くの言語を人間に使わせるということです。その理由を、『創世記』の作者は「天に届かせる」--つまり、「神に近づかせないため」だと考えたのでしょう。
 
 前回お便りした時は、「人間は何かを造ることに情熱を燃やす」と書きました。『創世記』の作者は、そのことを「高い塔」という言葉で表現したのだと思います。「高い塔」は、その文字通りの意味のものでなくても、「人工島」でも「飛行場」でも「リニアモーターカー」でもいいのです。なぜなら、それらはすべて「神に近づく手段」だと解釈できるからです。この場合、「神」とは「全知全能の存在」というような意味です。現在は不可能であることを、知識と技術の獲得によってしだいに可能にしていくという営みは、どんなに僅かなステップであっても全知全能に近づくことですから、「神に近づく」という表現が許されると思います。そう解釈すると、知識や技術の獲得はすべて“バベルの塔”に象徴させることができるでしょう。
 
 では、“バベルの塔”以降の人類は、どうなったでしょうか? 言葉を乱されたために、もう同じようなことはコリゴリだ、と諦めてしまったでしょうか? あなたもよくご存じのように、決してそんなことはありませんでした。先ほど人工島や飛行場、リニアモーターカーの話を出したように、人類は言語が別々に分かれたとしても、「科学」や「技術」という新しい“共通語”を開発して、やはり「神に近づく」夢に向かって着々と“塔”を建設し始め、現在もそれを続けているのです。ということは、私たち人類は、『創世記』の神より一枚上手だったということでしょうか? 神の造った障害をも克服する力を獲得した私たちは、もう“神の子”として“神の国”を建設することができるということなのでしょうか?
 
 これらの問いへの答えは、次回に考えることにいたしましょう。それでは、お元気で……。
 
 谷口 雅宣 

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